骨の在処は海の底 | ナノ
 心臓が止まるまでは

 ダンブルドアの魂に見送られ……乗り込んだ列車の中に、自分以外の誰かがいるなとハリーは思った。


 果てしなく白い空間の中に、この細長い車室だけがたったひとつだけの世界のように、いつまでもいつまでもガタンガタンと動いている。

 この茫漠とした白色の車室には見覚えがあった。覚えがあると思った瞬間に思い出す。

 毎度のことながら、ずっとは覚えていられないのだ。だが今のハリーはヨゼファの記憶を知り、彼女の心を分かっていた。だからもう、忘れることはないだろう。


(やっと……)


 細く狭い車内の廊下を歩む最中、開け放されていたコンパーメントの扉から室内を望む。

 彼女は車窓から真っ白な外の世界を眺めていた。窓枠に頬杖をつき、その黒く長い髪を弱い風の中に泳がせている。

 ハリーに気が付いていないらしい。

 彼もまた声をかけることはせず、扉の前に立ち止まったまま、こちらを認めていない彼女の横顔を眺めていた。

 顔の右側を覆っていた黒い魔法陣の痕跡は無い。だが髪は黒く長く、瞳は赤色のままである。


 列車は規則的な音を立てて進んでいる。

 ほの明るい車室の中に二人だけを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡方もなく消え失せてしまったような気がした。


