骨の在処は海の底 | ナノ
 コバルトブルー

「僕を見てくれ」


 その言葉は、しばらくの間ハリーの内側にポッカリと浮かび続けて消えないでいた。


 既に、スネイプは事切れているらしい……


 彼と視線の高さを同じくして、瞳の中をじっと覗き込んでいたハリーの頭の後ろから、ゆっくりと腕が伸びてくる。

 後ろを振り向かなくてもそれが誰の腕なのかハリーには分かっていた。

 闇の印を隠すために夏でも手首まで隠していた長い手袋。黒いローブの袖。頑なに全身黒色の服を纏う魔法使いはこの学校で二人しかいなかった。そのうち一人は、今ハリーの目の前で死んでいる。


 指先まで黒い魔法陣が刻まれた掌で、彼女はスネイプの目元をそっと覆った。

 そして空いている方の手で背後からハリーの肩を抱き、しばらくそのままでじっとする。

 スネイプとヨゼファ、身体の大きな二人の黒衣の魔法使いにハリーは前と後ろを挟まれるが、不思議と圧迫感や閉塞感は感じなかった。


 やがてヨゼファは蒼白なスネイプの顔からそろりと指を遠ざける。

 半眼のままだった瞳は彼女の手によって瞼を下ろされたらしい。

 ヨゼファは立ち上がり、ハリーの後ろからスネイプの傍に至った。膝を折り、まだ幾許かの生気の名残を感じさせる彼の顔を少しの間眺めていたが、やがて労わるようにその頬をゆったりと撫でる。


「よく頑張ったわね…。」


 彼女がスネイプへと向けた聞き届けられることのない声は、ほとんど息遣いのようだった。

丁寧に彼の身体を横たえ、自身の上衣を脱いでかけてやっているヨゼファの表情は不思議に穏やかである。


  
 ヨゼファはまだ床に膝をついたままのハリーへと、視線を下ろした。

 その真っ赤な虹彩の中、金色の瞳孔が縦に細長く開いている。黒い髪の中に浮かぶ蒼白な顔面の右半分もついに黒い魔術に侵食され、魔法陣が不自然な模様となって刻まれていた。最早、そこから昔日のヨゼファの姿を想像することは容易ではない。


「ハリー、おかえり。」


 ヨゼファはそう言って、彼が立ち上がるのを助けるためにグロテスクな右手を差し出す。

 姿形の面影は全く残されていないのに、ゆっくりとした所作や落ち着いた口調は間違いなく彼女のそれである。

 ハリーは無言でその手を取り、立ち上がった。


「…頬が切れているわ。」


 彼の顔を覗き込んでヨゼファは呟く。びっくりするほど冷たい指で頬を撫でられると、確かに傷付いていた皮膚は癒えていくらしい。痛みが消えたそこを、ハリーは手で触れて確認する。


「どうも…、ありがとうございます。」


 礼を述べると、ヨゼファは微笑んで緩く首を横に振った。


 そして沈黙である。

 おおよそ一年ぶりの再会にも関わらず、二人は語るべき多くの言葉を持ち合わせていなかった。

 ハリーはヨゼファのローブの下で眠るように死んでいるスネイプへと視線を落とす。彼女もそれに伴って同じように。

 スネイプのことを見るヨゼファの赤い瞳は凶暴なほどの鮮やかさだったが…それでも、親しみを持って優しく細められている。短くはない付き合いのハリーにはそれが分かった。


「ヨゼファ先生。」


 呼びかけると、視線だけをこちらに向けて彼女は応える。


「あの…先生と、スネイプは……」

「スネイプ先生と…呼んであげてちょうだい。」


 ハリーは素直に頷き、彼女の言葉に応えた。


「…………。スネイプ先生とヨゼファ先生は……一体、。どんな」

「そうね…。私と彼の関係を、名状するのは少し難しいの。」


 ヨゼファは苦笑し、少し首を傾げる。


「でも強いて言うならばきょうだいに近かったのかしら。似た者同士、なんだか気が合ったのよ。」


 肩をすくめて彼女は言う。どこか清々しく、憑き物が落ちたようにすっきりとした表情だった。


「さてハリー。貴方もここまでよく頑張ったわね…。本当に、とても偉いわ。」


 ヨゼファはハリーの双肩に手を置いて、静かな声色のままで続ける。

 ハリーは彼女の言葉を黙って聞いていた。


「ここまで至った貴方なら、全てをやり遂げられると私は確信している。貴方には貴方の味方が沢山いるもの。それはハリーがこの七年間、この学校で精一杯に過ごしてきた七年間…貴方の実直で暖かい人柄が築いた、かけがえのない財産ね。」


