骨の在処は海の底 | ナノ
 光の螺旋

 光、



 ようやく見えた煌めきを水上から見上げて、胸の内で呟いた。

 大量の海水を巻き上げて、白い鯨は海上にその巨体を浮上させる。

 運ばれてくる風は硝子のように冷たくて、塵ひとつなく澄んでいた。それを身体いっぱいに吸い込み、彼女は幾許ぶりかの呼吸をした。


 しんとした海面に沿って、白い光が細く走っている。

 小波が立ち、それを受けた峰ひとつずつの面が夜明けらしく金紫色に輝いた。水平線の上を南に長く、寒々と。

 長い睫毛を頂いた瞳を伏せて、彼女は暫しの光…暫しの空、緑、風のざわめき、鳥の鳴き声を全身で感じ取る。


 -----------------呼吸のために水底から海上へと泳ぐ体力を失くした時、鯨はゆっくりと沈みながら窒息して死ぬらしい。

 こうして泳ぎ続けられるうちは、光を目指して空の下へと泳ぐことが出来るうちは生きていけるのだ。それを彼女は知っていた。


 だから死んではならない、どうしても死んではならないと胸の内で繰り返す。

 生きることがどんなに苦しくとも、死んでしまうよりはよっぽどマシなのだから。

 じっと耐えているより致し方ない。生き抜くなどと偉そうなことを言うつもりはないが、ただじっと耐えることだ。

 もしかしたら報われるかもしれないのだから。いつかは、愛してもらえるのかも分からないのだから………










 ヨゼファは目覚め、そして自分を眠りの浅瀬から引き上げた声の方へ首を回す。


「セブルス、」


 囁き、半身を起き上げて隣に眠る彼のことを見下ろした。

 ……魘されている。その苦しみによって、時折唇の端からは言葉をなさない音が漏れていた。

 ヨゼファはスネイプの辛そうな様子に眉を下げては、もう一度名前を呼んで起こしてやろうとする。

 だが彼は未だ夢の中に囚われたままで、額には汗が滲んでいるのが見て取れた。ヨゼファは指先でそれを拭っては呼びかけを繰り返す。


 名前を呼んでも自分の声は届かないようなので、肩を揺らしてみようかと、そろり掌をその方へ伸ばす。触れてみれば、スネイプは薄い唇を緩く開けて息遣いをゆっくりとさせた。

 意識はまだ睡眠下のようだが、汗ばんだ掌がヨゼファの指先を握る。「大丈夫よ」安心させるために囁き、空いている方の手で緩く髪を撫でた。


 スネイプの呼吸が落ち着いてくるのが分かって、ヨゼファは優しい気持ちになる。微笑み、再び彼の隣に身体を横たえる前に頬にキスを贈ろうと背を丸めて顔を近付けた。

 先ほどより幾分か表情が和らいでいたスネイプはやはり目を覚まさないようだが、朧げにヨゼファの気配を感じとるらしい。背に腕を回してきては深く呼吸するので、吐き出された息遣いが弱く頬をかすめた。


 その吐息に混ざり、彼女・・を呼ぶ言葉が浮かび上がるのを、ヨゼファは聞いた。


 ほとんど触れるほどの距離だった顔をそれ以上近付けることはせず、ヨゼファはその姿勢のまま空間に縫い付けられたかのように動かずにいた。

 数回瞬きをして、身体を起こす。そして隣に眠る愛しい人間をじっと見下ろした。

 ぼんやりとしていた頭は完全に覚醒していた。

 やがてスネイプはまた辛苦の眠りの世界に引き戻されるらしく、再び表情を険しくする。


 二人が息衝く夜の背景には時計の秒針の音が規則的に鳴っていた。


 ほんの少しの間に出来事だったが、ヨゼファにはそれがひどく長い時間に感じられた。

 首筋や背中に新しく出来ていた傷痕が齎らす痛みが妙に鋭く、重たい荷物のように肉体にのしかかってくるような…そんな気持ちがする。


 一際スネイプが苦しみに喘いだ声にハッとしてヨゼファは我に返った。だが起こすことに躊躇する。まなこを開いた彼が望む人間でない者を認めた時、そこに浮き上がるものを見るのが恐ろしかったのだ。


