骨の在処は海の底 | ナノ
 閃光

 暗がりに小さな橙色の焔が灯っていた。

 ヨゼファの自宅の客間…その扉を細く開いた隙間から、"だだっ広い" リビングを望んではそれを認め、スネイプはゆっくりと瞬きをした。


 リビングにはその広さに伴って大きな樫製のテーブルがある。彼女はそこに向かって何事かの仕事をしていた。

 こちらに気がついていないようなので、暫く…ただ、その頼りないオレンジ色の明かりに輪郭を照らされた彼女のことを見つめていた。

 弱く息を吐く。

 そうして、この平屋の小さな家のことを殊更愛おしく思った。

 夏季休暇を過ごすため、海を望む小高い丘に彼女が一人で造り上げた住処だった。

 素人の大工仕事のため様々に至らない点が目に付く。窓枠の歪みは可愛いもので、扉はどれもくせ・・が強く、それぞれ異なった然るべき場所に体重をかけてやらないと動いてくれなかった。


 だが、いつでも本当にすぐ傍にヨゼファがいた。

 長く果てしない階段を昇る必要はなく、その生活の気配や音を常に覚えることができたし…どこかに出かけていても、必ず帰ってくるのだと分かって安心する。ここは彼女の家だからだ。


 扉を押すと、やや鈍い音を立てて更に大きく開く。

 ヨゼファが顔を上げてこちらを認めた。それから「ごめん、」と小さく謝る。


「起こしちゃった?」


 その質問にかぶりを弱く横に振って応対する。

 無言で傍へと歩を進め、神の子が最後の夕餉をその弟子たちと共に頂いたというインチキな曰くつきのテーブルまで至った。その上に広がる彼女の仕事を見下ろす。「新学期が近いな」呟いた。


「ええ、そうね。楽しい夏休みもじきに終わるわ。」

「今頃学生たちも貴様同様…さぞかし眠れぬ夜を過ごしてるに違いない。」

「貴方の課題はね。またすごい量を宿題にしたものだわ。」

「至って普通の量だ。……学が足りない者には…些かの努力が必要かもしれないが。」

「そうね…課題を沢山出しても結局は採点する貴方が大変なのよねえ。スネイプ先生は教育熱心でいらっしゃるわ。」


 ヨゼファはひと段落がついたらしい仕事をまとめながら笑った。

 応えず、片眉を上げてみせるに留まる。

 口を閉ざしたままでその向かいに腰掛けて頬杖をつき、彼女の所作を見守った。

 何かを書きつけたり書籍を捲ったりとしながら動くその白い指を眺めながら、ああやはり、彼女の掌は女性のものにしては大きいなとぼんやり考える。

 右手の親指と中指、それから左手の小指にインクが微かに滲んでいた。

 染色系の顔料を長く使っているうちに取れなくなってしまったらしい。確かに散々浴槽の中で擦ってみせたが(最後には痛い、と哀れな悲鳴を上げていた)、それは薄くなりはするが完全に落ちることは無かった。


 彼はやって来た時と同様に無言で立ち去り、与えられた客間へと戻る。そこから簡単な仕事道具を持ち出しては再び彼女の元へと戻った。

「構わないか、」

 と簡単に許可を取る。当たり前にそれは快く承諾されるので先ほどと同じ場所に腰掛ける。そして来るべき新学期に備えた仕事を、彼女と同じように"最後の晩餐"のテーブルの上に広げた。


 ヨゼファは魔法陣の明かりをスネイプのために新しく描いている。暗がりに灯ったそれを指でつついてこちらに寄越された。暫くの間小さい焔は不安定に中空でふらふらしていたが、やがて所定の位置を見つけて彼の傍へと落ち着く。


 窓から差し込む淡い月影が、白々と二人の顔を照らしていた。どこにも自分たち以外の人の気配がなかった。対岸のどの家もしんとしている。犬の声さえ聞こえなかった。海が遠くから畝って押し寄せてくる音だけが続いている。


