骨の在処は海の底 | ナノ
 Running Away

「少し…痩せましたね。」


 マクゴナガルは、土気色に不健康さを滲ませたスネイプの顔を眺めながら心配そうに言った。

 彼はそれには応えず、目を細めては今自分が立っている空間をゆっくりと見回していた。


 それは北の海から渡ってくる寒い風が吹く日で、荒れ果てたホグワーツ城の裏に聳える黒い森からは樹々が畝る音が凄まじく聞えた。

 それでも窓が大きく陽当たりの良いこの部屋には、白い光が流れるように差し込んでくる。

 大きな机、本箱、ずらりと棚に並んだガラスの瓶、真鍮の天秤に年代ものの製図道具。

 それらは依然として元のままで、恋しい人がつい先ほどまでこの場所にいたのではないのかと錯覚しそうになる。


「無事な生徒たちは、それぞれ外国の魔法学校にいくつかのグループに分けて学びにいかせています。ですがじきにホグワーツこの学校も元の姿を取り戻すでしょう。多くの魔法使いがその為に懸命になってくれています。」

「成る程。ですが果たして、生徒たちは再びホグワーツここに戻ってきますかな…?」


 ヨゼファの面影が多分に残るその執務室オフィスの中、古ぼけた机をトントンと指先で叩きながらスネイプは低く言葉を返す。マクゴナガルは溜め息でそれに応えた。


「貴方が仰る意味が分かりますよ、どの場所よりも強く攻撃され被害が大きかったのがホグワーツです。闇の魔法使いの意思を継ぐものによって再び攻撃されるかも分からない…。私が親の立場なら、子どもをこんな場所に置いておくなど以ての外でしょうね。」


 白い光が老齢の魔女の皺をひとつずつ浮き彫りにしている様をスネイプは眺めていた。昼下がりの静けさの中、明るい日光というものは余りに明るすぎて、しんとして物寂しいものである。


「ですが私たちはホグワーツを…この学校を終わらせてしまうわけにはいかない。単なる学校ではないのです。多くの子どもたちの生活の場でもあった。彼ら彼女たちの思い出そのものを、どうしてこの惨状のままにしておけるのでしょうか…。」


 きっとヨゼファがこの場にいたら、大いにマクゴナガル女史の言葉に賛同して励ます言葉を口にするはずだ。だがここに彼女はいない。スネイプはこういった時に何を言えば良いのか分からなかった。先ほどから続く静寂と沈黙とが、更に重たく存在感を増すのを感じるばかりである。


「ヨゼファの私物は。………、予想外に我楽多は少ないようですね。書籍は図書室に置いても差し支えはないものばかりですし、調合済みの顔料はそのまま授業に使えるでしょう。」


 嘘だ、とスネイプは思った。

 思いつく限り、彼女は我楽多ばかりを集める性質の持ち主だった。自分自身でもなんの役にも立たないもの≠ェ好きだと認めていた。

 だからマクゴナガルが言うことが確かなら、ヨゼファは死の間際にその愛すべきなんの役にも立たないもの≠ほとんど処分していた、と言うことになるのだろう。


「授業…?一体何の授業に使うおつもりですか。」


 スネイプは青色の希少な宝石を砕いて作られた顔料が入った瓶を、何となく棚から取り出しつつ、同僚の魔女へと尋ねる。


「当然、魔法図象学ですよ。」

「教師もいないのに関わらず?」

「新しい講師を探しましょう。…他の授業も同様に。優秀な教員が随分いなくなってしまいましたから…。」

「ホグワーツの図象学の教授はヨゼファだ。」

「……セブルス。ですが彼女はいないのですよ、分かっているでしょう。」


 マクゴナガルの言葉に対してスネイプは口を噤んだ。

 そして何を思って自分はこんなことを言ったのだろうかと後悔する。

 
 懐中のポケットにはヨゼファの掌が入っている。冷たいそれが存在感を増して、スネイプの左胸に触れているような…そんな錯覚を、覚えた。


「ここは良い部屋です。後任となる先生もきっと、満足してくれるでしょう。」


 後任などいらない。他の人間がここに立ち入る必要などない、とスネイプは訴えたかった。しかし堪え、マクゴナガルの言葉に耳を傾けるに留まる。


「残りの…彼女の個人的なものを捨ててしまうのは、まだ少しばかり心苦しくて。どうにかならないか、一旦私が引き取って考えようと思っていたのですが…。」


 スネイプは意味もなく弄っていたガラス瓶から、マクゴナガルへと視線を移す。それを受けて彼女は苦笑した。


「ええ、分かっていますよ。本来貴方が引き取るのが道理でしょう。ヨゼファと最も親しかったのは貴方です。アルバスと違って身寄りもいませんからね…。」


 ぞっとするほどの静寂の向こうから、風にのって教会の鐘が聞えてくる。鐘の声は遠過ぎもせずまた近過ぎもしない。二人の会話を妨げ乱すようなことはない。空間に沈みこんでいくような、静かな音色である。


