骨の在処は海の底 | ナノ
 世界を撃て

「ヨゼファ」


 息継ぎ、そして名前を呼ばれる。

 天文台の上で蹲り、指先に滴らせた血液で魔法陣を描き終えたヨゼファは…少しの間、虚脱感から顔を上げることが出来ないでいた。だが、やがて緩慢に彼の方を見る。


「ハリー・ポッターが帰って来た。」


 ヨゼファが立ち上がるのを助けながら、スネイプは用件だけを端的に伝えてくる。

 声色こそ静かだったが、その言葉には緊張が滲んでいる。……二人とも、ついにこの日が来たのかと考えずにはいられなかった。


「そう、」


 彼に相槌を打ってから自らの唇へと汚れた指をなぞらせたヨゼファは、右顔面が鈍く痛むのを感じていた。

 この痛みが何を意味するのかはよく分かっている。自分の顔をスネイプになるべく見せないように、俯き気味で言葉を続ける。視線を下ろした先、足元、床上には、赤黒い魔法陣が隙間なく敷き詰められていた。


「私も…ちょうど終わったところよ。」

「もっと早くできなかったのか、間一髪だ。」

「無茶言わないでよ、間に合ったんだから良いじゃない。」


 ヨゼファは苦笑してから、


「長かったわね、本当に。」


 完成までに二十年弱を及ばせた大魔法陣の完成に際しての言葉としては、ごくシンプルに呟く。不思議なほど心は静かで、多くの感慨を覚えることは無かった。


「……………………。」


 スネイプはヨゼファの視線の先を同じように瞳でなぞり、黒々とした魔法陣を一瞥する。おもむろに彼女の頬へと掌を寄せ、その顔を自分の方へと向かせた。


「……………。見ないで…」


 ヨゼファは言葉で拒否しながらも、抵抗らしい抵抗を見せず為すがままである。だがやはり居た堪れなくなり、自分の顔右半分を手の甲で隠す。


「ひどい顔をしているわ。」


 溜め息と共に漏らした。右胸から始まり、右半身を中心に肩や腕、掌、腹や腰、脚、そして首を埋めていた肉体に浮かぶ魔法陣が…ついに顔にまで及んだのだ。

 スネイプは無言で彼女の顔を覗き込んではじっと眺めている。やがて右顔を隠していたヨゼファの掌を握り、退けた。二人はようやく視線を合わせて互いを見つめ合う。


「綺麗だ。」


 視線を逸らさずに彼は一言呟いた。


「君は美しい。」

「…………………。」


 ヨゼファは瞼を下ろし、眉根を寄せてゆるゆると首を横に振った。なんて人なんだろう。と胸が潰れそうに痛む。


「ありがとう…。」


 ようやくそれだけを返して、ヨゼファはスネイプと向き合った身体をやや後ろに退く。彼が掌を繋げたままにするので、大した距離は生じなかったが。


「足元が覚束ないな。」


 ヨゼファを今一度自分の元に引き寄せながら、スネイプは抑揚なく言う。

 鼻先が触れ合うほどの距離で、彼は声を潜めて続けた。


「……血液が足りないのか。」

「問題ないわ…。心配してくれてありがとう。」

「嘘を吐くな、足りない筈だ。私の血を持っていけ。」

「いいえ、大丈夫よ。」

これから・・・・だ、終わりではない。君も私も戦う必要がある。」


 スネイプはヨゼファの手を幾度か握り直し、形を確かめるように掌中で労っていた。ヨゼファはその様を見下ろしては、弱く弱く溜息をする。


「優しいわね。」


 そして、ほとんど声にならないような声で彼の申し入れを受け入れた。


 スネイプは首を伸ばし、ヨゼファの穢れてしまった右頬に唇を付けた。少しの間そのままで動かない彼を、ヨゼファもまた軽く抱き寄せる。


(愛している。)