 やがてヨゼファが立ち上がって奥の暗がりへと姿を消す。キッチンの方だ。薬缶を取り出す金属的な音がするので、ああ、紅茶を淹れるのか、と理解する。


「夜中だから紅茶じゃないのよ。」


 戻ってきた彼女が笑ってそれに応じる。なるほど、確かにテーブルに置かれた二脚のカップの中身は淡い山吹色で、紅くはない。


 それから、夏とはいえ夜の涼しい風でやや冷やされていた身体と指先を熱いハーブティーで温めながら、お互いの作業を中断して少しの話をした。

 雑談と言える大して中身はないものである。

 何故か、夜に二人きりで会話する時はお互いに小声になる。月や風、海の流れの音の上にその言葉たちは儚いひとりむしのようにチラチラと散っていった。しかし時折不意に深く水に沈んで、月影の木立に渡っていくような響きをする。


 作業を再開しても、今度は全くの無言にはならなかった。ポツリポツリと、長くはない言葉が交わされた。スネイプはヨゼファと共にいると饒舌になるようなきらいがある。そして逆にヨゼファは、いつもよりも言葉が少ない。

 二人は仲が良いのだと思う。

 彼女へと向かう気持ちに名前をつけることも言葉にすることも憚られるが、それくらいは認めることができた。ヨゼファも恐らく自分のことを…想い人というよりはむしろ、そう言った感覚で接しているような気がする。時折感じる彼女からの信頼には、嬉しさを覚えなくはない……


「ヨゼファ」


 呼びかけると、顔を上げて応じられる。何も言葉を続けずにただ掌をその方へ伸ばすので、ヨゼファは不思議そうな表情をした。だがやがて、広いテーブル故に届かないでいる彼の掌へと腕を伸ばして弱く握ってくる。


「手が大きいわね。」


 ヨゼファはしみじみと言って瞼を下ろす。

 抱いてくれないか、と呟くと、彼女は再び瞳を開いてはにかんだように笑った。


「それじゃあ…そろそろ寝ましょうか。」


 一緒にね、と囁きながら、ヨゼファは握りかえす力を心持ち強くする。


 手を繋げたまま、大きなテーブルの上の仕事道具は片付けずに彼女の部屋へと足並みを揃えて向かう。二人の身長は然程変わらないので、歩幅に対する配慮は大して必要ない。

 彼女のベッドも客間のものと同じく、一人用の然程大きくないものだった。その上で横になり、二本の腕でしっかりと抱かれていた感覚をよく思い出せる。

 変わらず、海鳴りは遠くから低く聞こえてくる。ヨゼファの心臓の音がその上に静かに混ざっていった。単調な音を聞くうち、不思議と気持ちは落ち着いて瞼を下ろす。

 
 あの…海辺の、小さく愛らしい家はもうどこにもない。悲しげな残骸は次々と海風に攫われて、今では柱を数本残すのみとなっている。既に自分の記憶の中にしか存在しないものだ。

 だが、その場所で真摯に愛してもらっていた。確かに、強く愛されていたのだ。







 夜が必ず来るように、朝もまた必ず訪れる。

 今夜のものが正夢になって、彼女に抱かれながら目を覚ましたい朝だった。

 緩く瞼を開けば、視線の先の小さなシーツの膨らみが目に入る。


(………………………。)



 スネイプは毛布の下で小さなヨゼファへと手を伸ばし、握って自分の傍へ引き寄せた。

 手の甲と指先に軽く唇を当ててから、また緩やかに目を閉じる。


(君は今、どこで眠っているのだろうか。)


 「………ヨゼファ。」


 恋しい人に呼びかけては、ゆっくりと身体を起こした。


「ようやく、君の肉体に合間見える許可が下りた。」


 ヨゼファを連れたまま立ち上がり、洗面をしにバスルームへ赴く。


「久しぶりに会うことができる…のだろうか」


 自分の不健康そうな土気色の顔を鏡に見ながら、スネイプは皺が落ち込んでいるそこに軽く指先をやる。


「ヨゼファ、」


 どうなんだろうか、と独り言のような疑問を口にした。


* * *


 彼は普段使いの服を全く1種類しか持っていなかったので、別段いつもと代わり映えすることは無かった。

 ただ、考えた末にその真っ黒い服にブラシを丹念にかけて埃を払ってやり、一応髪に櫛を通してみる。


 自宅の暖炉から魔法省に直接赴くことはもちろん、姿現しも許可されていないので、指定された中継地点から赴くことになっていた。

 だから小さいヨゼファを懐中に忍ばせて「行こうか」呟き、共に歩き出す。



 面会を希望した時間までには余裕があった。

 冬ではあるが、日は麗かに辺りに照っている。彼は少しの間立ち止まってじっと空を眺めた。よく晴れた空である。陽を受けた街路樹が視線の先にキラキラと葉を揺らしていた。


 ヴォルデモート卿の完全消滅は人々の心に希望を与え、新聞やラジオは未だそのことを華々しく掲げて皆で喜びを共有しようとする。街を行く魔女魔法使いたちの顔も明らかに生き生きとしていた。

