骨の在処は海の底 | ナノ
 ホワイトノイズ

杏のジャムを山を作るように乗せたパンを口に含もうとした瞬間、掌中にあった新聞が背後から伸びてきた手によって奪い去られる。

パンをとりあえず皿の上に戻し、ヨゼファはその方を振り向いた。


「おはようございますミネルバ……。早いですね。」

「おはようヨゼファ。食べながら新聞を読むのはお止しなさい、生徒たちが真似します。」

「それもそうですね…すみません。」


あははと笑ってヨゼファはマクゴナガルから返される新聞を受け取っては畳む。

早朝の大広間の人影は疎らで、差し込む白い光にスマートな輪郭を縁取られた彼女の存在感はひとしおである。

傍を通っていく年若い女生徒が「チェンヴァレン先生また怒られてる!」と楽しそうに声をかけてきた。それに笑顔で応え、朝の挨拶を軽く。


「まあ…でも。世の中には少しずつ良いニュースが増えてきています。朝に新聞を読むささやかな楽しみが日常に戻ってきたのは、喜ばしいことですね。」

背筋の正しい壮年の魔女は表情を柔らかくしてヨゼファの隣に着席する。

ついでに「オレンジはいかが。」と小さめの果実をひとつ差し出されるので、明るい色をしたそれを有り難く受け取った。今が旬である。


「ですがその割に……貴方の顔はどうにも浮かない風に見えますね。」


ナイフを使用してオレンジの皮を剥くヨゼファへと、マクゴナガルは伺うようにして言葉を続けてくる。彼女は暫し手を休めてそれを見つめ返した。そして曖昧に笑う。


「流石です……。ミネルバは本当に女子の気持ちをよく分かって下さいますね。」

「もうヨゼファは女子という年ではないでしょう。」

「確かに。貴方と一緒にいると、まだここの生徒みたいな気持ちになりますよ。」

「それは困ります。貴方はもう少し教師としての自覚を持って、パンにジャムをみっともなく塗り過ぎないこと。」


ヨゼファは皿の上にあった杏のジャムが盛られた自分のパンを横目で見てから、「どうも…これから気を付けます。」と些かバツが悪い気持ちで謝った。

また近くを通り過ぎた別の男子学生が「チェンヴァレン先生、今度は何で怒られてるんですか?」と機嫌良く話しかけてくる。

「今度はって…そんなにいつも怒られてる訳じゃないわよ……。」

とぼやいた後、良い一日をとこれもまた軽く朝の挨拶。


「いえね……。別に大したことじゃないんですよ。ただこのひと月ほどスネイプ先生が大広間で食事を摂っているところを見たことが無いなあと思って。ちゃんと食べてるか…体調を崩していないか少し心配になりますよ。昨晩もひどく具合悪そうでしたし……」


ジャムを多分に乗せたパンを食べつつ、隣のマクゴナガルとの会話を再開させる。

自分のついでに傍にあった彼女のカップへと紅茶を注ぐと、軽く謝礼された。

厳しく固い言動が目立つマクゴナガルだが、小さなことひとつにでも『ありがとう。』と言うのを忘れない律儀さがヨゼファはとても好きだった。


「そうですか。確かに大したことではないですね。」

「……結構辛辣ですよねミネルバは。スネイプ先生が悲しみますよ…。」

「大人なんですから自分の面倒くらい自分で見られるでしょう。貴方は先生なんですから、同業者よりも生徒の心配の方をすべきです。」

「ええ、そちらも勿論諸々と心配ですよ…。なんだか心配することが多いもので…教師っていうのは本当に大変ですね。なってみて身に沁みましたよ。」

「それはご苦労様です。貴方の性格じゃさぞ気苦労が絶えないことでしょうね。」

「全く仰る通りです…。」


はあ、とヨゼファはテーブルに頬杖をついて応えた。

間髪入れずに「行儀が悪いですよ、背筋も伸ばして!」と注意されるのですごすごと腕を下ろす。………確かに結構いつも怒られてるかもしれない…と思いながら。


「………不思議ですね。」


相も変わらず隙が無く美しい所作で食事を続けるマクゴナガルは、少し間を置いてから呟く。

何がですか、とヨゼファは背筋の角度に殊更気を付けて応えた。


「ヨゼファが生徒だった時…私たちはほとんど言葉を交わしませんでしたね。貴方は私の寮の生徒ではありませんでしたし。」

「あまり私は喋りませんでしたからね。シャイだったんです。」

「卒業と同時に貴方がこの学校を離れて戻ってこなかったら、きっともう会うことも無かったでしょう…。貴方が思った以上によく喋ることも、割とズボラなことも、パンにジャムを必要以上に塗り過ぎることも私は預かり知ることが出来なかった。」

