東春秋 | ナノ  日曜日の大学構内は人気が疎で静かだった。図書室はほぼ人がいないと言って良い。ボーダーの任務で遅れた課題をこなすためにここに来たのは正解だったと思う。最近地に足がついてない感じがしたので、気持ちを落ち着けて集中するのにも良い環境だ。

 無意識にいつも選んでしまう窓際の席でしばらくノートパソコンに向かいつつ、数冊の資料を交互に眺めては軽く溜め息をする。

 味気ないアルミサッシの窓から、夕方の初夏の風がふんわりと舞い込んでくる。薄い生地のカーテンが弱く煽られているのが視界の隅で心地良くて、瞼を緩く閉じ頬杖をついた。…ハッと、ぼんやりしてはいけないと思う。ぼんやりするとまた東さんのことを思い出してしまうからだ。

 再びパソコンの画面に向かって修正箇所だらけの論文に向き直る。しかしいかにも気持ちが散漫だった。足りない資料を補いがてら、気分転換を兼ねて巨大な書架の方に向かった。

 ―――東さんから告白されて…数日後断って、しかしそれがうまく伝わらなかった日から更に一週間強が経っていた。短いようで長いこの期間、私は東さんをなるべく避けていた。会うとしても複数人の場を必ず心がける。(自然に振る舞えていたかな)(私の顔、引きつってなかったかな)(表情が乏しいのは昔からだけれども)

 スチール製の背が高い書架と書架の間に挟まって資料になりそうなものを物色しながら、もう考えているのは東さんのことだった。思わず再び溜め息が出る。

 東さんは本当にいつも通りだった。4歳しか離れていないとは思えないほど落ち着いていて、物腰穏やかで思慮深い。なんだか私ばかりが気疲れしている。…もしかしたら、告白に対する断りを聞き入れていつも通りに戻ってくれた可能性もある。それならば何よりなのだが。

『晃』

 名字でなく名前を呼ばれたことを思い出すと体の芯が熱くなった。いけないなと思う。今まで通り仲の良い友人としてやっていくのが一番だと分かりきっているのに。

 随分と上の書架に探していた灰色の背表紙を発見して手を伸ばす。昔から無駄に背丈が高いので容易に届く。かつてはそれがコンプレックスでもあったのだが、今は何かと便利に思えるようになっていた。きっとボーダーに所属してからだろう。この体躯のおかげで仲間や友人の役に立てる機会が増えたから。

 膨大な書籍の並びから目当てのものを抜き出した時、不意に後ろから私の手ごと灰色の本が抑えられる。

(な、なに…!?)

 本は元の書架に押し戻されるが、私の手は後ろから弱くない力で握られたままだった。誰、と思う前に答えが出て冷や汗が体から吹き出る気持ちがした。繰り返しになるが昔から背だけは高かったのだ、普通の男の人よりも。この手が伸ばした先にあるものを余裕で掴める人間なんて限られて―――

「晃」

 聞き馴染みのある声で自らの予想に確信を得る。のしかかられるような重圧を背中に覚えて動けずにいると、頬にさらりとした髪が触っていく。信じたくない気持ちでいっぱいになるが、まるで頬を寄せ合っているみたいな近さにその整った顔があるんだと理解して緊張で体が震えた。それを宥めるためか再び彼は私の名前を呼ぶが、正直逆効果である。

「なっ、」

 言いたいことがまとまらないまま口をついた言葉は東さんの人差し指の先で封じられた。

「図書室は静かに」

 首を彼の方に回す…よりも前に、体を反転させられて向き合うことになった。色々な感情がいっぱいいっぱいで、顔を見ることができず面を伏せていると覗き込まれる。観念して「東さん…」と小さく名前を呼んでは向き直った。

「あの、なんでここに」
「ひどいな。俺もここの学生なんだからいるのは当たり前じゃないか。」
「それはそうですけれども」

 とりあえず広いところに出よう、書架と書架の間の狭いスペースではなんだか息が詰まる、と思ってテーブルが並んでいる方に彼を促す。しかし東さんが私の右手を握ったままでびくりとも動かない故にそれは意味のない行為となった。

「窓際の席……」

 ふいと東さんが私が今まで着席していた席を視線で指す。私もつられてその方を見た。

「いつも座ってるだろ。向かいの校舎に俺の研究室があるからよく見えるんだ。」
「そうだったんですか…なんだか恥ずかしいのでこれからは席を変えます。」
「俺に見られているのは嫌か?」
「いえ…でも時々勉強サボってますし」
「確かによく居眠りしてる」
「そんなに見ないでくださいよ…」

