◎ 冬
愛をもとめる心は
かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、
それはそれはなつかしい
おおきな海のような感情である 日も大分高くなったクリスマスの朝…否、もう昼だったろうか。
ペッタリと厚みなく床に落ちてしまっていた灰色の靴下を見下ろして、(何をしてるんだか)彼は馬鹿馬鹿しい気分になった。つまみあげて、それを屑篭に放る。……一応、今日のために新しく下ろしたものだったのだが。
スネイプ少年は少年なりに、サンタなどいないと知っている年の頃だった。その正体は親の子どもへの愛情であることを知っている。それならば、自分の元にサンタが来ないのは道理であった。
今年で無邪気を演じてみるのはやめようと誓った。
来年になれば、ホグワーツ魔術学校からの入学許可証が来るはずだ。そうすれば、一年を通して家から離れられる。二度とクリスマスをこの家で過ごすものか、と彼は強く思った。
* * *
サンタにも、色々あるのである。
こちらもまた日が高くなったクリスマスの昼下がり。少女だったヨゼファは椅子に座り、机上の腕に頭をのせてもう長いこと動かないでいた。
そこに広がった自分のほつれた髪が、半透明な冬の太陽光を弱く反射させているのが目に入る。その先には、すっかりと萎れてしまったクリスマスローズの花束があった。
昨日、母親に打たれた頬がまだ痛むような気がした。気だけ、である。流石に一晩超えても痛むほどに強く叩かれた訳ではない。
喜ばせようと思っただけなのだ。否、ご機嫌取りとも言えるのだろうか。
幼い彼女には、プレゼントを買うためのお金など無かったから。庭に咲いている綺麗な白い花で花束を作って、母親にクリスマスプレゼントを、と思って渡したのだ。
その花がまさか亡き父親が大切にしていたものなんて知らなかった。勝手に花を手折ったヨゼファのことを、母親はきつく叱った。
(何をしてるんだか。)
そう考えて、ヨゼファは瞳をそっと閉じる。全て裏目に出て、喜ばせるどころか怒らせて悲しませてしまった。
でもこの気苦労もおしまいだから、と自分を慰める。来年からはホグワーツに入学できるから。そうしたら憂鬱なクリスマスに家に帰る必要はない。
息苦しい親族のパーティに出るのだって今年で最後になるんだから。あともう少し頑張ろう。そう考えて、ヨゼファは萎れた花を屑篭へと放って捨てた。
*
グリフィンドール寮の談話室を、ヨゼファはそっと後にする。
すやすやと眠っている太った
婦人の肖像画を横目で眺め、小さく笑った。
ヨゼファが触りもしないのに、
彼女を収めた絵画の扉は半開きの状態から音もなく閉じていく。
その周囲、夜の闇がわだかまる石壁に血液の魔法陣が滲んで蠢いた。ヨゼファが弱く笑いかけると、百足のように壁面を這いずっていた図象は再び壁面の中…影の中へと沈む。
「失礼…しました。」
ほとんど唇の動きだけでこの寮の
守護人である太った
婦人に謝罪する。
教員とはいえ、出身寮及び担当の寮ではない談話室に出入りする行為は褒められたものではない。ヨゼファにその弁えはあったが、
クリスマスの夜だけは、と思って早四年近く。
(えこひいきも良くないとは思ってるんだけれどね。でも…多くの人たちと同様、私にとってもあの子は特別なんだわ。)
ホグワーツに訪れる前の…ハリーにとってのクリスマスがどんなにつまらないものであったかを知っているからだろうか。そしてそれを自分に重ねてしまっているのだろうか。
(私がどうこうしなくたって、あの子にプレゼントをあげたい大人は大勢いるんだけれど。)
不思議ね、
ヨゼファは呟いた。不思議な子だわ、と自分すら聞き取れないほどの囁き声で。
ヨゼファはグリフィンドール寮の
領域から立ち去るべく歩き出した。黒いピンヒールが固い無作法な音を立てないよう、色濃い影が彼女の足元を包み込んでその動きに従って蠢く。この場所に線引かれて久しい血液の図象を引き摺らせながら。
Douce nuit, Sainte Nuite…
C'est Noël, C'est Noël
Que la Paix soit éternelle… 廊下を歩きながら、ヨゼファはクリスマスソングを小さく口ずさんだ。
辺りの暗闇はしんとして沈黙だった。ゴーストの気配すらない。黒く冷たい窓ガラスの向こうでは、月明かりを透かした青白い雪が降り続けている。
ひんやりと冷たい大理石の螺旋階段を降りてエントランスに至る。
