骨の在処は海の底 | ナノ
 果てしない物語

 ホグワーツ城は、美しい建築だった。

 緩やかなアーチを描く窓からは陽の光が多く差し込み、廊下の石壁に施された薄肉彫の装飾に優美な陰影を施していく。

 建材はこの土地特有の蜂蜜色の大理石だった。半透明に光る硬い石は気候によってその色を少しずつ違え、一年を通してここに暮らす者を飽きさせない。


 今日は殊更天気が良い日だった。

 中庭へと面した窓から青い空を仰ぎ、スネイプは眩しさから少し目を細める。


 冬が近付く外気は肌寒い。だが陽の下はまだ暖かなようで、生徒たちは束の間の休み時間を緑色が柔らかな草上で思い思いに過ごしている。


 中庭を望む回廊は明るい話し声で満たされていた。

 その中でスネイプはポツリと一人佇み、金色を透明にしたような光に満たされた庭園をぼんやりと眺めている。


 視線の先にはリリーがいた。

 いつしか二人の時間を持つことが難しくなり、やがて会話の頻度も減っていき。はっきりと縁を切られてからは、いつもこうして遠くから眺めるだけだった。近付くことがままならないからこそ、彼女の純真そのものの美しさをより強く実感してならない。


 リリーはいつものように、複数の友人たちと談笑しながら光に包まれた庭の中を歩んでいた。

 今日なら、こんなに綺麗な日和の今日ならば。彼女に話しかけても許されるような予感が忽然と彼の胸の中に浮かび上がる。


 ひんやりとした廊下の暗がりから足を踏み出し、庭園に面した石段をひとつずつ降っていく。

 地面に降り立ち、装飾的なアーチの影が伸びる湿った土の上を踏みしめて、憧れの人がいる場所へ…そろりと歩を進めた。


 だが回廊の影が途切れる金色の草の前でスネイプはふと立ち止まる。


 リリーは彼に気が付いていなかった。友人たちと仲睦まじく額を寄せ合ってはなにかをひそひそと話し、時折花のように明るく笑っては心から楽しそうに…過ぎ行く平穏な日常を甘受している。


(…………遠い)



 ほんの幾許か歩けば、自分は彼女の元へと至るのだろう。

 だがスネイプが佇む冷たい影に覆われた草上と、光に包まれた彼女たちがいる場所には決して隔たらない距離がある。彼はそれをよくよく知っていた。

 光と闇の境界線に立ち、スネイプは憧憬をそのまま形にした少女リリーのことをただ見つめる。


(あれ…、)


 ………そう言えば、あの子はどうしたのだろうかと彼は考えた。

 自分がやってきた回廊の暗がりの方を振り返り、その姿を探して目を凝らす。

 だが彼女はいなかった。

 ささやかな木漏れ日に照らし出された廊下には、二人三人、あるいは四人五人、連れ立っては言葉を交わし、各々の鮮やかな青春を積み重ねて謳歌している生徒たちの姿があるばかりである。


 スネイプは急激に不安な気持ちになる。

 光が差す中庭に背を向け石段を昇り、彼女の姿を探しながら早足に廊下を過っていく。


 そうだ、この廊下である。この階段。沢山の教室、空き教室、開かない教室、優雅な象嵌細工で飾られた石の床がそれらを繋いでいる。自分と同じように、その冷たい床ばかりをじっと見つめながらこの学校の中を歩んでいた人間がいる。

 そう言う人間が、このように賑やかで楽しげで、明るい話し声で満たされた場所にいるはずがなかった。


(そうだ。もっと、人がいなくて……)


 世の中には、正しい道を正しく歩んでいける人間と、そうではない弱い人種がいる。それは人の中で心の底からは安らげない人種なのだ。

 だが学校ホグワーツはどこにも必ず人の気配がある。自分たち・・・・が身を落ち着かせられる場所などはほんの限られたものでしかなかった。


 ----------------この場所はね、学生時代の…友達がいない可哀想なヨゼファちゃんの秘密の場所だったのよ。


 柔らかな陽が広がる緑の芝へと解放された巨大な扉に至り、外へ出る。

 茂る草から覗く赤土にも薄日がさして、古色蒼然たるホグワーツの石階段には苔の青色のさびがある。


 スネイプは石段を二段ほど抜かしては黒いローブを風に泳がせて走った。走る彼の傍を一樹、思うままの針葉樹の枝ぶりが過っていく。

 渡る風に、サラサラと静寂な響きが混ざってくるのが聞こえた。-----------水場が近い。


 だが、共に度々歩んだ湖畔に彼女の姿は無かった。


 立ち止まり、目を見張ってそこを確認する。変わらず、飛び石が影を青い水面に沈めているのが見えるだけである。


(いや、)


