―――今でこそ志摩子は殺しても死なないような食えない奴だが、昔はいつも僕の後ろに隠れているような人見知りの少女だった。そんな彼女が変わった経緯を僕は知らない。それは唯一僕らが離れ離れになった中学生の3年間の出来事だったから。僕が知らない志摩子がそこにいることが今でも歯痒くて、少し寂しい。
「志摩子なんか嫌いだ…!」
志摩子の進学先が星輪女学院だと聞いた小学校6年生の時に思わず言ってしまった言葉だった。彼女は最初ポカンとしていたが、菊地原の言葉の意味を理解したのか、自らの服をぎゅっと握り締めて俯いた。
「そんなこと言わないで士郎ちゃん。」
消え入りそうな声で志摩子は言う。
「お姉ちゃんたちも3人とも星輪なの。お母さんがどうしても行ってほしいって……、、」
「いいよ、別に言い訳なんかしなくても。」
「言い訳なんかじゃ、あの、学校違くても一緒に遊んだりはできるよ…!だから」
「もういいって言ってる」
志摩子に背をむけて歩き出そうとするとはっしと腕を掴まれる。
「…志摩子は嘘つきだね。」
腕を掴まれたまま、振り返らずにそれだけ言う。志摩子の掌がピクリと震えて力が弱まった。ゆっくりと彼女の方を見れば、俯いた頬に大粒の涙が流れている。その光景を見て菊地原は一瞬自分の言動を後悔した。しかし何も言うことができず、ただただ初めて見る幼馴染の涙を前に呆然とする。
「嘘なんかじゃないよ、士郎ちゃん。」
志摩子は涙を拭い、菊地原の方を濡れた目で真っ直ぐに見つめながら言う。
「私、約束はちゃんと守るから。…だからお願い、嫌いだなんて、、言わないで……!」
そのまま菊地原の首に腕を回して、志摩子は珍しく声を上げて泣いた。
夕焼けが街の向こう側に沈んでいくのを彼女のふわふわとした髪の毛越しにぼんやりと見ながら、自然とその華奢な身体を抱き返した。ぎゅっと強く。
―――恐らくそれが始まりだったのだと思う。僕の。志摩子に対して抱く強い劣情の。
*
「あれ、士郎ちゃん」
駅から家へと帰る道すがらに菊地原を発見したらしい志摩子は嬉しそうに彼へと声をかけた。菊地原は軽く視線を寄越すに留まる。
「どうしたの、迎えにきてくれたの?」
「自惚れがすごいね。こっちに用事があっただけだよ、偶然。」
「そっかあ、でも会えて嬉しい!ねえ良かったら私の部屋に来てよ、お茶してこう?」
菊地原は少し考える素振りをしてからひとつ頷いて提案を受け入れた。…本当はそう言われるのを待っていた。会えたのだって偶然なんかじゃない、待っていただけだ。
無言で志摩子のずっしりと重い鞄を持ってやる。彼女は大げさに喜んで「士郎ちゃん格好良い」とのたまう。別に格好良くないと思う。今だって、こんなにいじけた気持ちでいると言うのに。
「で、どうだった。久しぶりの星輪は」
志摩子の部屋に通されて開口一番尋ねてみた。彼女は菊地原が抱えている複雑な心情には気がつかないらしく、無邪気な笑顔で答える。
「楽しかったよ、文化祭だもの!士郎ちゃんも一緒に来てくれればよかったのに。」
「嫌だよ女子校の文化祭なんて。うるさくていれたもんじゃない」
菊地原の気のない返事がなぜか面白かったらしく、志摩子は楽しそうに笑う。そして鼻歌混じりに「お茶の準備してくるね」と部屋を後にした。
今日は星輪女学院の文化祭だった。行ってきた彼女がそれはもう上機嫌なのが目に取れて、若干イライラとした心情を抱く。
高校で六頴館に受験した志摩子にとって、中学の3年間を過ごした星輪は思い出深い学校らしい。久々に会えた星輪の学生たちからも相当の歓迎を受けたようで、先ほど持ってやった重たい鞄からは手作りのお菓子や手紙だのの類がチラと覗いている。
少しして、お待たせ、と紅茶が注がれたカップ二客を乗せたお盆を持って志摩子が戻ってきた。
カップを受け取りながら、「そんなに楽しかったんなら高校も星輪に行けば良かったんじゃない」と心とは裏腹なことを言ってみる。
「そうだね、それも良い選択だったかも。」
自分のカップをローテーブルの上に置きながら志摩子は菊地原の隣に腰を下ろした。その際の発言がそれなりに癇に障ったので、彼はわざと大袈裟に舌打ちをする。
「やだ士郎ちゃん、最後まで聞いてよ。」
志摩子は相変わらず上機嫌でケラケラと笑いながら菊地原の肩をポンと叩いた。
「聖輪は確かに良い学校よ。友達もたくさんいるし…でも、私せっかく頑張って六頴館に入学したんだもの。今士郎ちゃんと同じ学校に通えて本当に嬉しい。」
「……。ひとつ聞いて良い?志摩子が六頴館に受験した理由って」
「士郎ちゃんよ?それ以外に理由なんてないわ。」
菊地原は心底呆れたように溜め息をした。そして「馬鹿じゃないの?」と続けて吐き出す。
「馬鹿かな。」
「馬鹿だよ。」
「でも私にはとっても大事な理由よ。受験勉強も、お母さんと初めて喧嘩するのだってどうってことなかったわ。」
「別に僕はそこまでして……。」
「良いのよ、私が勝手にしたいようにしてるだけだもの。」
そう言って志摩子は紅茶を美味しそうに飲む。菊地原もまたなんだか気が抜けた気持ちで、温くなってしまった紅茶を啜った。
窓の向こうでは傾いた陽がオレンジ色を帯びて強い光を放っている。それが眩しくて、彼はそっと目を細めた。
「それに私、士郎ちゃんとの約束は守りたい……」
「約束?」
ポツリと呟かれた志摩子の言葉を聞き返す。彼女は笑みに意味深なものを交えては「うん、約束」と同じ言葉を繰り返した。
「…何かしたっけ。覚えてないよ。」
「本当に覚えてないの?小学生の頃だよ。」
「そんな昔のこと忘れてるに決まってる、少し考えれば分かるだろ」
「ふふ…士郎ちゃんは嘘つきだね。」
志摩子の腕がそろそろと首に回ってくる。それを咄嗟に掌で制すると、彼女は実に不思議そうな表情で首を傾げた。
「ごめんね士郎ちゃん。嫌だった?」
「嫌だよ、だって…こんな、いつも……、、」
志摩子の顔を見ることができずに俯く。彼女は微笑んで菊地原の次の言葉を待っていた。
「いつも、僕ばっかりがドキドキして…!」
「いつも?」
「う……、」
志摩子は優しい手つきで菊地原の手を取った。そのままで少しの時間が経過する。ベッドのサイドテーブルで目覚まし時計が秒針をチクタク刻む音が変に耳に触った。
繋がっていた手を引いて志摩子の体を引き寄せる。当然のように胸に収まった彼女を思わず強く抱いた。ハァと息が上がる。
志摩子はこちらに腕を回して抱き返す。そして小さな声で「私だってドキドキしてるわ。」と零した。
「ねえ士郎ちゃん、本当は覚えてるんでしょう?」
彼女は菊地原の鋭敏な耳を気遣ってかごく小さな吐息のような声で耳元に囁く。頷いて肯定すると、抱き返す力が強くなった。
「ありがとう。嬉しい。」
士郎ちゃんはかわいいね、そう続けて、志摩子は菊地原に身を委ねた。
彼女のふわふわとした髪越しに、窓の外で沈みゆく夕日がキラキラと光って見える。いつかの日と同じようにその華奢な体を抱きながら、行き場のない感情に菊地原は幸せとも苦しみとも取れるような感覚を味わっていた。
―――もし、この暴力的なまでの執着心に志摩子が気付いてしまったらどうしよう。それだけが怖かった。とても受け入れてもらえるとは思えない。いくら志摩子だって、きっと……
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