「すみません、これからジャムはちょっとだけにしますから……。」

「変な話です。生徒一人ずつにきちんと向き合おうと思っても、私たちは結局彼らの表面しかなぞることは出来ないんですね…。」


………ヨゼファはなんと言って良いか分からずに、静かに目を伏せる彼女の横顔を黙って眺めた。

そして「それは仕様がないですよ…」と小さく呟く。マクゴナガルが横目でこちらを眺めてくるので、暫時瞳が合った。やがて彼女は再び口を開く。


「だから…ヨゼファ。貴方が再びここに戻って来てくれて…立場を違えて出会い直すことが出来て、私はとても嬉しいですよ。」


そう言ってマクゴナガルはゆっくりと微笑んだ。白い朝日が彼女の壮齢に至って尚美しい顔を静かに照らしていく。


「学校は出会いと別れが世の中で最も多く交わる場所ですから。人の縁の儚さと尊さを、私はこの数年…今迄に増して強く思い返しては過ごしています……。」


大広間はまだ人の数は疎らながら、朝食の為にやって来た生徒たちの姿が増えて行くようであった。少しずつ学校が彼らの明るい声に満たされ始めていく。

ヨゼファはマクゴナガルの言葉に応えて笑い、頷いた。


「その気持ち、よく分かりますよ……。」







ハァ、と荒い呼吸をどうにか収めようと深呼吸を繰り返す。

だが自分の喉の奥から蛇のように繰り返される気息は治ることを知らず、スネイプの喉から首にかけてを締め付けるようにして苛んだ。


(何故……!)


恐怖か焦燥か、こめかみが痙攣しているのが分かった。脂汗が流れ落ちてくる額を手の甲で乱暴に拭い、外気に晒された腕の内側を見下ろす。

闇の印は再顕現を認めた一月前よりも更にくっきりと姿を現わし、髑髏の周囲を醜悪な大蛇が鱗を畝らせて這い廻っている。

何故、と再び強く思っては汚い言葉が口先をつく。


(奴はあの晩打ち砕かれたのでは無かったのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・……!!!!)


闇の刻印は囚人の焼印、若しくは刺青に似た痛覚を伝えて来た。だがそんなものは気にならないほどに強い恐怖が脊髄の中、百足のように素早く走り抜けていく。仮に今も彼奴が生存している………その可能性を携えて。


(…………ダンブルドアに相談を…)


そう思って急ぎ立ち上がり、扉へと手を伸ばす。

しかし錆びて碧く変色したノブへと掌をかける前に、それを留めて思考を巡らす。


静かすぎる、と思ったのだ。


もし…仮に全ての死喰い人の腕に自分と同じような痕が浮かび上がり、彼の復活を示唆したのならば。この様に平和な日常が続く筈はない。彼はそれほどのカリスマを備えた人物だった。多くの者が従うだろう。例えその行動が水面下であろうと、不穏な空気、野蛮な行為の気配を隠せる筈がない。


(それならば、賢しく広い視野を持っているあの魔法使い…ダンブルドアが気付かぬ筈はない。)


別の可能性を考える。

自分にだけ、この邪悪な徴しが現れたという。


(この身体の中に、まだ……闇の痕跡が色濃く残っていると……?)


あの晩。

慟哭と共にリリーの屍体を胸に抱き、全ての希望を失ったあの晩だ。

しかし夜が明け自分の腕から闇の印が消え失せていることに気が付き、ふと救われたと思った。

自分のような者も彼女の愛の加護を受けることが出来たのかと…心弱くも嬉しかったのだ。


腕を再び見下ろす。黒を滲ませて蠢く徴しは依然としてそこにある。


(見放されたのか)


ふと心に浮かんだ言葉に耳を澄ますと、周囲の静けさがどっと四方から押し寄せて来る。

それは自分の生き方に迷い続けた日々の中で非常に馴染み深い感覚だった。ここにいてはいけない、けれど行く場所などないという閉塞感。


(リリー………)


この時ばかりは、いつも自分に力を与えてくれる彼女の瞳の色の記憶が辛かった。硬く瞼を下ろし、それを思い出すまいとする。

だが………


(お前の生に何の意味があった?)


(人を傷付け、大事なものひとつも守れずいたずらに生き延びて。)



(僕なんか、いなくなってしまえば良いんだ。)



少年の頃の自分がポツリと胸の内側で零した言葉が、何故か今更思い出される。

それが脳裏に沈んでは浮かび、忘れることが出来ない。







(気分が悪い………)


重い身体を引きずり、なるべく人目を避ける為にスネイプは職員用路を通って移動していた。

学校は人が多過ぎる。昔も今も、好きになれない。


真昼だと言うのに空気の色は悪く、ロサンジュに区切られた窓の外は灰色の空に覆われている。

浅くなる呼吸をどうにかしようと再び深呼吸をした。しかしやはり気分は悪く、気圧の低さ故か頭痛もひどかった。


「あれ、スネイプ先生。」


聞き慣れた声に呼び止められ、スネイプは良い加減にうんざりとした。今は人と話したくなかった。お節介で間抜け面の彼女とはひとしおに。

しかしヨゼファは勿論のこと彼のそんな心象など知る由もなく、いつものように緊張感無く笑ってこちらへと近付いて来る。


「起きられたんですね。今日は体調が悪くて休んでいると伺ったので…ああ、良かった。」


善意に塗れたその言葉にはひどく居た堪れない気持ちにさせられる。スネイプはヨゼファのこう言うところが嫌いだった。今は殊更である。嫌忌を通り越して憎しみを覚えてしまうほどに。