(……………………。)


 頭を弱く横に振り、ヨゼファはスネイプの肩へと手を伸ばす。触れながら「セブルス、」耳元で呼びかけると、緊張していた彼の身体から少しずつ力が抜けていくのが分かった。

 その意識が緩やかに現実へと戻ってきたことを理解して、ヨゼファはゆっくりと身体を起こす。

 薄く瞳を開けていたスネイプは、ヨゼファのことをぼんやりと眺める。緩慢に掌を伸ばされるので、今度はこちらから握った。

 夢の気配を残していた彼の瞳の焦点が定まり、今一度こちらを見上げる。黒色の瞳の中には明かり取りの窓から差し込む月光が弱く光っていた。

 子供のように無垢な色をした瞳の中に、悲しい焔が宿っている。ヨゼファは目を細めて、微笑む。ごめんね、と胸の内で一度謝った。


「魘されていたわ…、」


 何も知らぬふりをして、大丈夫?怖い夢を見た?と気遣いの言葉をかける。スネイプは何も返さなかった。

 握っていた掌を離して、ヨゼファはそのままベッドから起き上がる。その際に、シーツが生傷に触ってヒリヒリと痛かった。


 一度離した手を、後ろから再び捕まえられる。振り向き、「どうしたの」と尋ねた。


「どこへ行くつもりだ」

「そうね…、少し、…………散歩でもと思って。」

「………………。そんなものは…、日が昇ってからでもできる。」


 ヨゼファは床に落ちてしまっていた自身のネグリジェを空いている手で拾い上げては「そうかしら、」とやんわりと返答を行う。


 再びスネイプへと向き直り、その黒い瞳をじっと見つめる。雲が掃けたらしく、明るい月光が地下に据えられた彼の寝室へと一筋投げ込まれた。

 その明かりを直接受けるヨゼファとスネイプの間には、光と闇の境界線がうっすらと浮かび上がっている。


「それとも…。貴方も、一緒に来る?」


 囁いて、弱く笑う。変わらず二人は見つめ合ったままだが、暫時互いに口を噤んではお互いの出方を伺っていた。

 やがてヨゼファは溜め息をして、笑顔をくしゃりと崩す。


「そうね。きっと明るくなってからの方が散歩は気持ち良いわ。」


 そう言っては、月明かりの下を離れてスネイプの手に引かれるまま…暗がりに沈むベッドに腰掛けた。


「セブルス、水を飲んでおいた方が良いわよ。汗をかいていたから。」


 いつもの調子を取り戻し、ヨゼファは穏やかな声色で言う。サイドテーブルに置かれていた水差しとコップを手元に引き寄せつつ、傷を隠すためにネグリジェを羽織った。


「ヨゼファ、」


 掠れた声で名前を呼ばれる。目を伏せてその方を見れば、少しの間視線での応酬が交わされた。

 暫時して彼女は頷き…、望まれるように自身の唇を介してスネイプに水を与える。

 彼のかさついた薄い唇がやがて湿り気を帯び、時折舌先でこちらの唇をゆらゆらと舐め上げる。頸の辺りに掌が回ってくるのを感覚した。


 強請られるままに与えることが、少しばかり辛い夜だった。

 けれども(ああ、)コップ一杯分の温い水と、愛情を示す短い言葉と。

 結局のところ、そんなものくらいしか彼へ贈るものを自分は持っていない。

 だから差し出された舌を掬うように口付けをして、最中にゆっくりゆっくりと髪を撫でる。


 …………嘆息して、自然と身体を寄せて来るスネイプを胸の内へと招き入れ、身体を抱き寄せる。


「…愛しているわ。」


 貴方を、


 返事がなされない告白を今夜も繰り返し、彼が穏やかな眠りの中へと落ち込んで行くのを薄いネグリジェ越しに感じ取る。


「おやすみなさい…」


 だがヨゼファは少しも眠るつもりにはなれず、ぼんやりと中空を見上げていた。いつの間にかまた雲が出てきたのか、月の光は影って室内は色濃い青色の暗闇に満たされている。


(…………………。)


