骨の在処は海の底 | ナノ
 浮世の波

 ふわりとした感触が頬に触る。

 スネイプが薄目で辺りを伺うと、ちょうど頬の皮膚に触れていた柔らかい毛が遠ざかっていく最中だった。

 彼の唇に軽くキスを落としたヨゼファはスネイプが目を覚ましているのを認めて、ゆったりとした笑みを浮かべる。


「おはよう、セブルス。」


 そして朝の挨拶をされるので、掠れた声で辛うじて返事をした。

 まだ裸の彼女の肩に腕を回して傍へと戻す。素肌が触れ合う感触が心地良くて思わず嘆息をした。


「……………。妙な夢を見たな…。」

「ふうん、どんな夢。」

「……忘れた。」


 そう、と言ってヨゼファは可笑しそうにした。

 腕の中の彼女の柔らかい毛質を指先で弄びながら、少しの間スネイプは薄明かりの中で微睡んだ。


「…珍しい……。」

「うん?なにが」

「起きると、大抵隣にいない。…そうだろう。」

「恨みがましく言わないでよ、」


 ヨゼファは小さく笑ってはそっと身体を寄せてくる。

 素直にそれを受け入れて、一度強く抱いた。


「いつもは…特に貴方の部屋の…この地下室で寝た日はね。生徒に見つからないように朝になる前に帰らないといけないでしょう。」

「………別に見つかっても構わない。」

「もう、拗ねてるの。そんなこと言って…格好の噂の対象になるわよ。そういうの嫌いな癖に。」

「気にするものか…。元より生徒には悪口しか言われてない……。」


 ヨゼファは彼のボヤきがひどく可笑しかったらしく、声を上げて明るく笑った。

 そして今度は彼女がスネイプを抱き寄せるらしく、首に腕を回しては頬を寄せてきた。


「ちょっとだけ気にしてるのかしら。」

「……………。」


 可愛いわねえ、とヨゼファは殊更愛おしそうに言ってはそっと髪を撫でてくる。


「大丈夫よ、そんなことないのを教えてあげる。貴方は魔法薬以外の魔術にも精通している知識豊かな先生だもの…生徒にとっては頼もしい存在でしょう。色々教えて欲しい、もっと仲良くしたい、なんて思っている子は多いのよ…私は何回か相談を受けたことがあるもの。」

「相談?」

「貴方自覚ないかもしれないけれど、顔が怖いのよ。」

「………………。」

「嫌われてるんじゃないかって心配している子は多いわ。」


 彼女はうつ伏せに寝そべり、枕に頬杖をしながらこちらを見下ろしてくる。

 ヨゼファが口を噤むと、大抵沈黙になった。二人の会話は彼女がリードすることによって成り立っている。


「……静かね。」


 瞼をゆっくりと下ろしてヨゼファは囁いた。


「生徒たちがいない学校って、こんなに静かなのね…。」


 その呟きを耳に覚えながら、スネイプもまた珍しく静寂を漂わす空気に感じ入って目を閉じた。


 ヨゼファが身体を起こすのが、ベッドのスプリングの軋みから伝わってくる。

 引き留めようとスネイプもまた起き上がりかけるが、彼女はサイドテーブルの本を取り上げるだけだった。そしてまた元の場所に身を横たえ、読書するらしい。


 …表紙と裏表紙を片手で挟んで閉じさせると、閉じた本越しにヨゼファがこちらを見る。

 暫時あって、彼女は小さい書籍をサイドテーブルに戻し、再びスネイプに向き合って弱く笑った。


 ヨゼファの頸部に食い込む黒い枷を軽く噛んで引っ張ると、首が絞まった分その唇からは声が漏れる。歯で弾くようにして離すと、彼女は数回軽い咳をした。

 生傷がいくつも残る白い首に顔を埋めながら、「痛かったか、」と小さな声で尋ねる。彼女は返事をしなかったが、苦笑でそれに応えた。


 ヨゼファが身体に腕を回してくるので、力を抜いてはそれに身を預ける。

 髪を撫でられ、そこに唇を落とされるのが感覚で分かった。


「なんとなく…。初めて抱いてもらったときのことを思い出すなあ。」

「……………………。思い出さなくて良い。」


 何気ない呟きに対するスネイプの返答にヨゼファは明るい笑い声を上げた。どうもひどく可笑しかったらしく、彼女はスネイプを抱いたまま暫くの間笑いの余韻を引きずっていた。良い加減鬱陶しくなったので、腕の内側の皮膚が柔らかい箇所を抓って憤りを伝える。


