骨の在処は海の底 | ナノ
 旅人

 思い出されるヨゼファとの時間は、ほとんどが夜だった。

 お互いに…日中取り繕っているものが無くなって自然に会話ができたからだろうか。ヨゼファは幾分か口数が減り、反対に自分はいつもよりは喋っていたような、そんな心待ちがした。



 
「自分には聞くなって言う癖に。私には質問するのね?」


 ヨゼファはこちらに背を向けたままスネイプへと可笑しそうに応答する。

 浴室にはゆるく湯気が満たされ、青いタイルが濡れて孔雀色に光っていた。

 彼女は膝をつき、とっぷりと湯で満たされつつあった浴槽に瓶詰めの液体を注ぐ。そして様子を見るように片手で湯船を軽くかき混ぜた。


「何をしている」


 尋ねると、「良い匂いにしてるのよ…」と返される。

 奇妙な色の液体が満ちたボトルを、洗髪剤や石鹸液だのが置かれている棚へと彼女は戻した。極力…それをこちらの目に触れさせないようにしていたのか。

 だが薬物や薬草ハーブに造詣が深いスネイプは、彼女が傷を癒すための薬湯を作っているのだと、漂う香りと一瞬垣間見えた薬水の色から察することができた。


 ヨゼファはようやくこちらへと微笑って振り向くが、スネイプの格好を認めては少し眉を下げて困ったようにする。


「目の保養をどうもありがとう。でも、風邪を引くからベッドに戻った方が良いんじゃないの。」


 そう言って立ち上がり、彼を寝室の方に誘うためその裸の肩を抱き寄せる。

 抱かれるままにするが、促されて歩き出すことはしなかった。彼女は些か不思議そうにこちらを見た。ごく近い距離で二人の視線が互いを認め合う。


 手を伸ばして、ヨゼファの白いネグリジェの前を留めている帯の端を引いて解く。呆気なく肉体が顕になるのを留めるため、彼女は「もう…」と呟いては離れていこうとする襟を軽く両手で合わせた。なにか?と片眉を上げて尋ねると、恥ずかしいのよ少し。と苦笑とともに返された。


「今更?」

「いつになってもよ。好きな人の前ではね…。」


 裸に羽織っただけのネグリジェの襟を抑えていた彼女の両掌を、上から握る。握られた掌をそろそろと解けば、大して抵抗せずにヨゼファは従った。

 白いネグリジェとほとんど色が変わらないほどに不健康な色をした彼女の乳房に軽く唇を付ける。ヨゼファが深く呼吸をするのが、胸が上下するのに伴って伝わってきた。

 片手には余るその…柔らかな感触を確かめるように指を沈み込ませ、指の先で乳頭に触れる。情事の余韻が残る彼女の肉体はすぐに反応を示した。

 ヨゼファは額に掌を当て、参った、とでも言うように溜め息をする。こちらを向くように視線で訴えれば、彼女は応えて弱々しく笑った。
 

 その肉体と希薄な生地のネグリジェの間に指を差し込み、薄皮を剥ぐように取り去って、青いタイルの床上に落とす。
 
 生まれたままの姿で二人は少しの間見つめ合うが、すぐにヨゼファは目を逸らした。スネイプが口を開く前に、彼女は「ごめん、」と謝る。


「やっぱり…その。少し恥ずかしいのよ、ここは明るいし……」


 ヨゼファが顔を伏せるので、髪の間から見え隠れする赤い耳だとか…その首筋に浮かぶ噛傷の痕だとかをはっきりと認めることができた。

 指の腹で生傷に触れば、彼女の肉体が反射的に震える。


「痛かったか」


 ポツリと尋ねた声が浴室の中でよく響いた。ヨゼファは苦笑するだけで何かを応えることはしない。

 彼女の背中に腕を回す。やはりそこにも引き摺った爪痕に所以する傷痕が多くあったので、ヨゼファは苦痛を堪えきれずに小さく声を上げた。膝の裏に空いている方の手を入れて抱き上げると、続けて驚きの声。こちらの方がよほど大きかった。


