骨の在処は海の底 | ナノ
 情景泥棒

 フレッド&ジョージ・ウィーズリー、様々な理由からホグワーツでも抜きん出て有名な双子が、これもまた非常に印象深い手段で学び舎を去ってから半年である。

 そうして双子が経営を初めたいたずら専門店ウィーズリー・ウィザード・ウィーズは、開店初日にも関わらず多くの若い魔女魔法使いで賑わっていた。


 開店祝いにやってきたハリー、ロン、そしてハーマイオニーは彼らのセンスが遺憾なく発揮された奇天烈摩訶不思議な店内の商品や装飾に魅入っていたのだが、ふとここの店主である双子二人の傍で会話に興じる彼女・・を認めては互いに顔を見合わせる。


「先生にはこれが良いんだって!何回も言ってるだろ?声のトーンがほとんど子守唄なんだよって。授業中寝るなっていう方が難しい。」

「そうそう、だから寝た子も裸足で逃げ出す魔界の大王ヴォイスキャンデーを!!今ならなんと2ガリオン。」

「授業中に裸足で逃げ出されたらそれはそれで困るんだけれど…。ちなみにその飴、どのくらい効果続くの?」

「安心して、僕らの商品は質の高さが売りだから。」

「一粒で一ヶ月は保つかな」

「一ヶ月も魔界の大王ヴォイスでいたくないわよ、あとキャンデーに2ガリオンは妥当じゃないと思うけど。」

「そうか…。先生安月給だから……」

「なんで知ってるのよ」


 背の高い赤毛の双子の頭を軽く小突いた、二人よりも更に上背のある女性はハリーたちもよくよく見覚えのある教師だった。

 ハリー、ロン、ハーマイオニーのなんとも形容しがたい複雑な胸中とは反対に、双子と魔法図象学の教授は朗らかな様子で談笑しては笑い合っていた。


 会話に興じていた三人はこちらに気が付いたらしく、笑顔を明るくしたり軽く手を振るなどして、それぞれに挨拶をしてくる。


 だが、ヨゼファはすぐにハリーたちの様子のおかしさを理解するらしかった。

 階段が入り組んで張り巡らされた店内、上から彼ら三人を見下ろして……微笑み、瞼を閉じて軽く頷く。


 先ほどとは異なる潜めた声で彼女は双子二人に二言三言を告げ、硬貨を数枚渡す。その代わりに話題に昇っていたカラフルなキャンデーを受け取ると、溶けるようにして背景に姿を滲ませて消えていってしまった。

 その間際、ハリーたちに軽く手を振ったのかもしれない。だがあまりにも魔術顕現の流れが自然だったためにそれをはっきりと確認することはできなかった。


「ヨゼファ先生…来てたのね。」


 双子の元へと辿り着き、挨拶もそこそこにハーマイオニーが呟いた。


「そうさ、」

 と掌中の金貨数枚を長い指の先で弄びながらフレッドが応えた。


「開店祝いに来てくれたんだよ。ほら、これくれたんだ。」

 ジョージが示した先には淡い色彩の花束がガラスの鉢に活けられてはふんわりと息衝いていた。瑞々しく水滴を弾いている薄い花弁の周りには、小さなハチドリが数匹飛び回っている。


「一年は保つって言ってたっけ」

「やたら可愛らしいから愛の妙薬・恋愛グッズのコーナーに置こう、ああ言うのは雰囲気と女子受けが肝心だから。」

「せっかくのお祝いの品をそう言う俗っぽいことに使わない方が良いんじゃない?」

「…この店の中に俗っぽくないスペースがあるのかよ」

「俗っぽいとは失礼だなグレンジャー、そもそも俗なるものと聖なるものと言うのは表裏一体で…これは紀元前二千万年前に書かれた書物の記述によるんだが「そうやってすぐ嘘吐くのやめた方がいいわよ」