「そうねえ……お互いまともな経験もなかった上に不器用だからね、本当に一苦労だったわぁ……。」

「だから思い出さなくて良いと言っている…!!」

「無事に済んだんだから良いじゃない。気にする必要ないわよ、全然上手上手…、心配ないわ。」

「誰と比べて言っている!!!!!」

「あらら、言葉のアヤだわ。」


 スネイプが怒りをむき出せばむき出すほど、それに反してヨゼファは愉快な具合になるらしく、堪え切れなかった笑みを再び漏らした。

 お互い対照的な表情…噛みつくような険しい表情とだらしないほどの笑顔…で見つめ合うと、ヨゼファはより表情を崩してくしゃりと笑う。


「私は貴方以外と寝たことないもの…、比較対象なんてないわよ。」


 自らの乱れた髪をかきあげるためヨゼファが腕を上げるので、それに伴って乳房が動いて揺れた。手を伸ばしてそっと触れ、指を柔らかく沈ませる。彼女はその様を認めてくすぐったそうに笑った。


「私は貴方に抱かれるのも、貴方を抱くのも好きよ。触れ合えると嬉しくなるからね…。」


 スネイプの胸板を指の腹でなぞりながら、彼女はゆったりとした語調で言う。深い赤と青の瞳の形は緩やかで優しかった。彼は少し身体を起き上げて首を伸ばし、ヨゼファの唇の端に軽く口付けした。


「ん…セブルス、もう明るいわよ…。」


 彼女の身体に覆いかぶさってその脚を膝で割ろうとしたところ、眉を下げてやんわりと諌められる。目を細めて不満を表現した。


「良い大人はそろそろ起きないとね。違う?」


 ヨゼファは殊更可笑しそうにしながら、彼の唇に軽く人差し指を当てながら言う。「あ、でも…」しかし何かを思いついたように、スネイプの顔から視線を逸らしてその向こうの天井を斜めに見る。そして再び彼へと視線を合わせた。


「せっかくだし、キスしましょうか。」


 少しの視線のやり取りの後、ヨゼファはこちらの頸に手を回してそろりと抱き寄せる。

 促されるままに唇を合わせて、彼女の冷たいそこを弱く食んだ。小さく声を漏らされるのを聞いて、身体の奥が熱くなるような気持ちがする。

 何回か、重ねるだけのキスを湿った音を伴って行う。身体の中の熱が大きくなった。「ヨゼファ、」名前を呼ぶ声が掠れていたのでもう一度呼び直す。溜め息をして、彼女の胸元に顔を埋めた。


「貴方は、本当に可愛いわね…。」


 ヨゼファはスネイプの耳元で囁くと、耳殻にそっと唇を付けるらしい。大好きよ、と続けて言われるのがどこか耐え難くて、思わず瞼をきつく閉じた。





 

 昨晩の雨の気配は全く失せ、良く晴れた日和だった。

 昼に近くなってしまった時刻、大広間の窓からは日光が斜めに注がれている。黄金色を透明にした光が、人気がない広大な空間を満たしていた。

 校内には全くスネイプとヨゼファの二人しかいないように思われた。ダンブルドアもいるのだろうが、彼は二人のように朝寝することもなく、既に一日の活動に従事して久しいのだろう。


 スネイプとヨゼファが毎度腰掛ける教員用のテーブルに着席すると、銀色のトーストスタンドや皿の上に簡単な朝食が現れた。ポットの中にも熱い紅茶が満たされるので、ヨゼファは小さな蓋を細く開いて中を確かめている。


「良い匂いね。」


 彼女は呟き、白い磁器のカップふたつにオレンジ色の紅茶を注いだ。

 それからガランとした大広間を見渡しては「毎度夏休みに出校すると思うことだけれど、こうも人気がないとすごく不思議な気持ちになるわ…。」と独り言のように言う。


「……煩わしくないのは有難い。毎日これでも構わないくらいだ。」

「それじゃ学校として成り立たないわよ、私たちのお給料が出ないわ…。まあでも偶には静かなのも悪くないわね、生徒やミネルバがいると朝食時に新聞を読めないし」

「食事中に新聞を読むな。」

「あらら、」


 ヨゼファが広げようとしていた新聞紙を、スネイプは間髪入れず取り上げて長いテーブルの遠くに放る。彼女は眉を下げた後にまた元の笑顔に戻り、「それもそうね。」と応えた。「当たり前だ。」と返す。