「お、重いから、やめた方が良いわよ…」


 ヨゼファは戸惑いを隠さない表情でぼやく。

 別に重くはない、と返そうとするが……、少し考えてから「確かに重い、腕が折れそうだ。」と応えた。


「じゃあやめたら良いんじゃないの。」


 彼女は呆れを声に滲ませるが、捕まっていろ、と促すと素直に首へと腕を回してくる。

 伴って、しっとりとした皮膚がより近しく密着する感覚に弱く息を吐いた。


 薬湯の中に二人で肉体を沈めて彼女の身体を後ろから抱え込む。頸や背中に刻まれた傷を改めて観察しながら、痛そうだ、と他人事のようにぼんやり考えた。


 淡い緑色の薬湯を手ですくい、その傷跡に注いでやる。ヨゼファはふう、と嘆息をしてから微かな声で礼を述べてきた。


* * *


 スネイプの脚の間に座るヨゼファは彼の肉体に背中を預け、すっかりとリラックスした様子だった。呼吸もゆっくりとしていて、このまま眠ってしまいそうである。

 しかしふと何かを思い出したらしく、彼の肩に後頭部をのせながら「ああ、そうだ」と呟く。


 ヒュと軽い音がして、彼女の手の内に脱衣所から杖が引き寄せられた。エクスペクトパトローナム、と簡単に唱えて、平素より幾分も小振りなその守護霊を出現させる。


「最初はね。ずっとこれくらいの大きさだったのよ…だからイルカかと思ってた。」

「……最初。」

「さっき聞いてきたでしょう。初めて私が自分の守護霊と出会った時のことを。」


 ヨゼファは粗末な細い杖を中空に浮かべて元の場所へと戻していく。クジラの姿をした守護霊は浴室の天井近くをゆったりと泳ぐままにされていた。


「……………。犬が、死んでしまった時よ。ムクムクした毛を持った大きくて優しい白い犬。私が生まれる前から一緒で、唯一の友達だったの。」


 ヨゼファは寝返りするように身体を斜めにして、スネイプの首筋に顔を埋めた。珍しく甘えてくるような仕草に目を細め、その身体に腕を回して抱き寄せてやる。


「守護霊だなんて知らない小さな頃だったから、私の妄想だとばかり思ってたけれどね。でも構わなかった、私は友達が欲しくて、自分の魂の一部の具現化させただけなんだわ……」


 ほとんど囁き声の彼女の言葉を聞きながら、スネイプは水滴が溜まった天井を眺めていた。

 その視線の合間を縫うように白い鯨が静かに空間を泳いでいる。眺めながら、自身の守護霊である雌鹿を初めて認めた日のことを思い出していた。考えるほどに悲しくて、満たされていたその瞬間を……










 白い犬…ムクムクとした毛を持った大きな白い犬が、スネイプの前方を歩いていた。それに従うように、彼もまたなんとはなしに歩を進めている。


 やがて白い犬はこちらを振り返る。黒目がちな大きな瞳は笑っているような形をしていた。そういった犬種なのだろうか。


 見つめ合い、スネイプは幾度か瞬きをする。再びその方を見据えた時、白い犬の姿はそこには認められなかった。


 代わりに不健康に痩せて、不健康に背が高い男が一人。

 人の良さそうな笑みを浮かべ、少し首を傾げては「初めまして」と挨拶をされる。


 スネイプが何も返さずにいると、男は愛想が混ざった笑みを深くして、アハハ、と言ったような情けない笑い方をする。


 スネイプは彼を無視して辺りの景色を見回した。(白い、)そう考える。どこかの駅のプラットホームのようだが、列車がやってくる気配は希薄だった。


「大丈夫ですよ、もう少ししたら列車が来ますから。それで貴方は帰ることができます。」


 彼には何故か、スネイプの考えが分かるようである。


「……失礼ですが、イギリスの方ではありませんな。」


 男性から少し距離を取ってプラットホームに並び、横目でその方を見ながら言う。

 彼は少し驚いたようにするが、「ええ、」と応えた。


「よく分かりましたね。もうこっちに住んでかなりの年数になるのに。」

「知人に混血ハーフがいるので。……お生まれは…。フランスでしょう。」


 きっとそうに違いない、ほとんど独り言のように囁くスネイプに対して、彼は「そうですよ。」と愛想良く返した。


「貴方のお名前を聞かせてもらっても良いですか?僕はヨハンネス・ルブラン…いえ、貴方たちの国の言葉で言うとジョン・ルブランですね。」


 よろしく、と握手のための手を差し出されるので、弱く握る。柔和な物腰や印象に伴わずその掌はぞくりと冷たかった。

「セブルス・スネイプ」

 と、自分の名前を口にしながら、ああやはり…と彼は考えていた。そして思い出していた。ヨゼファと再会した、初めて彼女を認識した時の、同様にぞっと冷たかった握手のことを。