 ヨゼファは…こんなに深夜に時々、自分の皮膚と夜の空気の境目が分からないことがあった。

 まるで自分が(お前など)闇の中に溶けていくような、世界から消えていくような。初めから存在しなかったような…ここにいるのかいないのか(いてもいなくても)どこにいるのか(同じよ)よく分からなくなる、そんな感覚を。


 すぐ傍に、誰かが立っているのを気配で感じた。

 深い青色の瞳でこちらを見下ろす少女はヨゼファ自身だった。母親と同じ色をした瞳を細めて、『ねえ、』と呼びかけて来る。


『やっぱり、生まれてこない方が良かった?』

(そんなことはないわ。)


 スネイプを抱く力を強くして、ヨゼファは胸の内で少女へと即座に答えた。


『本当に?』

(本当よ。)

『生きていればいつか、私も幸せになれる?』

(もちろん、何も心配いらないわ。)

『貴方は今幸せなの。』

(ええ、幸せよ…。)


『嘘つき』


 磨りガラスの向こうから聞こえるようにくぐもっていたその声が、氷のように冷たくヨゼファの頭の中で響いた。


 長い、灰色の髪が月明かりの中で光る。


 風に弱く揺らされた鈍色の重たい髪が肉体にまとわりつく。

 湖畔の冷たい風を受けながら、それでも構うことなくヨゼファはそこに立っていた。

 曇り空。この髪の色と同じ泣き出しそうな色の空が頭上に低く垂れ込めている。


(…………………………。)


 息苦しくて胸元を抑えた。

 急成長した肉体は重たく、きつくなった制服を乳房の肉が押し上げている。ここ最近はいつもこうだ、段階を踏まず自分でさえ驚くほど唐突に女となった身体には不自由しか感じない。

 湖畔、水面には自分の姿が映っていた。それをひどくグロテスクなものに感じて、かき消すために拾い上げた石を投げ入れる。


 長い髪は風に煽られてもつれ合う。いい加減鬱陶しくなり、ヨゼファは眉根を寄せてはそれをかきあげた。


 先ほどからずっと左手首の内側が痛い。自分の身体に刻まれている印のことをまざまざと思い出して、ヨゼファは静かに発狂していくような心持ちとなった。

 ゆっくりと頭をかかえる。


 消えてしまいたい、


 幼い頃から繰り返していた言葉を呟いては大きく息を吸い込んだ。


「私は、」


 長い髪が、掠れた声をかき消すようにぶわりと冷たい空気の中に広がる。

 その中、疎らな黒色が混ざり込む。インクが紙に染みていくように緩やかに確実に。


 左右の瞳孔の色を違えた自分が鏡の中からこちらを見ている。

 満身創痍で辛苦の耐え難きを耐えて涙を流す自分が。つい先ほどまで、その巨大な鏡の中に望みを…自分の家族を、自分の子供の幻を見ていたヨゼファが鏡面に爪を立てている。


 消えてしまいたい、


 やはり彼女も同じ言葉を口にした。


 生まれてこなければ良かった


 心底思って、気持ちを吐き出す。



(誰か、)



 息ができない苦しみから周囲に漂う水に爪を立て、酸素を求めて掻き毟る。

 ヨゼファが目を覚ましたのは終わらない悪夢の中だった。

 深く黒い水の底に沈んだままの彼女は、弱い光を覚えてその方を見る。少しの間見つめれば、とても懐かしく悲しい気持ちになって胸が痛かった。


 緩慢に手を伸ばした。

 しかしすぐに力尽きて、やめる。


(疲れた)