 それでも、一度留めた足で薄く湿った草を踏み分けて歩み出す。

 
 ----------------この場所はね、学生時代の…友達がいない可哀想なヨゼファちゃんの秘密の場所だったのよ。


 よく晴れた日和だが空気は冷たく、湖畔の近くはそれも一層感じさせられた。

 水気を孕んだ風が、スネイプの黒いローブの裾へと触っていく。


 すり鉢状で奥まってるからいじめっ子にも見つからないし、静かですごく綺麗。


 風は、昼でも黒い森の方へと渡っていった。ざわざわと樹々が揺れる音が、へんによく聞こえる。


 週末の晴れてる日は一日中ここでぼんやりしてたものだわ---------------
 


「--------- ヨゼファ!!」


 ついに彼女の姿を認め、スネイプはほとんど叫んでその名前を呼んだ。


 こちらに背を向けて踞っていた痩せた肩が反射的にびくりと震える。

 長い、長く伸ばされた白に近い灰色の髪が冷たい風に煽られて揺れている。

 こちらを振り向いた彼女の瞳は青だ、しんとした湖畔と同じ、深い青色の瞳が見開かれてスネイプのことを捉えた。


 ヨゼファは息を飲んでは素早く立ち上がる。


(待て、)


 猛然とその方へと駆けていたスネイプは更に走る速度を上げ、一目散に逃げ出そうとしていたヨゼファの身体を両の腕でしっかりと捕まえる。

 湖畔へと続くすり鉢状の丘陵を駆け下りた速度そのままに行うので、あまりにか細いヨゼファの肢体は彼を支えることなど出来ずに大きく蹌踉めく。それを支えるために抱く力を強くし、自らの胸の中へ引き込んでは更に近くへと抱き寄せた。


「ヨゼファ、」


 冷たい彼女の頬に自らのものを寄せ、「ヨゼファ」繰り返して名前を呼んだ。


 ずっと、この少女・・・・に会いたかったのだ。


 今度こそと思う。今度こそ彼女の言葉を、声にならない言葉を、少しも聞き漏らさずに耳を傾けようと……ずっと、それを願い続けていた。


 少女のヨゼファの身体はスネイプがよく知るものとは比べものにならないほどに頼りなく、小さかった。…もちろん、この年の頃の子どもの中では抜きん出て上背があるのだろうが。だがそれにしても、易々とその身体へと腕は周り、抱き潰してしまえるほどに儚げな肉体だった。


 ……………ふと。


 違和感を覚えて、スネイプはチラと青い湖畔へと視線を落とす。そしてヨゼファの身体が小さく感じるのは道理だと理解した。

 彼女は確かに十代半ばに差し掛かる少女の姿だが、スネイプは四十路手前の…馴染み深い、中年の姿そのままなのである。


 冷静に考えずとも、二十年ほど年の隔たった少女を…しかも一方的にしか面識のない…を突然抱きしめる行為は不審者のそれである。

 スネイプはそろそろと彼女を抱きしめていた腕を解き、不健康に痩せた肉体を解放してやった。


 ヨゼファはポカンと呆気に取られた表情をしていた。かける言葉を探して、スネイプは少しの間考えを巡らす。

 少女の瞳の中に、少しの怯えの色を感じ取ったスネイプはハッとしてその手を握った。…また逃げ出されないかと不安になったのだ。


「あ…心配、しなくても良い。」


 ぎこちない弁明をしながら、スネイプはこの状況をどう説明したものかと思考した。怖がらないでくれ、と続けては、「私は」と自分を掌で示して言う。


「私は…君の、ヨゼファの味方だ。」


 ざわざわと、黒い森が木立を震わせて冷たい風をこちらへと運び続けている。

 ヨゼファは少し首を傾げてから、眉を下げて弱々しく笑った。


 ほんの僅かな力で手を握り返されたのをスネイプは感じ取る。

 彼女は手を繋げたまま、ゆっくりと元のように湖畔の草上へと座り込んだ。伴って、スネイプもまた隣に腰を落ち着かせる。


 ----------------静かだった。


 言葉を持たないヨゼファは、所作からもほとんど音がせずその周りには常に静寂が保たれていた。

 ローブを羽織らない彼女の制服の灰色のカーディガンは草臥れて、袖がほつれている。とても、お嬢さま・・・・のものとは思えなかった。


 ヨゼファは緑色の草をゆったりと編み上げていた。何を作っているのか…と観察する。長さから推測するに首輪か冠か。花は含まれていない。緑色の草だけだ。野花か咲く時期は既に過ぎ去ってしまっていた。