「何か食べましたか?今ちょっとしたものを持って行こうと思っていたんですよ。スープだけでも胃に入れておくと随分良くなりますからね。」


ほら、とヨゼファは両手で持っていた使い込まれた銀製のトレイを少し持ち上げてみせる。その上にはミントン製の白い食器に簡単な食事が乗せられては行儀よく収まっていた。

スネイプは何も応えずに彼女のことを見下ろす。

窓の外では灰色の雲が渦巻き、生理的嫌悪を感じる畝を形作って空を覆っている。ひどい吐き気を覚えた。頭が痛い。腕が痛む。立っているのがやっとだった。


「スネイプ先生…やっぱり顔色ひどいですね。何か用事があるなら私が済ませておきますから、今は部屋に戻って休んだ方が良いですよ……」


ヨゼファはこちらを見つめ返しては殊更心配そうにスネイプの体調を気遣って来る。

彼女の言葉を聞きながら、(まずい、)そう思う。発作が起こる気配がした。壁に手をつき、体重を支えてどうにか姿勢を保った。


「………先生?」


ヨゼファはスネイプの具合のおかしさに気が付いたらしく、焦ったように言ってはトレイを片手で持ち替え掌を伸ばして来た。


………彼女の指先が自分へと触れた瞬間、目の前が真白くなるほどの痛みを徴しに覚える。

思わず呻いて固く目を瞑り、開いてその場から逃れる為にヨゼファの身体を突き飛ばして走り出す。

呼吸は浅く鋭く続き、喉を引き裂くような痛みを伴った。

背後で派手な音がする。彼女が銀の盆を取り落としたのだろう。相当の力を込めたので、場合によっては転んでいるかもしれない。だがそんなことはどうでも良い。今の彼には余裕が無かった。


* * *


スネイプが固い靴音を響かせて走り去った後、残されたヨゼファは「いたた…」と小さく呟きながら尻餅をついて強かに打った箇所を掌でさすった。そうして黒と白のテッセラでモザイクされた床を見下ろす。

銀色の盆は引っ繰り返り、皿は割れてひどい有り様である。おまけに紅茶入りポットが中身をぶちまけている。その中に入っていた熱いニルギリが、彼女の黒いローブに丁度大きなしみをこさえたところであった。

ヨゼファはそこへと視線を移し、「うーん…イギリス…それよりもハンガリーかしら。」と汚れの形を国に見立てては吟味を行った。


(って、こんなことしてる場合じゃないわね。)


よっこいしょと身体を起こして立ち上がると、騒ぎを聞きつけたのか…先程スネイプへと持っていく食事を頂戴する為に立ち寄った厨房の屋敷しもべ妖精たちがこちらを伺っていたことに気が付く。

目が合うと、彼らはひどくびっくりとしてはこちらへと走り寄ってきた。


「あぁーっ、チェンヴァレン先生!!」

「わっ…すみません。床汚しちゃった上に折角用意してもらった食事をダメにしてしまって……。」

「そんなことはどうでも良いのです!お怪我は!?」

「いえ大丈夫ですよ、お気遣いありがとうございます。」


ヨゼファは今片付けますね…と杖を取り出そうとする。しかしそれは「おやめください!!」と言う彼らの言葉に制されてしまった。


「先生に片付けをさせるなど!」

「どうか我々の仕事を取らないでください!」

「私たちが綺麗にしますから!落としたものもきちんと頂きます!!」

「ああ、お召し物も汚れてしまって!すぐにランドリーに連絡を!!」

「代わりのものはお持ちでしょうか?部屋に取りにいかせますか??」


口々に恭しい言葉によって気遣われ、ヨゼファは参ったなあと後頭部をワシワシとかく。


「えっと…。大丈夫です、ここで着替えるわけにもいかないし。」

「それはごもっともです先生!!」

「先生の仰る通りです!」

「先生は老け顔ですが立派な淑女でいらっしゃいますから!!」

(…………私の顔ってそんなに老けてるのかしら。)


それに男でも往来で着替えはしないと思いますよ…と言う言葉を飲み込み、「じゃあせめてここの片付けだけでも……」と言うが、揃いも揃って妖精たちがものすごい勢いで首を横に振るので、心弱く笑ってから「それじゃあよろしくお願いします。」とぺこりと一礼をした。


「でも落としたものは食べちゃダメですよ、お腹壊しますから。」

「いいえ!私どもは落としたものが好物でございますゆえ!!」

「そ、そうですか。差し出がましいことを言って申し訳ないです。」

「とんでもありません先生!」


ヨゼファはフウ、と息を吐き、屋敷しもべ妖精たちに後を任せてそこから歩き出す。

そしてなんだかおかしくて笑ってしまった。この学校はいつでも賑やかでせわしない。昔はさておき、今はそれを居心地が良いものだととしみじみ思う。


しかしどうやら……スネイプはそうでは無いらしい。

彼が神経を摩耗させてしまっているのが手に取るように分かって、ヨゼファはひどく心配だった。



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