「おっと何故嘘だと思うんだ」

「紀元前二千万年前はまだ人間が猿の時代よ、文字すら存在しないわ。」


 ハリーがその柔らかい佇まいの花束をぼんやりと眺める背景、双子とその弟のロン、ハーマイオニーがいつもの調子でテンポよく会話を続けていく。


 薄桃色の花の中に、羽毛の鮮やかなのハチドリが嘴を入れている。小さな数羽の鳥は蜜を集めるためにせっせとその周りを飛んでいた。


 ---------------------辺りの喧騒が遠くなったような、そんな心持ちがする。

 最近のハリーには、考えるべきことが多くあった。その中でも馴染み深い彼女・・のことを考える時、一際こう言った静寂を覚える気持ちがする。


「二人は…まだ、ヨゼファ先生と仲が良いんだね。」


 視線を花束の方に向けたまま、ハリーはポツリと呟いた。


 談笑していた四人の友人は一度それを中断して彼の方へと視線を向ける。

 ハーマイオニーが何かを言いかけて口を噤むが、五人の元へと沈黙が降りてくる前に「当たり前じゃないか、」とジョージが明るい声で応対した。


「こうやって僕らの店の開店のお祝いにも来てくれたんだ。」

「それにどうしてそんなことを聞く?君たちだって先生が好きだったじゃないか。」


 フレッドがそう言っては三人へと視線を投げかけ、暫し応えを待つ。

 しかしハリーたちは三者三様になにも言えず口を閉ざしていた。



「ジョージ、この三人は気にしてるんだよきっと。」

「何を?ヨゼファが死喰い人だったことか?」

「更に付け加えるとアズカバンへの収監歴もある前科者だった、」

「なるほど?それは飛んだ曲者だ。でも、それはそんなに気にする必要があることかな。人生は長いから、一度も過ちを犯さずに生きる保証も確証もないし。」

「僕たちだって君たちだって立場や環境が違えば、分からないだろ。」

「そんなことはない。」


 双子の掛け合いとも取れるような毎度の会話を、彼らの弟のロンが遮った。

 同じ所作で腕を組んではやや首を傾げた双子の兄たちの反応に、ロンは少し躊躇するようだが言葉を続けていく。


「フレッドとジョージは…そりゃ、良くないことは沢山しているけれど、悪人ではないよ。どんな立場でも死喰い人にはならないと思う。勿論、ハリーやハーマイオニーも…。」


 彼はどこか自信なさげに言葉尻を小さくしていく。ハリーはそんな親友の姿に自然と表情を和らげては「君もね、」とその言葉を補った。


「確かに。僕らのロニー坊やの言う通りだ。でも、僕たちが言いたいことはさ…」

「僕らがどこもかしこも閑古鳥が鳴いているような状況で何故この店を開いたのか、分からない君たちじゃないだろう?」

「こういう時こそ笑いが必要だし、好きなものを好きだと信じる心が大事なんだ。」

「ヨゼファはずっと良い先生だったじゃないか。」

「ホグワーツの先生で、今日わざわざ来てくれたのはヨゼファだけだよ。」


 僕も、そう思う。


 ハリーはそれを言葉にすることが出来なかった。

 心中では勿論彼ら双子と同じ感覚を抱いている。それでも手放しにヨゼファを信じていると言い切れないのは、自分の中、彼女に関する記憶の端々に差し込む暗い影の所為だろうか。



