◎ 異国の空
ヨゼファ…ヨゼファ先生という人物について、一体生徒たちはどのような心象を抱いていたのだろうか。
ほとんど叱責らしい叱責をしない教師だったので、やや軽んじられていたような。学生目線からも抜けているところが垣間見えるから、調子良く弄られることも多かった。良く言い変えれば気さくで接しやすい-------------- 半年前(あれ………)
明かりが灯っていない室内をぼんやりとした気持ちで眺めながら、ハーマイオニーは溜め息をして軽く瞼を下ろした。
(がっかりしたような、ホッとしたような)
ヨゼファの教室の奥の部屋、彼女の個人的な執務室である。照明がなくても薄明るいのは、大きくアーチ型に切り取られた窓から月の光がさらさらと運ばれてくるからだろう。
ハーマイオニーは杖先に灯りを点け、部屋の主の名を呼ぼうかと思って…やはり止めて、口を閉ざした。居たら居たで、どう接すれば良いか分からなかったからだ。
(寝てるのかな。)
この部屋の更に奥、ヨゼファの寝室へと続く扉の方に杖先の灯りを向ける。まだ眠るには早い時間のように思えたが。
………扉の向こうに人の気配は無い。
(……………………。)
ゆっくりとした足取りでその方へと近付く。少しの躊躇いの後にノックをするが、なんの反応も無かった。
青く変色した真鍮製のノブを軽く撫でて、ハーマイオニーは小さな声で馴染み深い教師への呼びかけをする。やはり返事はない。
簡単な解錠の呪文で、いとも容易くそこの鍵は無効となった。
扉を開くのは期待と緊張を伴う瞬間だったが、そこに思い描いた人物はいなかった。
足を踏み入れると、女性的な香りが鼻に触った。彼女の香水はこんなにもフェミニンな匂いだったろうか。
ここに入った学生は恐らくほとんどいないに違いない。整えられたベッドを横目に、ハーマイオニーは小さな机の傍に至る。
ふと、何かが動く気配がした。ハッとしてその方を見れば、暗闇に同化した黒い鳥が、クッションが敷き詰められた机上の籠の中から眠そうにこちらを見上げているところだった。
ヨゼファの鳥である。しかし梟のように手紙を運んでくるわけではない。思い出されるのは、彼女の肩や腕にとまってはただのんびりと過ごしている様子だけだった。
「ヨゼファ先生、出かけてるの?」
小さな声で尋ねると、鳥は欠伸混じりにクァと掠れた鳴き声をした。
ハーマイオニーは壁にかかっている彼女の黒いローブに目を留め、足音なくそこへと近付く。触ると指通りが冷たく、滑らかな誂えだった。
(どこに出かけてるんだろう。)
軽い生地でできた黒いローブを壁から外して手に取りながらハーマイオニーは考える。
(大きい服……)
それを身体に合わせ、袖を伸ばしてみると簡単に指先が隠れた。
少しの思考の末、スルリと腕を通してみればやはり自分にはオーバーサイズだった。丈も長く、裾が床へとついてしまう。
瞼を下ろすと、冷たいローブに包まれている感覚が皮膚へとより一層強く伝わってくる。女性的な香水の匂いもまた、更に色濃く漂ってきた。
(ヨゼファ先生が男なら良かった、って…よく思っていたけれども。)
襟の辺りに唇を寄せながら、ハーマイオニーは胸の内側で呟く。
(女で良かったわ。)
(もし……男だったら…。私は)
「良い服を着てるわね。」
耳元に馴染み深い声が触った。その方へ振り向くと、背後からハーマイオニーの顔を覗き込むようにしていたらしいヨゼファが身体を起こしては遠ざかっていく。
彼女の濡れた髪から弾かれた細かい雫が鼻先を掠めた。ヨゼファはゆったりとした動作で、手にしていたタオルで自分の髪の水分を拭き取った。詰襟の薄いネグリジェがなだらかな身体のラインに沿っている。
