骨の在処は海の底 | ナノ
 イカロスの空

 ハリーを乗せた列車が見えなくなり、辺りは再びただの真白に覆われていた。

 ヨゼファは深呼吸をして、その白色を肺の中に満たす。

 自分の身体が、髪や瞳が…元の姿、元の色彩に戻っているな、と思う。それこそが自分が死んでしまった証拠だな、とも。


「なにが幸せかは…よく、分からないけれども。きっと私の人生は幸せだったんでしょうね。」


 彼女が降り立った場所は、プラットホームも標識も見当たらないようなただの道だった。ホグワーツの廊下のように果てしない線路だけが、真っ直ぐ真っ直ぐにどこまでも続いていっている。


「どうしようもない自分とその人生とに向き合い続けるのが生きることならば、私は確かに生きたもの。子どもたちの学校を守ることを成し遂げられた。充分だわ……、」


 ポツリポツリと独り言ちるヨゼファの耳に、自分の声以外の音がそっと忍んでくる。低く、畝るような警笛の音。線路の先遠くを見つめて目を細めれば、真っ白だった空間に一滴黒色のインクが滲んだような影が現れる。

 ゆっくりと、近付いてくるのだ。車軸を軋ませ、黒い列車が。


「あれがここまで来たら、私は消えるのね。……永遠に。」
 

 ヨゼファは自然と口角を上げて笑う。……癖だった。悲しい時や恐ろしい時、こうして虚勢じみた笑みを浮かべることは。


(本当は、ちょっと怖いの…)


 だが、黒い点だった列車のシルエットはぼんやりとその輪郭を確かめられるほどになり、緩やかな速度ながらも確実にヨゼファの元へと向かっていることを低い警笛の音で知らせていた。


 ふと、足元に柔らかいものが触る。驚いてその方を見下ろしそれが何かを確認して、ヨゼファは「え」と小さく声を上げた。


「………ルブラン…さん?」


 真っ白いむく毛の犬である。ヨゼファがホグワーツに入学しないほどの小さい時にいなくなってしまった、彼女にとって唯一の友達と呼べる存在だった…あの、大きな犬が、ヨゼファの足元にそっと身を寄せていた。

 ヨゼファは膝をついて、そろりと彼と視線の高さを合わせようとした。そうして違和感を覚えて首を傾げる。


「貴方、こんなに小さい犬だったかしらね。」


 頭を撫で、耳の後ろをカリカリとかいてやると喜んで目を細めるのは相変わらずだった。


「違うわね…。私が大きくなっただけだわ。」


 優しい気持ちで呟き、ヨゼファはしばらくの間フワフワとした彼の暖かな毛を掌で撫でてやるのだった。

 ルブランもまた久方ぶりの友人による親しみがこもった行為に身を預けていた。そうして…彼女のローブの裾を咥えては線路の外に出るように促して引っ張る。

 ………ヨゼファはその様を不思議そうに眺めていたが、やがて「もしかして、」と口を開いた。


「もしかして…ルブランさん。私のこと、待っていてくれたの。」


 彼女が尋ねても、もちろんのことルブランは犬なのではいともいいえとも応えることは出来ない。だが、ヨゼファは彼の目を見れば考えを大体理解することができた。「そう、」と言っては笑顔をくしゃりとしたものへと変える。


「貴方は最後まで、泣き虫な私のことを随分心配してくれていたものね。」


 ヨゼファは「ありがとう。」と礼を述べる。それから少しの間を置いて、また繰り返す。


「ありがとう……。お父さん。」


 ヨゼファのことを線路の外へと連れ出そうと必死に歯を食いしばりローブの裾を引っ張っていた白い犬は、彼女の言葉にゆっくりとその面を上げた。

 微笑んだヨゼファは「やっぱり、」と可笑しそうに言う。


「ずっと、私のことを見守ってくれていたのね。そして今もこうして助けに…迎えに、来てくれた。」


 待っていてくれてありがとう、パパ。

 そうして彼女は、何十年ぶりかに親友の身体をぎゅっと力強く抱きしめた。ゆっくりと立ち上がり、彼に導かれるままに冷たい線路の上を降りようとした時…ふと、ヨゼファは足を止める。