「先生」


 そっと声をかける。彼女が動く気配は無かった。


「ヨゼファ先生。」


 今一度、その名前を呼ぶ。

 ヨゼファはゆっくりと首を回してハリーの方を見た。そして弱く笑う。


「ハリー、」

「はい。」

「こんなところにやってきてしまって。大変だったわね。」

「ええ。でもダンブルドア先生やみんなが助けてくれたので。大したことは…無いです。」

「そう。」


 ヨゼファは笑みを穏やかにしては、ハリーに自分の隣の座席を薦める。素直に従い、彼女の傍へと至っては腰掛けた。


「先生はどうしてここに?」

「それはね。私は残念ながら死んでしまったの。」

「そっか…。でも大丈夫ですよ。これに乗っていれば元のところに…みんなのところに戻れます。一緒に帰りましょう。」


 彼女は微笑むだけで返事はしなかった。

 窓枠についていた腕を下ろし、掌を軽く組んで膝へとのせては目を伏せる。


「それは無理。」


 そして、ポツリと返した。


「私は…。先生は、もう肉体が無いから。」

「え……。」

「混沌の向こうに持っていかれてしまったの。ほんの少しは、残っているかもしれないけれどね。」


 だから、ここからは降りないと。


 そう言って、ヨゼファは座席から立ち上がろうとする。ハリーは彼女の手を握ってそれを留めた。


「待って、先生。…手があるはずです。魂が健在なら必ず元に戻る方法がある。僕みたいに。」

「そうかしら…。貴方と私は同じではないと思うけれど。」

「そんなことはない。一体僕とヨゼファ先生のどこが違ってるんですか。同じ人間だ、」

「…………。小さい時。赤ちゃんのハリーには、リリーがいたでしょう。そして今回は皮肉にもヴォルデモート卿自身が貴方の守りになった。私には誰もいないもの。」


 ヨゼファの語調は落ち着いて穏やかだった。

 そうして、自身の掌を掴むハリーの手を離そうとする。それをさせまいと強く握った。「違う、」と彼女の赤い瞳を真っ直ぐに見据えてその言葉を否定しながら。


「スネイプ…、先生です。」

「………………。」

「ヨゼファ先生にはスネイプ先生がいる。僕は彼の記憶と心を見ました、……ずっと…ヨゼファ先生のことを見て、言っていた。」


 両手で彼女の色の悪い掌を包むようにして握った。不思議と、いつも感じる痛いほどの冷たさが今のヨゼファの皮膚にはない。


「『愛している』って何度も繰り返して言っていました。スネイプ先生はヨゼファ先生のことが好きだったんです。」


 ヨゼファはゆっくりと瞬きをして、教え子の瞳の中を今一度覗き込む。そうして瞼を下ろし、弱く息を吐いた。


「……。そうなのかもしれないわね。」

「そうなんですよ、僕は確かにスネイプ先生の心の声を聞いたから。」

「憂いの篩の中で見るハートのヴィジョンは不安定なものよ、そうであって欲しいと願った貴方の心が聞かせた幻かもしれない。」

「先生…?卑屈になってはならないと言っていたのは、他でもない貴方じゃないか。」

「そう、そうだったわ。ごめんなさい。」


 ヨゼファは笑顔を明るくして、ハリーの手を握り返してはもう片方の手を重ねてくる。二人は両手を取り合ったままごく近しい距離で見つめ合った。「でもね、」少しして、ヨゼファは静かな声で言葉を続ける。


「彼の人生に、生き方に、私を愛することはどうしても相容れないのよ。見たでしょう?セブルスは貴方のお母さま…リリーへの一途な愛情を貫いて逝った。彼はハリーにとって優しい先生では無かったかもしれないけれども、一生懸命に…精一杯に出来ることを……、与えられるものを、貴方に与えたと思うわ。」


 ハリーは黙って、ヨゼファの言葉を聞いては…ひとつ頷いた。

「でも、」

 今度はハリーが切り返す。二人の静かな会話の背景には、眠くなるほど規則的な車軸の音と、列車がどこかに運ばれていく音が続いていた。しかしそれだけである。列車が進む背景には、ゾッとするような沈黙が横たわっていた。


「それとこれとは話が違います。先生、スネイプ先生のことが好きだったんでしょう?」

「ええ、間違いない。」

「じゃあ、…………。良かった、じゃないですか。両想いだ。」


 ハリーは段々と自分が言うべき言葉が見当たらなくなる感覚を覚えていた。

 表情は穏やかながら、ヨゼファの眼は不思議に冷たく冴え返っていた。赤い瞳の奥には虚無的に迫る諦めの色が沈みこんで澄み切っている。なんと言葉をかけて良いのか、分からなくなってくる。


「あ……、学校で。………みんな…先生のこと、待っていますよ。ヨゼファ先生がいなくなったら、きっとつまらないから。」


 それでもどうにか言葉を続けるが、ありふれたものしか絞り出せない。

 ハリーがヨゼファの掌を掴む力は指先が白くなるほど強くなっていた。徐々に握り返される力が弱まっていると感じたからだ。


「どうして…、」


 そう言って、今度は彼女の肩を掴む。ハリーはもうこれ以上自分に優しくしてくれた大人を失いたくなかった。まだ教えて欲しいことや、聞いて欲しい話が沢山ある。これからの自分の成長だって、ちゃんと見届けて欲しかった。


「ヨゼファ先生、いつでも呼んでって言ってくれたじゃないか…!!」


 シリウスも、ルーピンも、ダンブルドア…そしてスネイプも、皆一様にいなくなってしまった。その上ヨゼファまでいなくなってしまう世界は堪え難かった。今自分に救えるものなら救いたい。強く願い、ハリーは説得を続ける。