「愛しているわ。」


 胸の内に強く浮かんだ一言を、彼の耳殻へと口付けて伝えた。


 冷たい風が、広大なホグワーツの中で最も高い場所のひとつであるこの場所を過っていく。

 黒い夜だった。

 円い月から銀の光が糸のように垂れてくるのが、はっきりと確認できるほどに。


 自身の掌の内側を黒い杖先で傷付けているスネイプのことを認めながら…ヨゼファは、五年前…それよりもっとだろうか。今夜と同じことを行ってもらった時を思い出していた。

 それ以外にも、共に過ごした多くの時間を様々に思い起こしてしまいそうになるが、止めて、差し出された厚みがある掌の上に魔法陣で埋まった右手をのせる。

 指を絡めて繋ぎ合い、ヨゼファはスネイプの手の甲を自身の頬へと触れさせた。そして掌中、触れ合う彼の傷口から温かい血液を体内へと迎え入れる。


 手を離す間際、今一度彼の大きな手へと唇を落とした。(この手が好き、)つくづく、(好きよ)そんなことを考えながら。


 ------------------鈍い痛みが治まらない右顔面だったが、ついに魔法陣は脳内にまで侵入して刻まれているのだろうか。先ほどから、視界の右半分が意味不明な記号や数字の羅列で溢れていた。

 もう、味覚は愚か色覚もヨゼファからは失われている。だから、スネイプの髪と瞳が元から黒色で良かったと彼女は考えていた。


(何にも染まらず混ざらない、純粋な色をしている。)


「私は貴方が好き。愛しているわ……。」


 ヨゼファは笑って彼へと伝える。どうもありがとう、と彼の手を示しながらの礼を続けて。



「………すごい人数ね。」


 ホグワーツを囲む堀の対岸にいる夥しい数の死喰い人を、ヨゼファは天文台の手摺へ腕を乗せつつ視線で示した。


「彼はいるの?」


 自身の隣へと並んだスネイプもまた遠見の魔法でその様を観察するらしい。「いる、」と彼女の問いへと答える。


「いる、確かに。ハリー・ポッターを殺しホグワーツを蹂躙するために、己の過去と恐怖に決別するために、闇の帝王はそこにいる。そして恐らく、死喰い人もあの蟠りが全てではない。」