「ねえ…お父さん。」


 ヨゼファのことを先導していたルブランは振り返っては呼びかけに応える。


「私、大切な人に血液を借りていたことを思い出したの。……返さないといけない。」


 彼女は今一度膝をつき、白い犬へとじっと視線を合わせた。彼は些か戸惑っているようである。


「ここまで私のこと、迎えに来れたんですもの。届けてくれることだって出来るわよね。…ごめんなさい、我が儘を言って。でもこれはとても大切なことなの。私と違って彼にはまだ肉体が残っているから…これで、生き永らえることが出来るわ。」


 ヨゼファは人差し指ほどの細さの小瓶を懐中から取り出し、杖先で傷付けた手首からその中へとスネイプから貰い受けた血液を全て吐き出させた。……今、魂だけのヨゼファに血が通っているのかどうかは定かではないが。恐らくこれは血液の形を取った彼女の魂の一部なのだろう。

 赤い血液で満たされた小瓶を、ヨゼファはルブランへと差し出す。もちろんのこと彼は受け取ろうとしなかった。だが彼女は「お願い。」と懇願を続ける。


「ね、お父さん。私ね…お母さんの娘なの。だからこういう時・・・・・に聞き分けないこと、知っているでしょう?」


 そう言って眉を下げて笑えば、ルブランもまた弱り果てたような表情をする。


「大丈夫、覚悟の上だわ…。元よりそのつもりだったから。混沌バラルの扉を開いた人間、呪われた人間の末路は繰り返し、全ての書籍を読み尽くしたもの。私にふさわしい成れの果てよ……」


 そのままふたつの魂はじっと動かずにいたが、やがてルブランはゆっくりとヨゼファの掌中から赤い液体で満たされた小瓶を受け取った。ヨゼファは頷き、礼を述べる。


「パパ…。最後にひとつだけ聞いても良い?」


 中々立ち去ろうとせずにヨゼファへと身体を寄せているルブランを再び抱きしめて、彼女は小さな声で言う。


「ママのこと、愛してた?」


 昔、よく行ったように、彼のおでこに自分のものを合わせてヨゼファは尋ねる。


「今でも愛している?」


 質問を重ねてから、ヨゼファは今一度ルブランに向き合ってから微笑む。

 彼は…真っ直ぐに鳶色の瞳をこちらへと向けていた。そうして、ゆっくりとした瞬きを行う。


「良かった。」


 ヨゼファは笑みを穏やかにして立ち上がる。


「二人が愛し合って、私は生まれたんだね。……それを知れて良かった。」


 ルブランの頭を撫でてやる。こうして真っ白いふわふわの彼に触れていると、心の中のトゲトゲしたものはいつも綺麗に収まっていくのだ。不思議だなあ、とヨゼファは暖かな気持ちになっては考える。


「私もパパが大好きよ。だからごめんね……、一緒に行けなくて。」


 ポン、と最後に背中を叩いてやり、ヨゼファは長年の友達を送り出してやった。

 彼は一度伺うようにこちらを振り返るが、やがてヨゼファの血液で満たされた小瓶を咥え直しては真っ白い闇の中を軽い爪の音を立てて走り出す。

 純白の毛を持つルブランはすぐに周囲の白色に飲まれ、その姿が分からなくなる。ヨゼファは彼の輪郭が溶けるように遠ざかっていくのを見守っては、先ほどハリーへ行ったのと同じように、弱くヒラヒラと手を振った。



「大丈夫よ…セブルス。」


 溜め息のような声で、ヨゼファは彼の名を呼んだ。随分と久しぶりにその名を口にしたような気持ちになる。名前を呼ぶだけで胸はこんなにも痛むものなのだろうか。今更ながら、驚いた。


