過去を振り返る [ 3/3 ]
―――――――半年程前
妹のルネが数年にも及ぶ昏睡から目を覚ました。その知らせが映し出された自室のパソコンのモニタを、イデアは食い入るように見つめていた。
「嘘」
思わず口から声が漏れ出る。その日が来ることをずっと夢見ていたが、まさかそれが現実に起こるとは。歓喜とも恐怖ともつかない気持ちが胸の中に広がっていく。
「……オルト。今週末は実家に帰るよ。」
画面から目を離さないまま、イデアは弟へと声をかけた。
「はーい、了解。随分急だね、どうしたの?」
オルトはいつものように愛嬌よく返事をする。彼の質問には端的に「ルネが目を覚ました。」と答えてやった。
「えっ、ルネが?」
ヒューマノイドであるオルトにも驚きという感情表現はプログラムされている。彼はガラス玉のような瞳を見開いては瞬きを数度した。
「そう、だから帰らなくちゃ。… ルネもきっと僕たちに会いたがっている。」
「うん、僕もきっとそうだと思うよ!楽しみだなあ、お土産を買って帰らないとね。」
喜ぶ弟を横目に、果たして本当にルネは自分には会いたがってくれているのだろうか、とイデアは重たい気持ちになった。
(ルネの昏睡の原因を作ったのは僕だ。)
髪に宿る青い炎を持ってしても焼き切れない多量のブロット。それから身を守るために彼女は生命活動を一時停止し眠り続けることを選んだ。その…ともすればオーバーブロットしてもおかしくない量のブロットを…負の感情を彼女が抱いた原因は紛れもなく自分で……、、、
「兄さん!お土産はやっぱり本にしよう。ルネがすごく熱心に読んでいたシリーズの新刊があれからもう3冊も出ているよ。」
「そうだね…。」
弱く笑って、オルトが勧めてくれた書籍の販売ページへとパソコンのモニタを切り替える。
外にはいつの間にか雨が降り出しているらしい。カーテンを締め切ったこの部屋にも湿気と雨音が忍んできて、殊更に昏い気持ちにさせられる。
(ルネ)
また昔のように笑いかけてくれるだろうか。彼女が心から自分を慕ってくれていたあの時に戻ることはできるのだろうか。
それを不安に思えば顔を合わせることが空恐ろしくなる。けれども会わないわけにはいかない。寂しがり屋な妹を、自分達兄弟のいない環境に1日でも置いておくことは忍びなかった。
*
前回のバカンスぶりに戻った嘆きの島の長い長い廊下を歩きながら、イデアはこの廊下が早く終わってほしいような、永遠に終わってほしくないような、奇妙な感覚に囚われる。
楽しげに話すオルトの言葉を聞き流しながら、ルネが数年間眠り続けていた部屋へと段々と近付いていく現状に緊張を抱いた。
(この道、よく通った…。)
ルネが昏睡してからと言うもの、ナイトレイブンカレッジに入学するまでの期間は毎日のように彼女の元に通い詰めていた。ついには部屋の鍵の管理を任されるほどに。
そして辿り着いた無機質でいてよくよく見覚えのある扉の前に立つと、感慨に耽る暇もなくオルトがそれを開いてしまう。
「ルネ!」
彼は滑るようにベッドまでひとっ飛びしてルネの首に腕を回す。彼女は突然訪ねてきた兄たちに驚きつつも、オルトの抱擁を受け入れて抱き返した。
「オルト!来るならそう連絡入れてくれたら良かったのに。」
ルネは数年ぶりに起きたとは思えないくらいに元気なように見えた。ただ顔は蒼白で、長い期間点滴だけで命を繋いでいた肉体は病的に痩せ細っている。
「連絡してもルネはスマホ全然見ないでしょ?それよりは黙って来て驚かせた方が良いと思ったんだ!」
オルトはくすくすと笑ってルネと顔を寄せ合う。仲睦まじい兄妹の姿がそこにはあった。
(あ……)
そこに今までは自然と入っていけたのに、妙に足が重くて近づくことができない。
入口付近で立ち尽くすイデアに気が付いたルネは自然に微笑み、「兄さんも。久しぶり。」と手を広げて抱擁を強請ってくる。
(あれ、)
その、昔と変わらない自然な仕草にひとつの可能性が浮かび上がる。
(ルネ、もしかして忘れてる?)
