◎ ペルソナ
薄闇の中で、手を伸ばした。
伸ばした先で微笑まれる気配がする。期待通りに指先を握られて引き寄せられた。その場所にキスを落とされたのが、軽いリップ音から分かる。
「どうしたの?」
ヨゼファもまた彼の傍へと手を伸ばして、肩に触れてはそこを撫でてくる。
周囲の暗さに段々と目が慣れて、彼女の顔が見えるようになった。
真夜中だった。
スネイプの私室のベッドの上で、二人は隣り合って床を共にしている。
彼が黙っているので、ヨゼファもまた何も言わずにそのまま同じ場所をゆっくりと撫で続けていた。
同じベッドで眠る頻度は少なくはない。情事に至ることも、場合によっては肌を寄せているだけの時も…。
性欲に由来する衝動というよりは、なにかを確かめるため…或いはコミュニケーションの一環のようなものだったのだろうか。
彼女に対しては、いつでも言葉に成しがたい気持ちを抱えていたから「ヨゼファ」
名前を呼ぶと、自分に触れ続けていた彼女の指先の動きが止んだ。「なに…?」ゆっくりとした語調で、言葉が返される。
それには応えないで少しの時が経過した。
「セブルス、寒いの?」
沈黙の中、ヨゼファがポツリと囁いた。
「………ごめんね。私の身体が冷たくて。」
「いや…。」
微かに震えていた指先をヨゼファから離し、胸元で握っては短く否定する。
「寒くはない。」
「そう?」
「ヨゼファの身体が冷たいとも…、思わない。」
「……。そうなの。」
「だから、」
ヨゼファの腕を捕まえて、自らの方に引き寄せる。
彼女はその意を汲んで、身体ごとこちらに近付けてはスネイプの背に腕を回した。
強く抱かれて、頭を胸の辺りに寄せられる。
毛布の下で互いの裸の脚が触れ合ていった。暫時あってから遠慮がちにそれを絡める。
これで、肉体の距離はほとんど無くなった。
「嫌な夢でも見た?」
「……………………。」
ヨゼファが話すと、その吐息がこめかみのあたりを掠めた。
悪夢の覚えはないのでそれは違うと言いかけるが、ふと…唇を閉ざしてから、また開く。
「分からない。…忘れてしまった。」
「仕様がないわ、夢ってそういうものだから。」
「だが嫌な夢というわけでもなかった。」
「そっか…。それじゃあ、寂しい夢かしらね。」
スネイプの黒い頭髪を手持ち無沙汰に梳いたり撫でたりしながら、ヨゼファは彼の言葉に応対する。
「大丈夫よ。どちらにせよ、悲しい夢はもう終わったんだから。」
「それはどうだろうか」
「うん…?まだ、悲しいの」
「…………………。」
ヨゼファ、とまた名前を呼んだ。身体を起こしてごく近い距離でその青い瞳と視線を合わせた。ヨゼファは目を細めて微笑み、少し首を伸ばして彼へと口付けた。
「貴方は本当に、可愛いわね。」
離した先で呟き、彼女は今一度スネイプに柔らかくキスを贈る。
しっとりと唇を押し開かれ、冷たい舌が口内に侵入してくる。焦れるようなゆっくりとした愛撫にはいつも堪らない気持ちにさせられた。
キスの最中に髪を梳かれるのが好きだった。縋るようにその肩に触れると、ヨゼファは鼻先が触れ合うほどの距離で小さく笑う。
「貴方のこと、愛しているわ。他になにもいらないくらい……。」
今一度ヨゼファの腕の中に身を預ける中、幾度となく贈られた愛情の言葉を呟かれる。
ヨゼファ、と今度は声に出さずにその名前を呼んだ。
(ヨゼファ、) 誰かが自分の胸の内の声にかぶせて、彼女の名前を呼んでいる。
『ヨゼファ、』 肉付きが悪く節が目立つ少女の彼女の指先を握り、そうして歩いていくのだ。
(ああ、いつもの……)
『ヨゼファ、寒くない?』(夢の中でなら、これくらいの気遣いも出来るのか。)
『怖い夢でも見た?』 大丈夫、と優しく言って彼女の身体を抱いたのは同じ年の頃、少年の時代の自分だ。
(夢の中だけだ、)
今より幾分も頼りないヨゼファの身体に腕を回して、優しく労わることが出来るのは。支えになることが出来るのは……。
*
スネイプは目を覚ますが、瞼は下ろしたままでいた。
週末のため時間を気にする必要はなかったが、隣で寝ていたヨゼファが最早いないことを気配と感覚で確信すると…寝ているのが馬鹿らしくなった。
そろりと目を開けば、予想通りに彼女はこの部屋を後にして久しいようだった。
(…………………………。)