吹き抜けには巨大な白いツリーが、鈴なりのオーナメントやクリスマスボール、そしてプレゼントの箱を実らせて天井近くまで聳えていた。
クリスマスに家に帰らない生徒たちのためのヨゼファの魔法である。毎年この時期の恒例だった。
生徒たちは勿論喜んでくれた。可愛い彼らの笑顔がヨゼファにとっての何よりのクリスマスプレゼントである……、と、我ながら善人ぶったことを考えるものだと胸中で苦笑する。しかし本心だから、仕方がないことだ。
飾り気のない白木の細い杖を懐から取り出し、彼女は天上へと光を放つ。
毎度のことだか、その光の体積が膨大なために花火を打ち上げたかのように広い範囲が照らし出された。天上に到達した光は青白い飛沫を降らせながら巨大な鯨へと形を変化させる。
やがて中空を泳ぐ鯨が落としていく光の粒がこのグランドフロアーへと積もり始め、室内にも関わらず積雪したような光景が辺りへと広がっていく。
「良い子のところにはサンタさんが来るものでしょう…。プレゼントを届けに。」
必ずね。
ヨゼファは懐から円形のメモ帳を取り出し、そこから一枚の魔法陣を光の積雪の中へと離す。
鋳物のガーデンチェアとテーブルが伴って現れ、その上に白いクロスが軽やかにふわりと落ちてくる。
「大人ですもの、もう少し必要なものがあるわよね。」
ヨゼファの言葉に応じて現れるのは深緑色のガラスのボトルだった。それを両手で取り上げ、彼女は満足そうに笑う。三年ものの若いワインだが、れっきとしたアルザスのシャトー製である。
ボトルに続いて青い闇の中へと降りて来るのはふざけたような赤いサンタ帽とヒゲだった。ボトルをテーブルに、空いた掌で帽子を受け止め、ヨゼファは穏やかな気持ちでそっと瞼を下ろした。
*
二人は、互いのことをじっと見つめ合っては押し黙り動かずにいた。
ヨゼファは……この硬直した状態をどうしたものかと思案するらしい。しかし何をするでもなく、中空に浮かぶ魔法陣の縁に肘をついては自身の白いつけ髭…もちろんつけ髭である…の毛先を指先でクリクリと捻った。
「…………で?」
最初に沈黙を破ったのはスネイプの方だった。
彼は枕元の小さい灯を点けては就寝前の読書中だった。ベッドの上で半身を起した三角座りの状態で、サワサワと光って畝る魔法陣の中、胸から上を覗かせるヨゼファへと言葉をかけた。
「で?って言われてもねえ。」
ヨゼファは軽く溜め息をして肘をつく手を変えては斜め上を見る。やがてにこりと笑って、人差し指を軽く立ててみせた。
「とりあえず……サンタさんなんだけれど、部屋に入っても良い?」
「断る」
「痛い!」
強い語彙で噛み付くように断った上で掌中の本の背でその頭を殴りつける。手加減しないわけではなかったが、鈍い音が鳴り彼女は間抜けな悲鳴を上げた。
ヨゼファは溜め息しつつ痛むらしい箇所を掌で摩り労ってから、今度は両手で魔法陣の外周に頬杖をついて「困ったわぁ…」と呟く。
「じゃあ…ヨンタさんなんだけど、部屋に入れてちょうだいよ。」
「サンタもヨンタもゴンタもお断りだ、とっとと帰りたまえ。」
「せっかくフィンランドから来たのに?」
「呼んだ覚えはない。」
「まあちょっと聞きなさいよ、大変だったんだから。イギリスと逆方向に行っちゃってね、ソビエトとの国境線上の空で迎撃されかけたり」
「そのまま海に落とされて鮭の栄養になれば良かったな、サーモンとなって少しは人の役に立つ」
「貴方ひどいこと言ってる自覚あるのかしら。」
「それなりに」
「あるから性質悪いのよね、そうやって人のこと虐めてばかりいると罰が当たるわ」
「ほう…。例えばどのような」
「呼んでもいないサンタが毎年やって来ます。」
「なるほどそれは恐ろしい。」
「………。毎年よ、去年も一昨年も。」
彼と対照的に表情を穏やかにして、ヨゼファは言葉を続けた。
「貴方はなんだかんだで付き合ってくれたじゃない。今年もそうだって、サンタさんは信じてるんだけれど…。」
スネイプはうっすらと目を細めては眉間の皺の溝を深める。そのまま、二人はまたしても魔法陣の円形越しに互いを見つめ合っては沈黙した。
ヨゼファは笑顔のまま、彼の方へゆっくりと右手を伸ばした。掌を差し伸べては、取るように視線で促してくる。
「さあ姫、お手を。」
囁かれるので、小さな声で「誰が姫だ、」とぼやき返した。
色の悪い掌に触れると、そこはいつものように人間の皮膚とは思えないほど冷え冷えとしている。温めるために弱く握って、少しの時間が経過した。