 彼女はハリーから離れ、この場を後にするらしい。

 一度振り返り、「残ったことを片付けちゃいなさい、後もうひと頑張りよ。」と場違いに明るい口調で言う。

 懐かしい、教師らしいヨゼファの物言いだった。かつての幸せなホグワーツでの生活を思い出しそうになり、ハリーは胸がつかえた。


「先生は…?」


 ようやく、それだけ質問する。ヨゼファは顔だけこちらに向けたまま、「うーん…」と答えを探すように天井へと視線を向ける。


「そうねえ…。私も私のやるべきことを終わらせてくるわ。運が良ければ、また後で会いましょうね。」


 愛想よく手を振っては再び歩き出すヨゼファの足下に、黒い影がズルズルと様々に形を歪めて付き従った。床石を汚していたスネイプの血液もその中へと紛れ込み、引き摺られていく。


 ハリーは残された室内で、スネイプから受け取った…その魂の欠片を収めた小瓶を改めて観察した。

 それから、既に生気を感じさせない彼の遺骸へと視線を向ける。

 この記憶を覗けば、ヨゼファと彼との関係も明らかになるのだろうか。いつか友人たちと話したように、スネイプとヨゼファが恋人のような関係だとは…ハリーにはまだ、考えられなかったが。

 だが、この二人の教師は揃って自分の内面を人に見せない性質の持ち主である。スネイプは元より、ヨゼファもまた…接しやすい人柄だったが、自らを語ることはほとんどしなかった。

 自分が彼らについて知っていることなどほとんど無いのだと、ハリーはこの時にふと気が付いた。













 ----------------黒い雨が---降っている。

 違う、これは雨ではなくスネイプの髪だ。

 黒い髪が、下を向く彼の肉の気配の希薄な輪郭へと落ち込んでいる。その身体に組み敷かれているヨゼファの方へ、雨のように真っ直ぐと垂れて。

 憂いの篩の中で再現されたスネイプの記憶の中でその視界に同化していたハリーは、彼に首を絞め上げられているヨゼファが辛苦に堪える有様をまざまざと見せつけられていた。

 同化しているのは視界だけでなく、その思考もまたハリーには読み取ることができた。否…これは最早声となって耳で聞こえたものだったのだろうか。

 とにかく、たった一言。

 それだけをスネイプは土砂降りの雨のように、自分の身体の下にいるヨゼファへと絶え間なく繰り返していた。だが彼女には聞こえていない。どちらにせよ、今の状態ではそれどころではないだろう。

 やがて本当に雨が降ったのか…ヨゼファの顔に一滴、更に数滴、水が垂れる。


 それに気が付いたらしく、目を閉じて苦痛を堪えていた彼女がゆっくりと瞼を開いた。

 暗闇の中で、深い青色の瞳がこちらを…スネイプを捉えている。ヨゼファは自分の顔を濡らしていた彼の涙を指先で確かめてから、手を伸ばしてくる。

 その首を指が白くなるほどに締め上げていたスネイプの拘束が解かれた。ヨゼファはひどく辛そうにして呼吸を乱すが、それでも『きょうだい』と揶揄した男を抱き寄せるらしい。

 彼女の胸の上へと、スネイプの滲んで訳の分からなくなった視界が引き寄せられる。


『ヨゼファ、』


 今度は確かに発せられた彼の声だった。

 よほど首を絞めた人間の方が苦しそうに喘いで、その名前を繰り返して呼んでいる。



 昔から今までを順繰りに、ハリーの母リリーを中心に辿ってきたスネイプの記憶だったが、唐突に現れたそのセンセーショナルな光景を境に急速に不安定な様相を見せ始める。

 スネイプの視点から弾き出されたハリーは、それを元のように傍観者として観察する。これまで見てきた整理された記憶とは異なり、最早それは順番、景色、スネイプの思考、全てが入り乱れてハリーには訳が分からなかった。

 だが、それはヨゼファその人を中心にしているようだった。ほんのつい先ほど相見えたような、黒く長い髪を持つ彼女の昨日の姿もあれば、廊下で生徒たちと談笑するかつての馴染み深い姿もある。