ヨゼファは勝手に私室に入ったハーマイオニーを咎めるわけでもなく、リラックスした様子でこちらを眺めるだけだった。
「ごめんね、お風呂に入ってたから。なにか用事?」
暫時の沈黙の後、彼女は話を切り出した。そして微笑み、「あら、本当に良い服。」と自分の黒いローブの下に覗いているハーマイオニーの白いワンピースを視線で示す。
「綺麗な格好してるわね。」
と続けながら、彼女は机上に広げられていた羊皮紙にスラスラと魔法陣を描いていった。小さな橙色の炎がそこから五つほど浮かび上がり、室内の闇を幾分か薄めていく。
「スラグホーン先生の、食事会があったんです。」
揺らめく炎を見つめながら、ハーマイオニーは呟いた。ヨゼファは机上で寝ぼけ眼の鳥の頭を軽く指先で撫でてやり、「そう、」と相槌する。
「楽しかった?」
「ええ。まあ……」
「でも、手放しにというわけでもなさそうね。…なにかあったのかしら。」
ヨゼファはベッドに腰掛け、自分の隣に来るように仕草で促した。ハーマイオニーはそれには応じないで同じ場所に立ったままでいる。
彼女は自分の申し出が受け入れられなかったことを気にする様子もなく、「ご飯が美味しくなかった訳じゃないわよね。」と少し冗談めかして言う。
「スラグホーン先生、確かいつもレストラン・アストラからケータリングを頼んでるもの。羨ましいわ。」
「……詳しいですね。」
「彼が現役だった頃…ああ、復職なさったから今も現役だけれど…の生徒だったからね、私は。」
「ヨゼファ先生も、食事会に呼ばれてたの?」
「まさか。あれに参加できるのは優秀な学生だけよ。」
彼女は立ち上がり、ハーマイオニーの傍へと歩を進めた。
手を引かれて、ヨゼファの傍へと引き寄せられる。彼女は自然な動作でハーマイオニーの身体を覆っていた自身の衣服を剥がし、ふわりと中空に浮かべて壁に打ち込まれた杭へ元のように引っ掛ける。
導かれるまま椅子へと腰を下ろすと、部屋の壁にぽっかり口を開いている大きな窓がよく見えた。青くて細い月が、濡れた色を光らせている。
ヨゼファはハーマイオニーに向かい合う形でベッドへと再び腰掛けた。瞼を下ろして、濡れた短い髪をかき上げる。あっという間に乾いたそれは、彼女の顔の輪郭の周りにいつものようにふわりと柔らかそうに落ちて来た。
彼女は再び視線をハーマイオニーへと向け、自らの膝に頬杖をする。右目が伸びた前髪で隠されているので、こちらを捉えている青い瞳はひとつだけだった。
「ヨゼファ先生。」
「うん?」
呼びかけると、彼女はそのまま穏やかに応じる。
「……歯医者って変な職業ですか?」
「え?変……?ああ、魔法界はマグルの社会と違って身体の部位ひとつの箇所専門のお医者さんっていないからね。そういう意味じゃ珍しく感じるけど。別に変ってほどじゃないわ。」
なにか言われたの?と言ってヨゼファは教え子の言葉の続きを促す。彼女はハーマイオニーの両親の職業を知っている。それどころか好物や服の趣味にちょっとした癖まで。全部、ハーマイオニーが話したからだ。この6年弱の学校生活の中で重ねた沢山の会話の中で。
「言われたわけじゃないけれど…。」
「うん、」
「なんだかマグル出身なのは悪いことなみたい。」
「まさか!もしそうならこの世に存在する魔法使いの半分くらいは悪いことになっちゃうじゃない。」
ヨゼファに悩みを打ち明ける会話の運ばれ方はいつもと同じだった。だがその流れがぎこちないのは、ハーマイオニーが彼女に対して抱く疑心に由来している。
一度追放された後、当たり前にこの学校に戻って教鞭を執っているが、眼前の教師は死喰い人だったのだ。人を拷問したことや、殺したこともあるのかもしれない。
続く沈黙の中で、ヨゼファが「お茶、飲む?」とひっそりと囁く。