 なるほど、スネイプさん。と彼は目尻をくしゃりとさせて嬉しそうにその名前を繰り返すが、やがて、スネイプさん?と訝しそうにしてこちらを見下ろす。


「ひどく辛そうだ。大丈夫ですか。」

「……………………。」

「………。もし良ければ、座って話をしませんか。何分僕はみっともなく背丈があるでしょう、立っていると人と視線を合わせることが難しい。」


 そう言って、榛色の髪を持つ男は周囲の景色同様に真っ白なベンチの方へと歩き出す。振り返ってついてくるように促されるので従った。誰とも素性の知れない男性だったが、何故か彼には素直に従う気持ちになれた。


 少し間隔を取って隣に腰掛けた男を見詰めながら…、スネイプはその顔を絵画的だと思った。生気が全く感じられない。皮膚は汚れた木炭紙の青白さだ。最早その茅色の眉や髪さえも、スネイプにとっては色彩としての働きを持つだけである。


「…………、、分からないのです。」


 そして間もなく、スネイプは溜息に似た声色で言った。

 ルブランは片眉を上げてから少し首を傾げた。しかし訝しがるというよりは不思議そうな表情である。彼は口を挟むことなく、視線だけで続きを促した。


「正解が…まるで分からない。」

「…………。正解が…」


 ルブランは痩せて棒のような脚を組み、スネイプの言葉をそのまま短く繰り返す。


「今……、想っている人間がいるのです。…しかし、やはり、愛することが難しい…ひどく。」


 互いに距離を置きながらも同じベンチに腰掛けていたルブランは、スネイプの散漫な言葉に耳を傾けながら髪色と同じく薄い茶色の瞳をゆっくりと瞬きさせる。

 彼に、何故これを話すのかスネイプには分からなかった。だが誰かに聞いてもらいたかった。誰でも良いわけではないが。


「そうですか、」


 恐らくスネイプの足りない言葉では、初めて会ったルブランに言わんとしていることを伝えるのは難しいだろう。だが彼は特に真意を訪ねることはなく、ただ静かに相槌を打つ。


「でもそれは、どうしてでしょう。」

「………………。」

「……、失礼しました。良いんですよ、言葉にできないことの方がよっぽど多いから。無理に答えなくても。」

「好きな女性ひとが、」


 ルブランの眠たくなるようにゆっくりした語調を遮って、スネイプは口を開く。気が付けば、膝の上で組んでいた両の掌は互いを強く締め付け合っていた。まるで神父の前で懺悔を行う気分である。


「ずっと…愛しい…大切な女性がいるのです。忘れることができない。思い出を手放すことが難しい。彼女ヨゼファを……………、愛してしまえば、全てが、その気持ち全てが、まるで無駄になってしまうようで、、」


 一息に言って、スネイプは口を噤む。ルブランはひとつ頷き…何も言わなかった。彼は何かを考えているようである。

 無言のままで暫時が経過した。冷たい風が、緩やかに二人だけの空間を通り過ぎていく。


「貴方にとって、ヨゼファは迷惑でしたか。」


 そして、彼は呟いた。「いや、」即座にスネイプはそれを否定する。

 ルブランはスネイプのことをじっと眺めた。目を伏せ、そうしてまたこちらに向き直り、「貴方が…」彼は口を開く。


「スネイプさんが、気持ちを捧げた大切な女性ひとへの想いは、あまりにも強くあまりにも永かったから、それはもう貴方の魂の一部になっていると僕には感じられる。守護霊が変質するほどに強い、気持ちが。」


 ルブランは筋や骨が浮き上がった掌で拳を握り、スネイプの左胸近くの空気をトンと押した。

 手首も、細かった。強く掴めばそのまま折れてしまいそうに虚弱な肉体である。だが声色は確かだった。人に言葉を聞かせる力がある。


「もしヨゼファが、貴方にとって助けになっていたのなら…、彼女の愛情を、貴方が大事に思えていたならば…の話ですよ。」


 そのまま彼の言葉は続けられていく。ゆっくりと落ち着いた声だった。

 高過ぎず低過ぎず、異国の発音が混ざる綺麗な音をしている。


「貴方のその姿がヨゼファは好きだった。彼女を一途に想っていたからこそ、あの子は貴方が好きだったんですよ。無駄になんか決してなりません。沢山の苦しみが、貴方の魂をより一層高みへと引き上げたのだから。」


 今にも空気の中に溶けてしまいそうな儚い魂の男性の隣に腰掛けたまま……、スネイプは、自分の予想に確信を持って首をゆるゆると横に振る。

 溜め息をした。

 やはり、と思わずにはいられない。ゆっくりとした声色、抑揚が少ない話し方に…気が抜けた緊張感のない笑い方。そうして、顔である。そっくりと言って良いだろう。幾分も中性的で、笑い皺には疲労が滲んでいるような…そんな。