「………ねえセブルス。私ちょっと面白いこと思いついたんだけれど。」

「どうせロクでもないことだな、知っている。」

「素っ気ないわねえ、聞くだけ聞いてみなさいな。」

「聞かない。時間の無駄だ。」

「と言うのもね、生徒がいない学校も珍しいものだし…。」

「聞かないと言っているだろうに」


 スネイプの言葉をまるで無視して彼女は可笑しそうに言葉を続けた。

 彼女は上背に伴って長い腕を伸ばし、平素は生徒たちが腰掛けている大テーブル…スリザリン寮生の定位置を指差す。


「あっちで、食べてみない?」


 にこりと笑った彼女と対照的に、スネイプは眉間の皺を更に深くすした。


「………やはりロクでもなかったな。聞かなければ良かった。」

「残念、聞いてしまったわね。ロクでもないことは往々にして避けられないものよ、人生とはそう言うものですC’est la vie.。増して私と一緒にいるならね。」


 スネイプは人差し指を立てて得意げに言う彼女を無表情で暫し見た後、遠くに放った新聞紙を呼び寄せてその頭を勢いよく叩く。彼女は「痛い!!」とそのままの感想を口にした。


***


「テーブルが低いのね…でも思った以上に窮屈じゃないわ。」


 カップの中の紅茶を揺らして立ち昇る湯気を眺めながら、ヨゼファは穏やかに呟いた。


 生徒用のテーブルはいつも腰掛けている場所とは位置方向が異なるため、差し込む日光を背中越し、直に覚える。机上の食器が陽の光を反射して光るのが些か眩しかった。

 隣り合って着席した二人は、平素自分たちの定位置である教員用の長テーブルをなんとはなしに眺める。


「意外と、遠く感じるのね。」


 ヨゼファがスネイプへチラと視線を送りながら微笑んで言う。


「確かに生徒だった頃、先生たちって随分遠い存在に思えたわ。すごく立派できちんとして、偉くて頭が良くて。」

「………。実際になってみると、別段大したものでもない。」


 普通だ、とスネイプは言葉を付け加えては薄いトーストを齧る。普通だ、ともう一度言葉を繰り返す。

 ヨゼファは先ほどから紅茶が入ったカップを揺らして時折口をつけるだけで、食事する気配がない。


「だが少なくとも、成り行きでなる職ではない。」

「そうね…志して先生になった人はやっぱり立派よね。私たちはそこらへん、引け目があるのかも。」


 空のままのヨゼファの食器類をスネイプはじっと眺めてから、銀色のスタンドに淡いベージュの卵をひとつ立てた。「完全食だ。」と一言添える。彼女は微笑んだまま礼を述べ、深い色の机で卵を叩いては殻にヒビを入れた。


「教師じゃなかったら…貴方は何かなりたいものはあった?」


 彼女は色の悪い指で茹で卵の殻を剥いている。それには答えず、スネイプは無言だった。


「……ごめんね。もしもの話はするべきじゃないわね。」

「いや…。謝られることではない。」

「そう。」


 教師にならなかったら…、と改めて考えることをしてみなかった、とスネイプはなんとはなしに思考する。

 ホグワーツで職を得なかったら、隣にいる人物と再び相見えることは皆無だっただろう。その存在を思い出すことも二度とあるまい。

 逆にヨゼファはどうなのだろうか。…二度と会わずとも、自分のことを想い続けるのか。それとも、忘れるのか。


「セブルス君、」

「は?」


 考え事をしていると、隣から声をかけられる。耳慣れない呼び名に眉根を寄せた。


「一度だけ、このスリザリンの長テーブルで…貴方の隣に座ったことがあるの。一番最初の、組み分けの儀式の直後。」


 ヨゼファは綺麗に剥けた卵のつるりとした表面を満足げに眺めながら言葉を続ける。


「あの時、まだ声が出る時に言葉をかけてれば良かったわ。…初めまして、私はヨゼファ。これからよろしくねセブルス君……、なんて。貴方と仲良くなりたかったもの。」
 

 彼女は軽快に笑ってから、ぱくりと卵を口に含んだ。

(私も同じことを思う、)と言いかけてスネイプは唇を噤んだ。(夢で、よく見る。)とも言えなかった。(互いにこのテーブルに着いていた時分の、仲睦まじく過ごす妄想とも言える幻想を、度々思い浮かべる…)とは、言い難かった。