 その方…光を目指して泳ぎ、呼吸するために水面に至ることができれば、自分はまだ生き永らえることができるのかもしれない。

 だがそれを行う力は残されていなかった。瞳を再び閉じれば、自身の魂が一層深く沈んでいくのを感じることができる。


『嘘つき』


 その通りだった。

 この嘘と偽りにみちた自分自身をもう生きたいとは思わない。


(誰か…、)


 そうして彼女の精神は再び黒い悪夢から悪夢を巡る旅へと引き戻される。


(誰か)


(誰か私を)


(セブルス)


 言葉にはならなかった。

 誰にも聞き届けられない声が、水底に幾重にも沈んでいく。










「また明日来る」

 そう言って中空に吊り上げられたガラスの鉢へと別れを告げるようになって、幾日が経過したのだろうか。


 少しの間、スネイプは肌色の肉塊のことを目を細めて眺めた。もちろんのこと、返事などなされない。

 だが…ガラスの鉢の表面を暫くの間撫でて…掌を返し、手の甲、指でまた少しの間触れ続ける。


「ヨゼファ。……、何か…欲しいものが、」


 湿気と暗がりが満ちた石造りの室内で彼女に声をかけるが、それはどこか滑稽なことにも思えた。


「ぁ……、欲しいものが、あったりはしないだろうか。」


 そうやって自分自身を俯瞰して馬鹿だと見下す自分と、それでもヨゼファの成れの果ての元に通いつめずにはいられない愚かな自分がいる。


「こんなところでは退屈だろう…。何が欲しい…?本か、それとも新聞の方が良いのだろうか、、」


 ボソボソと言葉を続けるが、ヨゼファが何を喜んでくれるのか、ぴたりと言い当てることは出来ていなさそうだった。

 分からない。一体何が……、彼女を、この世界に繋ぎ留めることが出来るのだろうか。


「君が自分の私物をほとんど処分したからだ。」


 なぜ、どうして と尋ねる。

 傍目には大事にしているように思えた様々なものが無くなっていた。本当は、大して大切でもなかったのだろうか。


(………自分を演じていると言っていた)


「だが、全てが嘘とはどうか言わないでくれ……」


 両掌で分厚いガラス越しにヨゼファに触れる。


「愛しているんだろう、愛してくれていたじゃないか、」


 違ったのか、


 ヨゼファは答えなかった。

 だがそれでも、また来る、また明日来る、と再び先ほどと同じことを言う。

 こんな薄暗く、狭くて寒い場所に、ヨゼファを一人きりにしてしまうことは耐え難かったからだ。







 その石造りの部屋の片隅には、埃と蜘蛛の巣に埋もれていた机があった。

 スネイプは持参した鞄型のレコーダーを机上に置き、蓋を開いて黒い円盤をセットする。一通りを慣れてこなせるようになった動作を流れで行い、回り出した盤面に針を落とした。


 ブツブツと音が飛ぶのが静寂に響いた後、低いヴィオラの音色がささやかに運ばれてきた。

 スネイプはなんの感慨も持たずに、ただただぼうっとして旋律に乗せられいく低く甘い女性の歌声を聴いた。

 中東の伝統的な唄を基にして作られたものだとレコードのジャケットには書かれていた。スネイプは行ったこともない中東の…見知らぬ景色を頭の中に思い浮かべる。


 私について来なさい 光り輝く海を渡り

 私たちの知るこの世界の彼方で 待っている国へと

 夢見たことさえ無い世界が、味わったことの無い喜びが待っている国へと……



 少しの後、背後のガラスの鉢の方をチラと見やる。……別段の変化はなかった。予想の範囲内ではあったが、気落ちする。


 心労で疲弊しきっていたスネイプは、弱く溜め息をして水底に沈んだヨゼファへと近付く。自分の靴音の背景では、かさついた音質の…古びた写真のように寂しく懐かしい歌声が続いていた。