いつもそうだった。
生徒の目を憚るため、二人で寝た夜は陽が昇らないうちにヨゼファは自室に戻ってしまう。
その行動に納得はしていたが不満ではあった。大きく溜め息をして、彼女が昨晩身を横たえていた空間を睨みつける。
「愛していると……、」
言っていた癖に、
悪態を吐いた。
* * *
週末の休日、学校内の空気は程よく弛緩していた。
スネイプは遠目に…その緩やかな空気の中で、私服姿の生徒たちと廊下で世間話をするらしいヨゼファのことを眺める。
一人の生徒が、彼女の袖を指先で引いて熱心に話をしていた。
なにかが可笑しかったのか、ヨゼファを含んだ学生たちの輪から笑い声が上がるのが微かに聞こえる。
唇の動きと女生徒の髪を撫でる手の動きから、彼女が『可愛い、』と囁いたのが分かった。
瞼を下ろしてそこから視線を逸らすと、窓から弱い風が吹きこんで自分の黒い髪がパサパサと揺れる。
彼女たちへと視線を戻すことはせず、スネイプは再び歩を進め始めた。
この苛立ちを覚える度……、どうにかしてヨゼファを閉じ込めるか拘束するかして常に傍へと縛り付けたいと思った。
具体的な方法を度々真剣に考える。
だが、どう考えても不可能だった。
この
学校…閉鎖空間で教師一人が消えれば大騒ぎになるし、真っ先に
校長から疑われるのも自分だろう。
全ての教師生徒の目を欺いて隠し通せるとは思わなかった。
それにヨゼファはスネイプに極力極力甘い性質を持ち合わせていたが、全く言いなりというわけではない。力も弱くはない。むしろ強い。やんわりとこちらが言い包められることもそれなりにある。
だからせめて、二人の時間を長く持って…大切にしていたかった。
そう考えるならば気遣いのひとつ、優しい言葉のひとつでもかけてやれば良いと言うのに。
うまく行うことは、難しかった。
*
「セブルス、」
夕刻、ヨゼファの部屋を訪れたスネイプを認めた彼女はその名前を呼んだ。
部屋の空気には少しの甘い匂いが漂っていた。細い白木の杖でカップやら菓子皿の類を空中に浮かべ片付けているヨゼファの様子から、大体の状況を察しては…また彼は、幾分か面白くない気持ちを抱いた。
「人気者でいらっしゃる、」
皮肉を声に滲ませて言えば、ヨゼファは「そんなんじゃないわよ。」と笑みを苦くした。
今の今までこの部屋で彼女と相対していたのは一人の女生徒のようだった。カップの数と、その釉薬の色や模様の瀟洒な有様からスネイプは推測する。
清められた食器類全てが棚へとゆっくりと収まって行くのを見届けては、ヨゼファは杖を仕舞って今一度スネイプへと向き合った。
「誰と会っていた。」
開口一番にそう問えば、「ひみつ、」と可笑しそうに返される。睨みつければ、「睨んでもダメよ、プライバシーの問題ですから。」と彼女は笑顔のまま掌をヒラヒラとさせた。
「人に言えないことでも話していたのか。」
「大当たりよ。」
「……何を話していた。」
「……………。だから人に言えない話だってば。」
ヨゼファは軽く肩をすくめては、棚から新たに淡いエメラルドグリーンのカップを二客取り出す。
同じ色の…小さめのポットの蓋を開けて中を軽く覗いているヨゼファの肩を、苛立ちのまま掴みかかろうとするのと、彼女が弱々しく苦笑するのはほとんど同時だった。
掴みかかるのを留まり、空のポットの中に視線を落としたままの彼女の横顔を見つめる。
「私って……、そんなに相談しやすいのかしらね。」
細い杖の先で、彼女はコツンと冷たい陶器の表面をなぞった。ポットの底から温かい紅茶がふんわりとした湯気と共に湧き上がってくるのを確認して、彼女は蓋を閉じる。
ヨゼファは自然な動作でスネイプの手を引き、先ほどまで女生徒と隣り合って座っていたであろうソファへと歩みを進めて行く。促されるままそこに腰掛けた。
沸かされたばかりの紅茶がエメラルドグリーンのカップへと注がれていく。器の中に絵付けされた小さな蝶が、紅色の海の底に沈んで行くような錯覚を覚えた。
「………。選択の余地がないだけだろう。」
ソーサーからカップを持ち上げながら、スネイプは先ほどの彼女の言葉に応えた。
「ホグワーツで思春期の悩み事を辛抱強く聞ける教師の数は限られている。年齢の側面から鑑みても……何せ、中年も良いところの我々が若年のような立場だ。」