 双子の店を後にしてからもそうだった。

 ハリーは偶然見かけたマルフォイの行動の不自然さを気にかけて一人その後を追っては、ノクターン横丁、ボージン・アンド・バークスの薄暗い店内へと至った。

 息を詰めていたハリーの目の前…そしてマルフォイの傍に彼女は再び姿を表した。


 彼は眼前の漆黒のキャビネットに集中していた為か、魔法図象学の教授の出現に気が付いていないようだった。

 ヨゼファはマルフォイの背後に立っては、囁くように挨拶をする。


 ゆっくりと二人は視線を交え、至極小さな声で何事かの会話を交わしていく。

 終始ヨゼファは彼の肩へと片手を触れ、その感情が激するのを留めているように思えた。


 多くを聞き取ることが出来ないハリーの耳に、ヨゼファのともすれば眠気を誘うような柔らかい声がそっと忍んでいく。


『困ったことがあったら、なんでも相談しなさい。』

『先生は、貴方の味方だから。』


 そう言って、彼女は女のようにしながあるマルフォイの掌を両手で軽く握った。

 今一度微笑み、ヨゼファはまた先ほどのように背景の空気に溶けて見えなくなる。


 薄暗い空間には、マルフォイの抑え込むように苦しそうな息遣いの音がそろりと広がっていく。

 見ると、彼の額から玉のような汗が一筋床へと垂れていく最中だった。

 マルフォイは瞼を下ろして小さく悪態を吐く。


 不穏な空気が辺りに立ち込めている。

 この空間だけでなく、社会全体、国全体、世界全体に。

 その感覚を強く覚えては、ハリーの額からも一筋の血のような汗が垂れていくのだった。







「泣かないで。」


 ベッドに身体を丸めて泣きじゃくっていたハリーの頬へと、冷たい掌が触れては撫でていく。

 これは何年前の記憶だろうか、……と彼は考える。

 恐らく、今から十年くらい昔。

 よっぽど前の出来事だから、現実なのか夢なのかすらもよく覚えてはいない。


 ホグワーツに来る以前の、彼女・・に関する記憶はそんなものがほとんどだった。


 幼いハリーは瞼を開き、涙で歪んだ視界の中…ベッドに腰掛けてこちらを見下ろすその姿を認めた。

 身体の大きな彼女はやや窮屈そうに背を丸めて、天井が低い物置部屋に身体を収めている。


(あ、)


 ハリーはそう思ってすぐに身体を起こした。


(来てくれた…!)


 真っ直ぐにその胸の中に飛び込んでは堪えていた嗚咽を吐き出すハリーに、黒色の服に身を包んだ彼女はやや驚くらしい。

 しかしすぐにやせ細った少年を抱きしめては周囲の暗がりから彼を守るようにして、自らのローブでその身体を包んだ。


「可哀想に……」


 震えるハリーの小さな背中を、魔女はゆっくり撫でて囁いた。


「悲しかったわね、辛かったでしょう。」


 よし、よし、とゆったりとしたテンポで背中を撫でながら、黒衣の女性は赤ん坊をあやすようにハリーの涙をその胸で受け止めていた。


「ご、ごめっ………、」


 言葉になりきらない音を繋ぎ合わせ、ハリーは彼女に謝った。「どうして謝るの?」とそれに返される。


「だっ、、て………、僕はっ………い、つも、、、」

「そんな……。そんなことで謝らないで。悲しい時、夢の中でいつでも呼んでって私は言ったでしょう?ハリーが一人ぼっちの辛い夜を過ごす方が私にはよっぽど辛いわ。」


 ハリーのことを抱き直し、魔女はその頭へと頬を寄せた。


「私を呼んでくれてありがとう。今夜は、どこに遊びに行きましょうか。」


 青い瞳を細くして、彼女はハリーの涙と汗で濡れた顔を白いハンカチで拭う。

 嗚咽は収まるが、それでも涙は留まってくれなかった。彼女は熱くなったハリーの頬を両掌で包み、「頑張ったわね、偉いわ。」と囁く。その言葉に、また、違う種類の涙が垂れていく。