 ガラスの表面に掌で触れながら、「駄目か」と呟く。


「どうしたら戻ってきてくれる……?」


 懐中から、いつも持ち歩いている彼女の左手を取り出した。繋ぐようにして握ったまま、ガラス鉢の縁に乗せた両腕上に頭を乗せて突っ伏す。

 ガラスの鉢のひやりとした感覚が心地よくて瞼を下ろす。ヨゼファを思い出す冷たさだった。抱かれているように錯覚をして溜め息をすれば力が抜けて、彼女の手を握ったままの片腕が鉢の中、水中へと落ちていく。


「……一人にしないと言っていたのに。」


 ほとんど吐息のような声で囁く。


「嘘つき……」


 嘘など…嘘つきなどではないと…もちろん分かっていた。

 約束を反故にされたことなどなかった。そうして今回も、彼女は自分との約束を守って逝ってしまったのだ。



 私について来なさい 愛だけが見ることのできる道を通って

 歳月を重ねた夜の喜びよりも高みへ昇るその道を

 決別の涙も及ばず、費してきた歳月も及ばぬ、光の中へと




 自分自身を演じていたとはいえ。贖罪のための仮初の姿だっとはいえ…やはりヨゼファが自分に向ける愛情は本当のものだったと…思う。


(信じることだけが、誠意なのかもしれない)


 背後、レコーダーから流れ出る低く抑揚のない女性の歌声は少しヨゼファを思い起こさせた。だが、彼女の声ではない。あれは歌の類はひどく下手くそだったからだ。



(……………。母親のように思っていた)


 彼女の子どもに生まれてみたかったと、考えたことが何回かある。


(だが子どもに生まれてしまっては君に触れることができない)


 思わず、水中でその手を握る力を強くした。

 今まで、彼女以外の女性と肉体関係を持つことはあるにはあった。

 異なる点は様々にあるが、そのうち印象的だったのは…ヨゼファは嬌声のような類をあまり口にしないことだった。だからその呼吸を注意深く聞かなくては、微かな表情の変化に気が付かなくては何をどう感じているのかを知ることが出来ない。

 静かに、ひそやかに抱かれていたものだと考える。

 じれったいほど丁寧な愛撫のことはよくよく思い出す。冷えた風が吹く深い夜、なんとなく肉体の一箇所に手を触れていたくなるようなこの季節には。


「誰でも良かったわけではない…。君が私の特別なら、私もまた特別でありたいと思うのは…普通のことだ、」


 まるで水の底に引き込まれていくように、そのまま腕がガラスの瓶の中へと潜っていく。袖がしとどに濡らされることは別段気にならなかった。


「なんせ君は誰に対してもとても優しい先生・・だ、他とは違う形で愛情を示してもらわなくては」


 呼吸音と同じような囁き声ながら、自分が段々と早口になるのが分かる。肉体の奥が熱を持つ。抱いて欲しいと常に切に考えていたが今はひとしおだった。我慢が出来そうにない。


「君を抱いたことがあるのは私だけだ、、……ベッドの中では、少しの弱気や、真実に近い気持ちもっ…聞かせてくれたじゃないか」


 優しく、おおらかで、母性を感じさせる…そういったよく知られている面とは異なる彼女のことだって知っているつもりである。

 自分と同じように人間的で、不器用で、愚直で、どこか子供らしい。

 そういうところこそ・・が良かったのだ、不完全だからこそ、互いに補い合う共犯者となる必要があった。


「誰でも良かったわけではない、」


『私にとって、お前はヨゼファでなくても別に構わなかった・・・・・・・・。』


 昔言い放った言葉によって与えたであろう痛みを侘びたくて、繰り返して同じことを口にする。


「だからお願い、ヨゼファ」


 鉢から溢れた水なのか、自分の体液なのか分からない液体で顔面を汚して囁く。髪もすっかり濡れていた。縺れて顔面にまとわりついてくる。



「帰ってきてくれ…」



 指先が潰れるような痛みに、引きつった音が口をついて出る。

 鉢の底に沈めたままだった片手を咄嗟に引き上げた。その先、指先が、爪が真っ白になるほどの力を加えてスネイプの手を握り潰していたヨゼファの左手が伴って現れる。

 その掌は獲物に噛み付いた狼のようにスネイプを掴んだまま離そうとはしない。何が起こっているのか分からず反射的に悲鳴を上げた、掌だけの存在だった彼女の先に腕が続いている。水が張られたガラスの鉢が大きく傾いた。
 