一口に言ってはカップに口をつけて熱い紅茶を飲めば、隣に腰掛けたヨゼファが柔らかく笑うのを気配した。
「確かに、」
カップをゆらゆらとさせながら、ヨゼファはスネイプへと返す。
「限られた選択肢がこんなので、ちょっと申し訳ないかもね…。人並の思春期らしい経験なんて何も無いんだもの。」
彼女は紅茶を一口二口ゆっくりと飲んでから、静かにスネイプの肩に頭を預けた。
弱く嘆息しているのが、感覚で伝わってくる。
「貴方といると落ち着くわ…。取り繕わなくて良いって、安心できるから。」
「……それならば取り繕わなければ良い。」
「なかなかそれも難しいわよ、それにきっと、生徒たちだって
先生の手前自分自身を演じているのよ。人間、中々本当には分かり合えないわ。」
スネイプは空になったカップをソーサーへと戻し、隣のヨゼファの冷たい掌を沈黙のうちに握った。そして小さな声で「今夜…」と呟く。
「今夜と…明日、」
「今夜と明日…ね。喜んで、明日は日曜日だもの。」
スネイプの少なすぎる言葉から、彼女はその意を汲むらしい。
「仕事、持って行っても良い?この週末で終わらせたいことがあって。」
「構わない…。だが、、代わりに」
彼女の耳元にほとんど唇を押し当て、躊躇いがちに望みを漏らす。約束を、と念を押してその指先を捕まえる力を強くした。
「約束なんて。」
ヨゼファは頭を弱く左右に振っては、微笑んで言葉を返す。
「………呼んでもらえてすごく嬉しい。頼まれなくても、一日中貴方の傍を離れないわよ。」
素敵な人、私の愛しい人、
ヨゼファは囁き、そっと繋がっていた手を離した。
「日が沈むまで、ほんの数時間ね…。」
彼女は互いのカップに紅茶を注ぎ足しながら独り言のように言う。
「あと少し、お互い先生≠頑張りましょうか。」
その言葉から少しもしないうちに、部屋の扉がノックされる。
ヨゼファは明るい声で返事をして立ち上がり、閉ざされていた扉を開いた。
そこから顔を出したハーマイオニーは、ヨゼファへの挨拶もそこそこに室内のスネイプを認めて如何にも訝しそうな視線を彼へと向ける。
スネイプもまたそれを横目するが、さっさと視線を逸らしてはカップの中の紅茶をズと音を立てて飲んだ。
「どうしたの?」
ヨゼファの質問に、ハーマイオニーは「いえ…、」と若干言葉を詰まらせて応対した。
「私…先生に、いえヨゼファ先生にちょっと課題の質問があって来たんですけれども」
「そう、先週の授業は新しいことだったから少し難しかったわよね、」
彼女は嬉しそうに相槌しながらハーマイオニーを室内へと促した。
聡明なグリフィンドール生の主席が入室してくるのと、スネイプが二杯目の紅茶を飲み干して立ち上がるのはほとんど同時だった。
彼はそのまま、二人が会話していた扉の傍へと真っ直ぐに向かう。
「あらセブルス、戻るの?お茶菓子を出そうと思ってたのに。」
「否結構…。邪魔になっては申し訳ありませんからな、
色々と。」
視線はハーマイオニーに向けないままで、しかし言葉の一部を彼女へと向かわせながら、スネイプはそのまま歩を進める。
「では、また。」
退室する際、振り返って室内の二人へゆっくりと挨拶を行った。
笑顔で応えるヨゼファの隣、なんとも言えない表情でとりあえずの応答をするハーマイオニー・グレンジャーを見て…幾分か、胸の内が軽やかになる。
今のスネイプの気持ちにはどこか余裕があった。一体何故、年端もいかない小娘たちに自分が煩わされる必要があったのか、と今までの焦燥をバカらしく思うほどに。
それなりの音を立ててヨゼファの私室の扉を閉め、その先の図象学の教室を抜け、スネイプは夜へと傾きかけるホグワーツ城内の廊下を黒いローブを靡かせて歩いた。
(早く、)
夜の訪れが待ち遠しかった。
早く、と願いながら大理石の階段を降り、自らの領域へと向かう螺旋状の石階段を更に降りていく。
今夜、そうして明日は彼女とどのように過ごそうかと考えた。
兎にも角にも、明日の朝の目覚めには隣にヨゼファがいる。一日だけ、たった一日だけだが、明日の彼女は誰のものでもなく、自分だけのものだった。
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