「貴方にだけ奇跡が起きないなんてことは、決して無いのだから。」


 ヨゼファは自らの頼りないほどに細い杖を白色の天へと向け、そこから守護霊巨大な鯨を召喚する。


 エクスペクト・パトローナム、守護霊よ来たれ


 それは今まで顕現させた中でも最も大きな姿だった。

 鯨は杖先から空へ空へと向かっていくが、それでもまだまだ尾が現れないほどである。


 ヨゼファから頭が見えないほどの巨体を畝らせ、鯨は白い空を垂直に突き破り上昇していく。


「ルブランさんを、彼の元へ。導いてあげてちょうだい……」


 遠ざかっていく巨大な鯨へと掌を伸ばし、ヨゼファは自らの望みを守護霊に託した。


 そうして、彼女は立っていることが出来なくなった。

 膝を冷たい線路の上に付き、腕を力なくだらりと垂れる。……肉体が、サラサラと吹く風の中、砂のように削れて消えていく。もう魂が形を保つこともままならない。いよいよ限界だ、とヨゼファは理解した。


「昔…何かの本で読んだこと、あるわ。鳴き声の周波数が生まれつき他の鯨と違う所為で仲間を見つけられなくて、広大な海をたった一頭で彷徨う鯨の話……。」


 自らの守護霊が消えていった空を見上げたままで、ヨゼファは呟いた。


「誰とも通じ合えないその鯨は寂しいでしょうね。私がその子と同じ言葉を操れたら…、って思うわ。そうしたらいつまででも傍にいるもの。一緒に、私と一緒に、青い海の中を泳ぐのよ……。」


 
 空から、線路の先へと視線を戻す。

 空間を蝕む黒色の列車は、今やはっきりとその姿を顕しては…なおもゆっくりとした速度を遵守して、こちらへと向かっていた。



(私…幸せだったわよね。)


 今一度確かめるように自らへと問いかけるが、やがてゆるゆると首を横に振る。


(いいえ、私に幸福など一生来ないことは分かっていた。)


(私は変われない。)


(彼も、変わらない。)



 それは分かっている。

 同じことを繰り返すだけだと知っていながら彼に身体と心を許し続けた。

 分かっているのだ。

 けれども、きっと来る、明日は来ると信じて生きることに意味があった。それが全くの無意味ならば自分の人生もまた無意味なのだと思う。


「心残りは…」


 ヨゼファはそっと腹の上に手をやり、優しい表情で笑った。


「生んであげられなくて、ごめんね。貴方も…生まれてきたいに決まってるわよね。辛い人生でも必ず生きる喜びは存在するもの。生きることは素晴らしいことだわ。」


 一度も腹に宿すことは叶わなかった我が子へ、ヨゼファは静かな声で呼びかける。


「私は貴方に会いたかったのよ、本当に。家族になりたかった…。」


 愛しているわ。


 空っぽのお腹を抱いてやりながら、ヨゼファは精一杯の愛情を伝えようとする。

 いつでも思い出せるのだ。美しく成長してホグワーツの制服を身に纏った少女の姿を。ヨゼファの望みを形にして、鏡の中、目の前に現れてくれた。優しい…自分には勿体無いほどに心優しい愛娘のことを。



(そして……。)



「………。セブルス。」


 重たい警笛が、どんどんと近付いていくる車軸の暴力的な轢音が、ヨゼファの声をかき消していく。

 もうひとつの心残りである彼のことを思うと、悲しいとも寂しいともつかぬ、不思議な気持ちになった。



(折に触れて考えないわけではなかったのよ。)


 愛している


(言わなければ良かった…。)