 陽当たりが悪く冷たい湖の傍で、ヨゼファは指先を赤くしながらひとり遊びを続けている。寒さが更に厳しくなっても、恐らくこの場所に通い続けていた。広いホグワーツの敷地の中、ここにしか彼女の居場所は無かったからだ。


 ヨゼファの手の甲に触れてそのまま指先を握ってみれば、案の定ひどく冷たくなっている。「冷たい、」とそのままの感想を呟いた。


「………。あまりにも薄着が過ぎる。」


 スネイプの発言にヨゼファは緩慢に彼を見上げては…また、弱々しい笑みを浮かべる。


「ローブはどうした。…襟巻きは。」

「……………………。」

「君はこうして外で過ごす時間が多いのだろう。」

「……………………。」

「それならば、時節に見合った装いをする必要がある。」


 何故かいつものような……生徒に相対する時のような口ぶりになる。ヨゼファは何も言わず、こちらをじっと眺めるだけだった。

 風が吹くたびに長い髪は沙耶と揺れる。長さは違えど、きっと触れれば…あの、軽く柔らかい指通りのはずだ。ふわりと風に煽られるままのそれを眺めて、スネイプはぼんやりとした気持ちになった。


 自身が羽織る黒いローブを脱いで彼女へと渡す。ヨゼファは瞼を下ろして首を横に振り、『寒くない』と意を示した。


「いや、寒い筈だ。」


 受け取られなかったローブをヨゼファの肩にかけさせ、口を引き結んでは腕を通すように頑と仕草で促した。


「着ていなさい。」


 ヨゼファは不思議そうな表情でスネイプのことを見上げていたが、やがて黒く重たい彼のローブにモタモタとした動作で腕を通していく。

 彼女には大きすぎるローブだった。多いに余る袖からようやく指先を出し、少女は黒いローブの前を合わせては弱く溜め息をした。


 ヨゼファは今再びスネイプの瞳の中を見つめてから、ようやく表情を柔らかくして微笑した。


 ほとんど色味がないような唇だけが動き、彼へと言葉を伝える。

 スネイプは目を細くしてその様を見つめ返した。やがて手を伸ばし、冷たい頬を撫でてから彼女の唇に親指を触れさせる。


「もう一度言ってくれ。」


 促されて、ヨゼファは今一度声なき声を伴って唇を微かに動かした。スネイプは頷き、ゆっくりと手を離してやる。


 少女のヨゼファは掌中で草を編み上げるひとり遊びを再開する。

 黒いローブに埋もれた彼女は、先ほどよりも更に幼い雰囲気になったような感じがした。

 妙な心持ちを覚える。だが、そうだ。今までも無くはなかった。時々。驚くほどいじらしく、可愛らしいと思うことが



 やがて満足いく長さに達したらしく、くるりと輪を作ってみせた少女は隣のスネイプにそれを見せるように掲げた。

「ああ……」

 とだけ間抜けな相槌をするが、これではあまりに気が利いていないと考え「いや、」と言い直す。


「よく…出来ている。ヨゼファは器用だから……」


 ヨゼファは彼の言葉が大層嬉しかったようで、細くなっていた目を更に細くして…くしゃりと笑った。

 幾度となく見た笑い方だった。この気が抜けたような、それでいて心底喜ばしそうな笑顔が好きだった。昔も今と変わらず、目尻に親しみのこもった笑い皺が浮かんでいる。


 彼女は完成した草の冠を持ったままで膝立ちになり、それをスネイプの頭にそっとのせるようだった。

 されるままになっているスネイプの顔をまじまじと眺め、ヨゼファは赤い指をした掌を胸の前で合わせては更に笑みを深くしてひとつ頷いてみせた。


「……………………。」


 やがてスネイプは自らの黒髪の上から緑色の草輪を取り除いて眉根を寄せる。横目でヨゼファのことを見、無言のままその頭の上にのせてやった。


「これは、きっと君の方が似合う。」


 ポツリと呟きながら手を離す時、灰色の髪に指が触れる。想像した通りに、柔らかく優しい肌触りだった。

 彼女は自身の頭上の草冠に手を触れ、目を伏せてはまた…同じ言葉をそっと囁く。スネイプはゆるゆると首を横に振り、構わないと応じた。


(声など、大した問題ではなかった。)