 眩暈がして空いている方の手で額を抑えると、東さんはおかしそうにクツクツと喉の奥で笑った。しかし笑っていたのも束の間、近い距離を更に詰められてじっくりと顔を観察される。居た堪れなくなって後ろに退がるが、背中に固い書架の感覚を覚えてハッとする。(早くもっと広いところに移動したい……)

「それにしても久しぶりだな、晃」
「え?」
「避けてたんじゃないのか?俺のこと。」
「そんなことはない、、です。」
「……。晃は分かりやすいな。」

 東さんの声が一段低く、掴まれていた掌を握る力も強くなる。肌が粟立つ感覚がして「違うんです」と咄嗟に言い訳する。顔と顔が触れ合いそうな距離にいる東さんが一応の聞く姿勢をとってくれるようでホッとした。

「その…。もし会ったら、なんだか気まずくなってしまう気がして申し訳なくて…」
「避けられた方が俺は傷つくけどな。」

 下手な言い訳をするもんじゃ無かったと、この時盛大に後悔した。

「晃」

 東さんがまた私の名前を呼ぶ。この人の艶やかな声はとても心臓に悪いと今更ながらに思った。耐えられず逃げたくなるが、後ろは書架、前は私よりも背が高い数少ない人間が壁のように塞いでいる。八方塞がりでクラクラとした。

「晃は俺のことが嫌いなのかな。」
「そんなことあるわけない…ですよ。」
「じゃあ好きなんだな、良かった。」
「それは……」

 好きか嫌いか聞かれたらそれはもちろん好きだが、恐らく東さんが言う好きは私の好きとは違う意味を含んでいるのだろう。それくらいは馬鹿な私でも分かるから答えに窮してしまう。慎重に言葉を選ばなくてはいけない。

「なあ、聞かせてくれないか。晃の口から」
「東さん…顔、近いですよ。」
「駄目かな」
「駄目じゃないけれども緊張してしまうので、あまり、、」
「それは困ったな…落ち着いて深呼吸でもしてみたらどうだ。」

 いっぱいいっぱいな私は言いたい大量のことを飲み込んで、馬鹿正直に東さんの言葉に従って深呼吸する。吸って吐いた時、身体の後ろに腕が回った。私が東さんの腕の内側に収まったとき、今度は彼が静かに深呼吸をするのが首筋に過ぎった吐息で伝わってくる。長い深呼吸が終わった時、もっと強い力で抱かれたことに心の底からびっくりする。固まっていた腕が反射的に動いて東さんの体を全力で自分から遠ざける。彼は私の力に逆らわず素直に従うようだった。

 暫時私たちは無言でお互いを見つめ合った。私の上がってしまった息ばかりが静寂の図書室の中でうるさく聞こえてくるような気持ちがする。

「東さん…、あのすみません。」

 そして私は小さな声で彼に謝った。

「私、逃げます。」

 その場から全力で走り出して書架と書架の間から抜け、出口へと一目散に逃げていく。怖いと有名な司書さんが図書室内で全力疾走している私を見て目を見張っているのが横目に分かる。それを構わず廊下へと飛び出してバッタリと会ったのが同隊で学年が一つ下の望だった。

「あらどうしたの。メスゴリラがバナナを盗んで逃げてるの?」
「バナナくらい盗まないで買うよ…!あともし東さんが図書室から今出てきたら私は左に行ったって言ってね!!」

 それだけ言い残して右の方角に折れては走り続ける。…東さんの至近距離で見た整った顔だとか、私の名前を呼ぶ時の唇の動きだとか、抱きしめられた時の腕の生々しい動きだとかが走っている間も思い出されて辛かった。

(なんでこんなことに…!!)


