骨の在処は海の底 | ナノ
 舞姫

『待って』


 脳裏にか細い声を聞いて、ヨゼファはゆっくりと瞼を開いた。

 ほんの数十分の間だったが久しぶりに眠っていたらしい。…それとも気絶していたのだろうか。


 彼女は腰掛けていた椅子から立ち上がり、緩慢に首を巡らせて自室の大きな窓へと視線を向ける。外は分厚い雲に覆われ、白い閉塞感に窒息しそうだった。朝だと言うのにすっかりと薄暗いことから、直に強い雨が降るのかもしれない。


『待って』


 椅子の背にかけていた黒いローブを羽織った時、また同じ声に呼び止められる。先ほどよりもはっきりとした声色だった。ヨゼファは緩く溜め息をしてから、ゆっくりとした足取りで部屋を後にしようとする。それを引きとめようというのか、脳内で鳴るように少女の声が響いた。


『どうして、』


 気絶するように短い眠りを貪る時、見る夢はいつも同じだった。

 萎れた花を…、床に散らばる花を掻き集めて何度も待ってと懇願している。今朝の雲のように重たい、灰色の長い髪をした幼い自分が。


『ごめんなさい、』


 そんなに何度も謝らないで。

 もう分かっているから。辛くて悲しくて苦しかったことを、私が知っているから。



『私を置いていくの』


 置いていかないわ、だって貴方は私じゃないの。離れようがない。


『嘘よ』


 嘘じゃない。


『嘘よ、だってママは私を置いていくじゃない。』


 置いていかれたんじゃないわ。別々になっただけ…。


『嘘よ、私は貴方じゃない。』


『どうして』


『私を置いていくのは貴方よ、ママ。』




 鈍い音を立てて、ヨゼファの自室の扉は閉じられた。

 緑色の闇が吹き溜まる長い長い廊下へと、装飾的なアーチから鈍い光が斜めに差し込んでいる。

 視界の端には意味不明な文字の羅列が蠢いている。壁にかけられた絵画たちは真っ赤だった。やがてアーチの向こうの光も赤色に染まる。


 幻覚で、全てが幻聴だった。


 闇の魔術とされた魔法陣の構成者が、幻影に精神を蝕まれて発狂する事実は文献にも認められる。

 ヨゼファが細く長く息を吐いて髪を一度かき上げると、世界を蝕む悪夢は収束した。辺りは石壁に覆われた馴染み深い薄暗さを取り戻す。


 乾いた光が、等間隔に並んだ美しい曲線のアーチから流れてくる。一日の始まりを告げる鐘の音が鳴った。

 それなのに辺りは静寂に包まれている。いつでも賑やかさが過ぎる学校だったのに、生徒たちのおしゃべりひとつ聞こえない。まるで別の場所にいるようだった。


 延々と続く廊下の先を真っ直ぐに見据えてヨゼファは歩き出す。

 硬いヒールの音が鐘の音の狭間に響き、その確固とした動線の後には、渦巻いた影が闇を引きずりながら続いていく。



(私は、)


 ヨゼファは歩きながら、自分の細く引き伸ばされたようなシルエットを、象眼細工が見事な石床の上の影に見ながら考えた。


(いつも大切なものを大切に出来ていない。そんな気持ちがする。)


 大切なもの…自分の中にある最も深い愛を捧げた人間。一番最初が母親だった。血の繋がった親子間で抱く愛情の範疇を超えた気持ちを傾けていた。

 そうして次に、長い年月を寄り添った彼である。

 スネイプに対する気持ちをなんと表現すれば良いのか…ヨゼファは適切な言葉が分からなかった。

 初めこそ憧れや思慕の情を募らせていたのだが、付き合いの中で関係は少しずつ変化して、今は自分の写し身のような感覚を抱いている。親友のような、きょうだいのような。


(そして………。)


 黒い魔法陣の支離滅裂な記号の渦ですっかりと皮膚を埋められた掌で、ヨゼファは自らの腹を撫でる。


 そこは相も変わらず空っぽだった。


 最早ヨゼファは食べ物は愚か水分すら必要とせず、受け付けない身体になっていた。

 時々、大好物だったケーキのことを考える。卵色の甘いスポンジや冷たいクリーム、赤い果実を煮詰めたジャムのことを。

 料理もお菓子も、作るのも食べるのも好きだった。でも一番好きなのは、人に食べてもらうこと。一緒に食べることが出来たらもっと嬉しい。


 大理石が丁寧に透かし彫りされた半透明の手摺を指先でなぞりながら、ヨゼファは自分の部屋から大広間へと続く階段を降りていく。踊り場で、一度クルリと身体を回した。長い黒髪が、それに伴って渦巻いて揺れる。