 気持ちを伝えてしまったことで、通じ合ったことによって、お互いが傷付く出来事があまりにも多かった。

 彼の気持ちを、リリーへの純情を尊重してやるならば、その純粋を保たせてやれば良かったのである。


「でも。……そんなの、あんまりに悲しいじゃない…。」


 吐息のような声で囁いて、ヨゼファは片手で目元を覆う。


「それに、私には声があったもの。」


 それが闇に身を窶し汚れた手段を経て取り返したものであれ。


「愛しているから……」


 大きくなり続ける黒い車軸の音によって、ヨゼファの小さな声は最早彼女自身の耳にも届くことは無かった。


「『愛している』『ありがとう』って、私はずっと伝えたかったんだもの………、っ!!」


 この白い世界の中で今、ヨゼファは一人ぽっちであることを実感した。

 彼女はもう自分が救われない人間になってしまったと、理解していた。

 目元を覆っていた掌を下ろして前を見れば、迫り来る闇を纏った黒い列車が、もうその姿をはっきり認められるほどに近付いている。


 ………列車ではない。

 それは黒い濁流、水の塊だった。光る目玉のように、凶悪に眩しい前照灯でヨゼファを真直ぐに照らし、飛沫を上げて彼女を飲み込もうと迫り来る死の河である。


「どうか……。どうか、貴方が…幸せになりますように。」


 無意識に何かに祈るような口ぶりで、囁く。


「いいえ、なるべきなのよ。貴方は多くの人と同じように、幸せになるために生まれてきたのだから。」


 押し寄せる黒色の虚無への恐怖に耐えながら、ヨゼファは自分の身体を抱きしめた。


「そうして……貴方のことをあさましいほどに愛してしまったこの魔女を、一日でも早く忘れることが出来ますように……。」



 忘れてくれと願うことだけが愛情の証明だなんて



『僕を見てくれ』


 スネイプは死の間際、ハリーへと訴えていた。否、青年の瞳を介して彼の最愛の女性ひとへと、だろう。


『僕を見てくれ』


 その黒い虹彩の中にはハリーの瞳の光が反射して、リリーその母親の人格そのものを思わせる優しい新緑色の光が宿っていた。


『僕を見てくれ』


 スネイプにとっては幸せな時間だっただろう。……その幸福が、彼の苦痛を幾分も和らげてくれているようだった。


『僕を見てくれ』


 それならば、良かったのだと


『僕を、』



 私がずっと見ていたわ



 騒音と煙塵とにみちた空気の中、ヨゼファの頬に涙が滑っていく。

 白い空を見上げて、ヨゼファは声もなく泣いた。


「あつ、」


 冷え込んだ魂には熱すぎて痛い、まるで真っ赤に熱せられた焼き鏝を押し当てらているかの如く激しい痛感が伴う涙が頬を伝う。

 それを拭ってヨゼファは立ち上がった。身体に力を入れたせいか、脆くなった魂は耐えきれずにボロボロと崩れていく。

 なんと苦痛を伴う涙だろうかとヨゼファは考えた。結局…泣く、ということを思い出してから数えるほどしか涙を流せずにいる。その全てが苦しく辛く魂を削り取るが如くの作業だった。本当は、小説やロマンスのように感激や喜びによっての涙だって流してみたかったのだ。だがそれが最早叶うことはない。


「セブルス、」


 拭ってもキリがないほど溢れてくる涙を流れるままにさせ、ヨゼファはほんのすぐ傍まで至っていた黒い濁流へ真っ直ぐに向き合った。


「セブルス、私…。私はね。」


 最早身体にはなんの力も残されていない。それでも眼前の闇を見据え、自身の運命を見据え、迎え入れようと…抱き留めるために腕を広げる。



「貴方に、愛されたかったの。」



 この唯一にして最大の望みを自分の胸の中だけに留められたことを誇りに思い、ヨゼファは瞳を閉じた。


 ------------------そして、なにか暗い世界に引きこまれ、落ちていくような気がした。

 その暗い世界は人間が死後、吸い込まれていくあの涅槃のようなもの、考えることも、苦しむこともなくただ眠ることのできる涅槃に似ていた。



 ひときわ大きな畝り、轟音のような警笛を上げて呪われた人間を飲み込んだ黒い濁流は、その勢いを全く逸することなくそのまま流れ去る。


 ヨゼファの肉体は形を無くし、魂は完全に消失した。


 そうして、周囲は再び真っ白な沈黙に閉ざされる。

 千年前も、千年後も、永遠に変わることはない白色の闇が果てしなく広がり続けるだけだった。



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