 その中でスネイプは所在無い気持ちだった。喜ばしくないわけではないが、こういった浮き足立った雰囲気は嫌いだった。複雑なのである。自分は未だ魔法省から要注意人物として警戒されているし、手に入れたものよりも失ったものの方が心を多く占めていた。手放しに明るい気持ちにはなれない。


(…………………。)


 そして、闇の帝王の第一回目の失脚の時と同様にハリー・ポッターの噂、彼への賞賛やその行いや性質を讃える言葉がよくよく耳に入った。

 やはり未だに複雑である。きっとこれからも、まともに向き合うことは出来ないのだと常々考えた。


(ヨゼファがいたら何か、違ったのだろうとは思う)


 無意識に左胸の上にいる彼女へと掌を重ねる。……少し気持ちが晴れて、弱々しく口元に笑みを作った。


 ふいと花屋が視界に入る。普段であれば気にもしないが、柔らかな花弁たちが弱く風に揺れる様に目を細めて…足を止めた。店先で青い花の根を切っていた娘がちょうど顔を上げてこちらを見る。


「いらっしゃいませ。」


 曇りない笑顔で言われて、どうすればいいのか分からずにスネイプはそのまま立ち尽くした。彼女はやや不思議そうにしつつも笑顔のままで、「何かお求めでしょうか、お手伝いできることはありますか?」と礼儀正しく接客をする。

 花を購入するつもりなど毛頭無かったスネイプは何も応えずにいたが……、やがて「花を、」と薄い唇から声を漏らす。


「何か、花を…いくつか見繕ってくれ。」

「喜んで。贈り物ですか?」

「いや…、」否定しかけるが、「そうだ。」と頷いてそれを肯定する。お相手は女性ですか?と質問が続くので首を縦に振って応じた。


「そうですね、冬だったらやっぱり色が濃い赤い花とかが綺麗ですよね。ほら、このガーベラとかはどうでしょう。」


 人の良い花屋の娘はスネイプの挙動不審を気にせず、軽い足取りで温度調節されたガラスケースの中へと入り鮮やかな花を取り出す。スネイプは少しの間思案するが…やがて「赤も結構だが」と低く言葉を口にした。


「それよりも青色が、青い花が欲しい。」


 そして、先ほど彼女が根切りをしていた名前も分からない青い花を視線で示す。


「ああ……、それは先ほど店頭に届いたばかりなんです。可愛らしくて私も大好きで」


 娘は声色を一段明るくしては手際良く花束を作っていく。幸せそうに働く女性だ、とスネイプはぼんやりと考えた。


「きっと受け取られる方も喜ばれますよ。」

「………どうだろう。」

「男性から花束をもらって喜ばない女性はあまりいませんよ。花はお菓子と違って食べられませんし宝石みたいな永遠の価値もありませんけれども、心に残る贈りものですから。」

 
 淡い色の薄紙を重ねて美しく造形された花束越しに、娘はやや首を傾げてスネイプのことを見る。そして、彼女の完璧な仕事を受け取る黒衣の魔法使いへ眉を下げて笑いかけた。


「差し出がましいようですが、もしも何か不安があるようでしたら…。お花の他に、少し小さな贈りものを持って行くのも良いかもしれません。そこの角を曲がった先に評判の良いパティスリーがありますから、甘いものがお嫌いな方でなければ。」


 ………彼は何も返さず、自分の手の中に収まった馴染みが薄い花々を見下ろした。

 もちろん今まで、一度としてあの女性ひとに花など贈ったことはなかった。

 もしも、仮に、それを想像する。

 当たり前にひどく喜んでくれるだろう。顔をクシャリとさせて笑うに違いない。だが…もしかしたら泣くのかもしれない。笑いながら、泣いてしまうのかもしれない。







(……………………。)


 魔法省のロビーに降り立った瞬間から、彼は自分自身の場違い感と共に居心地の悪さをひしひしと覚えていた。

 広い廊下を歩く役員や事務員、官僚たちは皆汚れひとつない清潔なローブを纏い、背筋を正しくして歩いている。自分の猫背や白い埃で所々薄汚れている服のみすぼらしさがやけに気になってはいたたまれなくなった。