 理解して、スネイプはヨゼファの手を振り払った昔日を思い出す。


(聞こうとさえすれば、彼女は問題なく言葉を伝えることができる。)


 今、どういう訳か、会いたいと願い続けた少女との再会を果たしたのだ。

 そして彼女が何を言いたいのか自分には手に取るように分かる。

 だからこれからは、沢山聞こうと思った。孤独な彼女の魂を少しでも救うために。


 自分が行ってもらったように



「愛している…。」



 胸の内に溜まり続けていた感情が静かに溢れ、自然と言葉が口をついた。



「君を愛している。」



 向き合って、改めてヨゼファへとそれを伝える。そして氷のように冷たくなっていた彼女の掌を両手で取った瞬間、まるで嘘のように大粒の涙が自分の頬を滑ったのを感じた。

 ぼとり、と音がしそうだった。

 それはスネイプの顎から、重なった二人の手の上に落ちる。続いてまたひとつ、ふたつ。



 この

 この、

 たかがたった一言が、

 どうしても言ってやれなくて




 片手はヨゼファと繋げたまま、スネイプは口元を覆って嗚咽しそうな喉を塞ぐ。

 だが抑えきれず口を塞いだ指の隙間からは呻き声が漏れた。引き攣った音が喉の奥で鳴り、スネイプは涙を留めることが出来ないままその場で踞る。


 ヨゼファが焦っているのを気配で感じた。

 彼女は解放されていた左手をスネイプの背へと回し、彼を楽にしようとそこを摩った。その行為のいじらしさに、スネイプは一度離した少女の細い肢体を再び両の腕で力の限りかき抱いた。

 ヨゼファ、とその名前を呼ぶ。ヨゼファ、ヨゼファ。返事は無い。彼女には声が無い。だが弱く抱き返されている。


(優しいから。)


 ヨゼファは本当に優しかった。素直に愛し、素直に信じてくれた。

 暗がりばかりの世間、救いのない人生の上でも、愛情の灯を守り続けた彼女は今の世の中では馬鹿とも言えるのかもしれぬ。だが彼女は馬鹿ではない。暗闇の中自分の灯した小さな光をいつまでも絶やさず、子どもたちを導こうとした立派な先生だった。