 彼女は眼鏡をかけ直したハリーの肩を抱き、階段下の物置の出入り口へ、ツと腕を伸ばす。「だめ、」とハリーはそれを留めた。


「叔父さんや叔母さんに、見つかっちゃう……。」


 小さな声で言うと、女性は「安心して。」とそれに返す。


「ここは貴方の夢、心の中よ。叔父さんも叔母さんも、貴方の一番大切なこの領域までを侵すことは許されていないの。」


 そう言って、彼女は躊躇なくその扉を開け放った。

 扉の先には馴染み深い甘ったるい色の壁紙とハリーを除いた三人の家族写真が…………、無い。それどころか扉の先は屋内ですらなかった。


 濃青の夜空から、透明な結晶がヒラヒラと雪のように降りて来る。

 彼女に手を引かれて外に出れば、階段下の小さな三角の物置部屋だけが広大な草原の中にポツンと漂流して来たように置かれていた。


「本当に……魔女なんですね。」


 毎度抱く感想を、ハリーはそのまま口にした。


「ええ、そうよ。魔女がそんなに珍しい?」

「少なくとも僕は、今まで貴方しか見たことがない……。」

「そんな筈ないわ、気が付いていないだけよ。魔女も魔法使いも妖精も鬼も幽霊も、この世には幾万と存在しているんだから。」


 黒衣の魔女はどこからか細い脚がついたガラスの鉢を取り出し、空に翳して舞い降りてくる白い結晶をそこに受け止めた。

 キラキラと宝石の屑のように光るそれが鉢の中でふんわりと山を作ったものを、彼女はハリーへと渡していく。銀色のスプーンと共に。


「沢山泣いたから喉が乾いたでしょう?妖精郷の近くのここに降る霙は綺麗だから食べられるの。しかもとても美味しいのよ、魔法界のレストランやパティスリーは皆こぞってこの味を真似しようと競い合っているわ。」


 ハリーは彼女の説明を聞きながら、細かい煌めきを辺りに散らす霙を、よく冷えた銀色のスプーンで掬い口へと運んだ。

 冷たくて、口内でシュワシュワと解けていくような不思議な甘い食感だった。檸檬に似た良い匂いがする。


「美味しい…」

「そう、良かった。」

「……綺麗なところですね。」

「ええ、本当に。私はここが大好きよ。」


 広い草原の向こうには川が流れているらしく、涼しげな音が青い闇の中でこちらへと渡ってくる。その背景、シャボン玉のように丸い月が霙の結晶をチカチカと強く光らせていた。


「少し歩きましょう。」


 彼女は小川の方を示してはハリーの手を取って歩き出す。その黒いローブを、夜風がサラサラとはためかせた。

 幽かなせせらぎは絶えず、浅瀬めいたところに小魚を呼び集めるらしい。銀色の背の素ばしこい魚たちは自由にスイスイと水流の狭間を泳いでいた。

 その川岸には、降ってくる霙と同様に透明の硝子のような小石が転がっている。


「これは宝石?」


 ハリーが尋ねると、ヨゼファはひとつを拾いあげて手渡してくる。受け取ると、ひんやりと濡れてキンとした感触が指先から身体の奥へと伝わって来た。

 
「石はどれもみんな宝石なのよ。人間は、その中のほんの少しだけが宝石と思い込んでいるけれども。」

「これ、もらっても良いんですか。」

「もちろん。ここは貴方の夢だもの、なんだって欲しがって良いのよ。」


 ハリーは、掌の中で透き通って光る石ころを見下ろした。

 でも、これは目を覚ましたら消えてしまうんだろうな、と考えると悲しくなる。そうして同様に、隣に寄り添う黒い魔女と過ごした記憶も綺麗さっぱりとなくなってしまう。


「……嫌だな。夢から覚めたくない。」


 本音を漏らすと、彼女は笑った。そうして膝を折り、ハリーと視線の高さを同じくする。


「そうね、気持ちはよく分かるわ。貴方は人一倍辛くて悲しい現実を生きているから。本当に…いつも。何も力になれなくて、ごめんなさい。」

「そんなことはないけれど……でも、貴方と過ごした夢のことを、少しでも覚えていられたら良いのに、とは…、思います。」

「ありがとう。大丈夫よ。貴方が忘れても、私が覚えているから。」


 そう言うことではなくて、と言いかけて、ハリーは口を噤んだままだった。

 ハリーの願いは決して聞き入れられるものではないらしい。これから何度夢の中で彼女に出会っても、その度に自分はこの時間と女性の記憶を失ってしまうのだ。

 
「僕は貴方が好きだから、忘れたくないな……。」

「私も貴方が大好きよ。………、ハリーはまだ小さいのに私よりずっと大人ね…。自分が悲しい時でも、こうやって人に愛情を伝えて優しく出来る。暖かな人柄だわ。それは貴方の大きな財産よ…どんな宝石よりもね。」