ハーマイオニーは頷くことも首を振ることもしなかったが、彼女が寝室の扉を開けて
執務室の方へ向かうのに、黙って従った。
*
ヨゼファはお茶の準備をするために、様々な色や形をしたカップのための古めかしい棚を開けて中を吟味していた。
ハーマイオニーにとっては馴染みがある光景である。話が長引く時、折り入った話の時、彼女は良い香りがするお茶を会話に添えてリラックスした空気を作り出す。
一年生の時から、何かと理由を作ってこの部屋を訪れていた。彼女と話すのは好きだった。年が離れた姉のような親密さすら抱いていた。
執務室に据えられた大きなテーブルの上には、途中らしい仕事が区切りが良いところで止められている。
真鍮製の秤の傍にはずらりと小瓶が並ぶ。人差し指くらいの細い小瓶だった。それぞれ異なる色の顔料が入った瓶には、ひとつずつ青い縁のラベルが貼られ名前が書き込まれている。ハーマイオニーが知らない名前がほとんどだった。恐らく今年の新入生たちのものになるのだろう。
「懐かしい?」
薄いエメラルドグリーンのカップを二脚ローテーブルの上に置きながら、ヨゼファがこちらに声をかけた。
「それとも、もう覚えてないかしら。昔のことだからね。」
「いえ……。覚えてます。」
「良かった。」
ヨゼファは机の傍へと寄って口が開いたままだった瓶を閉じては、いつもより瀟洒な出で立ちのハーマイオニーへと再び視線を合わせる。
「今年の一年生たちの基調色よ。……ひとりずつ違う色なのが面白いわ。」
ペン皿に伏せられたもののうち、青い軸のペンをヨゼファは手に取った。エルザと書かれたラベルに小さくリボンを描き足し、それをチェスの駒のように整列している小瓶たちの中に加える。
名前ラベルに生徒の個性を表すモチーフを小さく付け加えるのは、毎年変わらない彼女の遊び心なのだろう。確かハーマイオニーの時は鍵しっぽの猫だった。
ソファに並んで腰を下ろしながら、ハーマイオニーは口を開く。
「そういえば、先生は純血の魔女なんでしたっけ…。」
「いやねえ純血なんて言い方。そうね、確かに私の両親は魔法使いだったと思うわ。あまり詳しくは知らないけれど。」
「詳しく知らないんですか、どうして。」
「私の父は私が生まれる前に死んでしまったのよ。」
「じゃあお母さんは?」
「さあ…縁を切って久しいから。もう顔を思い出すのも難しいわね。」
「え?」
「色々あるわ。人生ってね。」
ヨゼファは弱々しく笑って、ハーマイオニーの顔にかかってしまっていた栗色の髪の毛をそっと耳の上へと避けさせる。
ハーマイオニーは、かつてヨゼファがアンブリッジに母親のことを言及された時の切迫した有様を今更に思い出し……、この件に関して、質問を重ねるのを止めた。
「先生は、あまり自分のことを話さないんですね…。」
代わりに呟くと、彼女は困ったように眉を下げた。
少しの沈黙。
「さて……話を戻しましょうか。こんな言葉では慰めにしかならないでしょうけど。私にはね、魔法族の父母を持つ私よりもよっぽど貴方の方が優秀な魔女なように思えるわよ。」
「そんなことは……」
「謙遜しないで。スラグホーン先生はただの陽気なおじさんじゃないの、とても人を観察することに長けていらっしゃる。彼の食事会に招かれた学生たちは必ず偉大なことをやってのけるわ。………どういうものであれ…偉大には変わりはないことをね。成し遂げるだけの能力を持っている。」
貴方もね、いずれ
ヨゼファはニッコリと笑い、薄いエメラルドグリーンのカップをこちらに掲げてみせる。「乾杯、」と言われるので、促されるままに自分の前に置かれていた陶器のカップをそれに合わせた。静かな室内に、硬い音が短く響く。
