◎ 何もない世界
海の底に、お墓があるのをご存知かしら。
魚のお墓よ。
起伏の多い深海で、片方に岩礁がそばだって洞窟のようになり、底は一面の白い砂。藻の類もないわ。
不思議に静かで、暴風の時にもそこだけはひっそりしているの。海底の岩陰。そこに、傷付いたり、病気になった魚たちが身を寄せ合って静かに死んでゆく。
この混沌の底も、似たようなものなのかしらね。
ねえヨゼファ、お利口な犬ね。私をここに連れてきてくれたのよ。
ふわふわで真っ白で、大きくて優しくて。貴方によく似ている。
え…?
そう、どうもありがとう。でもね。それはきっと私が死んでしまっているからよ。
ヨゼファ、貴方こそが綺麗だと私は思うけれども。生きている人間は汚れて、きたないのが当然なの。それが尊いことなのよ。
私はね、ヨゼファのことが好きなの。
とても可哀想なことに、貴方はこの言葉を充分に受け取ることが出来なかった。
だから私が言うわ。
貴方のことを愛している。
不思議そうな顔をするのね。
そうね。だけど当然だわ、私たち、生きている時はほとんど会話も出来なかった。
でも、私はそれからもずっと…今も…貴方のことを見てきたのよ。
どうか謝らないで。私の大切な人たちに優しくしてくれて、ホグワーツを守ってくれて、本当にありがとう。
貴方が苦しんだこと、悲しんだことを、私がとてもよく知っているから。もう、それで充分。
本当によく、まごころを込めて、辛い道をおつとめになったわ。よく苦しみを堪えてきたのね。
そうして私が今、なぜ貴方の前にいるのか分かる?
貴方自身の行い、美しいものと善いものを尊んだその心が、混沌の底の更に底から貴方の魂をほんのひととき引き上げるまでになったのよ。
貴方が自分のことを否定するならば、私はその分だけその否定を否定しなくてはならない。
ヨゼファ、どうか私の声を聞いて。
貴方は教師として、大勢の子どもたちに魔法と奇跡の在り方を教えてきたのでしょう?
それなのにどうして自分の身に奇跡が起こることが信じられないの。
さあ、この光ひとつ差さない暗闇に耳を澄まして。
聞こえるでしょう。聞こえないはずがないわ。
貴方のことを呼んでいるわ。ずっとずっと探して、泣いている。
どうか応えてあげて。
……ああ、お気の毒な人魚の姫さま。決してそんなことを思わないで。
彼に貴方への『愛』が無いのではないのよ。『愛』の出し方が下手なだけだわ。
貴方は私の息子と同じように、愛されるために生まれてきたのだから。結編『水底の闇に咲く』 へ続くclapprev|next