「もしかして後を追うことを考えてる?それは馬鹿げて…いや、良くない考えです。」

「まさか、そんな実のないことはしないわよ。」

「それなら僕と一緒に帰ろうよ、ホグワーツに…。みんな先生のことを待っているから。」

「………ええ、帰りたい。私も…。でも……、でもね、ハリー。」


 一貫して抑揚がなかったヨゼファの声が、その時ふらりと危うげに揺れた。

 彼女は眉を下げて笑みを心弱くする。そして「あのね、」と小さな声で続けた。



「私…。少し、疲れてしまったの。」



 耳を済まさないと聞こえないような、微かな響きである。

 二人の間に暫時の沈黙が落ち込んだ。少し、ハリーは首を傾げる。それに伴って、涙がサラリと頬を滑るのを感じた。


 ヨゼファはその涙を青白い指先でぬぐってやっては、ごめんね、と謝る。

 何も言えない、とハリーは思った。

 どんな言葉を尽くしても手段を尽くしても、最早彼女を救えないと確信して心から哀しかった。

 車窓からは涼しい空気が吹き込んでくる。萎えた肌が、しっとりと潤うような気持ちがした。


「ねえ…ハリー。貴方なら、大丈夫。」


 額が触れ合うほどの距離で、ヨゼファは囁く。ハリーは聞きたくないと思ったが、彼女の少し低めの声はその風と同じように骨身に染み込んで来てしまう。


「貴方ならば全てやり切れると確信している。その気持ちに変わりはないわ。沢山の人がハリーのことを必ず助けてくれる。…そうして、ハリーは英雄になるでしょう。もう誰も貴方の誇りを傷付けない。みんな貴方を褒め称えて、勇敢で素晴らしい人間だと…場合によっては、掌を返したような態度でね。」


 ヨゼファはハリーの前髪をそっと流しては耳にかけさせた。稲妻型の傷跡に、彼女は軽く唇を寄せる。…弱い痛みがそこに走った。


「けれどその…勝利までに至るには、貴方にはあまりにも辛いことが、辛過ぎることが多かった。世間は貴方の栄光しか知らないけれど、ハリーの中にある悲しさや苦しみは無くなるものじゃないわ。」


 ハリーは素直な気持ちで、自然とヨゼファの胸に頭を預けていた。彼女が言葉を紡ぐたびに柔らかい皮膚が震えるのに感じ入って、瞼を下ろす。


「でも、それは徐々に忘れないとね。」


 ヨゼファは笑い、ハリーの身体へと両の腕を回して抱き締めた。顎の下で髪をそろりと撫でられている。彼女を抱き返して溜め息をした。これが初めてではない。幼い時から夢の中で幾度も抱擁を交わしている。だから、それを行うことへの抵抗は無かった。


「私がハリーの代わりに覚えておくわ。貴方がどれだけ辛かったか、その中で戦い続けた貴方がどれだけ頑張ったかを、私が…先生が、ずっと覚えておきましょう。幸せにね、幸せにおなりなさい。貴方と貴方が信じる善いものと美しいものを、私は永遠に愛している。」

「………まるで最後のお別れみたいなこと、言いますね。」

「事実よ。最後のお別れだわ。」

「いやだ、、」


 顔を上げると、こちらを見下ろしていたヨゼファと目が合った。両手でその頬を包み込んでじっと見つめ返す。


「行かないで…」


 ポツリと呟くと、彼女はハッとしたように瞳を見開いた。

 それから眉を下げ、苦しそうな表情で目を伏せる。「リリー、」その唇から、なぜかハリーの母の名前が漏れた。

 その刹那、痛いほどの力で抱き寄せられる。先生、と言いかけたハリーの声にかぶせて、ヨゼファは押し潰した声で「ごめんね」と謝罪した。


「ごめんね、私、行くわ。」

「どこに……」

「どこか遠くに。それで良いのよ、それが良いことなの。私は……」


 独り言のように呟いて、ヨゼファはハリーの身体を解放する。立ち上がり、こちらを見下ろしたヨゼファの顔右半分の皮膚が変に捻れて、そこに呪われた黒い魔法陣が浮かび上がった。彼女は咄嗟にそこを手で覆い、小さな声で「見ないで」と


「ヨゼファせんせ、」


 ハリーがその名を呼ぼうとした時、コンパーメントの扉が大きな音を立てて開かれた。車軸が軋む弱い響きだけが流れていた空間にそれは強く響き渡る。そうして、今まですぐ傍にいたヨゼファの姿は最早どこにも見当たらない。


(なに、)


