◎ 空、海、星の夜
目を覚まし、スネイプはゆっくりと身体を寝床から起こした。
そうして額に浮かんでいた汗を掌で拭う。冬の冷たい空気が湿った肌に触れて体温を奪っていくのを感じた。
その際、腕に鋭い痛みが走る。
顔をしかめて咄嗟にそこを抑えた。まさかと思い息を呑む。
…………確かめなければ。震える指で、腕を覆う袖をゆっくりと捲ってみる。
室内だと言うのに、吐く息が白かった。今朝も雪が降っているのだろう。寒くて仕方がない。
自身の血色の悪い腕の内側、邪悪な刻印はくっきりと浮かび上がっていた。
姿を認めた途端、また堪え難い激痛が走った。思わず呻き声を上げ、そこを再び抑える。………そのまましばらく、彼は動く事が出来なかった。
*
スネイプがホグワーツに戻って来てから数ヶ月ほどが経過し、休暇が始まった校内は近付くクリスマスに向けて浮足立った空気に満ちていた。
彼はそういう如何にも軽薄な雰囲気が嫌いだった。
いつにも増して不機嫌な表情で廊下を歩くと、すれ違う生徒たち…休暇中学校に残ったらしい…が皆恐る恐る、と言った体で挨拶をして来た。
赴任して来てそこまでの月日は経っていないが、愛想が良いとは言えない上に容赦無い性質の持ち主であったことから、早くもスネイプは生徒たちにとって畏怖の対象となっていた。
特にそれを気にせず、長く天井の高い廊下をローブの裾を黒く翻して彼は歩む。その間も、朝ほどでは無いが腕の痛みが身体を僅かに苛んだ。
大広間前の巨大な吹き抜けに面した階段を降る際、ふと零階を見下ろすと見覚えのある姿が目に入る。
なんとはなしに足を止め、黒光りする大理石の床に白いチョークで大型の魔法陣を描くヨゼファのことを眺めた。その周囲には生徒たちが自分と同じように興味深げに彼女の仕事を見守っている。
「さあ皆、もう少し下がって。あまり近くにいると
巻き込まれるわよ。」
どうやらちょうど描き終わったらしく、ヨゼファはサークルの中心から外へと歩きながら生徒たちを少し遠くへと促す。
唐草が絡んだような独特の魔法陣である。ガリア人たちの写本に見られる装飾に似通っているが、同義では無いのだろう。魔法陣は呪文を知らない子供が最初に触れる魔法であるが故に、決まった型は存在しない。
線で構成された魔法陣は白く光り、植物が風に凪ぐようにざわざわと畝って揺れた。
中心から細い何かが出現する。………いや、細くない。末広がりにどんどんと巨大になっていく。針葉樹だ。白い飾りを鈴なりに実らせた巨大な樅の木が床からスネイプのいる階段の脇を縦に過り、更に天井へ向かって凄まじい早さで成長していく。
吹き抜けの零階では、生徒たちの拍手や歓声の中心にいるヨゼファがだらしなく笑ってはこそばゆそうに銘々の言葉を受け取っていた。どうも彼らの反応から察するに、これは毎年のクリスマス恒例であるらしい。
「皆、プレゼントは一人につきひとつよ。欲張ってふたつ以上取る人の箱の中身は漏れなく土塊になりますからね。」
深い翠色の葉を繁らせた枝からは、青いリボンで装飾された白色の箱や袋がぶら下がっていた。そこへと手を伸ばす生徒たちへ、ヨゼファはまるで教師のような口ぶりで言う。
(いや……。そういえば教師だったか。)
平素の知能が低そうな言動の所為でそのことをすっかりと忘れていた。
ヨゼファへの謝礼もそこそこに、生徒たちは白いレースを被ったように煌びやかなツリーの傍へと駆け寄っていく。その様を、彼女は少し目を細めて見守るらしかった。
(……………………。)
ふいに、ヨゼファが顔を上げて吹き抜けに面した階段…こちら側へと視線を寄越す。そこに佇んでいたスネイプと彼女の瞳が上と下でパチリと合った。
……………彼はハッとしてその身体をすぐに柱の影に隠した。
重厚な造りの階段桁と柱によって、吹き抜けの景色はすぐに視界から消える。それでも、心臓の動きが浅く速くなっていくのが分かった。