イデアが犯した行為を彼女が忘れてくれているのならば、思いもよらない僥倖だ。胸の奥の支えが取れる気がする。足が軽くなって、ルネの元へと歩みを進めた。
ベッドに腰掛けては肩を寄せ合っているルネとオルトを一緒に抱きしめると、懐かしい気持ちで胸が一杯になる。
「おはよう。起きるのを待っていたよ、ルネ。」
心からの言葉を口にすると、自らの首にもルネの細枝のような腕が回ってくる。だがその時、ふと違和感に気が付いた。微かながら震えているのだ、彼女の肉体が。
(あ、)
やはり忘れているわけではない、と確信して愕然とした。覚えていないふりを…あるいはそこには触れないようにと…虚勢を張っているだけだ、これは。
頭の中が真っ白になる。もしかして恨んでいるのだろうか、ルネは。ならばきっと許してくれていない。それだけのことをしてしまった。
(どうしよう)
ルネに軽蔑されたら生きていけないと思った。彼女が自分達兄弟から…自分から離れていってしまうことだけはあってはならない。3人は常にひとつでなくてはいけないからだ。
「そうだ、お土産とお見舞いを兼ねてルネが大好きな本の新刊を三冊持ってきたよ。」
何も気付いていないオルトが三冊の重たそうな本を差し出す。ルネは変わらずにこやかな表情のままでそれを受け取った。
「電子書籍の方が絶対読みやすいとは思うんだけれども、 ルネは機械音痴だからアナログにしたよ。」
「ありがとうオルト、すごく嬉しい…。この九月から私も学校の寮に入るから、その時に持っていくね。」
「え?学校?」
オルトの質問に、イデアもまた顔を上げてルネのことを見た。
「そう学校。兄さんとオルトがナイトレイブンカレッジに入学したって聞いてから、私も学校に行きたくなって。ほら、年齢的にもちょうど一年生になるし、兄さんたちの学校からは随分遠いけれども輝石の国にある女子校に…「絶対に駄目だ。」
先ほどまで言葉少なだったイデアがルネの言葉を遮って声を上げた。彼の方へと、弟と妹の四つの透き通ったイエローアンバーの瞳が向けられる。
「兄ちゃんたちや母さん父さんから離れて女子校に入るなんて、絶対許さないよ。」
今までの逡巡が嘘のように、イデアはピシャリと言い放つ。弟と妹はいまいち状況を理解できていないらしく、不思議そうな表情で兄の顔を見た。
「第一ルネ、数年間寝ていた体でまともに学校生活送れると思ってるの?」
「でも…母さんや父さんは9月までに体力を回復させれば良いって言ってくれて、、、」
「それに僕らみたいな異端な人間は外の世界では絶対に軽蔑されて虐められる。そんな場所に一人で行くなんて許可できないね。」
「それは分かってるよ。でも私、起きてから兄さんたちがいない期間考えたの。いつも二人に頼ってばかりで情けないから、ちゃんと外で勉強して友達を作って、頼らずに生きていけるようになりたいって……」
「外で学ぶことなんて何も無いよ。勉強ならネットでいくらでもできる。機械が苦手なら兄ちゃんがいくらでも簡単なプログラムを組んであげるから…!それに友達作りなんて不毛中の不毛。良いんだよ、ルネはずっと兄ちゃんに頼って、大好きな本を読んで過ごしていれば良い。」
昔からルネは口喧嘩に弱かった。すぐに言葉を逸して俯いてしまう。今回は少しばかり粘ったが、やはりいつものように唇を閉じて俯いた。やり込めたことに満足し、イデアはふうと息を吐いてはルネの肩に手を置いた。
「分かった?この話は僕から父さん母さんに中止するように言っておくから。何も心配しないでゆっくり休んでな。」
「………ねえ、兄さん。」
横から二人のやりとりを眺めていたオルトが遠慮がちに呼びかける。彼は探るようにイデアとルネを交互に眺めては言葉を続けた。
