サシャの憂鬱 01 [ 105/167 ]
「………サシャ、大変よ!」
エルダの焦った様な声と共に体を揺さぶられて、サシャは微睡みの底から現実へと引き戻される。
「何ですかあ。10m近くもあるというその魚ならいつか私が捕まえてあげますからあ」
「一体何の話!?ほんとに食い意地だけは天下一品ねえ………って、それどころじゃないわ!!」
わあい、エルダに褒められましたあ…だの何だのを漏らすサシャの体を突っ伏していた机から引き剥がして立たせたエルダは、彼女の眼前に自らの懐中時計を突きつけてみせる。
「…………え、」
それと同時にサシャの体からは、さあ、と音を立てて血の気が引いていった。
…………これは、マズい。
「ななななななんで私たちはこんな時間になるまで寝こけていたんでしょうか!?おまけに図書室で!!」
「昨晩二人、この場所で話し込んでて……そのまま、寝ちゃったのね。きっと。」
エルダの顔も心なしかいつもより青い。
「と、とにかく!朝食を食べなければまだ間に合うわ。急いで着替えるわよ!!」
「ええ〜!?朝ご飯食べないなんて死んじゃいますよ!!エルダは私が死んでも良いんですか!?」
「教官に頭突かれて死ぬか朝食を抜いて死ぬかふたつにひとつよ。」
「それじゃあ勿論頭突かれて死ぬ方を選びます!!」
「淀みないわねえ。」
エルダは呆れた様に呟きつつ、サシャをずるずると引き摺りながら図書室を後にする。
訓練場の中でも図書室のある棟は離れに建てられているので、宿舎への道は少し遠い。
二人はそのまま手を繋いで小走りになりながら朝露をしっかりと吸った土の上を駆けて行く。
……………昨日遅くまで起きていたからだろうか。透き通った朝の日差しが体にじわりと沁みた。
「でも、昨日は楽しかったです。」
手を引かれながら、サシャは朗らかに言う。一刻の猶予も許されない今の状況には相応しく無い明るい声色だった。
エルダもまた少しだけ笑ってそれに応える。「私もよ。」と零しながら。
「………エルダは普段そうでもないのに、何処かのツボを押さえるとかなりお喋りになりますよね。」
「そうかしら………。」
サシャの指摘に、エルダは少し恥ずかしそうにする。
「そうですよ。そういう所は昔からずっと変わってないです。」
「そ、そうなの………。自覚無かったわ。でも、サシャが言うのなら間違いないんでしょうね………。」
彼女の言葉に、サシャは何だか嬉しくなってエルダの掌を握る力を強くした。
「はい!………そうですよ。私が一番、エルダの事をよく知ってるんですから…!」
「ええ、その通りだわ。そして逆も然り、ね。」
そしてエルダも柔らかく笑って繋いだ手に少しの力をこめてくる。
サシャは何だか堪らなくなって来て、思わずエルダを飛びつく様にして抱き締めてしまう。
「あらあら、急がないと本当に遅刻しちゃうわよ。」
嗜める言葉をかけながら、エルダも満更では無さそうである。
こうして二人はじゃれ合いつつも急ぐ事を忘れずに(それ程までに教官の頭突きは恐怖する対象なのだ)宿舎への道を辿って行った。
*
「はー………。」
その日の訓練を終えたサシャは、深い深い溜め息を吐いた。
「まだ落ち込んでんのかよ、みっともねえ。」
その隣からユミルが呆れた様に声をかけた。
「だって……。どうせ頭突きを食らうんだったら朝ご飯をゆっくり食べて堂々と遅刻すれば良かったんです。
あんなに急いで走って来たと言うのに、その頑張りも認めてくれないなんて!」
まさに鬼教官!と言いながらサシャは地面に転がる石を蹴飛ばした。
「でも朝ご飯抜きなんて辛かったでしょ。大丈夫だった?」
自業自得だろ、と冷たい反応のユミルに対してクリスタはあくまで女神だった。
彼女の気遣いを微笑ましく思ったエルダはその頭をそっと撫でては「大丈夫よ。お昼ご飯をちゃんと食べたから」と答える。
「お昼ご飯は朝ご飯の代わりにはなりません〜!三食きちんと食べなければ人間として機能できないんです、私は!」
尚も腹立たしげなサシャは再び足下の石ころを蹴っ飛ばす。食べ物に関する恨みは相当根深い様だ。
…………彼女が蹴飛ばした小石は、勢いづいて上空に大きな弧を描く。
随分と遠くまで飛ばせる物だと、三人は感心半ば呆れ半ばでそれの行方を視線で追った。
そして小石が落下していく先には見知らぬ人影がある。
………訓練場内で初めて見る姿だ。制服も着ていない事から、兵士では無いのだろう。
「………………。」
小石はぼどり、と鈍い音を立ててその人物の傍に落ちた。
彼、――きちんとした身なりの初老の男性であった――はそれを少しの間じっと眺めた後、サシャの方へゆっくりと視線を向ける。
あまりに鋭い眼光にサシャは思わずたじろいでしまった。
「…………人に向かって石を蹴飛ばすのがここでの挨拶の仕方なのでしょうか。」
「え………あの、えっと…………。」
「…………謝罪も碌に出来ないとは。育ちが知れますね」
抑揚の無く冷たい声だった。上手く返す言葉が見つからないサシャはただ項垂れて地面を見つめる事しかできない。
「…………まあ。いいでしょう。」
彼はそう零してそのままサシャの隣……至極驚いた表情をしているエルダへと眼差しをずらしては目を細める。
そして細く……長く息を吐いてからゆっくりと口を開いた。
「久しぶりですね。エルダ。」
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