理由の分からない焦燥を感じ、スネイプは額の辺りに掌をあてる。………また、腕が痛んだ。微弱だが、焦げ付くように。
*
聖夜に相応しく、その晩は雪が深く降り続けていた。
スネイプは祭事と言うものに殊更興味を持つことが出来ずにいた。苦手であると言える。
だから平素と変わらず昏い夜に沈んだ自分の教室で、仕事と自身の研究の為に時間を使用していた。
深夜である。流石に生徒及び職員たちの騒ぎも収まったようで、辺りに静けさが戻ってきたようだった。
しかし…ようやくの安堵を感じて作業を進めていた矢先である。雪が積もっていくささやかな音のみに満たされていた室内に、ノックの音が数回転がる。特に反応せずいると、もう一度。………無視を決め込む。それ以上ノックが続くことは無かった。
が。その矢先、何かが震えるような微かな音が振動して伝わってくる。
くそ、とスネイプは思う。
案の定斜めに組まれた木の床上に、白く光る流線形が唐草で描かれていく最中だった。今度は躊躇せずそこへと杖を向けた。一瞬火花が激しく散ってそれは打ち消される。
思わず溜め息を吐き、スネイプはうんざりとした気分で椅子の背へと体重をかけた。
「メリークリスマス、良い子のセブルス君。」
しかし寄りかかった矢先、すぐ間近で言葉をかけられるのでひどく驚かされた。咄嗟に振り向くが、今度はそこで見たものの所為で吹き出しそうになる。それを寸でのところで堪えた。
中空には空間を切り取ったように円形の穴がポッカリと空き、外周を装飾文様が畝りながら漂っている。その中から赤いサンタ帽を被ったヨゼファが顔を出しては…白いつけ髭をいじりスネイプの様子を繁々と眺めていた。
「………こんばんは。私はサンタクロース。」
そしてなんか言ってくるので、スネイプは間髪入れずにその頭を本の角で殴った。ゴヅンと、鈍い音が辺りに響く。
「痛い!!サンタを殴るなんてなんて罰当たりな!!!明日の朝枕元にトナカイの死体が置かれていても知りませんよ!!!!??」
「やってみろ。死体になるのは貴様の方だ。」
「オゥ……」
殴られた箇所を抑えて痛そうに呻くヨゼファの襟元を掴み、スネイプは凄む様に顔を近付ける。………瞳が合うと、彼女はいつもの如く苦く笑ってはこちらを見上げてきた。
「ヨゼファ……。貴様は一体人の仕事場を勝手に覗いて何をやっている?」
「ヨゼファ?そんな美女のことは知りませんね。」
「………………。老け顔の分際でよくいけしゃあしゃあと言えたものですな。」
「老けてません!!きっと後十年経てば年相応って言われる顔ですから!!!!」
「それを老け顔と人は言う!!!!!」
ギリギリまで顔を傍に寄せ、最後に激しく頭突きをお見舞いする。中々のダメージを被ったらしいヨゼファは苦しそうに唸った。
「まあ…でも。」
しかし仕切り直す様にして、中空に浮かぶ円の縁に頬杖をついては視線を寄越してくる。………回復が早いな、もう少し強目に殴打しておけば良かった…とスネイプは舌打ちをした。
「折角クリスマスの宴なのにスネイプ先生の姿が見えないんで、体調でも悪いのかと思ってたんですよ。………元気は有り余っている様なので良かったです。」
ニコリと笑って、ヨゼファは身体を起こした。「さて…」と更に言葉を続ける。
「今、先生の教室の扉の前にいるんです。見せたいものがあるので…お時間あったら一緒に来ませんか。」
そう言って、彼女は白く光る円の縁にそっと指先を滑らした。辺りを漂っていた唐草文様が収束して中心へと集まり、その姿を隠していく。
スネイプの答えを待たずに、中空に浮かぶヨゼファの魔法陣はそのまま消失した。
……………勿論無視することにした。
今一度椅子へと深く腰掛け、作業へ戻ることにする。
しかし本当に扉の前に奴がいるのかと思うと若干気持ちが落ち着かなかった。
とりあえず追い払う為に扉を解錠し、ヨゼファの姿を確認する。