「でも、そうしたらルネは僕らが学校にいる間ここでずっと一人になっちゃうよ。それは可哀想じゃないかな。」
「それは……、、」
オルトの言葉にイデアが反論しようとするのを遮って、彼は更に続けた。
「それに僕らだけが学校生活を楽しむのもなんだか嫌だからね。3人はいつも一緒じゃないと。」
「いや全然学校生活は楽しくありませんが」
「僕に考えがあるんだ。…兄さんならきっと上手くやってくれると思う。」
―――――押し切られる形ではあったが、オルトの突飛な案をイデアは受け入れた。
そして性別を男性に偽ったルネはナイトレイブンカレッジの新入生として、黒い棺を引き摺る馬車に迎えられることになる。
(一人で女子校に行くよりはマシだ。もしそんなことをして、ルネが無駄に傷付くことになったらどうする。僕たちにとって、外の世界なんて害でしかないんだから……。)
**
(私、これからどうなるのかな。)
どの過去を振り返っても、まさか自分が男子校に入学する未来があるとは思っていなかった。幸い長身で痩せぎすのルネは男装に大した労力は要らず、こうしてトラブル続きの入学式をどうにか終えることができた。
ルネは闇の鏡の前で魂の色を見られることはなく、イグニハイド寮に直接振り分けられた。(どうしてかな)心配性の兄が他寮でルネがボロを出してしまうことを心配してそのように仕向けたのだろうか。恐らくきっとそうだ。(兄さんは本当になんでもできるんだな)その証拠に部屋も偶然ルームメイトがいない一人部屋を割り当てられた。性別を偽っている自分への配慮だろう。伽藍として殺風景、どこの景色を切り取ってもよそよそしいその部屋に足を踏み入れて扉を閉める。ハアと深いため息を吐いた。
(結局兄さんとオルトに頼ってばかりで独り立ちできてないなあ。でも嘆きの島から外に出ただけでもひとつ進歩、かな。)
イデアもオルトも、母を亡くしたルネが実父である彼らの父親に引き取られた時からの長い付き合いで、半分しか血が繋がっていないとはいえ今はもう本当に兄妹だと言える仲だった。最初は同じ歳のオルトが、慣れるまで多少の時間を置いてイデアが、全く新しい環境に不安を抱える自分に優しくしてくれたことは忘れられない大切な思い出である。
(あの時はオルトも…私たちと同じ生きた人間だったな、そう言えば。) 豪奢な式典服を脱ぎ、皺にならないようにハンガーにかけて空っぽのクローゼットに仕舞う。確か明日、クリーニングに出せば良いんだっけ。
疲れて回らない頭でぼんやりと明日の自分の行動を確かめる。起きたら食事は食堂で…イグニハイド寮の人たちはほとんど行かないみたいだけれども…行ってみようかな。自分と同じ新入生の中で、友達になれる子がいるかもしれない。
(兄さんもオルトも優しくて大好きだけれども…やっぱり私、友達が欲しい。)
服を脱ぎ寝間着に着替える最中、鏡に映るみっともなく痩せた自分の肉体が目に入る。窓から差し込む青い月光に照らされて一層色が悪く見える素肌を見ていると、何かを思い出してしまいそうになってハッとした。記憶の底から浮かび上がる恐怖心を押し殺すようにして、急いで上着を羽織り皮膚を隠した。
気が付くとこの静かな部屋の中で、脈拍のように時計が分秒を刻む音がしている。どこに時計があるのだろう。無機質にツルリとした白い壁にはどこにもない。ああそうだ、ベットのサイドテーブルに元から置いてあった置き時計だ。明日食堂に行くのに寝坊しないように、目覚ましをかけてみようかな。ルネがそっとした足取りでサイドテーブルの方へ歩んで辿り着いた時、「ルネ」背後から名前を呼ぶ声がする。
聴き慣れて親しい声なのに関わらず、何故かルネはゾッとした。ロックしていなかった扉を開けた兄の姿は逆光で細長く黒いシルエットになって見える。その影の中で、髪に宿った青い炎がゆらゆらと揺れていた。