 彼らもまた明らかに場違いなスネイプのことを不思議そうに横目で眺めてはすぐに目を逸らす。


 ………兎にも角にも受付の方に向かい、抑揚も愛想もない初老の男性に用件を伝えた。

 彼はチラとスネイプの顔、それからローブの袖のほつれに目を留めてから「杖を」と無表情に言う。

 綺麗に作ってもらった花束とケーキの箱で両手が塞がっていたスネイプは、今更ながら自分の出で立ちの滑稽さを理解して顔に熱が集中した。それらを石床の上に置き、もたつきながら杖を衣服の中に探す。その様を訝しそうに眺める男性の視線がより彼へと屈辱に似た気持ちを与えた。

 彼はスネイプの黒い杖を両手にとっては目を細めて眺め、「確かに」と呟きそれを返す。


「第九倉庫保管物閲覧の要請は確かに受け付けられております。案内の者が参りますので、暫くお待ちください。」


 保管物、閲覧、それが何を指しているのか理解しながら、地面に無造作に置いた花束や紙箱へと視線を落とす。何をしているのだろうか、と自分の間抜けさを考えながらそれらに手を伸ばし、杖と同様服の下へと小さく収納する。


(何をしにきたのだろうか)


 自分は一体、と眩暈を覚えてそこに立ち尽くす。

 同時に、急激にヨゼファの肉体に合間見えるのが恐ろしくなった。その成れの果てを見るのは初めてである。当たり前に眠っているような姿を想像していたが、そんな筈はないのだ。割れたザクロのような挽肉になっていたと、それは聞いていたことではないか。







 女性職員の白い項を眺めながら、彼はその後について狭く曲がりくねった廊下を歩いていた。地上から大分降っているため、湿気と闇の深さが色濃い場所である。


「もう、貴方がたの調査は終了したのか。」


 低い声で話しかけると、彼女は歩を止めないまま斜めにこちらを見る。そしてまた、正面へと顔を向けた。


「調査…。」

「左様、そのためこちらに彼女の肉体は保管されていたと聞いた。」

「ええ、その通りです。ですがそう大したものではありません、ただの肉塊、それ以上でもそれ以下のものでもないことは明白でした。」

「だが腐敗しない。」

「そう…。それだけが不思議な点でした。自然の摂理に則らない魔術は良くないものです。だから我々はプロフェッサー・ヨゼファの肉塊を管理下に置いた。」


 彼女は名字がないんですね、とその名を言った後に付け足される。伴って、自分の姓は鮫にかじられてなくなってしまっただとかなんだとか、本当につまらない冗談を言っていたあの声を、ぼんやりと思い出す。


「問題ないなら持ち帰ってもよろしいか。ヨゼファを。」

「許可が下りれば可能でしょう。学術機関ホグワーツの管理下に置いた方が相応しいものだと私も思いますわ。」

「いや、ホグワーツで保管するつもりはない。」

「ではどうなさるおつもりですか。」

「私が………、」


 言いかけた時、女性職員が足を止めた。

 真っ黒い大きな扉を眼の前にして、ここか、とスネイプは固唾を飲んだ。

 重たそうな鍵を、彼女は幾重にも巡らされた鎖にぶら下がる錠前に差し込んでいる。…自身の心臓の上にそっと忍んでいるヨゼファが動いたような気がした。気のせいだったが。優しく胸を、指の腹で撫でられたような心地がした。


 暗がりの室内の中、細い光で照らされたものが目に入る。

 鉢だった。大きなガラスの鉢が太い鎖で天井から吊るされている。中には液体が満たされているのが透けて見えた。その中…奇妙な魚のような、水棲の動物のような、なにかが


 酩酊したような覚束ない足取りで近付いてみれば、それがなにかはよく分かってくる。

 ぬらぬらと濡れて光って、鉢が中空で弱く揺れるのに合わせて液体の中を揺蕩っていた。

 そこから人間の姿を想像するのは難しい。汚物のような、腐った食物のようにも見えた。

 だがそれが人肉であり、内蔵であることは知っていた。ヨゼファの面影はどこにも…全くもって見出せないが、彼女なのだろう。魂が宿らなくなった、タンパク質の塊と成り下がった彼女なのだろう。