 彼女は優しく微笑んでは膝を折っていた状態から腰を下ろして、ハリーを隣へと促す。

 自然な動作で魔女は彼の肩を抱き、「また大きくなったわね。」と嬉しそうに言った。まるで母親のように。


「悲しい時、人は逃げ込むための胸の中、夢の中の一人きりの空間が必要ね。けれどもいずれそこから出て、どうあっても自分自身と向き合わなくちゃいけないの。夢の記憶は儚い方が良いんだわ。夢想の世界は誰も貴方を傷付けないけれども、留まる場所ではないから。」

「だから、全部綺麗さっぱり忘れてしまうんだ。」

「そう、その通り…。でも、いつでも貴方の中にここはあるから、安心してね。」


 彼女の穏やかな微笑みにつられて、ハリーも少しだけ笑った。


「目が覚めている時、会える日も来るかな。」

「ええ、必ず。今からとても楽しみよ。」

「…その時、僕は貴方と初対面だって思うんだ。なんだか不思議な感じ……」


 魔女はクスクスと可笑しそうに笑みを漏らした。

 そっと頭髪を撫でられる柔らかい感触を甘受しながら、ハリーはゆっくりと瞼を下ろす。


「またね。」


 彼女の挨拶に頷いて応えた。また。必ず。必ず…………、



 それからも、幾度となく夢の中で彼女に助けを求めては来てもらった。

 どこにでも連れて行ってくれて、楽しいことを教えて、優しくしてもらったんだと思う。



 そうして現実にハリーがヨゼファと相見えた11歳の時。当たり前にそれが初対面だと思っていた。

 実際の彼女も夢と同じように優しかったし、夢と同じようにハリーは彼女のことが好きだった。



(それなのに、どうして)



 ハッとしてハリーは目を覚ました。


 否、目を覚ましたわけではない。


(ここはまだ、夢の中だ。)


 この場所を知っている。幾度かの夢ではここで彼女と時間を共にした、馴染み深い場所だった。


 耳には規則的な車軸の音が触っていく。

 際限ない白色の空間の中、細長い車室だけが、たったひとつの世界のようにいつまでもいつまでもガタンガタンと動いて行った。

 そのほの明るい車室に、16歳の姿に戻ったハリーともう一人。二人だけを取り残して、全世界が、あらゆる生き物が、跡方もなく消え失せてしまった感じだった。


「ヨゼファ、先生……?」


 向かいに座る少女へと、ハリーは話しかけた。

 彼女はヘラリと笑い、「うん、そうだよ。」と答える。


「でも、先生…ではないかな。貴方の名前は?私のことを知っているの?」


(………え?) 


 ハリーは、パチパチと数回瞬きをした。

 ……ここは確かに夢の中、覚えがある白い列車の中だった。

 だが眼前のホグワーツの制服に身を包んだ彼女はハリーがよく知る三十代半ばの教師ではなく、自分と同じ歳の頃ほどの姿、精神をしているらしい。


「僕はハリー……です。」


 とりあえず、不可思議に思いながらも尋ねに答える。ヨゼファは少し首を傾げて笑い、「そっか、何歳なの?」と質問を重ねた。


「16歳です。」

「本当?それじゃあ私とちょうど同じだね。だから敬語じゃなくても大丈夫だよ。」


 笑顔のまま、ヨゼファは気さくな様子で言葉を続ける。

 窓の傍へと頬杖をつく彼女の淡い色の髪を、吹き込む風が弱く揺らしていた。


「髪…長かったんだ。」


 小さな声で漏らす。

 少女の身体の線は細すぎるほどで、この年らしい二次性徴の気配もない。中性的な顔立ちも相まって少年のようなのに、髪だけは長く伸ばされているのがチグハグで、違和感があった。