 『素敵な人』


 そんな…素晴らしい女性に。愛する人に愛されて、自分の人生は奇跡だったと言うのに。

 
 決してヨゼファに抱いた気持ちは清らかなものではなかった、

 攻撃的で、泥臭くて、あさましく、自分を鏡で覗き込むかのようで向き合うのが恐ろしかった。

 それでも確かに愛だった。愛している。骨の髄から震えるほどに愛おしくて、何にも代え難く……


 『私の素敵な人』


 『セブルス』



 『愛しているわ』











「セブルス!」


 ヨゼファの呼び声に瞳を開けると、彼女は緊張していた面持ちに安堵の色を滲ませてハァ、と息を吐いた。


「大丈夫……?大きな声で呼んでも起きないんだもの、心配したよ。どこか具合が悪いの。」


 そしてスネイプの体調を確かめるために額に掌を当ててはやや片眉を上げる。

 寝起きで頭が回らない彼は、「熱は別にない…」とぼやきながら起き上がってヨゼファへと向き合った。


 ……………。ホグワーツの制服姿だ、だが年の頃は明らかに卒業に近しい……、

 そして自分も同じ、年の、



「それなら良かったけれども。そうだ、貴方が私を探してたって聞いたんだけど…。ごめんね、補習が中々終わらなくて。」

「………普段から勉強してないからこうなるんだ。」

「勉強してるつもりよ…。セブルスと違ってあまり頭の出来が良くないの、特に薬学は本当に苦手だわ。早いところ貴方の爪の垢を煎じて飲ませてちょうだい。」


 補習からの開放感故かヨゼファはいつも以上に明るい声で笑った。

 そして湖畔の木の幹に身体を預けていたスネイプの隣へと腰を下ろす。その際、肩の上で切りそろえられた灰色の髪が柔らかい風にふわふわと揺れた。


「…………ヨゼファ。」

「なにかしらハニー?」

「………………。」

「ごめん、これからはマイスウィートにするね。」

「勘弁してくれ。」

「半分冗談だから安心して大丈夫よ。」

「いや………。喋れないんじゃ…なかったのか。」


 ヨゼファは極上に楽しげな笑顔を不思議そうな表情に変えるが、すぐに「やだ、」と言って可笑しそうに吹き出す。


「もう、寝ぼけてるのね…何年前の話してるの。お陰さまで今はこの通り、貴方がうんざりするほどのお喋りよ。」


 スネイプの顔にかかった黒髪を耳の後ろに流してやりながら、ヨゼファは穏やかに言った。


「私、本当に貴方に感謝してるの…。長い間、根気強く声が出ない私に付き合ってくれて…それで今はこうしてセブルスと沢山話が出来るんだもの、毎日が楽しいわ。」


 ヨゼファは立ち上がり、スネイプへと手を差し出す。「そろそろ夕ご飯だよ、」と笑いかけながら。


「ああ、そうだ。」


 スネイプがその手を取るので立つのを手伝ってやりながら、彼女はまた口を開く。


「それで私を探してた用事ってなに?」


 今は周りに誰もいないからハグでもキスでもどうぞ、と減らず口を続けるヨゼファを横目に…スネイプは少しの間思考を巡らせた。そして「あ、」と呟き、握られていた手を解いて代わりにその両肩を掴む。当然彼女は驚いて、パチパチとした瞬きを数回行った。


「『愛してる』ってまだ、言ってなかった…!!」


 ヨゼファは唐突に声を大きくしたスネイプの顔を不思議そうにして覗き込んだ。そして暫時してから…表情を柔らかく崩して、「ああ、」と相槌した。


「そう言えばそうだね…、今日の午後はまだ言ってもらってなかったかな。」


 あはは、とヨゼファは笑い、肩を掴んでいたスネイプを逆に抱き寄せて「ありがとう。」と礼を述べた。


 スネイプはその抱擁の中で、あれ、と考える。

 だが……やがて、そう言えばそうだった…。と思い出していく。

 親友、パートナー、そして恋人である彼女と過ごした……このホグワーツでの記憶を。


(そうだった、)


 なにか、恐ろしい夢、ひどい悪夢を見ていた心地がした。

 胸を撫で下ろし、安堵からヨゼファの胸に素直に身体を預ける。それに応じて彼女もまた抱き返す力を強くした。


「でもね…セブルス。『愛してる』とか『好き』って、ここぞという時に言うものなんじゃないの。こうも毎日毎時間挨拶みたいに言われると有り難みが薄くなっちゃうかも?」

「じゃあ言わない。」

「嘘よ嘘、これは全部冗談。何度言われたって嬉しい。」


 ヨゼファはスネイプの身体を解放してやり、再びその手を取って笑いかけた。弱く笑い返すと、笑みをくすぐったそうにする。

 彼女は手を繋げたまま歩き出した。従って、隣に並ぶ。


「ねえセブルス。」


 二人の距離を縮めるように身体を寄せ、ヨゼファは彼の名前を呼ぶ。

 ようやく…ほんの少しその身長を追い越したスネイプと彼女の顔の距離は近かった。「あのね、」ヨゼファは目を細めて言葉を続ける。



「あのねセブルス。私もね、貴方のことがずっと。ずっと、
ずっと-------------------------



「スネイプ先生が……っスネイプ先生が目を覚まされたわ、マクゴナガル先生を呼んで!!!!」


 唐突に、耳の内側から湧き上がるように騒音が押し寄せるのでスネイプは唸り声を上げた。

 薄く開いたまなこの視界はぼやぼやとして、状況をうまく掴むことが難しい。


 だが、ここがどこだかはすぐに分かった。


 一体何年……、何十年間この場所で生活をしてきたのだろうか。

 思い出せば辛いことがひとしお多く、だからこそより一層印象深いこの学校のことは隅々まで分かっている。

 この高い天井、大広間だ。

 食事の間、集いの間。天井に投影された空は青かった。よく晴れた日和である。


 その青空が真っ直ぐ視線の先にある。自分は大広間の床に直接敷かれたマットの上に寝かされているようだった。

 そして辺りはざわざわと騒がしい。

 色々な、色々な人間の様々な声がする。誰かが泣いている。誰かが痛みに呻いている。動けるものは怪我人たちを手当てし、死人の前でいつまでも項垂れている友人を懸命に励まそうとしていた。