 次々と場面が目紛しく変わるので詳細は理解が及ばないが、よほどスネイプはヨゼファのことを観察して毎日生活していたのだろうか。彼女の日常の中の小さな所作やなんでもないような行動など、細かすぎる記憶の断片の羅列が延々と続いていく。


 ………ヨゼファとスネイプは…。ハリーが想像した以上に二人の時間を持っていたようだった。

 彼女はスネイプの前でもよく笑う女性だったが、表情を無にすることが時たまあった。少しの疲れを、彼の前では出すことを自分に許していたらしい。逆に、ハリーが終ぞその笑顔を見ることがなかったスネイプは時折笑っていた。

 そして、夜が多かった。

 雨の日も多かった。

 暗がりの中に灯る頼りない明かりの側で、二人は短くはない時間を共有していた。



『でも強いて言うならばきょうだいに近かったのかしら。』



 一定の距離を保ち、黒衣のホグワーツの教師二人は廊下を歩んでいく。

 すれ違う生徒にそれぞれの挨拶をしていく彼らの横顔を、装飾的なアーチから斜めに差し込む日光が弱く照らしていた。



『似た者同士、なんだか気が合ったのよ。』



 ヨゼファが、スネイプの手首を握っている。

 先ほどと同じくそれはホグワーツの廊下での光景だった。

 だが時代が違うことが、ホグワーツの制服に身を包んだ彼ら二人の若々しい姿から簡単に見て取れる。


 振り向いたスネイプの顔は今現在以上に色が悪く人間味がない。

 ヨゼファの長い灰色の髪が、風に煽られて沙耶と揺れていた。

 彼と瞳が合うと申し訳なさそうに…けれど何故か嬉しそうに笑っては目を細める。

 そして何かを言おうと唇を開くのだ。


(…………唇。これが…。)


 ハリーがよくよく知っている彼女はいつも深い赤色の紅を引いていたから、忘れていた。

 本来はこんな・・・にも希薄で、色味も血の気も無い色をしていたのだ。


 ヨゼファの髪は鈍色で肌もほとんど色が無い。スネイプも同じく、肌にも髪にも瞳にも、人間らしい血の通った色が無かった。

 二人が着ているローブは黒、胸元のタイだけが濃緑色だった。

 まるで、モノクロームの写真を眺めているような彩度の低い世界である。


 二人だけが佇む廊下を冬の灰色の光が不透明に照らしている。細い柱に支えられたアーチは、石の床へとその複雑な装飾をまとった影を落としていた。


 辺りは静寂で物音ひとつしないのに、スネイプへと語りかけるヨゼファの声がどうしても聞こえない。


(そうだ………。)


(この時のヨゼファ先生には、声が無い。)


 やがてスネイプが、彼女の腕を振り払っては一瞥もせずにその場から歩き出してしまう。

 残されたヨゼファは彼の背中をじっと見つめては、軽く手を振って見送るらしかった。そして目を伏せて、笑顔に淡い寂しさを忍ばせる。



 ハリーは足元から吸い込まれるようにしてその世界から抜け落ち、スネイプの心の欠片の世界から離脱する。

 憂いの篩の縁に体重を預け、暫くそのまま身動き出来ずにいた。

 声なき声で、彼女は一体…なにを伝えるつもりだったのだろうか。


 やがて緩慢に指先を動かし……ジャケットの胸の裏に縫われたポケットに触れて、中身をゆっくりと取り出した。

 今の今まで存在を忘れてしまうほどに小さくて、手に収まりが良い書籍である。

 聖書バイブルと記述されている背表紙をなぞる彼の指先は微かに震えていた。


 ………ヨゼファからこれを譲り受けた日から、一度としてこの双子匣の片割れを開けたことは無い。

 シリウスを想起させるこのマテリアルを、ハリーは意識的に忘れようとしていたのかもしれない。


 開けば、霊験粗方な祝詞ではなく黒く四角い穴がぽっかりと顔を出す。

 指の震えは治らないままだが、ハリーはその中へと手を入れる。

 深い穴だった。肩の辺りまで匣の中に沈め、ようやく指先に触ったものをつまんで取り出す。

 それは見慣れた人差し指ほどの細さの小さな瓶だった。


 ----------------- 一年生の魔法図象学の課題の中でも、重要なのがそれぞれの基調色の見極めだった。

 描く色によって魔法の効果は異なるから、自ずと自分が得意なものがそこから分かる。


「でも『得意』と『好き』は違っても良いのよ。」


「『好き』が『得意』になることも往々にしてあるし。『得意』が変わることだって普通だわ。」



 皆…一年生のうちは、ヨゼファに顔料を調合してもらう。生徒の名前が記されたラベルには、それぞれの個性を表す小さなイラストが入れられているのが、妙に子供心には楽しかったのだ。それぞれ、何が描かれていたかを見せ合って会話に花を咲かせていた。