「ここ、夢の中かな。」

「うん…。多分そうだと思う。」


 ヨゼファの問いかけに、ハリーは応えた。そっか、と彼女は相槌を打つ。


「貴方が優しそうな人で良かった。今夜は怖い夢ではないみたい。」

「僕もそう思うよ。怖い夢、よく見るの?」

「うん…ちょっと最近ね。なんだか色々うまくいかないことが多くて……」

「そうなんだ。…僕で良ければ話を聞くけれども。」

「ありがとう。優しそう、じゃなくて、ハリーは本当に優しいんだね。」


 ニコニコとしながら話すヨゼファは外見や雰囲気こそ今とはやや異なるが、やはり性質は同じなのだとハリーには思えた。

 彼女の過去を知る人は皆、口を揃えて今とは全く違っていたと言うが………


「でも、夢の中は良いね。私もこうやってちゃんと喋る事が出来るし…。」

「うん?どう言うこと。」

「私はね…それなりに長い期間声がどうしても出なくて。最近はすっかり治ったんだけれど、未だに人と話すのは苦手でほとんど喋ってないの。きっと貴方が優しいから、安心できるのかな。」

「そうだったんだ。ヨゼファ…も優しくて、人当たりが良いと僕は思うよ。だから声が出ない不便だって、きっと周りの人が助けてくれるよ。」

「ありがとう。……でも、それはどうかな。」


 ヨゼファは灰色の髪を軽くかきあげて、笑みを少し寂しそうなものにした。

 二人の会話の中、規則的な車軸の音は川のせせらぎのように絶え間無く続いていた。窓の外は白一色の茫漠とした空間である。進んでいるのか戻っているのかも分からない。


「私ね……。どうやら取り消せない間違いをしちゃったみたいなの。これから一生、みんなから嫌われると思う。誰からも愛されないって分かるんだ。」

「そんなことはないよ。」

「そう?どうもありがとう。」

「……ヨゼファ。本当だよ、君が誰からも愛されないなんてこと、絶対にないから。」


 妙な熱がこもってしまい、語気を強くして言えば、ヨゼファは不思議そうにハリーを見つめ返した。そうしてまた、笑みをヘラリとしたものに変える。


「ヨゼファ……。……………。どうして、その。」

「……分からない。…って言うのは、無責任な答えだね。本当に単純なことなのかも。どんな目的であれどんな理由であれ、初めて人に必要としてもらえて私、嬉しかったの。求めてもらえるなら力になりたかった。だったら自分の存在意義を他者の中だけに求めるなんて馬鹿げてるって分かるけれども…私は馬鹿だったから。…愚かな娘だったから……。」


 ヨゼファは声をやや詰まらせるが、表情は笑顔のままだった。

 ハリーはまだ、心の中で(どうして)と繰り返す。彼の疑問はヨゼファだけに向けられたものではなかった。世の中には、人間の心の中には、理解できないものと理解できるが故に遣る瀬ないものが、あまりにも多かった。


 痩せ細って生白く、ほとんど骨のようなヨゼファの左腕を取り、草臥れたシャツの袖をそっと捲る。彼女は抵抗せずに、ハリーの所作を黙って見守っていた。

 手首の内側に刻まれている真新しい死の刻印を見下ろして、ハリーは深く溜め息をする。



(先生…)


(ヨゼファ先生……)



「これ、肌に入れる時、痛かった…?」

「ジリジリしたかな、今でもよくここが熱くなる。でも大した痛みじゃないよ。」

「それじゃあ…悲しかった?」

「…………。そうだね…。けどそれも大したものでは無いよ。だってどう言う風に生きたって、人間は誰もが悲しいよね。この小さな国イギリスにだって、悲しみが地平線の先まで拡がっている。」