「ですが女性のものもいくらかありますし。それに……、きっと貴方たちは私が与り知るよりもずっと近しくて、複雑だったと見受けられます。傍に置いておくには辛いこともあるでしょう。だから、貴方が欲しいものを選んで持って行ってください。もちろん全て持って行くのでもよろしいですが。」


 スネイプは、じっとマクゴナガルの瞳の中を覗き込んだ。それから、再びぐるりと見回すように彼女の部屋を。

 確かに。そこかしこの棚を埋めていた用途不明の我楽多を見受けることはない。

 書籍、顔料の元となる干した草花に鉱石や動物の骨。学術的な書物に、日々の研究を綴った羊皮紙の束など。彼女の部屋は、予想に反してひどく几帳面に整頓されているのだ。

 だが今のこの部屋はどこか彼女らしさを感じない。取り繕って、無駄なものを見せようとしなかった。まるで今日のスネイプとマクゴナガルの会話を予想していたような、そんな……


「……本当に僅かしか私物がない。」

「そうでもないですよ、レコードは大量に残っています。」

「いや、あれでも減った方だ。五倍はあった。」


 本棚の一角を占めるレコードを視線で示して二人は会話する。

 自然とその方へ歩を進めて、そのうちひとつを適当に抜き取って眺めた。ジャケットには覚えがあった。曲も思い出せる。だが曲名や作曲家の名前は記憶にない。ヨゼファが聴いているのを聞いていたから知っているだけだった。


「ルドヴィコですね。……随分と古い音楽を、」


 マクゴナガルはそれを知っているらしく、スネイプの手の中の厚紙でできたジャケットを覗き込む。


「セブルス、貴方は知っていますか。」


 スネイプは少しばかりどう答えたものかと考えるが、やがて首を横に振った。なぜか彼女はそれに対して苦笑する。


「それもそうでしょう…私が若い頃に流行った曲ですから。少しかけてみても?懐かしくて。」


 スネイプの掌中で所在なさげだった空色のジャケットをマクゴナガルは抜き取った。

 彼女が鞄型の小さなレコーダーを開き、12インチ盤をセットするのをスネイプは見守る。

 レコーダーも、巨大なものや曲りくねってよく分からない形をしたものまで沢山あったのだが。今はもう、これしか残されていないらしい……。


 やはり、よくよく覚えがある曲だった。

 ピアノの独奏が掠れた音の向こうで流れていく。この曲を背景にヨゼファと何の会話をしたのだろうか。あまり思い出せない。一緒にいた期間が長すぎたのだ。それが生活の、人生の一部となってしまうほどに。

 それなのに彼女の声だけはハッキリと覚えているのが不思議だった。触れられた時に思わず嘆息してしまう感覚だとか、胸の上に頭を寄せた時に聞こえて来る心臓の音だとか、断片的で印象的なものばかり。


「ヨゼファの学生時代を覚えていますよ。」


 不意にマクゴナガルが口を開く。内容がいささか唐突だったが、驚くことはせずにスネイプは彼女へと視線だけ向けた。


「でも、覚えているのは本当に少しだけ。忘れたわけではありません、忘れるほどの記憶もほとんどない。」

「無理もありますまい。人と関係を持とうとはしない子供だった、あれは。」

「いいえ…。それでも私は先生でしたから。自寮の生徒ではないとはいえ、何か一言…気遣ってやるような言葉や行動をするべきだったと後悔しています。セブルス、貴方に対しても同様に。」


 スネイプは片眉を上げてから目を細くした。口を噤んだままで、僅かに肩をすくめる。


「教師なんかに、なるものじゃありませんわ。」

「貴方よりも教師に向いている魔法使いを探す方が難しいのでは?」

「そうなのかしら。でも…ヨゼファに対する罪悪感が何よりの追悼だとは思っています。今日も、明日も。」


 私たちは考え続けなくてはならない、

 マクゴナガルは呟き、回転するレコードの上から針をそっと持ち上げる。

 それでも黒色の盤は暫くレコーダーの上で無音のまま回転を続けていた。止した方が良い、とスネイプはポツリと老齢の魔女へと返す。そんな精神をすり減らす考えは、と続ける。