「魔法使いとマグルの違いは、出来ることが少し異なっているだけでしょう?そこに優劣は存在しないわ。」
付き合いの長いこの教師は、今夜の言葉足らずの会話からハーマイオニーの心理を読み取ってしまうらしい。ヨゼファは脚を組み、リラックスした様子だった。
「でも先生、優劣があると思っている人は確かにいるでしょう。」
「否定しないわ…。でもその考えは間違っていると、ホグワーツの先生として断言しておきましょう。自信を失わないようにね。
誇りを持って。」
彼女は俯いているハーマイオニーの顔を横から覗き込む。それから自らの膝に肘をつき、「もう少し詳しく話をしましょうか。」と言葉を続ける。
「マグルはどうして魔法が使えないと思う?」
そして授業の時と似て非なる口調で質問する。ハーマイオニーはハーブティーには口を付けず、器をゆらゆら揺らしながら「それは……、そういうものとしか。」と歯切れ悪く返した。
「貴方にしてはスッキリしない回答ね。」
「……………。」
「少しだけ錬金術の話になるけれども。人間は肉体と
魂で構成されている。魂の力が作用する能力が魔法族は魔術の行使、マグルはそれ以外だというシンプルな理由よ。」
「そんなこと、マグル学の教科書に書いてなかったわ。」
「教える必要はないと魔法省が判断しただけね。理由なんて別にどうでも良いことだから。マグルに比べて魔法族が優れていればそれで良いと考える人が多かった。自分たちが特別だと思いたい。それが、今の貴方を傷付ける社会構成の簡単な成り立ち。最近でこそ平等を謳うようになっているけれども…長い時間と歴史の中で築かれた差別の精神は、まだ色濃い。そうよね?」
「………でも、少し前まではこんなにも顕著じゃなかった。」
「原因は理解るわよね。
貴方ですもの。」
「はい、理解っています。」
「昔から賢い子だわ。」
ハーマイオニーは弱く溜め息して、いつの間にか空になったカップをソーサーの上へと戻す。それにヨゼファは新しくハーブティーを注ぎ足した。金色のお茶からは、夕焼けの光に似た懐かしい香りがする。
「……これは私の個人的な考えだけれど、魔法族は魔術が使えるが故に魂の可能性を狭めてしまっているのかもね…。」
ふと顔を上げると、琥珀色の小さい灯りに照らし出されたヨゼファの執務室の風景は見当たらず、周囲は夜の海だった。浜辺に忘れ去られたようにひとつ突き刺さった白いパラソルの下、ハーマイオニーとヨゼファは同じく白いガーデンチェアに腰掛けている。
ホグワーツの天井と同じ仕組みだ、とすぐハーマイオニーは理解した。実際にこの場所にいるわけではない。ヨゼファが何らかの魔法で自室の空間に景色を投影しているだけだ。
ヨゼファは新しくお茶が足されたばかりのカップをハーマイオニーへと手渡す。「ここ、どこですか?」と尋ねれば、「リド島よ。」と返された。「ヴェネツィアの端っこの、パスタのように細長い島。」と言ってヨゼファは微笑んだ。
「この島を舞台にした美しい小説があるの。大好きで何度も読んだわ。不思議と文学作品や芸術作品はマグルの作家の方が圧倒的に良いものが多いのよ…。きっと想像力や創造力が、魔法族よりも豊かなんでしょうね。」
彼女は短い髪を風に揺らしながら瞼を下ろす。
「私、イタリアはまだ行ったことないから……。いつか、行ってみたいわ。」
独り言のように小さな声で呟いてから、ヨゼファはハーマイオニーへと再び向き合った。
深い色をした海が、白いレースに似た波の裾を二人の足下へ広げてくる。触った靴先がひんやりと冷え込むような心地がした。
「悲しいでしょうね、ハーマイオニー。」
静けさの中で、ヨゼファはポツリと零す。
「誰よりも才能に恵まれた魔女なのに。」
「え?」