(私、子どもの頃はいつもひとりで食事をしていたから。)


 ホグワーツに来る前は、実家の大きな大きなテーブルの端で。母とは食事の時間が合わなかった。…いや、お互いに、わざと合わそうとしなかったのか。

 ホグワーツに入学してからは、確かに多くの人の中で食べるようになった。だが、それでもやはり長いテーブルの端でひとりの食事をしていた。そして、人間は大勢に囲まれている時の孤独の方がより辛いのだと理解する。


(食卓の団欒に憧れたわ、先生になってからようやく叶った。それに加われない子どもの気持ちがとてもよく分かるから…私は、)


 生徒たち彼らにとって何がより良いのかを考えることは好きだった。悩みがあればいくらでも聞こうと思うし、安心して生活できる環境を作ることが自分の義務なのだと考える。


 人を思いやるとき、気持ちが優しくなるのがとても嬉しかったから。

 

 大広間の扉を開けると、起床時間を告げる鐘が鳴り止んでいないというのに生徒たちは既に全員着席していた。

 ヨゼファのことを瞳だけ動かして見るものもいたが、皆一様に自分の空の皿の上を見下ろすだけだった。

 まるで軍隊のようである。過密で無駄な授業のスケジュールの中、食事の時間は極力短くなっていた。

 時計の針がちょうど7時を回る。

 全員の鈍色の皿の上に、乾いたパンがひとつ現れた。(不味そう、)とヨゼファはそれに対して毎度のことながら端的な感想を抱く。


 食事中の団欒は禁じられている。生徒たちの日常生活では最低限の発言と会話しか許されていない。


(軍隊よりもひどい環境かも。アズカバンみたいね。)


 着席するのが遅い、と顔と名前がさして一致しない死喰い人の誰かに言われる。教員用のテーブルの中心を占めるのは彼らである。長い間この学校のために尽くしてきた優秀な教師たちの座席は端へと追いやられていた。

 スネイプと共にダンブルドアを葬ったヨゼファは、その功績から死喰い人の中でも地位が高かった。長テーブルの真中に座する、今現在の学校長…共謀者スネイプの隣へと配置された自らの座席へと、腰を下ろす。

 ゆっくりとテーブルの上で指を組み、形だけの空の皿が置かれた自分の食卓へと視線を落とす。ヨゼファが食事を必要としないのは周知だった。


 乾いた光がスウスウと窓から差し込んでくるが、重苦しい空気が漂う大広間は薄暗かった。べったりとした闇が、そこかしこに張り付いている。

 ひどいものね、

 誰にも気が付かれないほどの独り言を漏らしてヨゼファは椅子へ背を預けた。

 テーブルの下におろした手に何かが触るので、求められるままに握り返す。スネイプとヨゼファはほんの暫時互いの指を握りしめていたが、やがて各々の食事を再開した。

 ヨゼファにとっては何もすることがない退屈な時間なので、いつも新聞を読んでいた。ヨゼファが朝食の最中新聞を読むことを毎度口を酸っぱくして諫めていたマクゴナガルとは座席が遠く隔たってしまったので、誰もそれを邪魔しない。

 より一層、退屈な気持ちである。



(こんな環境が、こんなことが善い訳はない。)


(しかしハリーが戻ってくるまで、せめてセブルスと共にこの学校を形だけでも維持しなくては。)



 ヨゼファは…また、二度と味わえることのない甘いケーキや良い匂いの紅茶のことを考えてぼんやりとした。

 いつか、再び子供たちと一緒にお茶の席を囲む日は来るのだろうか。

 その日を夢見すぎている。自室には、封を切っていない茶葉が山のようにあった。ポットの中で温められることのないそれらの量は日々増えてはうず高く積まれていく。まるで墓標のように……。