 唐突に夢から覚めたように、ハリーは呆気に取られては瞬きをする。


「そんな、」


 一言声を上げ、彼は床を蹴って走り出した。狭い廊下を走り、燃料を積んだ炭水車と客車の連結部分へと至る。外に面した手すりから身を乗り出し、茫漠とした白色の中、真っ黒い沁みのように滲んだヨゼファのシルエットへと声の限り呼びかける。


 ヨゼファは既に列車を降りていた。

 だから、車上のハリーとは距離がどんどんと隔たっていく。

 その姿は馴染み深いかつての姿に戻っていた。

 白に近いほど淡い灰色の短いふわふわとした髪と、気の抜けたような笑顔、そうして……


 瞳が青かった。


 夜と同じ色をしている。


 悲しいばかりの、深い色。


 ヨゼファはどんどんと遠ざかるハリーへと、ひらひらと手を振った。

 笑顔である。どこか晴れやかな表情。驚くほどいつも通りに、『また明日』とでも言うように、彼女は最後の別れを教え子へと伝えては瞼を下ろした。


 彼女の姿が黒い点となり、周囲の圧倒的な白色の中へと溶けていっても。ハリーは目を凝らしてそのほうを見つめ続けた。


 ………風が…冷たい風が、頬を滑っていく。

 車軸の音は相変わらず規則的に続き、この列車を、ハリーをどこかへ運んでいくことを伝えていた。



 ハリーはひとつ息を吐き、走って出てきた時と同じように狭い廊下を渡って、元居たコンパートメントへと戻っては、着座する。

 そうしてヨゼファがぼんやりと外の景色を望んでいた窓から、同じように遠くを眺める。

 ただ白い風景が続くだけだった。だが、どこかには進んでいるのだ。


(ヨゼファ先生は……、)


 やはり悪い魔女ではなかったと…ハリーは思った。

 だが、逆に『善い』と言うのは一体何なのだろう。

 善も悪も、その時々によって全く意味が違うものになる。自分の中でさえはっきりと定まらないのに、世界に存在する数多のものをそのふたつの杓子だけで括ることなど果たして出来るのだろうか。


(…………………。)


 ハリーは、今度はスネイプについて思いを巡らせていた。

 ハリーにとっては、決して善い大人では無かったと思う。だが、『悪』ではないのだ。彼が自分へと向けていた複雑な気持ちのひとつずつを考えるほどに、居たたまれない。


「スネイプ先生」


 人間のやる所業に、絶対に正しいと言えることなどない。

 ハリーだって、一年生の組み分けでスリザリンへと入寮すれば、様々な予言の通りにヴォルデモートと同じ道を…思想を、辿ることになっていたのかもしれなかった。

 だが逆に、きっとどんな悪行にも救いの種が潜んでいる。善と悪は常に背中合わせであり、それは簡単に分けられるものではない。分別してはならない。


『選ぶな』

『選ぶな。ひとつの立場を選ぶな。ひとつの思想を選ぶな。選べば、お前はその角度でしか世界を眺められなくなる。』



 ムーディーが…否、クラウチの息子が自分へと言っていたことの意味は、これだったのかと。

 今更、理解する。



 ハリーには、奇妙な確信があった。


 『貴方なら、大丈夫。』


 自分はこの戦いに勝てると。


 なぜなら、自分の後ろには数多の人間の犠牲が積み上がっている。

 そうして今生きている仲間が、助けてくれる。


 だが……それにしても本当に多くの人がいなくなってしまった。


 好きな人も嫌いな人も。


 それぞれの人が、それぞれの辛さや苦しみを背負って生きていた。


 その人たちがハリーの前にひとつの道を作ってくれた。深い、深い青色の悲しみの道。人間の悲しみの道。


 列車はそこを進んでいる。やがて辿り着く。目を覚まし、そこには………













「ドラコは無事なの」


 ささやかな一人の母親の声が耳に入る。

 ハリーは瞼を下ろしたままでそっと頷く。

 泥に汚れた彼の頬に触れたその手は、汗が滲んで、熱かった。



prevnext

back

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -