東さんは私の手を握って無言で歩いていた。私はそれに引き摺られるようにしてついていく。
(どこに行くんだろう……)
その疑問も束の間、見慣れた景色に彼の目的地を察する。先日の夕暮れ時に向かった公園だ。しかし陽があるときに見た景色と夜の今見る景色はどこか違っていて、なんだか不安になってくる。東さんが私の手を強く掴んだまま無言で進んでいくことも心配に拍車をかけた。
「あの東さん…」
「なに?」
「私、課題があって。早く帰らないと…。」
「大丈夫だ、手伝うよ。」
一体何が大丈夫だと言うのか。確かに東さんに手伝って貰えば百人力だが、そもそも課題があると言うのは半ば言い訳だ。本当の理由は……
東さんは息ひとつ吐かずに先日登った急勾配の坂道を上がっていく。
(なんだ、この前バテてたのに)
調子が悪かったのだろうか。あるいは演技か。同じ隊の隊長として接していた時には知らなかった面がこの一週間強でいくつも見えてしまって、空恐ろしかった。
(でも…)
怖がっていても仕方ない。こちらの思い込みかもしれないが、それなりに心を通わせた仲間なのだから、せめて誠実に向き合わなくてはいけないと考える。
小高い展望台にたどり着いた。ベンチがひとつぽつんと傍の街頭に照らされて佇んでいる。遠くに見えるビル郡や一際目立つボーダーの基地が、彩り豊かな灯りに照らし出されて眩しかった。
「東さん、ごめんなさい。」
やはり無言でその方を見ていた彼へと謝罪する。ゆっくりとこちらに向き直られるので、逸らさずに目を見つめ返す。
「逃げたりして……」
彼は何も言わなかった。こちらをじっと黒い瞳で見つめてくる。私はビルの灯りに輪郭を照らし出されている彼へと「でも」と言葉を続ける。
「なんで急に私のこと好きだなんて。理由を聞かせてください。」
「急じゃないって。この前も言っただろ。」
ようやく表情を和らげて彼は言った。本当に急じゃないのだろうか。私にとってはどう考えても突然だったが、もしも前から同じことを伝えてくれていたのなら、鈍感さ故に失礼なことをしたなと反省する。
「私は大した人間ではないので、東さんには相応しくないですよ…。」
私の発言に東さんはやや眉を下げた。「そんなことを言うな」と呟いてくれたその言葉に、胸の奥を掴まれた気分になる。
彼は少し考える素振りをした。そして
「そうだな…晃の好きなところはまず、強いところかな。」
と顎のあたりに手をやって言った。私は思ったよりも単純な理由だなあと気が抜けたような気分になる。「はあ、ありがとうございます。」ととりあえずの礼を述べた。
「最初は気難しい奴なのかな、と思ったけれども想像以上に単純なところとかも」
「単純なことは否定しませんが…」
「別に貶してない、良い子だなと思ったんだよ。」
良い子、と言われてどんな反応をすれば良いのか分からなかった。別段頭が良いわけでも気が利くわけでもない。
―――『晃ちゃんは本当に良い子ね。自慢の娘だわ。』
(……………。)
東さんとのこの一週間強の出来事の中、なぜか母のことを思い出す機会が増えた。亡くなってから4年半。もうすっかり忘れていた表情や所作、青白い顔や痩せた背中、そして私を縛る言葉。それらが海底から浮かび上がる泡のように心の中で緩やかに確実に広がっていく。
「私は良い子ではありませんよ。」
静かな気持ちになって東さんへと応えた。
「そうだな、なかなか素直にならないし。」
彼は微笑んで返す。暫時口を閉ざし、こちらの反応を伺ってから言葉を続ける。
「晃は俺のことが好きなのに、いつも向き合わずにこうやって逃げる。」
「っ、好きは好きですよ。信頼していますし。でも東さんが言う好きとは違っていて、、」
東さんが私の発言を遮るように肩を掴んで体ごと引き寄せる。踏み留まって抱かれることを拒否した。彼は私の肩から掌を離さず、首を傾げて不思議そうにする。まるで私がその腕に抱かれることが当然で、今の反応が予想外だったかのように。
「それじゃあ、どうするんだ晃。」
彼は穏やかな口調で私に尋ねる。
「ひとまず付き合ってみれば良いじゃないか。ひと月くらい試用期間とでもすれば良い。」
「そんな不誠実なことはできません…!!」
思わず声を一段大きくして言う。…東さんは数回瞬きをして私のことをじっと見つめた。それから表情を崩して面白そうにクツクツと笑う。彼の表情の変化の理由がわからず、私は眉根を寄せてその様をただ眺めるに留まる。
「いや、晃らしいなと思っただけだよ。」
東さんは私の疑問の視線に気がついたのか弁明をした。幾分か緊張が解けた雰囲気の中で彼は「じゃあ…」と言葉を続ける。
「俺と真剣交際しか晃には選択肢がないわけだけれど。どうする?」
「…。それしか選択肢がないのはおかしくないですか。」
「どうして?俺は晃を好きで、晃も俺のことが好きなのに。」