「この部屋は監視されています。」


 女性職員はひやりとした声で前置きを投げかける。


「ですから、どうぞ好きなだけ。ごゆっくり。」


 それだけ言い残し、彼女は暗い部屋を後にした。室内にはスネイプと、天井から吊るされた巨大なガラスの鉢とその中のグロテスクな塊だけが残された。

 閉ざされた扉を少しの間見つめていたが、やがてスネイプは再びガラスの鉢へと向き直る。

 懐からヨゼファの掌を取り出した。それを、ペタリと分厚いガラスの表面に触れさせてみる。……特に何も起こらない。


「…………。ヨゼファ?」


 小さく小さく、呼びかける。


「私だ、」


 白く鋭い光で照らされたヨゼファの内臓は無反応だった。そのヌメヌメとした姿形にひどい嫌悪感が湧き上がりそうになるのを、必死で堪える。

 もう一度細い声で名前を呼んだ。掠れてしまっていた。

 キィ、キィ、と先ほどから耳障りな音が鳴っている。

 天井から吊るされている鎖が揺らされる度に立てる音だった。それに合わせて、ガラスの鉢に満たされた液体もゆっくりと動く。揺り籠のように、ヨゼファだった肉塊を優しく優しく包み込みながら。




 


 人と別れた瞳のように水を含んだ灰色の空を、大きく環を描きながら寝起きの梟の群れが木立の上空を散歩していた。

 家々からは煙が低く空を這って生活の流れの上に溶けていた。

 そうして黄昏が街の灯火に光を添えながら、露路の末まで浸みていくのである。


 自宅に戻ったスネイプは、世界が夕刻から夜へと移り変わるのを、ただ一人ひっそりと腰掛けながら感じていた。夜色の薄暗がりは、黒猫のようにしなやかに音もなく、部屋の片隅から片隅へと這い出してくる。


 机上には、ヨゼファの白い左手が無造作に放り出されている。そうしてひしゃげた紙の箱、その横には萎びてしまった花束が。美しい薄紙の包装が、憐れな姿となってしまった花に巻きついたままなのがもの哀しい。

 だがスネイプは大して気持ちを揺さぶられず、それを頬杖をついてただただ眺めていた。

 そうして、自分は何をしていたのだろうか、と強い疲労感を身体に覚えながら繰り返して考える。


 肉体は、疲労に伴って冬の冷たさに大いに蝕まれていた。緩慢に杖を暖炉の方へ向けて火を起こす。

 冬である。

 街中からやや離れたこの場所は静寂だった。空は梟の翼にすらその静けさを破られない。それでいて秋とは違って人の頭を重苦しく憂欝にさせずにはおかない空である。

 クリスマスが近付く街の優しい温もりの名残を、外気に晒されていた外套は蓄えていた。脱ぎ捨てて床へと放る。この季節が子どもの時分から嫌いだった。孤独をより一層強く感じる。


(行かなければ良かった。)


 考えながら、すっかりと萎びてしまったような紙の箱の縁をなぞり、開けようと思ってやめた。きっと中身はひどく残念な有様になっている。魔法省の入り口で服の中に焦って隠す時に、妙な方向に押し込んでしまったからだ。


(一体……、)


 本当に何をしているのだろうか。と甚だ疑問だった。

 死体とも言えないような肉の塊に会いにいくために、自分は何を浮足立っていたのだろう。


 指先で緩く湿ったような花弁を弄る。

 そのぬめりとした感触に、ガラスの鉢の底に沈んだ肉色の残骸のことを思い出しそうになって咄嗟に口元を抑えた。


(……………………。)


 花も……、甘い菓子類も、


 彼女が好きな沢山のもののうちのひとつだった。

 知っていながら、一度も贈ったことがない。考えないわけではなかった。あれだけ多くの時間を共にしていたのだからいくらでもその機会はあった筈だ。

 自分があの女性ひとに贈った数少ないものを思い出す。

 青い靴。

 …耳を飾る菱の形をしたガラスは粉々に壊されてしまった。

 そして呪いのこもった黒い枷、それでけである。


 だから今、せめて何かを期待して

 美しいものを少しでも、と考えたのだ。



 それで?