 ヨゼファは窓の外の白色の光へと、眩しそうに視線を向ける。

 その横顔の微笑に、諦めの色が淡く浮かんでいた。


 ハリーは手に取ったヨゼファの腕の内側の黒色の刻印を眺めながら、彼女は窓の外の景色を見つめながら。二人は視線を交えずに、少しの時が経過した。


「ごめんね、ハリー。」


 ヨゼファはポツリと言って、再び彼へと向き合った。


「私のことは、もう本当にどうでも良いんだけれども。貴方を傷付けてしまうことがとても辛いわ。昔から、ずっと………。ごめんね…、ごめんなさい。」


 彼女は空いている方の手を伸ばし、ハリーの頭髪へと触れてはクシャリと撫でる。

 そうして額を軽く合わせた。


「ハリーはもうすぐ目を覚まして、また夢の中のことは全部忘れるけれども。私はいつも覚えているわ。」


 今と変わらず、少し低めの声、綺麗な発音で彼女は言葉を伝えてくる。


「夢の中だけじゃなくて、現実のことも。貴方がどれだけ頑張っているか、そうしてどれだけ心優しいか。そしてそれは私だけじゃない、貴方の友達や関わる大勢の人が知っていることよ。」


 ヨゼファはハリーから離れ、捕まられていた腕をその掌中から抜いていく。

 灰色の髪がサヤと揺れた。細い腕は白いシャツの袖にゆっくりと隠されていく。印が完全に見えなくなったのを確認する彼女の顔は、確かにハリーと同じ年齢なのに随分と草臥れて…年相応には思えない。


「先生、どこに行くの。」


 座席から立ち上がった少女へと、ハリーは声をかける。

 ヨゼファは今一度ニコリとしては少し首を傾げた。


「言ったでしょう、貴方はもうすぐ目を覚ますって。直に朝になるわ。私も私の朝に帰らないと。」

「でも……。まだ、話は終わってないです。」

「そうなの?」

「だって、僕はまだ分からない。どうして先生が?先生がこんな・・・ことするはずはない…そう、僕は……。」

「でも、こんな・・・ことをしてしまった。」

「どうして?」

「その答えは私の宿題ね。これから私は一生、どうして?と自分に問いかけながら生きていくんだと思う。今、どれだけ善人面しようと間違ったことは消しようがないもの。過ちとは向き合い続けなくちゃいけないわ。」


 ヨゼファは再び座席に腰を下ろすことなく、けれどハリーの両手を取っては静かに応対する。

 ハリーの顔を覗き込み、「そんな顔しないで。」とヨゼファは笑みを苦くした。
 

「でもね…。ハリー……、今の私の有様を見て、間違うことに対して過度に恐れを抱く必要はないのよ。ハリーの周りには善い友達、素敵な大人が沢山いるもの。彼らが必ず貴方を正しい方向へと導いてくれるでしょう。」


 それにね、とヨゼファは言葉を続けた。


「列車や汽車だって同じでしょう?もし、道に迷って乗り遅れて、ひとり駅に取り残されたとしても、慌てる必要なんて無いの。黙って待っていれば、必ず次の列車がやってくるんだから。」


 ヨゼファの、灰色の長い髪が風に煽られてハリーの頬にサラサラと触った。

 その掌を握り返しながら、「先生はの髪は短い方が、似合っていますね。」と呟く。彼女もまた「私もそう思う。」と笑顔のままで応えた。

 彼女はゆっくりと後ろに下がり、ハリーから離れていく。


「またね。」


 ヨゼファはクシャリと笑って、返事を待たずに車室の外に続く扉を開いてこの場所を後にする。

 ハリーは一人になった車室の中で、自分と同じ年の頃の彼女が今まで腰掛けていた向かいの座席を眺めた。


 また、ね。


 今更、ヨゼファの別れの言葉への応えを口にする。また…。と言っては、痩せ細った少女の面影を思い出して呟いた。


(必ず。)


(必ず……。)


 ゆっくりと目を覚ましたハリーの瞳からは、ハタハタと涙が降っていた。

 起き上がり、それを拭っては額に手を当て、しばらくじっとする。


(インクの匂いがする………。)


 いつものように、眠りの中で流した涙の理由は分からない。

 夢の内容を思い出そうとすれば、堪らず再び涙が頬から顎へと垂れていく。


「ヨゼファ先生、」


 何故か彼女の名前が口を突いた。

 白い朝日が分厚いカーテンの隙間から、燻んだ紅色と黄金色で飾られたグリフィンドールの男子寮へと差し込む。

 細い光の筋は、ハリーのベッドのサイドテーブルに置かれた、透き通るガラスの小石を弱く光らせていた。



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