「まだ増えるのねぇ…。」

「ヨゼファ。魔法陣を結ぶのを暫し待て。」

「え?」


 手摺へと頬杖していたヨゼファは、彼の言葉にその方へと視線を上げる。


「ホグワーツに攻め入る死喰い人はまだ集まり切っていない。食らうなら全てを城の中に呑み込んでからだ。」

「全員が到着するまで、あそこでお行儀良く待っててくれる人たちとは思えないけど…。」

「左様。その通りだ。」

「…………………。」

「ヨゼファ。」


 黙り込んだヨゼファの両肩を掴み、スネイプは手摺へと身体を預けていた彼女へと視線の高さを合わせた。


「我々にヴォルデモート卿は殺せない。君の壮大な魔法を持ってしても。殺せるのは、選ばれた人間たった一人だけだ。」

 ヨゼファは彼の言葉へと視線で相槌をする。肩へ置かれていたその手に、自然と自身の掌を重ねながら。

成る可く・・・・彼の力を削ぎ落とすのだ。出来得る限り・・・・・・大きな損害を生み出す必要がある。が対峙するその時までに。」

「生徒たちは…」

「全てを守るのは無理だ。犠牲は避けられぬ。」

「………辛いわ。辛いわね、私は悲しくなる。」

「だが生徒たち彼らは…この一年はさておき…ホグワーツで最高峰の魔術教育を受けてきた。無抵抗に殺されるばかりでは無かろう。それに……」


 スネイプはそこで言葉を切り、今一度対岸向こうで騒めく闇の魔法使いたちへと細くした視線を向けた。


「……………。ホグワーツ私たちにはハリー・ポッターがいる。」


 ポツリと呟かれた言葉に、ヨゼファは数回瞬きをしてスネイプの横顔を眺める。

 やがて微笑み、「そうね、」と言葉を返した。


「その通りだわ。」


 身体を起こし彼の肩を抱いて、同じ方を見た。

 ついにヴォルデモート卿を筆頭に、肉体を影に変えた死喰い人たちが夜を泳ぐようにしてホグワーツへと渡ってくる。


「始まるわ」

「ヨゼファ、身を隠せ。その時はすぐだ。」

「ええ、我が君・・・様に見つかったらとんでもなく厄介、」

「うまく煙に巻いておく。」

「よろしく頼むわ、私は胡散臭がられているけれども貴方は信頼が厚いもの。」


 ヨゼファはスネイプに応対して明るく笑うが…、次々とホグワーツの中へと侵入していく黒い影を見下ろしてはやや眉を下げる。

 足下、階下で大きな音がして城全体が震える感覚を覚えた。誰か教員が…恐らくマクゴナガルが…この城で眠っていた守護の魔法を呼び起こしている。静寂だった空気がざわめき始めた。


「………ここは私の家だわ…。」


 闇に浸された風に波打つ自身の長い黒髪を耳へとかけさせながら、彼女は笑みに少しの寂しさを滲ませて言った。


「ここで生徒として学び、教師として教えて、またその生徒たちから学び…。私の人生にとって全ての場所だった。」


 語尾を囁きに変えたヨゼファの独り言の後、今一度二人は視線を交わらせた。

 この場所はまだ、色濃い静寂だった。

 だがそれもあと僅かに違いない。夜が歴史の境目へと突き進んでいくのを、向かい合った二人の黒衣の魔法使いは緊張した大気から肌で感じ取っていた。


「健闘を祈っているわ、セブルス。」

「同じく。」


 杖を握った自らの手に口付け、二人は軽く互いの杖先を合わせた。微かな音と共に交わりを解き、それぞれの黒いローブの内側へと収める。


「セブルス、目を瞑って。」

「………何故。」

「おとぎ話の善い魔女は、別れ際にフッといつの間にかいなくなるものでしょう。」

「君は善い魔女だったのか。初耳だ……。」

「いやねえ、」


 ヨゼファは笑ってしまいながら、掌でスネイプの目元をゆっくりと覆う。彼は別段の抵抗もせず、それを受け入れた。


「大丈夫よ。貴方は今、私の姿が見えないけれども…私は貴方が見えるもの。ずっと見ているわ。今までと変わらずに……」


 貴方だけをずっとね。


 言葉を零し、ヨゼファは肉体を夜の闇へと溶かしていった。



「私の素敵な人」


「愛している。」



 最後に囁くことを、忘れずに。


* * *


 瞼を開くと、そこにヨゼファの姿は認められなかった。

 スネイプは天文台の冷え切った石床へと視線を下ろす。……もう、魔法陣を目に見えない形に隠す必要はなかった。ヨゼファの呪いはそのまま、奇怪な黒い形となって満遍なく床から柱、天井にへばりついている。

 手を伸ばし、まだ湿っている黒い線を指先でなぞった。皮膚を汚したそれを少しの間見つめてから口内へと含む。無味である。


(……………………。)


 ヨゼファの血液の味を、スネイプは知っていた。

 黒い森で隻眼の樹に触ってしまった雨の夜だ。引きつけを起こしたスネイプが舌を噛むことを防ぐため、ヨゼファは代わりに自らの指へと彼の歯を立てせた。

 ………あれが、恐らく初めて彼女を傷ものにした夜である。それ以降も、身体を重ねるごとにその不健康に色の薄い皮膚を歯で破り、血液が口内へ滲んでくる感覚を味わってきた。


「ヨゼファ」


 名前を囁くことしか出来ない。


「健闘を……」


 続ける言葉も、それしか分からなかった。

 足を付ける床が震えている。いや、この城全体が震えて揺れているのだ。怒号と悲鳴がする。闘いが始まった。始まってしまったのだ。


(否、そんなものは今に始まった事ではない。)


 スネイプは戦場へと降る階段へと足取りを確実なものにしては進む。


(ずっと闘いは続いていた。我々は闘ってきたのだ。)



「見ていてくれ、」



 彼は呟き、今日まで最も崇拝し最も愛してきた女性のかたちを頭の中に結ぶ。

 いつその姿を思い出しても彼女リリーは美しかった。穢れず、永遠に清らかな存在である。

 その透き通った新緑色の瞳は勇気の色だった。どれだけ草臥れ傷付いていようと、思い出せば力が湧いて来る。



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