 死人がものを食べるとでも

 花を愛でるとでも言うのかね。




 --------------- 冷水を浴びせられたような気持ちになった。

 ハッとして、机上に置かれていた紙の箱を衝動的に手の甲で払い除ける。存外強い力がこもっていたらしく、それは視界の外へと呆気なく滑っていく。

 べちゃり、と水気を含んだ音が自身の斜め後ろで鳴る。打ち付けられた箱から中身が飛び出し、潰れて床か壁かを汚す音だった。

 だがその方は見なかった。自分自身の震えた掌へと視線を落とす。

 握って、それを机に打ち付けた。

 ろくに片付けをしていなかった机上で跳ねた皿が耳障りな音を立て、曇ったグラスが倒れて転がる。床に打ち付けられ呆気なく砕け散ったガラスの上に、積み重なった書籍がバランスを失いバサバサと崩れていく。それを手で乱暴に払い除ければ萎れた花束は重たい書物の下敷きとなり茎が折れて青い花弁が舞い上がった。

 鼻腔が強く花の香りを覚えて吐き気を催す。灰色の汚れたクロスを掴んで剥ぎ取った。机上全てのものが床や壁に強く打ち付けられてひどい音が辺りに響く。あまりの騒々しさに頭が割れそうに痛んだ。


 なぜだ、と叫び、今一度裸となった机上を殴る。受け止めてくれるものが無い烈しい感情の表出は止め処なく、このまま気でも触れてしまった方が幸せかと思われるほどだった。


(こんな、)


 足元で自分の靴に踏みつけられていた花の残骸に視線を落として奥歯を噛み締めた。喉の音で引きつった音がくぐもって鳴る。


(たったこれだけのもの、いくらでも贈ってやればよかった)


 なにを与えても喜んでもらえるのだから、喜ばせてやればよかったのである。

 抱きしめられる形をしていた時に心を込めて抱き寄せれば良かった。やり場のない苦痛や悲しみを訴える手段としてではなく、彼女の心に寄り添うためにそれを行うべきだったのではないか。


 床に散らばった花を掻き集めようとして、腐臭が混ざり始めるその匂いからまた赤黒い肉塊のことを思い出した。


(私が殺した)


 間違いはない。

 自分に与えられた罰などという生易しいものではなく彼女の死は必然だったのだ、己が招いたものである。同情の余地はない。自業自得だった。

 それでも

 どうしても…仮に、自分がいなくなった後、彼女が新しい人生を生きることを許せなかった。自分に向けるものではない愛情や生き甲斐を見つけて変わっていってしまうことが耐えられなかった。

 ただただ、一途にこの・・自分を愛して、そのためだけに生きていて欲しかった。同じように。

(私がリリーに行ったことと同じように。)

 それが出来ぬならば死ぬべきである。一緒に死んで欲しい。

 非道だ。

 どれだけそれが身勝手がすぎる願望かは分かっている。


「ヨゼファ」


 先ほどまで机上にあったものの残骸が散乱する床を見下ろしてその名前を呼ぶ。「ヨゼファ、」ハッとして、短くもう一度。

 ヨゼファが見当たらないのだ。彼女の掌がどこにもいない。

 胸の奥を強く掴まれた気持ちになって、床に膝をつき這いつくばってそれを探す。どこだ、どこにいる、と浅く早くなる呼吸を精一杯に沈めながら。

 書籍の下敷きになった小さい彼女が目に止まり、その方へ周りのものを掻き分け近付く。痛かったか、怪我はないか、すまなかった、上擦った声で散漫に言葉をかけながらその手が傷ついていないことを確認して大きく息を吐く。


 そのまま暫く、ヨゼファの手を胸の抱いたままで散らかった部屋の中で蹲っていた。


 泣きそうになる。あまりにも情けなくて惨めな気持ちだ。そして迷子になった子どものように不安な心持ちだった。

 その指を、自分の頬へと触れさせればいつもと変わらず皮膚の柔らかさを感じる。だが血が通っていない証として、ぞっとするような冷たさが齎された。


(………、救われたくなどなかった。)


 この手に。優しく触れてほしくなどなかった。

 何十年でも何百年でもリリーのことだけを想って辛苦をかみ潰し、どれだけこの愛情が深かったのか、どれだけそれによって苦しめられていたのかを思い知らせてやりたかった。一体誰に対して、なんのためにだろうか。意味などないことも知っていた。