「何をしようと、人が人を救うことなどできないのです。そんなことは、できはしない。」


 今はご自分を第一に考えられることですな。とマクゴナガルへと視線を寄越さないままで言い、静かな音楽を蓄えたレコードをジャケットの中に仕舞った。

 だがそれにしても、彼女の『声』ほどに、自分にとって懐かしく悲しい音楽はないと思った。

 その静かな音は、涙の網膜に映し出された蝋燭の灯のような、雨の日の硝子窓にかかる曇りのような、拭けども拭けども後から後から現れてくる悲しみの表象だった。







 そして今日も夜が訪れる。

 冷たい風が吹くのが窓枠が強く揺れることから分かった。

 月のない夜は暗い。窓にどこかの門燈がうすく映っている。


 日付も変わって暫く経った頃、スネイプは眠ることが出来ずに瞼を薄く開く。

 この真黒な部屋に目を覚まし、毛布の中で緩く握っては開いた手が自分の何なのかがわからない。ぼんやりとしていた。夢を見たらしい。この掌で彼女の首を絞め上げた数多の夜に関する夢を。


 その手を自分の隣に寝かされている小さな彼女へと伸ばす。夢の中の行為を詫びるように、できる限り優しく触れてから撫で、握って引き寄せる。

 冷たかった。

 血は通っていない。だが死後硬直したような感触はない。柔らかく、関節も曲がる。目を閉じてヨゼファの左掌を触っていると、その先に彼女の肉体が続いているような錯覚に陥った。


(生きているのか、ヨゼファ。)


 腐敗しない彼女の肉体は、魔法省にとっても些かの不安対象となったらしい。

 闇の魔術によって悉く汚染された骨肉である、良からぬものを引き寄せる可能性が高かった。

 スネイプの元へと逃れたこの左手以外の遺骸は、現在全てその管轄下で管理調査されている。

 とは言っても、形を保てないほど分解されたヨゼファの肉体である。僅かだ。ほんの少ししか残されていない。ほとんどが失われて仕舞った。


 引き寄せたヨゼファの手へ指を絡ませるが、ぴくりとも動かず握り返されることはない。やはり死体だな、と感じた。

 だが完全に死んでいるわけではないのかもしれない。そう言った・・・・・奇跡や魔法に対しての期待を抱いてしまう。


(待っている……)


 和やかで明るい、素晴らしいものを。なんだか分からないが、例えば春のようなものを。


(いつでも待つことしか出来ずにいた)


 いや違う、青葉が茂る風、雪解けの清水が流れ落ちる光景、やはり違う、だが、けれども待っているのだ。胸を躍らせて待っている。


 スネイプはベッドの中から半身を起き上げて、握ったままの彼女の掌を膝の上に見下ろした。

 両手で包み込むようにしてから、手の甲をそっと撫でる。


「ヨゼファ」


 自然と彼女の名前が口を衝いた。そして細く長く嘆息をする。


「レコードを…何かかけよう。何が良い…?」


 小さな声で、青白い掌に声をかけた。

 子供に話しかける父親のような気持ちになる。答えなど為さない小さなヨゼファを胸に抱いて立ち上がり、持ち帰った鞄型のレコーダーの前へと至る。

 机上に置かれたその蓋を開き、いくつか譲り受けた…特に彼女が気に入っているように感じた…レコードの中から一枚を選ぶ。「好きだっただろう。」レコーダーの上にそれをセットする最中、再び話しかける。


「君が好きな音楽だ」 


 ほら、ヨゼファ…

 返事を期待しながら、回り始めた黒い円盤へと針を慎重に落とした。

 ブツ、と針が音を飛ばしながら、安定した場所を探るようにしている。やがて音が音楽になる。何か弦楽器の音色だろう。長く尾を引くような、ゆっくりとした曲調だった。

 ゆっくりと流動する音ひとつひとつの流れが、不思議に鮮やかな画面をありありと目の前へ浮ばせてくる。その青い画面の中には、どこを見ても際限なく波が動いていた。海だった。大きな青い海の音を背景に、骨董品のようなラジオから音楽を聞いた苦く幸せな夏の思い出を想起させる。


 レコードを回したままで、杖を暖炉へと向けて弱く火を灯した。机に置いていたヨゼファの掌を再び両手で胸に抱き、暖炉の傍の一人掛けのソファへと至る。


 やはり、スネイプは旋律に覚えがあるだけで、その曲名も作者の名前も記憶になかった。だがその音楽を背景にした彼女の声は狂いなく耳に残っている。

 ヨゼファの手を自分の頬に触れさせて、触れられているような感覚を得ようとした。心が満たされた気持ちになって、彼女の長い指先に唇を落とす。


「手首が、少し痛々しい。」


 指を絡ませながら呟く。肉体から離された手首の切断面は綺麗な状態とは言えなかった。平たく言えばそれなりにグロテスクである。

 辺りを見回し…ランプシェードの埃除けに使われていた白色の布が目に入る。杖で呼び寄せ、そこを覆うようにして巻いてやった。端にあしらわれたレースの飾りが丁度袖のようで、中々満足のいく出来栄えである。心なしかヨゼファも喜んでくれているように思えた。