「なにをしているの。」


 しっとりとした声が、振り続ける雨によって強かに冷やされたホグワーツの一角で響いた。

 石造りの建物内のそこかしこにわだかまっていた影がざわざわと動いたことから、声の主が誰であるかをその場にいた全員が理解する。この学校の影は、最早全てが彼女の肉体の一部だった。


 隙間なくびっしりと魔法陣で埋められた指が暗がりの中から這い出し、現在の闇の魔術に対する防衛術教授…死喰い人のアミカス・カローの腕を強い力で捕らえている。逆の掌で彼の痩せた頬を撫でては、その掌中にあった鞭を取り除き、自らを包む闇の中へと溶かして消し去ってしまった。

 生徒二人をその鞭から身を呈して守るために彼らを抱きしめていたマクゴナガルは、ほとんど影と同化している同僚の成れの果てに目を見張った。

 すっかりと痩せた肢体は彼女の背の高さを際立たせ、長い髪が弱く風に煽られる様も合間ってまるで黒い柳の木のような印象を受ける。………何度見ても、慣れるものではない。



「体罰って嫌いよ…、私。エレガントじゃないからね。」


 ヨゼファは目を細めて唇に人差し指を動かした。その指先をアミカスの胸元に滑らせて彼の顔を覗き込む。彼女の方が背が高かったので、少し背を丸めながら。

 相変わらずヨゼファの片手で腕を拘束されているので、アミカスの肉体は漂う闇の中にともすれば呑まれそうになっていた。


「ヨゼファ、」


 肌が触れそうな距離で、アミカスはその名前を呼ぶ。


「よく喋るようになったな。」

「おかげさまで。」


 ヨゼファは彼の手を離し、二人は険悪な空気の中で身体の距離を隔たらせた。…マクゴナガルは預かり知らなかったが、どうやら彼らにはお互いに遺恨があるらしい。


(死喰い人も一枚岩ではない……)


 いいえ、とマクゴナガルは考え直しては生徒たちを抱いていた腕の力を強くした。


(ヨゼファは、まだ。)