「いえ、ですから好きは好きでもそういった意味ではなくて…」
私は額に手をやって堂々巡りのやり取りにどうしたものかと考える。…東さんと付き合うことはどうしても阻止したい。一度きっぱり断ったと言うのに。
(でも……)
(ほんの少しだけ、きっと付き合ったら楽しい、好きって言ってもらえて嬉しいとも思ってしまう)
(思うだけなら自由だ。だから思うだけにしよう。これからもずっと……)
夜の風が過ぎっていく。東さんの綺麗な髪がそれに揺られているのを目を細めて見た。
「東さん、私ちゃんと考えてみます。…今度は逃げません。」
ふともう一度自分の心に向き直ってみようと思った。丁寧に考えてちゃんと結論を出そう。たどり着く答えは同じでも、少しは誠意みたいなものを示せるかもしれないから。
月が雲間から姿を現したらしく、サアと青白い明かりが辺りに落ち込んでくる。それに照らされてキラキラしている東さんの髪はやはり綺麗で、触りたいなあと考えたりもした。もちろん触らないけれども。
東さんは私の言葉の意味を考えているようだった。探るような視線をこちらに向けてくる。
「分かった。それで良いよ。」
初めての東さんの譲歩するような回答に、私はほっと胸を撫で下ろす。…彼の指先がツとこちらに差し出される。その行方を視線で追うと、私の髪に触れた。首を傾げて行為の意味を問うと、「綺麗だったから」と簡潔に返された。
「晃は髪が長いな。」
「短くすると男にしか見えないので…」
「そうかな。俺は晃のことはすごく女の子に思えるけれど。」
「…………。」
私が応えずにいると、少しの沈黙が訪れる。東さんもまた無言で私の髪を撫でた。それがなんだか心地よくてふわふわとした気持ちになる。もっと続けてほしいな、とまで思ってしまう。
そのまま東さんの腕が私の背中に回った。あまりにも自然な流れだったので、拒否する間はなくその腕の中に私は収まった。彼が深呼吸するのが頸に触れる吐息で分かる。抱き返すことはせず、けれども身体を預けてそれを甘受した。
(男の人に抱きしめられるなんて、初めてかもしれない)
無駄に背が高くて体格の良い私をすっぽりと抱きしめてくれる人なんてきっともう現れないと思う。増して好きになってくれる人はこれで最後だろう。
(………………。)
将来、彼に愛されて愛する女性は幸せだと思った。私はそれにはなれない。きっと父と母みたいになってしまう理由と確信があった。
―――『晃ちゃん』
東さんが私を抱く力が強くなる。胸が苦しくて息を呑んだ。けれども突き放すことができない自分がずるく卑しく感じられて泣きたくなる。それを堪えるために、唇をそっと噛んだ。
*
(やっぱりお袋さんのことを大分引きずってるよなあ)
晃を送ってから自宅に戻った東は一人ぼんやりと考えながら着替えをした。…ジャケットを脱ぐと、ふわりと女性の香りを覚えた。「ほら、やっぱり女の子だ」と苦笑しつつ、その優しい匂いに感じ入る。
―――晃の母親は4年半前の第一次大規模侵攻の時に亡くなっている。それより前からずっと病気でいつ亡くなってもおかしくないような状況ではあったが。母親が生きていた頃の晃はボーダーでの仕事と母親の介護で常に忙しそうにしていたことを覚えている。父親はもう随分前に別家庭を持っていたらしいから、頼れる人間もいなかったのだろう。
それでも辛いとかの泣き言や苛立ちを人に見せることはなく、いつでも落ち着いて淡々と任務をこなしてくれた。安定感のある彼女の能力の高さにはいつも助けられていたと思う。
(ただ、頼りすぎていたのかもしれない。家庭の問題と思って深くは立ち入らなかったが、少しでも手を貸してやれば…いや、話だけでも聞いてやれば)
そうすれば、今こんなに苦労することはなかったのかもしれない。明らかにこちらを意識しているのに関わらず恋愛関係になることだけは避けようとする。その距離感がもどかしくはあったが、一つ呼吸をして自分を落ち着かせる。
(大丈夫、ゆっくりと待つことは得意だ。焦るな。)
だが、ここまで来たら何が何でも自らの恋を成就させたいと思った。…先ほど触れた髪の感触を思い出し、指の甲にそっと唇を落とす。
(……確かに晃の好きと俺の好きは違うのかもしれない)
この一週間ほど…鮮明に晃に求められる想像をした。何事にも真っ直ぐな女性だから、きっと情熱的に違いない。包み込むように優しく抱いてくれるだろう。熱を持った瞳でこちらを見つめてくれる日が待ち遠しくて仕方がない。気持ちは重たく募っていくばかりだった。
(俺の好きは、そういう好きなんだよ…。)
自嘲気味に笑って瞳を閉じる。そうして今夜もどうか晃の夢が見れるようにと願った。
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