 視力はいつまでも回復せず、周囲の景色は擦りガラスの向こうにあるかのようだった。

 だが、その原因は自分の瞳の奥から止め処なく流れ続ける涙のせいだと理解する。


「ヨゼファ」


 どこにいるのだろうかと思った。頭を動かしてその姿を探すが見つけることが出来ない。

 焦れた気持ちになり、スネイプは起き上がって彼女を探しに行こうとする。だが身体が言うことをきかなかった。それでも床に手をつき、這々の体で半身だけを起き上げる。


「セブルス、何をしているんです!起き上がってはいけませんよ…!!」


 女生徒からの伝言を受けてやってきたらしいマクゴナガルが、その様を認めてギョッとしたように言う。

 よほど焦ったのか杖を取り出した彼女によって強制的にマットの上に戻されたスネイプは、寝心地が良いとは言えないそこへ強かに右半身を打ち付けて咳き込んだ。


「あ、……申し訳ありません。」


 マクゴナガルは苦しむスネイプに謝罪してはその傍へと至り、視線を近くするために床に膝をついた。


「ですが…ああ。セブルス、本当に良かった。幸いにも貴方の容態は深刻ではないようですよ。血液の量も充分です、怪我の方は少し痛々しい有様でしたが、それもじきに治っていくでしょう。……大丈夫ですよ…全部が終わって、ハリーが貴方のことを話してくれましたから。後は私に任せて、身体を良くすることを第一に考えてください。」


 彼女は興奮しているのか早口に言う。いつも丁寧に髷を作って整えられているその髪は解れ、目元には隈が色濃く浮かんでいた。ずっと眠らずに働いていたことは一目瞭然である。


「………ヨゼファは。」


 スネイプはぼんやりとマクゴナガルを見つめ、掠れた声で尋ねた。


「ヨゼファはどこにいる。」


 マクゴナガルはゆっくりと瞬きをした後、表情を曖昧にさせる。

 少しの沈黙だった。

 辺りは相も変わらず騒がしいと言うのに、柱に垂らされた布による仕切り…恐らくマクゴナガルの気遣いだろう…によって周囲から隠されたここは妙な静けさを湛えている。


「ヨゼファは死にました。」


 マクゴナガルはたった一言で彼の質問に答えた。

 スネイプは半眼で同僚の魔女の顔を見据え、「そうか」と応える。「心配ない。」そして言葉少なに続けた。

 マクゴナガルはその意味を分かり兼ねるのか少し首を傾げる。


「簡単に死ぬような人間ではない…寝ているだけだ、私が起こす。どこにいるんだ、ヨゼファは…、」


 スネイプは掌を床につき、傷付いた身体の不自由さに苦しみつつも再び起き上がろうとした。マクゴナガルはハッとしてその肩を掴んで留める。彼は半身を起き上げた状態で訝しげな表情をしては、些か迷惑そうにした。

 だが老齢の魔女はその細腕に似つかわしくない力でスネイプの両肩を捕まえている。頑として、彼をそこから動かせようとしない。


「セ…セブルス。」


 寝ないで働き続けているせいか、今まで妙に上ずって威勢が良かったマクゴナガルの語気が、聞き取り辛いほどに掠れていた。彼女はスネイプの虚ろな瞳の中をしっかりと見据え、儚げな笑顔を作ってみせる。


「起こすのは……、無理なんです。もう。どこにも、いないんですヨゼファは。わ、わたしが、彼女の身体をひとつずつ集めて、拾いましたから。」


 スネイプから掌を離したマクゴナガルの指先…、爪の中に…、褐色のなにかがこびりついてその皮膚を汚していることに、彼は初めて気が付いた。

 彼女はゆっくり立ち上がり、柱から垂らされた布の向こうへと姿を消す。そして幾許も経たずに帰ってきた。両掌に収まるほどの大きさの、薄汚れた白い布に包まれたなにかを持って。