「この子たちには、私とミネルバから話をしておきますので…。さようなら、良い一日を。」

「それは出来ない。話は終わってねえよ。」

「嫌ねえ、さようならと言っているでしょう。」

「野蛮なフランス人らしい発音だ、汚くて聞き取れやしない。」

「なんてジェントルな発言かしら…。さすが生粋の英国紳士………。」


 ヨゼファの発言に、マクゴナガルの腕の中にいた生徒一人が堪えきれずに吹き出す。

 それに気が付いたアミカスが反射的に動くが、ヨゼファが再び彼の腕を掴んで次の動きを制止する。


「安心して、カロー先生。私の方が力が強いもの。もっと…痛くできるわ。」


 ヨゼファは彼の背後、ゆっくりとその背に覆いかぶさるようにして耳元で囁く。そうしてもう一度、「さようなら。」と別れの挨拶を囁いた。
 

* * *


「気分が悪かったら今日は寮に戻って休んでも良いのよ。…無理をしないで。事情は私が適当に説明しておくから。」


 ヨゼファは子供たちの視高に自らを合わせるために膝を折って、彼ら一人ずつの頬を包み込むようにして労っている。

 ………生徒たちは、どう反応して良いのか分からないようだった。隙間なく黒い記号が刻まれた彼女の掌に戸惑いながら、弱々しく礼を述べている。


「ありがとうございます、ヨゼファ先生…。」

「どういたしまして。」


ヨゼファは腰を上げ、ニコリと笑ってはまた一人ずつの頭を撫で…そして、声を一段潜めて言葉を続けた。


「さあ…、今日はできるだけ静かにしていらっしゃい。お喋りはほどほどに。……誰が聞いているか分からないからね。」


 親指で自らの唇を軽くなぞった彼女の足元にわだかまっていた闇が、一度腕を大きく広げるように収束する。それに伴って、壁や天井に落ち込む影もぞわぞわと動いた。

 生徒たちはその有様を見、今一度ヨゼファの白い顔をじっと見つめ…緊張した面持ちで、足早でその場から立ち去っていく。



 そしてその場には、マクゴナガルとヨゼファだけが残された。

 彼女たちの狭間に横たわる空気は重く沈黙していく。


「あの、」


 先にその沈黙を終わらせたのはマクゴナガルだった。ヨゼファは赤い瞳だけ動かして背筋の正しい老齢の魔女へと応じる。

 
「………ヨゼファ。」

「なんですか、ミネルバ。」

「…。貴方は……、」


 マクゴナガルはそこで言葉を詰まらせる。ヨゼファは続きを急かすことはせず、彼女の発言を待っていた。


「貴方は本当に、アルバスを殺したのですか。」

「ええ。確かに殺しました。」


 同僚の魔女の淀みない回答に、マクゴナガルは暫時言葉を失う。……怒り以上にひどく悲しい気持ちになった。そうして、かつての彼女を知る多くの者たちと同様の感想を抱く。


「………どうして、ヨゼファ。貴方の本心が分からない。私から見た貴方は、決してそんな恐ろしいことをする魔女ではありませんでした。」

「ありがとう、ミネルバ。」

「褒めているわけではありません。」

「そう…。でも、人間なんて妙なものですね。どんなことにも慣れてしまうんじゃないかしら。」

「貴方は間違っていますよ。私は…。何度も言いました、きちんと話をしてくださいと…!こんなこと、なんの相談もなしに」


 言葉の整理がつかないまま、彼女はヨゼファへと訴える。次第に二人の顔の距離は近くなっていた。マクゴナガルはハッとして身を引く。優しげに目を細めるヨゼファの髪を、雨の気配を含んだ風が揺らした。


「私は」

 口を開いたヨゼファの背後の壁の中、巨大な異形のシルエットが重たいあぶくを巻き上げて泳いでいく。


「ミネルバ…。貴方にだけは、嘘を吐いたことがないのよ。」


 漆黒の影の魚が壁の中をぐるぐると巡り伝い、その巨体のとぐろを巻くようにして高い天井へと昇る。

 昏い雨は降り続けていた。


 マクゴナガルに頬を打たれたヨゼファはそれを全く意に介さず、少し首を傾げては笑みを穏やかにする。


 変わり果てた元教え子の姿から目を逸らして、マクゴナガルは唇を噛む。ヨゼファの頬は真冬の墓石のように冷え切っていた。人間の皮膚とは明らかに異質な感覚に、ジンと痛む自らの指先を握っては、荒くなっていく呼吸を整える。

 マクゴナガルはそれ以上なにも言う言葉を見出せず、ヨゼファに背を向けその場を立ち去った。


* * *
 

 天気の崩れからか、辺りには緩やかに暗がりが立ち込める。色濃くなっていく影の中…無数の瞳がゆったりと開き、先ほどから立ち尽くすヨゼファのことを見つめていた。


(ごめんね。)


 彼女は尊敬する魔女であるマクゴナガルへと心の中で謝罪をし、緩慢な動きながらようやく歩き出した。


 …………マクゴナガルに、自分の口から真実を釈明することはできないかもしれない。と、ヨゼファは考える。

 自分のことを多く語らないヨゼファのことを彼女は度々心配していた。溜め込んでしまう前に相談しなさい、と。


 
(まるで貴方は私のお母さんのよう。)


(貴方が私のお母さんだったら良かったのに。)


(私にちゃんと向き合ってくれた数少ない大人のうち一人だったのよ。)


(尊敬しているわ。)



 心の内側で、彼女に対する想いを呟く。しかし口にしなければそれは無いのと同じだった。自分は大切な友人を傷付けたまま、このホグワーツを永遠に去ることになるのだろうか。


(私は、)


 ヨゼファは歩きながら、自分の細く引き伸ばされたようなシルエットを、象眼細工が見事な石床の上の影に見ながら考えた。


(いつも大切なものを大切に出来ていない。そんな気持ちがする。)


(人間っておかしなものだわ。思考と行動が同じ方向を向くことが稀な生き物。)


(とっ散らかって、ちぐはぐで。)


(まぶしく、謎めいて、哀しくて、希望に満ちている。)



 ヨゼファは大きく息を吸って、湿り気を帯びた虚ろな空気を体内に取り込む。


「大切なことは、」


 そして瞼を下ろして、唇から呟きを漏らした。


「卑屈にならないこと。自分を信じること。そして…愛しいものを想う、ハートの在り方よ……。」


 ヨゼファは再びまなこを開く。薄暗い空気の中、その虹彩はいよいよ紅く鮮やかだった。

 校内にはやはり、生徒たちのおしゃべりひとつとして聞こえない。

 静寂だった。



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