「兄さん…」
小さな声でルネは兄を呼ぶ。イデアは扉を元のように閉め、自然な仕草でロックをかけた。セキュリティ上はもちろん正しい行為なのだが、それはルネを恐怖心をやんわりと増長させた。
入ってきたは良いが無言で立ち尽くしたままの兄のことを、ルネはじっと見つめた。薄暗がりの中、イデアもまた彼女のことをじっと見ている。
「どうしたの?」
ルネは湧き上がる恐怖心をどうにかやり過ごして、弱々しい笑顔を浮かべて兄の方へと歩み寄った。
「この部屋、まだ何も無くて。椅子も一脚しかないんだけれども、良かったら座って。」
彼女はイデアの骨張った手を取って室内へと導く。だが彼は椅子には座らず、ルネが腰掛けたベッドの横に同じように腰を沈めた。
髪の青い焔の燃え方が元気ないな、とルネは思う。心配に思いながら、「そういえば…」と話を切り出した。
「兄さん、今日は入学式だったのに鏡の間にいなかったね。体調でも悪かったの?」
今も顔色が悪いし…と頬にかかった髪を耳の後ろにかけてやりながら言う。
「うん…。ちょっと。具合が悪くて。」
ようやく口を開いたイデアが聞き取りにくいほどに小さな声で言う。
「そっか、もう大丈夫?」
「大丈夫だよ。ありがとう。」
ルネは彼の解答に安堵しながらそっと手を離す。しかし、スと伸びてきたイデアの掌に指を絡め取られた。その皮膚の冷たさに驚いて思わず彼の方を見る。
「あのさ…ルネが目を覚ましてから2人で話す機会がなかったなあと思って…」
イデアはルネの顔を覗き込むようにして視線を合わす。抑揚のない言葉遣いにルネは身体を強張らせた。
「兄ちゃんはさ、ずっとルネが起きたら謝りたかったんだ。」
下唇を思わず噛んでしまいながら再び湧き上がる恐怖心を押さえつけ、兄の言葉に耳を傾ける。逃げてはいけないと踏みとどまった。逃げることはきっと彼を傷付けてしまうと思ったからだ。
妹の緊張を理解してか、イデアはルネの肩を抱いて落ち着かせるように自分の方に寄せた。それはいくらか彼女の逼迫した感情を和らげる。
「ひどいことしてごめんね。」
「…………。」
ルネは瞳を閉じた。兄の体温を服越しにじわりと感じ、なんだか泣きたい気持ちになる。
「別に、ひどいことだなんて思ってないよ。」
「本当に?」
「うん……。」
本当かどうかは分からなかった。けれども、それが兄の助けになっていたのならもう良いのではないかとも思う。
「ありがとう。ルネは昔から優しくて良い子だね。」
この上なく優しい声色でイデアは言う。身体を包み込むように抱かれて、彼の薄い胸板の奥のゆっくりとした心臓の音を聞いた。
恐る恐る抱き返すと、抱かれる力がひどく強いものになった。ルネは弱く息を吐いて瞼を下ろす。何かを諦めるように。
「今夜は兄ちゃんの部屋で寝よう?また昔みたいに一緒に…。」
そうして、きっと明日の朝は食堂に行けないだろうな、と思った。他人と一緒に食事を摂るなんて兄が最も嫌ってることのひとつだし、自分がそれをするにも良い顔をしないだろうから。
(……………。)
兄に逆らったり反論することはルネには出来ない。もう充分に辛い思いをしてきた彼をこれ以上傷付けたり追い詰めることだけはしたくなかった。
「ねえルネ、ずっと一緒にいようね…」
昔から繰り返しまじないのように呟かれた言葉を、今は呪いのようにも感じてしまう自分を叱る。ルネは微笑んで頷き、兄の気が済むまで腕の中でじっとしていた。ふいに唇に口付けを受けて、なぜか彼女はひどく悲しくなった。けれどもだんだん何も感じなくなり、いつの間にか、無になることを覚えるようになったのである。
clap
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