 それを見た瞬間、スネイプの背中に言いしれぬ悪寒が走った。

 なにか…なにか、ひどく、悪い予感がする。


「ヨゼファは…昔から、大きな子でしたね。守護霊も私が今まで見てきた誰のものよりも大きくて、この大広間を簡単に覆ってしまえるほどの白い鯨だった。」


 マクゴナガルは草臥れた表情をして、再びスネイプの傍へと腰を下ろしては彼へと向き合う。


「でも、その半分も集めてやることが出来なかった。全部合わせても両手で簡単に抱えられてしまう。お腹の中のものや、真珠の飾りがついたままの耳や…柘榴みたいに割れてしまった頭だとか……。あんなに大きな子だったのに。ほんの木っ端のような、なにも分からないくらい細切れになってしまった肉片ばかりで……っ、そ、そのほとんどが、失われてしまった。」


 彼女は声の震えを懸命に抑えようとしている。しかし指先は小刻みに戦慄き、包みの布を解くのに苦労を要しているようだった。

 天井から運ばれてくる白い朝日が、現れゆくものを柔らかい光で包んでいる。

 ぼんやりとした心地のスネイプには、それが石膏像の手か何かのように思えた。青白い掌。よくよく深爪された長い形の爪。女性にしては、……大きな手。


「これが、一番綺麗に残っているあの子のからだです。」


 抑揚ない声で言い、マクゴナガルは半分布に包まれたままの左手を渡してくる。

 その小指に、うっすらと青いインクが滲んでいることが確認できた。受け取り、自分の手の中に収まったそれをスネイプはまじまじと見下ろす。


 手の甲に頬を寄せてみた。やはりこれは石膏か大理石で出来た石彫ではないかと思う。あまりにも硬く、冷た過ぎた。

 指に口を付けて少しだけ先を食んだ。そして舌先で、なぞる。

 スネイプの一連の行動をマクゴナガルは些か戸惑ったように眺めていたが…やがて、弱く溜め息をする。


「……………。本当に、あと…少しだったような気もするんです。私は混沌に呑まれていくヨゼファに手を伸ばしたんです、彼女もそれに応えてくれた。既に五体満足では無かったけれども、それでも命は助かったのかもしれない…と。でも私たちの手は繋がることはなく、、ヨゼファは力尽きて、腕を下ろしてしまった。」



 --------------------マクゴナガルの言葉を聞く最中、頭の中に忽然として蘇った記憶があった。

 ヨゼファを抱いた夜だ、強く力を込めていた両掌から、ゆっくりと彼女の首を解放する。自分の指の痕がくっきりと残るその皮膚には、黒い枷が弱く食い込んでいた。


 私が死んだら


 ヨゼファの咳きは収まるが、胸はひどく苦しげに上下していた。そこに頭を寄せると身体に腕を回され、抱きしめられる。

 そのままで途切れ途切れの彼女の呼吸を聞いていた。黒い髪を優しく撫でられている。瞼を下ろして、それを甘受した。


 一緒に死んでくれ




 スネイプの喉の奥で、引き攣った音が鳴った。

 掌から、ヨゼファの左手が取り落とされる。

 彼は両の掌で口元を覆った。

 瞳を見開き、微かに戦慄くその様子にマクゴナガルが戸惑いが表れた声で言葉をかける。だが何を言っているのかは聞き取れなかった。


 それに続いて、彼女の首を絞める黒い枷と共に、呪いの言葉を贈った夜のことが、重たいあぶくのように脳裏に浮かんでくる。


 一体何度、あの言葉を彼女に言ったのか・・・・・・・・・・・・・


「あ、」


 ヨゼファは自分との約束を守って死んだのだと理解した瞬間、彼はひどい悪心を覚える。

 呼吸がうまくできず、額から脂汗が吹き出していく。頭の内側が烈しく痛んだ。こめかみが吊って痙攣する。思わず自らの頭を抱えて呻き声を上げた。痛い。苦しい。ひと思いに身を大岩の上にぶつけて、骨も肉も滅茶苦茶に砕いてしまいたくなる。


「セブルス……。ですがヨゼファの魔法のおかげでこの学校は形を保つことが出来ました。生徒たちも多くが救われて…とても悲しいことですが、これは」


 スネイプが、マクゴナガルの腕を強い力で掴んだ。彼女は驚き、その細い肩をびくりと震わせる。

 彼は……、無言でゆるゆると首を横に振った。そして、「違う」とひどく小さな声で言う。


「私が………、」


 スネイプは彼女から離した手で自らを示した。


「私が、殺してしまったんだ」


 そして表情を歪ませる。なにかを言おうとしては言葉に詰まり、それを繰り返して散漫が過ぎる発言を続けていく。


「ただ離されることが恐ろしかっただけだ、一人にされたくなかった。本当にただ…それだけ、、、」


 彼が熱に魘されたように呟く言葉の真意がマクゴナガルは分からなかった。だから何も言えずに、無言でスネイプのことを見つめる。初めて目にする、静かに取り乱し、混乱して正気ではない彼の姿を。