そこに奴はいなかった。どこだと周りを見渡すと、階段の上…随分と遠くの方を昇っている最中だったらしい彼女が振り返り、瞳が合う。流石にヒゲは取ったようだが、被ったままのふざけた赤い帽子の色がいやに暗闇の中で鮮烈だった。
ヨゼファはニコリと笑い、ちょいちょいと手招きをしてくる。そうして引き続き階段を軽やかな足取りで上り、突き当たって廊下の方に折れて消えた。
( ……………………。)
スネイプは、石で出来た階段へと足を乗せた。コツ、と言う固い音が辺りに響く。壁にたったひとつ据えられた燭台の上では、短い蝋燭がその身体を滴らせていた。それに照らされて、黒い階段が鉛筆で塗り固めたように鈍く光る。
もう一段上へと脚を運ぶ。そうして次へと。辺りには彼の硬質な靴音が消えては現れ、消えてまた現れた。
*
巨大な大広間前の吹き抜けは、雪が深々と降り積もって真っ白に染まっていた。青い透明色の暗闇の中へと降りてくる粉雪は皆一様に淡く光り、灯りは無いのに不思議と辺りは薄明るい。
「安心して下さい。」
ヨゼファがスネイプへと声をかける。そうして「一晩だけですから。明日になればここの雪は跡形も無く消えますよ。」と続けた。
「さ、良い子のセブルス君。クリスマスの夜にようこそ。」
ヨゼファは自然な動作で彼を巨大な針葉樹のすぐ傍に佇む小さな丸テーブルへと導いた。
彼女の魔法陣によって出現した樅の木がかなりのスケールを誇る為に、華奢な鋳物のテーブルとふたつの椅子はまるで玩具のようだった。
「どうぞ、温めたワインです。」
そうやって供されるまま、彼は厚手のガラスのコップに収まった赤色の液体を受け取る。辺りの空気が色濃い蒼で満たされていた為に、それはやたらと黒く血液のようにも思えた。
掌に収まったワインは熱かった。
サンタ帽を被ったままのヨゼファは頬杖をついて、向かいに座るスネイプのことを眺めていた。目が合うと、いつものように愛想良く笑われる。
なんだ、と問いかければ、「ちょっと嬉しいだけですよ、」と彼女は少しだけ眉を下げて応えた。
* * *
良い加減笑ってしまいそうだったので、そのふざけた帽子を取れと促す。ヨゼファは特に意に介した様子もなくその言葉に従った。そうして口を開く。
「無理に連れ出しちゃって、ごめんなさいね。」
コップの中の飲み差しのワインへと、彼女がひとつアニスを浮かべてくる。ワインの中で星型の木の実はゆらりと漂い、震えて止まった。
「…………全くだ。」
「あはは、ごめんなさい。でも来てくれて良かったですよ。折角雪降らせて待ってたんですから。」
「私が来なかったら…どうするつもりだったのかね。」
「一人寂しくここで飲んでたでしょうね…。まあ…それはそれで良いものですが。」
スネイプの声はいつもと同じように愛想の欠片も無い。だがヨゼファはやはり意に介さないらしい。彼の言葉に応えながらスと中空に杖を構え、白い煙のようなものを天井へと立ち昇らせていく。
「………私の守護霊ですが…少し身体が大きくて。時々深夜に学校の中に放してやるんですよ。ずっと出さないでいるのは窮屈でしょうし。」
立ち上っていく煙を眺めていると、それは天井近くで巨大な鯨へと徐々に形成されていく。白い腹を畝らせて一度こちらまで深く潜った後、壁を通り抜け姿を消してはまた円を描き、天井近くへと戻っていく。
「………。貴様は全ての魔術がデカいと言うか……大味だな。」
「そうですね…私の守護霊は確かに体積が大きいですが。他はそうでも無いですよ、ただ魔法陣がこう言う何にもならないものが得意なだけで。……雨を飴に変えたり、飼っている鳥の羽を虹色にしたり、屋内に幻の雪を降らしたり…クリスマスに家に帰らない、帰れない子供達の為にプレゼントを用意したりね。」
ヨゼファは軽くこちらに片目を瞑ってみせてから、何かを呼ぶのか指をちょいちょいと中空で動かす。
伴って、巨大な樅の枝を離れた小さな白い箱が泳ぐように漂って彼女の手中に収まった。
「小さいものですが。どうぞ。」