「それとも辛いのかしら…悔しい?なんにせよ可愛そうだわ。私は貴方の胸中を思うと、苦しい気持ちになる。」
ヨゼファは寂しげに言ってから、「こう言う時、もう貴方を抱きしめてあげられないのがもどかしいわね…」と続けた。
「……。抱いても、良いんですよ。」
「……………………。」
小さな声で言うと、ヨゼファは目を逸らしてなにかを思案するようだった。「先生、」声を囁きに変えて、ハーマイオニーはすぐ隣の彼女の冷たい手を握る。
やがてヨゼファは繋がっていた手を解き、ハーマイオニーの身体を自分の方へと引き寄せた。しかし抱き締めることはせず、肩を抱くに留まる。旋毛にひとつ、キスが落とされたのが分かった。
(死喰い人だったんだ、)
その甘い感覚を甘受しながら、ハーマイオニーは思い出していた。
(この人、死喰い人だったんだ。)
ヨゼファはゆったりとした手付きで肩を数回撫でてくる。ハーマイオニーは瞼を下ろして、冷たい体温を持つ教師へと身体を預けた。
しばらくそうしていると、不安な心持ちは丸く滑らかに収まっていく。いつもと同じように。
(こんなに優しいのに、この人…死喰い人だったんだ。)
女性にしては少し低い声で名前を呼ばれた。
「具体的な解決策をアドバイス出来ないくてごめんなさい。」
謝られる。
彼女の胸に頭を預けたまま、黙ったまま首をゆるゆると横に振って応えた。
「貴方はなにも悪くないわ。悪いのは社会で、間違っているのは今の世界よ。」
視線を足下に落とせば、砕けた貝殻の白い欠けらが、黒く濡れた砂浜で星のように散らばっていた。
髪を撫でられている。親密な仕草だった。
「でもね…ハーマイオニー。貴方がいずれ社会を作る側の人間になった時、今の悲しかった気持ちを忘れないでいて……。そして自分と似た立場の人を助けてあげるの。貴方にはそれが出来る能力と才能があるから。この悩みは無駄じゃないのよ。意味があることだわ。」
ハーマイオニーは優しい罪人の言葉に耳を傾けながら…、ポツリと「先生、恋人いないの?」と唐突に尋ねた。
彼女はそれに驚く様子もなく、「いないわ。」といつもと同じ答えを返す。
「どうして?」
「どうして…と言われてもね。モテないのよ。」
「嘘、それは絶対嘘よ。先生のことを好きになる女の子は本当に沢山いるもの。」
「可愛い教え子に手は出せないでしょう。……好いてもらえるのは嬉しいけれどね。」
正直ね、とボヤけばヨゼファは明るく笑った。ハーマイオニーは彼女の胸の内から視線を上へと向け、「じゃあ、卒業した子なら手を出すの?」と質問を重ねる。
「嫌ねえ、出さないわよ。正直に言うと、私は恋人を作るつもりも結婚するつもりも無いの。前科持ちだし………」
ヨゼファは一度そこで口を噤み、暫く沈黙した。ハーマイオニーもそれに付き合い、深い青色の波音に耳を澄ます。
低い海鳴りもした。海抜200メートルくらいの遠い山を越えて、パスタのように細長いこの島にもそれは響いてくるらしい。
「私は、先生はね…。貴方の恋路を応援してるわよ、ハーマイオニー。」
そして彼女はその発言を続けることはせず、話題を切り替えてしまった。
「貴方の選択は間違っていないわ。彼は思い遣ることが自然に出来る人だから。それは人間同士が愛し合うために一番必要でいて、とても難しいことなのよ……。」
ハーマイオニーは頷いては弱く息を吐き、ヨゼファが男性だった場合の…その姿を考えてみた。
だが、どうもしっくり来ない。どうやらヨゼファという人間は、女性であるが故により魅力的な存在なのだろう……。
*
「ヨゼファ先生は、スネイプに騙されているのよ。」
長い間夜闇の中に沈黙が広がっていた森の奥、ハーマイオニーがポツリと呟く。