 室内に蟠る暗闇が逆巻いて烈しい呼吸音が響く。重苦しい辺りの静寂を粉砕する如くの音ともに、揺り籠のようにゆらゆらと中空に浮かんでいたガラスの鉢は鎖を千切って石床に落下した。中に詰まっていた水は溢れ返り雪崩出して四散するのでスネイプもまた多量の水を被って全身を濡らされた。


 残響が終わってもまだ耳の傍でガラスが砕け散る音が響いてるような気持ちがする。

 やがて再び静寂が辺りに忍び寄る中、歌声が薄く耳に触った。レコーダーからは音楽が流れ続けている。不安定な回転のレコードの上、針によって掻き出された音の羅列の中。優しい夜に似て柔らかい女性の歌声が続いていた。


「そうか、」


 更に遠くから、複数人の足音が聞こえる。興奮しているのか混乱しているのか彼らの歩みは乱れ、交わす言葉の語調は強い。


「呼べばどこからでも帰ってくると…帰ってきてくれると、確かに君は言っていたな」


 一気に緊迫した辺りの空気の中、場違いにスネイプはぼんやりとした口調で呟いた。

 扉が開き、魔法省の役員たちが杖先に灯した強い光によって石部屋の中が照らされる。魔女のうち一人が目にした出来事のショックから悲鳴を上げた。

 スネイプは彼らの存在などさして気にもならず、まるでいないもののように無視して、自分の腕の中で静かに眠っている彼女のことを見下ろしていた。まだ、掌は…強い力で握り締められている。


「私のヒーローだ、」


 濡れそぼった灰色の髪を耳にかけ顔を露わにして、そこに見た光景に彼は小さく息を呑んだ。

 しかしすぐに弱く笑い、「大した問題ではない」と穏やかな気持ちで呟く。


 ヨゼファ、


 名前を呼ぶ。

 返事はない。

 幾許かぶりにその濡れた肢体を抱き起こして抱擁した。彼女はそれでも瞼を下ろしてたままだったが、呼吸の度にその肉体は微かに膨らむのである……。







 光、


 空気の塊を吐き出して、彼女は暗闇の中で瞼を開いた。


 ……………………。


 しばらく…ヨゼファは、自分の身に何が起こっているのか、どこにいるのか、自分が何者なのかすらも理解が及ばずにぼんやりとしていた。

 どこかに寝かされているらしい。視線の先の天井には頼りない光を零すランプが吊るされていた。その灯を頼ってか、青色の蝶がふらふらと飛んでいる。


 ただただぼうっとして何もする気も起きずに蝶の動きを目で追っていた。


 少し、手を動かそうとするが全く動かない。指は動くのに手首が縫い付けられてしまったかのようにびくりとも持ち上がらなかった。

 違和感を覚えてその方向へ視線を寄越す。変に視界が狭く、それを行うことが些か困難であった。

 手首には五重に金属の枷が回り、それがびくりとも動かずヨゼファを拘束していた。留置所かアズカバンにでもいるのだろうか…と彼女は考えた。よくよく見覚えがある、大層に厳重な類の拘束具である。

 どうしたものだろうかと彼女は再び天井の灯へと視線を戻す。青い蝶は既に視線の先から消えていた。どこかに抜け穴でもあるのか、ヨゼファは暗闇の中で眼を凝らしてそれを見つけようとする。


 胸部に軽い衝撃を覚える。

 何かがそこに落ちてきたのだ。見れば、細く粗末な作りの白木の杖が…紛れもなくヨゼファの杖が胸の上にあった。


(………………………。)