「……私は…貴方に殺されても文句は言えますまい。」


 自嘲的に笑って、言葉を零す。ルブランもまた笑みを深めるが、少し困ったように眉を下げた。


「まさか。殺しませんよ…、ヨゼファの大切な人だもの。」

「………………。私が貴方の立場だったら、出会った瞬間に刺し殺す。」

「刺す?魔法使いなのに。優雅エレガントじゃない方法だ。」

こんな・・・人間の殺し方に優雅さなど必要ない。」

「そんなことを言わないで。」


 アハハ、とルブランは苦笑した。それから目尻を下げたままで「苦手なんですよ…」と続ける。


「誰かを責めたり、咎めたり、許したり、許さなかったりするの。僕だって誰かに殺されても文句は言えないような、そんな人生だったもの。」


 ----------------どこか遠い場所で汽笛が鳴るのを聞いた。野獣のように吼え、唸るように余韻を引く音。ロンドンとホグワーツの間を結ぶ赤い列車と同じ音である。

 そして車軸の軋む音色が続く。緩やかに、規則的な音を上げて、この茫漠とした白色のプラットホームへと近付いてくる。

 ルブランもそれを聞くらしく、「ほら、」と言って微笑んだ。


「言ったでしょう、心配しなくてもちゃんと列車が来るって。君には帰る場所がある。」


 最初より余程リラックした口調になって言いながら、へんに痩せてへんに長い脚を組んだ状態から解いて、彼は立ち上がった。

 スネイプもまた差し伸ばされた手を借りる形で立ち上がる。白色の景色の中、同じように真っ白な汽車がこちらへと煙を上げて近付いてくるのが見えた。

 走る列車は列車固有の美しさを持ってスネイプの眼に映った。白色の空気の中に窓を明け放ち、あたかも幸福そのものが運ばれてここにあるのだと思わせるような光で、無人の車内が佇む二人の魔法使いをぼんやりと照らし出す。

 やはり…ホグワーツへ向かう、あの車両と同じ形、同じ作りだった。大勢の子どもたちの不安と期待を乗せて走る、、自分もまたその大勢の子供のうち一人だった、あの列車と。


「ねえMonsieurムシュー、」


 ルブランは、新学期に子供を見送りに立つ父親のようにスネイプの肩に軽く掌を置いて言った。


「正解など分からなくて良いんですよ…。正しいかどうかを問うんじゃなくて、本当か嘘かを問うんです。そしてそういう本当の心の方向へ進んで行けば、結果はどうでも常に悔いがないと僕は信じています。君は、そう思いませんか。」


 そしてそのまま、二人の前に停車した列車へと彼を促して背中を押す。

 口を開けた扉の内側に立ち、スネイプは今一度ルブランへと向き直った。彼はそれに軽く片目を瞑って応える。


「君に良いことがありますように。」


 ………ルブランの言葉に、スネイプは眉を顰めては溜め息をする。


「やはりフランスの方ですな。英国人には難しいことをよくぞやってのけられる。」

「そうですか。どうもありがとう。」

「申し訳ないが今のは嫌味だ。御礼をされる謂れはない。」

「それは残念。」


 メルシ、ムシュー、と拙いフランス語を口にした。ルブランは笑みを穏やかにしては「お礼なんて…」と言いかけるが、何かを思い出したように顎の方へと指をやる。


「………スネイプさん。お礼ついでにひとつだけ、頼みたいことがある。聞いてくれますか。」


 言葉は返さずに視線の動きだけで承諾した。「ヨゼファのことです」彼は困ったような、泣きたいような、不思議な笑顔をして言う。


「本当なら僕が行いたい。でも、僕はこの列車には乗れないから」


 草臥れた男の笑顔に、どこか虚しそうなものが入り混じった。


「泣くことが苦手な子なのです。」


 知っていましたか?そう声を囁きに変えながら、彼は何かを夢想しているようだった。


「涙の流し方を教えてあげてほしい。……それは人生に必要なことなんだって、、君しかあの子に教えてやれないことだから」


 囁き声のまま小さく続けた後、ルブランは何かをほとんど呼吸のようにして言った。聞き取ることができなかった。英語ではなかったのかもしれない。

 Bonne chance,

 寂しげに微笑する彼の短い激励の言葉を待って、汽車はその扉を閉ざした。


 プラットホームに立ってこの列車を見送っているであろうその…ヨゼファによく似た…男の姿を確認することはせず、スネイプは無人の汽車の客室へと歩を進める。

 そして、胸の内で詫びた。耐えきれずに言葉で口にする。


「君に似ている」


 適当なコンパーメントの中に着席して呟いた。

 そうして…彼女もまたこの列車に乗っていたのだろうかと考える。あのようにもの悲しい停留所で、たった一人で佇んでいたのだろうかと。

 自分とは逆の方向へ、更に白色の闇が深くなる遠い場所へ…どこへ行くとも分からない方向へ、どの種類の世界に入るともしれないその途を、たった一人で寂しく辿っていったのだろうか。