 ―――『晃ちゃん、恋なんてするもんじゃないわよ』


 ああお母さん、本当にその通りだと思います。恋なんてしたって良いことがないのは貴方から充分に教わっています。

 広大な大学の校舎の離れにある喫煙所まで逃げて、私は喘ぐように息を吐いた。

 ……今まで気を許して信頼し合った親しい間柄だったからこそ、恋愛関係になるのは嫌だった。一概に全てそうだとは言えないが、儚くて壊れたら修復できない間柄にはなりたくはない。母と父のように…。





「加古、良いところに」

 図書室を出たところでちょうど加古に出会った東は彼女に声をかける。

「血相を変えた晃がついさっき飛び出していったと思うんだが…」
「…晃?いつからうちの子を気安く名前で呼ぶようになったのかしら。」
「一週間前くらいからかな。それはさておき、彼女の行方を知らないかな。」
「そうねえ、私を信用するなら教えてあげても良いけれども。」

 意味ありげに微笑む加古のことを東は少しの間じっと観察する。彼もまた目を細めて「教えてくれないか。」と促した。

「左よ。まっすぐ左にすごいスピードで駆けて行ったわ。」
「そうか。どうもありがとう。」

 礼を述べて左へと折れていく東の背中を加古は笑顔で見送った。そして彼の姿が見えなくなった後、ふふんと笑みに含みを持たせるのだった。





「個人戦にはしばらく出ないかもしれないなぁ。」
「あ?なんでだよ」

 喫煙所で出会した諏訪くんに、話の流れで個人戦の誘いを受けたので気のない返事をする。当たり前に理由を聞かれるので思わず頭を抱えてしまった。

「なんというか…ボーダー内で会いたくない人がいて」
「お前に会いたくない奴の方が多いと思うぞ、怖ぇから」
「そんな、全然怖くないよ。」
「中身じゃなくてガワの方だよ、表情険しいし何かと厳ついから」
「………。とにかく今はボーダー本部にできるだけ近寄りたくないというか」
「いや無理だろ、給料もらってるんだし。」
「まあそうだよねえ。」

 私は額に手を当てて唸った。ボーダーからの出入りを減らすこともできないし大学も一緒となれば、東さんに会わないわけにはいかないのだ。

「耐えて顔合わすかギスつきをどうにかするしか無いんじゃねえの。」
「別にギスついてるわけじゃないよ…。ただどういう顔して会えばいいか分からないだけで。」
「まさかとは思うが恋愛絡みとか」
「そのまさかだね」
「は!?」

 溜め息混じりに応対しているとスマホが鳴るので、ポケットから取り出して通知画面をぼんやり眺める。メッセージの送り主が今まさに頭を悩ませている人物だと認めて喉の奥がひゅっと鳴った。メッセージの内容はたった一言『忘れもの』と写真画像が一枚。

「と、とりあえず諏訪くん。個人戦の件はまた連絡するよ。」
「いやそんなことどうでも良いから詳しく話せ」
「ごめん、ちょっと急用ができたから行かないと」

 諏訪くんが何か言っているのが耳に触っていくがそれは全く頭に入っていかない。心ここに在らずでとりあえずの別れを告げて来た道へと早足で歩を進めるが、だんだんと気が逸って走り出してしまう。

(私の馬鹿…!!)

 なぜ今の今まで忘れていたのだろう。図書室の窓際の席に置きっぱなしにしてしまった、論文や単位に必要な課題がたんまりと詰まったノートパソコンのことを思い出しては自分を叱咤して走り続けた。





 いつの間にか時刻は夕刻から宵の口と言える時間帯になっていた。
 半分ほど開いたアルミサッシの窓から涼しい夜風が運ばれ、薄いカーテンは弱く翻っている。図書室は夕方から輪にかけて人が減り、目当ての人間はすぐに発見できた。…というのも私が先ほど座っていた席で堂々と私のパソコンのモニタを眺めているからだ。

「晃は文章が硬いな。悪くないんだけれどももう少し読み手が考える余地があった方が良い。」
「は、はい。そうですか…」

 私に気がついた東さんは論文に対する的確なアドバイスを述べる。どっと力が抜ける気持ちがして私は項垂れた。純粋に心労が重なって疲れたのだ。

「それにしても随分悩んでそうな文面だ。言ってくれればいつでも相談にのるぞ。」
「いえ…大丈夫です。」

 論文で悩んでいるのは事実なのでありがたい話だが、今は一刻も早くこの場を去りたいので断る。
 東さんは特に意に介した様子はなく、楽しそうに笑っては私のパソコンをパタンと畳んでこちらに寄越した。

「はい人質。開かれてた画面しか見てないから安心しろ。」
「ひ、人質…。」
「加古に騙されて手間取ったけど、晃が抜けているおかげで助かったよ。」

 パソコンを受け取るために伸ばした手を強い力で掴まれた。そのまま引っ張られては襟元を捕まえられる。…またこの距離に戻ってしまったと苦しい気持ちになった。この、顔同士が触れ合いそうな近すぎる距離に。

「残念。逃げられなかったな、晃。」



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