彼女はスネイプの掌を取り、その中に青いリボンで装飾された箱を置く。
彼は訝しげな表情で、「何だこれは。」と尋ねる。
「何って…。クリスマスプレゼントですよ、スネイプさんももらったりあげたりしたことあるでしょう。」
きょとりとした表情でヨゼファは応えた。
『セブ、どうもありがとう!』刹那、頭の中で懐かしい声が硝子の鈴を転がしたように響いた。
ハッと息を呑んで、口元を抑える。眼前のヨゼファは相変わらず不思議そうな表情でそんなスネイプの様子を伺っている。
『嬉しい、どうしていつも私が欲しかったものが分かっちゃうの?』(そうだ…………。)
顔を上げ、辺りを見回す。
あの時のこの場所には、明かりが灯って人も往来していたが。生徒は消灯後に寮から出ることを許されていなかったから。
そうして樅の木はこんなに巨大では無かった。それでもこの場所だった。毎年…。彼女が休暇で家に帰ってしまう前、見送りに立つ時に。
『本当に…貴方は本当の魔法使いだわ。』リリーのことをただ喜ばせたかった。
彼女が何を求めているのかこの季節が近付くとじっと観察して、時間が少ない外出時間で自分が手に入られる中で一番のものを必死で選んで……
『セブ、本当にどうもありがとう。』その一言が聞きたかったから…!
別れの時はどうしても自分へと笑顔を向けていて欲しかった。そうすれば、彼女がこの学校からいなくなる休暇の最中もきっと寂しくない。
-----------不意に掌を握られ、意識が元の場所へと戻ってくる。
勿論のこと、手を重ねてきたのはヨゼファだった。彼女はこちらの瞳の中をじっと覗き込んだ後に、「ごめんなさい…。」と静かに呟いた。
「何か、辛いことを思い出させてしまいましたね。」
ヨゼファはゆっくりと掌を放していく。遠ざかる白い指先を眺めながら、「いや…」とスネイプは呟き言葉を続けた。
「ただ…ここは、思い出が多すぎる…。」
彼女は応えて弱く笑い、天井近くでゆったりと泳ぐ自分の守護霊のことを見上げる。そのままで、「そうして、まだ思い出になりきれていないんですね…。」としみじみとした声で言った。
「辛いですね。それはとてもしんどいでしょう……。」
こちらへと向き直っては零された真摯な労りな言葉が、不覚にも心の柔らかいところへと突き刺さる。
相も変わらず彼女を取り巻く空気は穏やかだった。その瞳の色と同じ夜の蒼さも合間って、辺りの空気はあまりにもしめやかである。
「さあ…スネイプ先生。今夜はお付き合いして下さってどうもありがとうございました。ゆっくりおやすみなさい。」
少しの沈黙の後、ヨゼファは夜の挨拶を囁いた。
素直にその言葉に従って椅子から立ち上がる。……が、立ち去る刹那に彼女の方を振り返って暫時見下ろした。
ヨゼファが立ち上がる気配は無い。
「………戻らないのか。」
尋ねると彼女は深い翠色のテーブルへ頬杖をつき、「はい。」と返事をした。
「今夜は祝福された夜ですから。私は一晩中この学校に守護霊を泳がせるつもりでいます。」
彼女が掌を遠い天蓋へかざすと、白い鯨はそれに応える為にまたこちらへと深水してくる。
ヨゼファは笑い、また鯨を手の動きで上空へと導いていく。守護霊はそれに従い、円を描きスルリと壁を通り抜け姿を消した。
「今晩だけは、全ての子どもたちから悪いものを遠ざけなくては…。」
白い鯨を見送りながら呟いたヨゼファの横顔に、夜の闇が仄暗く落ち込む。その為、彼女の表情を伺うことは出来なかった。
部屋に戻り寝床に着いたスネイプは、ふと…腕の内側に焦げ付いていた痛みが消え去っていることに思い当たる。
そして静けさがひとしおになった気持ちがする。ヨゼファの守護霊の所為だろう。海をゆっくり揺蕩うような心地良さを覚え、彼はそっと瞼を下ろす。
ヨゼファにもらった白い箱は未開封のまま傍の卓に置かれていた。
サンタクロースからのプレゼントは、クリスマスの朝に開けるのが定石というものだろう。
clapprev|
next