簡易的な机を挟んでその向かいに腰掛けていたハリーは、瞳だけ動かして彼女の言葉に応えた。ロンはテントの奥で眠っている。……多分。起きてるにせよ寝ているにせよ、ジッとしているらしく衣擦れの気配も無かった。
少しの間、二人は互いの瞳の中をじっと覗き込んでいた。
だが、ハリーはやがて首を緩く振る。「それは違うよ。」そうしてハーマイオニーの言葉を否定した。
「それじゃ弱みでも握られて脅されてるんだわ。」
「それも、違うよ。」
ハリーはランプを引き寄せて少し灯りを大きくしながら抑揚なく返す。
顔を上げると、濡れたハーマイオニーの瞳と視線が合う。やり切れない気持ちになり、彼は溜め息をする。そうして…且つてヨゼファが自分へと語った『善いものと美しいものが失われた毎日』という言葉をなぜか今、心の中で噛みしめた。
「僕は実際にヨゼファの姿が変わったところも見たし…その後言葉も交わした。もう、君たちには何回か話したよね。」
ハリーは脳裏に、ヨゼファの…影を糸にしたような黒く長い髪を思い出していた。視覚でまざまざと彼女の裏切りを見せつけられたのは辛かった。立ち直れない。言葉だけでは、いま行動を共にしている親友二人には伝わらないだろう。
ダンブルドアが死んだ夜の経験、そしてシリウスが一撃の魔法で葬られた経験を通して、彼は人間の『善いもの』が大きな運命の前ではどんなに脆いかを身に染みて味わったのである。
「ヨゼファは間違いなく自分の意思でスネイプと行動を共にしている。そして、ダンブルドアと
不死鳥を殺した。」
「どうして、分からないわ。…今までずっと……あんなに優しくて、生徒たちを大切にしてたのに。ダンブルドアを尊敬していた筈よ。演技だったの……?」
ハーマイオニーの声は弱々しく、一本の糸のように頼りなく細かった。
ハリーにも、それは分からない。だが、「演技では無かったと思うよ。」その確信だけは抱けた。
「だから、僕も分からない。」
様々な感情に押し潰されそうになるのを堪えて彼は言った。
分からないのである。なぜ今、星がこのように自分たちの苦しみの上に冷たく光っているのかが分からなかった。
地上の、人々の悲しみをよそに毎日、朝が訪れ、こうして夜がくるのかも分からなかった。
「僕たちは覚悟を決めないと。……ヨゼファとは、戦わなくちゃいけないから。」
今にも消えてしまいそうなほど希薄な空気を纏うハーマイオニーを励まそうと、言った後に無理に笑ってみる。だが親友は濡れた瞳を数回瞬きをしただけで、より表情を苦しげにするだけだった。
----------------なんとかしなくてはならない。
突き動かされ、ヴォルデモートの分霊箱を探すために、当ても希望も無い旅を続けているが……。なんとかしなければならない、その言葉には思わず苦笑する。言うのは易しく、行うことは本当に難しかった。
ハリーはポケットの中から透明色の石くれを取り出して、ハーマイオニーと自分の間、机上に置く。
彼女はそれを見下ろして少しの間ぼんやりしていた。細かい星の光がそれを照らして、チカチカと光らせている。
「……綺麗。何かの宝石?」
ハーマイオニーは頬杖をつきながら呟いて尋ねた。
「石はみんな宝石なんだよ。人間は、そのほんの少しだけが宝石だと思い込んでるけれど…。」
ハリーはガラスの欠片か氷に似た小石をもう一度持ち上げ、ハーマイオニーの手の中に置いた。「あげるよ。」と一言だけ添えて。
ハーマイオニーは自身の掌中に収まった透明色の小石の中をじっと眺めている。
彼女の疲労が滲んでいる顔に、長いまつ毛の影が差し込んでいた。共に過ごした長い時間、距離が近すぎて分からなかったが…ハーマイオニーはひどく綺麗な顔立ちをしている。実感と共に、ハリーはもう一度深く溜め息をした。
prev|
next