二人の体温が混ざり合い、彼女の手がしっとりと人間らしい温度に移り変わった頃、強い力で握り返される。
腕を引かれるので、逆らわずに彼女に身体を任せれば繋がった手と同様に力強く肉体を抱き寄せられた。
その肩に頭をのせ、思わず小さく息を吐く。そっと髪を指先で流され、現れた耳殻に口付けがなされる。そのまま…その囁き声のままで、彼女は言葉を落としていくのだ。
クリスマスの夜にようこそ、良い子のセブルス君。* * *
この言葉を贈られるようになって、何回目のクリスマスだろうか。
毎年この時期の積雪は根深い。白色が音という音を飲み込んでしまう静寂の深夜に差し掛かった時刻、スネイプはそろそろだろうかと考えながら本の文字列を視線でなぞるだけの行為を繰り返していた。
辺りの闇の青さが一層深まり、更にしめやかになるのはヨゼファの守護霊が出現する際の特徴だった。
余りにも大きな白い鯨である、確か白色のナガスクジラは地球史上で最も大きな体躯をもっているはずだから、彼女の守護霊もまたこの地球上で一番に大きいものといえるだろうか……。
---------------------魔法の円い陣形へと引き上げられる際に抱えられていた所為で、まだ足が地面についていなかった。
毎度のことだが、大の大人の男を難なく抱え上げられる力の強さには感心する。……が、勘弁して欲しいと思った。仄かな苛立ちを伝えるために、彼女の口元にぶら下がる白い髭を前置きなく強引に毟り取る。
「痛い!!」
皮膚に直に糊づけでもしていたのか、ベリという音ともにヨゼファは今夜二度目となる痛みを訴える悲鳴を上げた。
「さっさと下ろせ、この間抜け。」
「はいはい、ごめんなさいね。」
溜め息混じりに謝罪しながら彼女はその言葉に従う。
改めて自分の足で立ち上がった大広間の吹き抜けには青白い光が雪のように降り積もっていた。遥か上の天井付近には巨大な白い鯨が泳いでいる。あれが時折吹き上げる飛沫が透明色の光の結晶となって下へと降りてくるのだ。
「………。前から思っていた。」
「なにを?」
「つくづく大きな鯨だ。」
「そうねぇ…、
牝鹿ちゃんなんて一口でペロリと食べちゃえるのよ。」
何かを含んだ表情で肩に手を置かれるのでそれを軽く払った。彼女はまだ一口も飲んでいないにも関わらず妙に上機嫌な面持ちで笑うだけである。
少しの間視線で何かを応酬してから溜め息をして、続けて言葉を口にする。
「………初めて…」
ヨゼファは視線だけこちらに向けて聞いていることを表した。彼女が鋳物の机上に置かれていた緑色の瓶を慣れた手つきで開栓するのを見守りながら、スネイプはポツリと呟く。
「初めて守護霊が現れたときのことを覚えているか。」
「よく覚えているわよ。貴方は?」
「同じくとてもよく覚えている。その時のことを聞いてくれるなよ。」
「ええ、聞かないわ。」
ヨゼファは穏やかな笑みを絶やさずに応対した。
やがて彼女が深い紅色を蓄えたグラスをふたつ持ってスネイプの傍へと戻ってくる。受け取ることはせず、代わりにその頭へと手を伸ばす。ヨゼファは不思議そうに彼の掌の行方を目で追った。
彼女の頭にのっていたふざけた赤い帽子を取り去る。ヨゼファは瞬きを数回して少し肩をすくめるが、彼の行動への言及はしなかった。
今一度促されて冷たいグラスを受け取った。乾杯、と差し出されたものと軽く合わせて、冷たい音を鳴らす。
「メリークリスマスね。」
「毎年飽きずによくもやってくれる。」
白い粉雪がさらさらと落ちてくる天井と、そこに向かって聳える巨大なツリーを見上げてスネイプは零した。
彼女は眉を下げて笑い、「好きだからね」と応えた。
今度は、ヨゼファの手がこちらに伸びてきた。
彼女はスネイプの肩の粉雪を軽く払ってから、指を頬へと触れさせてくる。
冷たい、と思うがそのままにさせておいた。やがて自らの体温がヨゼファの皮膚へと移っていく感覚に感じ入る。
「貴方が好きだからね。」
彼女は小さな声で零して、笑みに心弱さを滲ませる。
「私は貴方が好きだから、いつも必死だわ。」
手を下ろしたヨゼファは瞳を伏せて、青い闇に浸されて黒ずんで見えるグラスの中身を見下ろした。
それを一口で煽るので、ゴクリと喉が鳴る音が静寂の中で聞こえる。
詰襟の下で青白い喉が上下したのだろう。そこを締め上げる時の感覚を生々しく思い出しながら、スネイプは弱く首を横に振った。
『ヨゼファ』 長い間言えない言葉が、今夜も闇の底へと沈んで行く。
