『付き合わないか』
と言われた時、私はベタな勘違いをしてしまい『はい、どこに行きましょうか』と応えてしまったのである。
だってまるで今までの会話の中に脈略が無かったし、東さんが私にそんなことを言うなんてこれっぽちも予想できなかったから。彼は苦笑いしつつも、いつものように穏やかな口調で私の誤解を正した。それが今から数日前の出来事なのだが……
「も、申し訳ありません。お断りさせていただいたきます。」
私の返事は以上だった。私は東さんのことを見ることができず、頭を下げたままで彼の反応を恐る恐る伺っていた。
肩にそっと触れられるので反射的にピクリと体が震える。頭を上げるように促されるままにすると、起こした顔の真ん前に東さんの整った顔が現れたので息を呑んだ。
(断ったのに何ドキドキしてるんだ私…!!)
自省と申し訳なさで私はいっぱいいっぱいだったが、当の東さんは柔和に微笑んだままである。
「そっか、残念だなぁ。」
ニコリとして彼は言った。
「うーん実に残念だ。」
さほど残念ではなさそうに東さんはうんうんと何かに納得しながら繰り返す。
「あの…ほんとにすみま「菅崎」
名前を急に呼ばれるので昔の癖で「はい」と姿勢を正してしまった。…そうすると東さんはよく面白そうに『もう俺はお前の隊長じゃないんだから。楽にしてくれ』と言ってくれたものである。
「散歩でもしないか?」
「え?」
「お前もボーダーと大学と家の往復しかしてないだろ。たまには外を歩かないと。」
「いや、なんで今」
「2駅くらい先になるけど大きめの公園があったな。どうせなら景色が良いところに行こう。」
(えぇ……!?)
腕を引っ張られるようにしてその場から歩き出す。東さんは上機嫌だった。
(顔が熱い…)
知らないうちに繋がってしまっていた手を見て私は眉を顰める。ああまた怖い顔をしてしまっていると思いつつ、何が何やら分からないまま、私は彼のペースに巻き込まれていった。
*
「はぁ、結構急勾配だな」
「登りきったら自販機があるみたいなので。そこで飲み物を買って休憩しましょう。」
「菅崎は相変わらず体力おばけだ」
脇にあった公園の地図から東さんの方へ向き直ると、数歩後ろでややバテ気味の彼と目が合う。歩くのを手伝うために手を差し伸べると、なぜか彼の笑みが深くなった。
「菅崎は男前だな」
「いえ。そんなことはないですよ。」
「…それもそうかもな」
大きな掌が私の手を優しく包んでいく。先ほどボーダーから連れ出された時とは逆に、今度は私が彼のことを引っ張りながら二人は見晴らしの良い展望台にたどり着いた。
「結構歩きましたね。」
疲れ気味にベンチに座っている東さんに自販機で買った水を差し出すと、彼はまた意味深に微笑んだ。軽い礼と共に受け取られたたミネラルウォーターが飲まれていく様を暫時眺めては隣に座る。少し距離を詰められた。
風が遠くから渡っていく。こんな広々とした景色は久しぶりに見たなと考えながら、目を細めて手前の緑と遠くに見えるビル群を眺める。
「晃」
「はい?」
突如として東さんに名前を呼ばれて素っ頓狂な声で返事をしてしまう。それがおかしかったようで彼は小さく笑った。
「いや、良い名前だなと思って。」
「そうですか。東さんの名前も東さんらしくて良いと思いますけれども。」
「そうかな。どの辺が?」
「春や秋のように穏やかで心地良い人だと思うので。」
「……ふーん。」
喉の奥で笑われたのが何故か気恥ずかしくて、視線を逸らし再び遠くの景色と広い空へと目を向ける。しかし黄昏ていたのも束の間、腕を掴まれるのでまた東さんに向き直ることになる。
「晃」
「は…い。」
「またどこかに行こう。」
「え。」
「今度はもう少し時間を取って遠いところが良いかな。そうだ、良い季節になるし日帰りで行けるところだと…」
「…………。」
東さんの考えていることが全く分からなくて混乱してしまう。厳つい表情になるのを気にせずに眉を顰めると、「こらこら、顔が怖い」と嗜められた。
「元からです。」
「はは、拗ねるなよ。凛々しくて良いなと俺は思うよ。」
「……。どうもありがとうございます。でもどうして急にどこかに行こうかだなんて」
「急かな。今までも色々なところに行ったじゃないか。」
「それはそうですけれども。二人きりではあまり、、」
「付き合ってるんだし良いじゃないか。」
「え?」
瞬間、本能的にぞくりとした危機感を感じる。反射的に東さんから距離を取ろうとすると、腕を掴まれて引き戻される。戻された先、顔の距離があまりにも近かったのに驚いたのか喉の奥でひゅっと音が鳴った。いつの間にか両腕を掴まれて向き合うような姿勢に固定される。
「な、なんで…私、お付き合いは断りしましたよね。」
「そんなことないだろ。」
「そんなことあります…!私、」
「それは残念だな、晃」
「東さん、顔、近くて、、、」
東さんに両腕を掴まれたまま精一杯距離を取ろうとするが、中々それが叶わなかった。付き合いが短くはない彼だが、こんなに話が通じないことは今までなかったと言うのに。
「残念だよ。晃がなかなか素直になってくれなくて。」
「す、素直に?」
「晃」
「はい……。」
吐息が頬を過っていくほど顔と顔の距離が近い。東さんの瞳の奥に切羽詰まった表情の自分の姿が見えるほどだ。もう何が何だか分からなくて、自分の心臓の音がやたら大きくなっていくのだけをただ感じていた。
「誰かと付き合っていたことはあるか」
「無いです。」
「気になったり好きな人は?」
「い、ないです。」
「そうか。じゃあ…そうだな。」
ようやく両腕が解放されるので、ホッと安堵して東さんから少し距離を取る。いつの間にか辺りは薄暗くなっていて、夕焼けが遠いビル群の方で茜色の光を伸ばしていた。
「晃は恋愛に少し抵抗があるんだろうな。どう言う理由かは分からないが。」
―――『晃ちゃん、恋なんてするもんじゃないわよ。』
東さんの言葉で、何故か随分昔の景色がふんわりと記憶の底から浮かび上がった。確か、母だ。私が高校生の時。清められた病院のベッドの上で、やせ細った病める母はうつろに呟いたのだ。
「ゆっくり行こう。」
東さんは微笑んで、私の手を取ってはベンチから体を起こしてくれた。
「帰ろうか。少しボーダーに戻って仕事してから飯を食おう。奢ってやるから」
「いえ。大丈夫です…」
「水。奢ってくれただろ。」
手を握ったまま、まるで自然に彼は歩き出す。私はふわふわした足取りでそれに続いた。
「帰り、待ってるから。先に帰るなよ。」
赤い夕焼けに端正な顔を照らされた東さんが、柔らかいけれども有無を言わさない口調で言う。私はそれに従ってただ頷くことしかできなかった。
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