 恋しい人のことを思い出し、思い描いてはまた堪え難い気持ちになる。


 白い空間を抜けた汽車の窓には、灯影のちらちらする街や樹々の青い影が、暗い思いを抱いているスネイプの目の前を車両の進行と一緒に夢のように動いていく。

 開け放されていたそこからは涼しい風が吹き込んで、萎えた皮膚がしっとり潤う気持ちがする。暫くそれに感じ入って瞼を下ろした。


(本当か、嘘かを)


 やはり、愛しているのだと…想っているのだと、改めて彼は考えた。ヨゼファとその名前を口にする。


「本当のことだ」


 もう一度彼女に合間見えることが叶うのであれば、何をしようか、何をして欲しいか、何をしてやりたいかを思い描く。

 …我が儘を言って欲しい、と、ふと思った。どんな些細なことでも構わないから。


「嘘ではない……、」


 決して、決して、と弱々しい声で呟く。

 列車はシンシンと音をたてながら走っていた。スネイプ一人きりを乗せて、どの停車場にも留まることはしない。

 星明かりと夜明けの薔薇色の空を乗り越え、きらきら光りながら、明日へ向かって走り続けていく。



* * *



 そして白いプラットホームに一人、ルブランはポツリと立ち尽くしていた。

 列車が…ここを過ぎ去って、もう幾許かの時が過ぎている。

 やがて彼は溜め息をして、ようやくそこから歩き出した。白色の闇が更に色濃くなる中、どこかに向かって歩いているのかはよく分からなかった。それでも、どこかに向かっては歩き続けていた。



『ねえ本当、私もう嫌よ』

『また倒れたの?』

『世話が焼けて困るわ、なんの役にも立ちはしない』

『みっともなく背が高くて』

『奥様はなぜかご執心だわ』

『新しいペットよ、大きい犬を連れてると良い気分だもの』

『番犬にしては貧相だけど』

『やめなさいよ、そう言うことを言うの。身体が弱くて…しかも外国の人よ。』

『一度も故郷に帰るのを見たことがないわね』

『帰る家、きっと無いんだわ。ここに来る時の荷物も鞄ひとつだけ。』

『奥様に依存するしかないのよ』

『物好きな奥様』

『あの身体じゃもうフランスへの旅は無理でしょう。近いうちに病院に移るみたいだし』

『死ぬのかしら』

『長くないわ、死臭が出始めてる』

『結婚したばかりなのに』

『かわいそう』

『かわいそうに』

『かわいそうね』



 痩せた腕を中空に上げて、ルブランはベッドの中から枯れ枝のようなそれを見上げていた。

 優しい陽光が窓から差し込んでくる。昼下がりの静かな広い屋敷で、人の声はよく通るのだなあ、と彼は静かな気持ちで考える。



 なぜか今、それを思い出した。

 ルブランは大きく深呼吸をして、冷たい辺りの空気を吸い込んだ。


(ろくに話したこともない貴方たちに、『かわいそう』だなんて言われたくありません…)


 生きている時と同様いつでも穏やかな笑顔を絶やさない彼の表情が、どこか複雑なものを帯びる。


「僕の何が分かるっていうんだ」


 ふわふわとした茅色の髪をクシャリと掌で触った。


「僕はすごく幸せだったよ。」


 マリア、美しい人…と、小さいながらも確かな声で彼は呟く。


 ふと…ルブランは立ち止まり、何か・・小さなものを腕の中に抱くような仕草をした。

 空っぽの自分の腕の内側をまざまざと眺め、とても悲しい気持ちになる。笑顔を潜めたルブランは、腕を下ろした。


「君の名前は、僕がつけたんだよ。」


 呟くが、その言葉が彼女自身に届くことは決して無かった。

 それで構わないと思う。


Je suis juste un chien blanc.私はただの白い犬


 どこまでも茫漠と続く白い空間の中、純白の体毛を持つ白い犬ルブランは歩いていく。その姿はすぐに圧倒的な白色の中に呑まれて、見えなくなった。



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