そうして何度沈めても浮かび上がるのだ。
泡のように、鈍い音を立てながら。
*
静かな声だった。
女性にしては少し低く、もう若くはなく、けれどもゆっくりとしていて聞き取りやすい。
異国の血が混ざる彼女の綺麗な発音は、どこか音楽のような心地良さがあった。
「おはよう、ヨゼファ…。」
毛布の下からでも辺りの凍てついた空気を覚えるほどに冷え切った朝だった。
冬がまた一段深まったことを感じつつ、スネイプはシーツの下、自らの隣に緩やかな膨らみを作る彼女へと言葉をかける。寝起き故、掠れた声で朝の挨拶を。
「寒い…、確かにそうだ。待っていろ。今火を……」
ポツポツとヨゼファへと向けたものなのか独り言なのか…判別の難しい言葉を漏らしつつ、スネイプは冷え冷えとした空気の中へと身体を起こす。
閉め切った鎧戸を開けば、霜がびっしりと降りた葉や赤い実がなった柊もどきの枝など、無遠慮に生い茂る樹々が目に付くが、その他にこれと言って数え立てるほどのものはほとんどない。つまらない景色である。
ガラス窓を閉めて自宅の寝室へと視線を戻せば、こちらも代わり映えなく極めて単調、極めて狭く灰色の見慣れた景色が目に入る。
暖炉は手入れも掃除もろくにしていない。だから燃え尽きた炭が灰になって疎らに辺りを汚している。
不潔は嫌いだった。
更にここ十年弱ほどはヨゼファがバカンス中に大凡の掃除をしてくれていたから、こうも雑然とした自宅の風景は本当に久しぶりに目の当たりにする。
………そう、自分が子どもだった時だ。
かつてはこの暖炉の炎も金色に暖かく燃えて、マントルピースは時計や陶器の人形で飾られていたのかもしれないが。スネイプは思い出せなかった。暖炉にも関わらず冷え冷えとして、湿った燃料が煙たく燻る光景しか思い出すことが出来ない。
やがて、汚れた暖炉に赤い火が灯る。何も考えずにそれを暫し眺める。燃料が焼けて、内側から爆ぜて分解するのをただただ見ていた。
「……ヨゼファ。もう…暖かく、なっただろうか…。」
この部屋は。
問いかけながら、スネイプはベッドへと戻る。
そしてヨゼファを隠していたシーツを持ち上げ、中から彼女を
取り出した。
女性にしては大きな掌をスネイプは見下ろし、弱く溜め息をした。
指と指をからませるようにして握るが、握り返されることはない。
--------------------不思議なことに、掌だけとなった彼女の肉体は腐らなかった。
それはスネイプを期待のような不安のような、なんとも言えない気持ちにさせる。
(魂はまだ生きているのかもしれぬ。)
気が付くとこの静かな家の脈拍のように時計が分秒を刻む音がしている。どこに時計があるのだろうか。
彼女がいなくなってしまってから無為に過ごす中、自宅のことすらも曖昧になってしまったのか。否、昔からこの場所にさして興味などない。いつでも、ここではないどこか、別の場所に行きたかった。
時計は……濃い樺色の壁にはどこにもない。(ああ、)あれだ、あのサイドテーブルの上の置時計だ。
埃をかぶりながらも時を刻み続けるその横に、最早なんの意味も持たない薄い銀盤が鈍く光っている。細かい魔法陣が装飾的に彫金された溝には、時計と同様に埃がすっかりと白く溜まってしまっていた。
スネイプはヨゼファの冷たい掌を持ったまま、今一度くったりとした毛布が重なるベッドへと腰を下ろした。
『愛している』 その言葉は、終ぞ彼女からしか受け取ることは無かった。
想う人間に想われることは、そうだ、こんなにも幸福を伴うものだったのだ……。
『私の素敵な人』 一向に温まらないヨゼファの掌を擦ってどうにか自分の体温を移そうとしながら、スネイプは彼女の名前をポツリと呼んだ。
認めることなどできそうにもない。
二度と会うことも声を聞くことも叶わないのだと。
(君が私を置いていくなど)
花より先に実がなるような、種子の先に芽のでるような、冬より先に春がくるような。そんな理屈に合わない不自然を、どうかしないでいて欲しい。
「私のことが好きなんだろう…。」
自らの膝の上に行儀よくのっているヨゼファの手へ、スネイプは確認するように呼びかけた。
「愛しているんだろう?ヨゼファ。」
だが何度聞いても返事などない。
ヨゼファの手なのに。ヨゼファの手のくせに。
握り返す仕草ひとつも為してくれないなんて。
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