 だが幸福などひとつとして見出せない自分の青春の中で、新緑色の瞳の美しい少女へと捧げた気持ちだけが唯一の清らかな思い出だった。

 それなのにリリーは死んでしまったから…、自分以外の男の家族として、その子どもを守る母親として。心を閉ざして、幸福な記憶の中だけに生きようと思っていたのだ。


 ヨゼファの指先を緩く掴み、立ち上がる。それをぶら下げたままで、充分に火が満ち足りていた煖炉へと不確かな足取りで近付く。

 暖かな炎が揺らめくそこを目を細めて眺め、そして自分の掌中にヨゼファの手を見た。

 背が高い女性だった。だからその掌も大きくて、少し骨張っては中性的な雰囲気がする。肉体の作りや所作、言葉遣いは女性らしいものと言っていいだろう。だが力は強くていざという時の思い切りが良い。妙な頼り甲斐があった。


(聞く耳など、持たなければ良かった。)


 その真摯すぎる愛情の言葉など。こんな気持ちになるくらいなら。強く撥ね付けて、リリーに向き合う純粋な想いの中だけで濁らずに生きていれば良かったのだ。


 焔の色はいよいよ赤く、すっかりと闇に溶け込んだ室内の輪郭を金色に照らし出す。薪が火に飲まれて燃え落ちる音、崩れた灰がサラサラと流れる気配が続いた。


 その上へ、ヨゼファの掌を両の手で持って掲げる。


 --------------いつか、いつかの夏も、こんな風に花束を海の底へと沈めるために掲げて持っていた。呆気なく夜の海の中に吸い込まれていく光景が脳裏に思い出されていく。そこにのせた言葉も気持ちも、波に揉まれて千々となり、永遠に伝わることはない。決して。



『セブルス、辛かったでしょう。』


『報われないことはとても苦しいことだわ。』


『貴方はたった一人で…本当に、頑張ったのよ。』




 掲げていたヨゼファの手をそろそろと自分の方へと退き、胸の中に抱いた。無意識に、労わるように撫でる。

 首を緩く横に振って、弱く笑った。


「出来ない、」


 小さな声で囁く。


「そんなことはあまりにも、悲しすぎる。」


 落ちてくる涙を手の甲で拭って、ヨゼファの手首で取れかかっていた白いレースを持つ布を巻き直した。

 この手の先に、彼女の肉体が、その人がいればどんなに良いだろうか。

 部屋の惨状を認めて驚き、それから自分のことを心から心配して慰めてくれるはずだ。



『私の素敵な人』



 一人の人間として、尊敬していた。


「愛している。」


 静かな涕涙を留めないままで気持ちを口にする。


「だから君に会えなくて寂しい。」


 この寂しさを救って欲しかった。幻でも良いから姿を見せて欲しい。白い腕でこの身を巻いてくれはしないだろうか。そうしたら何もかもが救われる。濁った血液も新しくなれると思う。


 だがいつまで経っても手首の先に彼女が現れることはない。暗闇だけだ。

 指先で頬を触らせた後に、両手で包むように持って接吻する。「ヨゼファ」と呼びかけながら、目線の高さに持ち上げて今一度その名を口にする。


「私のヨゼファ」


 語りかけるようにすれば、気持ちが優しくなる。


「かわいい、私の、、」


 僕だけの、


 最後は言葉に為すことができない。嗚咽が喉の奥から湧き上がって、瞳から新しい涙が垂れた。

 彼女に会ってから、自分は幾分も涙もろくなってしまったように思う。

 出会ったことによってお互い傷付くことも多いにあった。だが同時に幸せでもあった。共に過ごす時間は安らぎと呼べるものだった。

 過ぎ去った幸福ほど辛いものはない。その思い出に救われては苦しめられて、涙は全く失せる気配が無かった。


「大丈夫だ、ヨゼファ……」


 壁にもたれ、そのまま力なくズルズルと座り込む。

 膝の上に乗せたヨゼファに囁いては目を細める。


「時間がいくら経とうとも…。」


 指を絡ませて繋ぎ、出来得る限り優しく優しく語りかけた。


「誰もが君を忘れても、私だけは覚えている。」


 決して忘れない。


 誓いを告げる彼の視線の脇に、ヒラヒラと動くものが見え隠れした。

 横目で見れば、青い蝶が黒い闇の中を漂っている。暖炉の焔を反射して、それは時折燃えるような金色に光った。

 その美しいはねを眺めながら、この真冬に一体どこから迷い込んだのだろうかと、スネイプはぼんやりと考えた。



骨の在処は

の闇に


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