「君は白色が似合う。」


 何か…綺麗な服を、そんなもので美しく着飾った彼女を見てみたかった。


「美しいに違いない、」


 綺麗な女性ひとだったから。

 それなのに、思い出されるのは黒一色の出で立ちばかりで…それか、所在無さげにほつれた灰色の制服の袖を弄る痩せこけた少女の姿だけである。


「………そうだな。例えば…爪に色を塗ったり…」


 の彼女を、もう少し飾る方法はないかと思案してスネイプは独り言ちる。だが笑い、首を横に振った。


「爪はやめておこう。お互い指先を使う仕事を多くする…、煩わしさは理解できる。」


 両手で包み込み、ヨゼファの左手を慈しむために頬を寄せては、再び顔を上げて見下ろした。


「それならば後は指輪のような、」


 白い指を一本ずつなぞっていき、薬指で動きを止める。嘆息をしてからそこに口付けた。

 ひどく悲しい気持ちになって、涙が垂れそうになるのを懸命に堪える。



 ヨゼファの執務室から持ち帰ったものの中に、あの…擦り切れた小さな書籍も含まれていた。

 この部屋のどこかにあるそれを引き寄せ、掌中に収めた。無限頁の魔術を使用した彼女の簡潔な日記は幾度も手に取ったことがある。

 年に一度はひと月ホグワーツを留守にする人だったから、その面影を求めて。たかがひと月だが、それは常々長すぎるとスネイプは考えていた。


(…………………。)


 だが、ひと月が過ぎればヨゼファは帰ってくるのだ。そう決まっていた。

 今はどうなのだろうか。


(本当に……。)


 頭を弱く横に振って思考を中断させる。夜の考え事は良くないと、彼女もそう言っていた。

 ヨゼファの手をサイドテーブルに置き、彼女の日記をから開く。びっしりと文字で埋められた頁が目に入る右から開いた時とは異なり、そこは白紙ばかりで、散漫な言葉が時折記されているだけである。

 そして探り当てた頁に記された長くはない文章を見下ろした。



 貴方は、辛い道を、苦しみを、長い間、、とてもよく堪えて、ここに来てくれたのね。


 無意識に指に力が入り、薄い紙に皺がよる。


 嬉しい。本当に嬉しい。これは特別なことだ。



 先ほど堪えていた涙が垂れてくる。

 ヨゼファの掌を胸の中に手繰り寄せて抱きしめた。辺りの闇が一層深まり、四方から押し寄せてくる。

 闇は単に夜の闇を指すだけではない。それはまた、スネイプのどうにもならぬ泥沼のような自虐の心理と孤独とを表していた。


(好きだとか…愛している、だとか……)


 そう言った言葉を使いたくはなかった。あまりにも陳腐で安っぽく思う。


(自分自身だった)


 同じ暗がりから生まれ出たきょうだいのような存在だった。


(だから恐ろしかったのだ。)


 単に、少年時代の憧憬である美しい記憶を風化させたくないだけではなかったのかもしれない。

 彼女を愛することは自分自身を愛することで、それはひどく難しいことだった。

 愛は困難な事業である。それは神にのみ行える特有の感情なのかもしれない。

 人間が人間を『愛する』というのは、なみなみならぬ事である。容易なわざではない。神の子は弟子たちに『7度の70倍ゆるせ』と教えた。しかし人間には、7度でさえ、どうであろうか。


(優しくなりたかった)


 例え彼女が思い通りにならなくても。自分から離れていこうと、自分以外の人間を好ましく思っていようと、許して大事に思えるくらいの優しい人間になりたかった。

 それがどうしてもできなかったのだ。愛することも、ゆるすことも決して行えず、いたずらに心身を虐め苛んだだけだった。


(ヨゼファ、)


 声が聞こえる。名前を呼ばれているような気持ちがした。

 夜そのもののように真黒な袖に包まれた二本の腕が闇から伸びてきて、この肉体を絡め取って胸の中へと招き入れる。

 背景に音を絞ったスピーカーから漏れる音楽が流れていた。ヨゼファは眠れぬ子どもをあやす母親のように背中を撫でてくる。

 幻覚だった。いつもと同じように、それはただの妄想だった。

 分かってはいるが、その胸に頭をのせて、彼女から贈られる愛情を甘受しながら浅い眠りへと落ち込んでいく………。



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