 パチリと瞬きをして、だがとにかくそれを掌中へと呼び寄せては…手首を拘束する枷を解錠した。

 半身を起き上げて、同様に足首を咥え込んでいた枷を素手で取り去る。それは傍目には飴細工のように脆く簡単に破壊された。


 身体が自由になったヨゼファは、それでいてなお動かずに半身を起き上げたままで粗末なベッドの上に留まっていた。

 夜に浸された室内の暗闇の中、重たい泡が鈍く潰れる音する。壁面に、黒い陰の魚がぼんやりとその巨体を現しては滑らかに鱗を動かして過っていった。その動きを横目で追って、彼女はひとつ溜め息をした。


「……。帰らなくちゃ」


 呟き、彼女はようやく地面に足をつけて立ち上がった。裸足に痛いほどよく冷えた石の床が触っていく。

 部屋の中を観察すると、アズカバンに護送される前に軟禁されていた留置所と同じ造りであることが分かった。

 目に見える類の扉はない。それは然るべき取り調べの時にしか現れないのだ。そして…小さな明り取りの窓がある。鉄格子でしっかりと縁取られ、破壊魔法の類は勿論通用しない。


 ヨゼファは便器の向こうに見える手洗い場の方へ至り、蛇口を捻って顔を洗った。そのまま前髪をかき上げ、目前にあった割れた鏡の中を見る。


「ふーん…。良いじゃない。ハロウィンの時、メイクいらずで済むわね。」


 大した感慨も抱かず、微かな月明かりに照らされた自分の右顔面に指先で触れた。触れた指もまた同様に…恐らく、黒い魔法陣が刻まれていた肉体の皮膚全てがひどく・・・痕になっているのだろう。瞳に赤色を帯びてしまっていた右目は潰れていた。道理で視界が狭いわけである。

 だが左目は青色だった。髪の色も白に近い淡い灰色である。自身が生まれ持った色そのものだった。


 ヨゼファは灯り取りの窓の傍に至り、凍て付いた鉄格子を両掌でやんわりと握っては頬を寄せる。

 冷たさに感じ入って嘆息した後、ゆっくりと顔を上げ鉄の格子を横へと広げていく。足の枷と同様、それは暖かい場所に置かれていたキャンディーのように簡単に曲がって、ヨゼファが捕らえられた独房と夜空とを繋げていく。

 鉄屑と化した鉄格子を床へと投げ捨て、窓枠に腰掛けたヨゼファは夜空を仰ぐ。

 寒い夜である。

 空の天辺は凍てついて冷たく硬質で、まるで鋼のようだった。そして、空には星が満杯だ。

 なぜか星屑の光が滲んで見える。古い写真絵のように…雨漏りした紙のようにぼんやりとして、よく見ることが出来なかった。

 ヨゼファは肌寒さを感じて、着ていた服の襟をそっと引き寄せる。囚人が着るものではなく、病院の患者が着用するような楽な衣服だった。夜風に煽られると、白い布地がさらさらと棚引いた。帰らなくちゃ、彼女は無意識に同じ言葉を繰り返す。


「あれ………、」


 しかし何かに気がついたように、続けて呟く。


「でも私、どこに帰れば良いのかしら」


 ヨゼファは残された左目の瞼をそっと下ろした。

 そうして真っ青な夜空に身体を預けて真っ直ぐに落下していく。


 夢のような夜だった。

 街にうずくまった建物の窓ひとつひとつが細かい星の煌めきに照らされて、坂の上の林が影をうすく投げていた。

 ヨゼファは落ちながら白い息を吹き、開いた目を今一度閉じる。瞼越しにも星灯りを覚えてしまい、少し、眩し過ぎた。



 私に…、私について来なさい この高い山の向こうの遠い国へと

 そこでは私たちがいつも心に持っていた音楽の全てが 空を満たすでしょう

 そして世界は周り 回り続け、

 廻って 落ちてゆくのです……



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