(黄金のスニッチだった…。)


 ハリーの特徴とも言える眼鏡でも稲妻型の傷でもなく、グリフィンドール寮のシーカーである象徴が描かれていたのが嬉しかったことをぼんやりと思い出しながら…今一度、その小さな瓶を彼は観察する。

 中に入っているのは宝石や木の根を砕いて作られた顔彩ではなく、緩やかに渦巻く白い靄だった。何も書かれていない、青色の縁を持つラベルが貼られている。


 説明がなくてもこれが何か、誰の記憶なのかハリーには分かっていた。


 でも何故、と考えて……思い当たる。


(シリウスだ。)


 この匣は、シリウスが持つ双子匣に続いている。

 ヨゼファとシリウスは親友だった。

 彼女は、シリウスに見て欲しかったのだ。


 だが蝋で閉じられたガラスの蓋にそれを開いた形跡はない。これを見届けることはなく、シリウスはいなくなってしまったらしい。そして今、ヨゼファの記憶はハリーへと託されている。


 ハリーは静かな気持ちになって、掌中の透明色の瓶へと視線を落とす。

 これを見ることは正直に言えば空恐ろしかった。一体、どのような記憶が今のヨゼファを形作っているのだろうか。

 彼女を嫌いになりたくなかった。軽蔑するようなことはしたくない。


(………………………。)


 ハリーは、霞みがかった靄を緩く渦巻かせている憂いの篩へと再び向き合っては覗き込む。

 瓶を閉じた蝋を、傍で燃えていた灯りでゆっくりと溶かしていく。


 シリウスに、ヨゼファが渡した記憶だった。

 彼であればと思って託したのだろう。それならば自分も受け入れることができるとハリーは思った。


 ガラス瓶の中の記憶はミルク色の霧になって篩の底へと吸い込まれていく。波打つ篩の表面を、ハリーは指先で撫でた。

 するりと、自分の魂がその内側へと降っていくのをハリーは感じ取る。海の底へ沈んでいくような、静かで冷たい感覚と共に。


* * *


 樹々からは金色の木漏れ日が溢れる、穏やかな冬の日のことだった。

 ホグワーツの制服に身を包んでいた頃の齢のヨゼファは…黒い森の近く、すり鉢状になった草原の中心の湖畔で仰向けに身体を横たえていた。


 冬晴れの眩しさから彼女は手の甲で目元を軽く覆っていたが、やがて溜め息を吐いては半身を起き上げ…少しの間、湖面に映った自分の顔を眺めていた。

 ………やがて彼女は掌で水面をひと払いしてそれをかき消し、立ち上がる。女性的なラインを持ったその立ち姿はハリーがよく知るものに近しかった。

 卒業を目前にヨゼファの肉体は急速な成長を遂げたようである。彼女は胸元に触れ、その形を訝しそうに確かめては気怠げに再び溜め息した。

 そして、掌を胸元から左腕へそろりと移動させる。

 由緒正しい闇祓いの家系のお嬢さま・・・・とは思えぬほど草臥れてほつれてしまっているシャツの袖のボタンを外し、その中に包まれていた黒い闇の印を、彼女はじっと見下ろす。


 冷たい風が、ヨゼファの長い灰色の髪を揺らした。黒い森では風の煽りがしなやかな枝の数々を揺るがし、露に濡れた梢を差し交わすようである。

 彼女は緩慢に顔を上げ、古い油絵に見るように所々が叢立った深い森へと視線を写した。色の悪いその横顔を、冬の柔らかい日光が撫でていく。穏やかに晴れ上がった優しい日和だった。



『生まれて来なければ良かった』



 ともすれば風のざわめきにかき消されるほどの声で彼女は囁く。
 
 それが、声を取り戻したある日から、ヨゼファが口にした数少ないの言葉のうちのひとつだった。



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