 スネイプは脂汗に濡れた額に手をやり、なにか、自分は夢を見ているのだろうと思い込もうとした。だがこれは現実である、はっきりと分かる。だがそれでもまだ認められない、嘘だと、誰かに嘘だと、ヨゼファに、手を取って肩を抱き寄せ、大丈夫だと言ってもらいたい。


『ありがとう』


 夢か幻の中で、少女のヨゼファは唇の動きだけでそう言っていた。

 ずっと彼女に会いたかったのだ、幼く自信も勇気もないこの少女が懸命に伝えたかった言葉を今度こそ受け取って。そして、自分がなされたように優しい言葉をかけて存在を肯定し、その居場所になろうと。


(……優しくしたい)


 だが自分がしてきたことは一体何だったのだろうか。

 真っ黒い呪詛のような言葉でしか繋がりを築くことが出来ず、身体と心を傷付けて、何も与えることをしないまま…


(私が、殺して、、)


 二度と失われたものが戻らない証拠として、床に転がる彼女の掌は存在していた。

 その先にあった筈の腕も、なだらかな肩も、幾度となく抱かれた胸や肉体は最早どこにも無い。


(殺してしまっ、、た、)



「セブルス……。貴方は、ヨゼファのことを」


 マクゴナガルの問いかけに、スネイプは首を縦に振る。眉根を寄せ、床に投げ出されていたヨゼファの手を拾い上げて胸へと引き寄せながら。「はい、」と答える。


「愛して、いた。……否、愛している……」


 セブルス、とマクゴナガルは呟き、その肩に触れようとする。


「違う!!!!!」


 唐突にスネイプが大きな声をあげる。マクゴナガルは言葉をなくして目を見開いた。


「違う、貴方が思っているような、、、思っていてくれているような・・・・・・・・・・・・・関係では決してなかったっ!!!!!!!!」


 その声は布の仕切りの向こうにも届くらしく、事態の異常さを感じ取った学生が大丈夫ですか、と数人やってくる。マクゴナガルもまたスネイプを落ち着かせるために懸命に声をかける。セブルス動いてはいけません、貴方は身体が、スネイプ先生、傷口が開いてしまいます、落ち着いてください、スネイプ先生、先生、


「ただの…私の一方的な感情だった、片想いだったんだ、ヨゼファは私の気持ちなど知りはしない…!!ただの、ずっと…不毛で無意味な……私の…っ片恋だったんだ!!!!!!!!!」


 ほとんど絶叫して言い、ヨゼファの掌を胸に抱いたまま蹲ったスネイプは動かなくなった。

 彼女から切り離された手は冷たかった。生きている時も、魔法陣の影響で大凡人間では考えられないような冷たい体温の持ち主だったが。それでもこれよりは余程ましだったのだ。こんな、まるで冬空の土に埋められた石のように冷え切ったものよりはずっと。


(愛している、)


 瞳から再度溢れた熱い涙をのせた頬をそこに擦らせても一向に暖かくならない。生きている時ならば、暫くの間抱いてやればじわりと自分の体温が移っていくのを感じ取れたのに。なんだこれは、この冷たい物質は一体なんなのだろうか。ヨゼファの掌なのに、彼女の掌のくせに、握り返すことすらしてくれない。そうだこれが死ぬと言うことだ、生命が失われた死体と言うものだ


(愛している、)


 次に生まれ変わるならば魚が良いと、彼女に抱いてもらったある夜に考えた。今こそそれを強く思う。彼女の瞳と同じ色の冷たい海底を、どこまでも泳いでいきたかった。

 そうして誰にも届くことがなかったその声を聞き分け、必ず彼女を見つけ出そうと……。

 行き場所を無くしてしまった自分の、この言葉を届けるため、伝えるために。

 何百年何千年彷徨い、肉も骨も朽ちて無くなっても構わない。

 会いにいこう……。

 永遠を、費やしてでも。


 
 骨の在処は



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