「………、ヨゼファ。」

「うん?」

「ヨゼファ…ちゃん?」

「……………………。」


 ヨゼファは瞬きをパチパチをする。暫時した後、爆笑してスネイプの肩を叩いた。


「もう…、なによ。突然そういう面白いこと言うんだから。」


 だから貴方って良いのよね、とヨゼファは至極幸せそうに言う。

 一方スネイプは……ヨゼファちゃんは無いな、と真面目に考え直していた。年齢が変わろうとも、彼女との関係に別段の変化はない筈である。


(ヨゼファ、だ。)


 今と変わらず、そう呼んでいる。きっと。


「ヨゼファ、」


 卵を食べ終え、陽光を甘やかに反射したオレンジを手に取っている彼女へと呼びかける。ヨゼファは「なに?」と愛想良く返事した。


「……卵に、塩をつけずに食べたのか。」


 ポツリと呟き、二人から幾分離れた場所にある塩胡椒のスタンドの方を見る。

 彼女はほのぼのと明るい果物の皮を剥きながら、「あら、」と零した。


「つい…うっかりしていたわ。」


 静かに言うヨゼファの肩にスネイプは触れ…時間をかけて引き寄せる。そして、オレンジをその掌中から除いた。


「…………。無理をするな。」


 ほとんど囁いて言っては、その柔らかな頭髪に頬を寄せる。

 灰色の髪から、馴染みがある石鹸の匂いが鼻孔へと過ぎった。今朝シャワーを浴びた時だろう。スネイプの部屋に据え置かれたものを使ったのだから、自分と同じ匂いが香るのは当然だった。







 夏の終わりの、過ごしやすい一日だった。

 青く晴れた空は高く、ヨゼファが過ごす私室を兼ねた執務室…開け放した大きめの窓から、透明度の高い陽光が室内へと注がれていく。


 静寂の中で仕事を進めていると、存外良く捗った。

 世情は暗くとも、ホグワーツは予定通り九月から新学期に入る。子供たちはひとつ歳を重ね、新しい一年生が入学してくるのだ。いつものように仕事は多くある。それは余計な思考を避けたい今のヨゼファに取っては有難いことだった。

 そして…心地良い徒労を覚えて時計を確認すれば、既に時刻は夕方に差し掛かろうとしていた。


 立ち上がり、壁を埋める巨大な書棚の一角、レコードばかりを集めた場所へと歩んで至る。

 擦り切れた厚紙のジャケットの背を指先でなぞり、適当な一枚を引き抜いた。それを小ぶりな蓄音機の盤にかけ、絞った音量でささやかな音楽を流す。


 そうしてふと顔を上げ、黒い沿線で区切られた小さい菱形が連なる窓を眺める。相も変わらずよく晴れた空は青く、目眩を覚えて瞳を伏せた。伏せた先、木で組まれた床をじっと見つめ…この4フロアーほど階下、まさに真下にいるスネイプは今頃何をしているのだろうかと取り留めなく考える。


 ……組んでいた腕を解いて伸びをした時、首筋の皮膚が引っ張られて痛みが走った。「いた、」と彼女は小さく言っては嘆息をする。


 喉元まで留まっている釦をいくつか外し、処置をした首筋の傷……肩、背中から上腕にまで至る毎度の傷の中でも最も顕著である……の具合をガーゼ越しに確かめる。(いつも通り大丈夫そうね、この程度なら。)しかしながら視界に入ったことで傷の痛みは心なしか強くなった。そして首に回った黒い枷もまた、嫌が応にもその存在を主張する。

 ヨゼファは淡い笑みを漏らして、首に弱く食い込む黒いヴェルヴェット地を指先で触った。


(………………。こんなことしなくても、一緒に死ぬくらいお安い御用なのにね。)


(最優先事項よ。貴方の頼みなら、なんでも。)


(……でも。なるべくなら、一緒に死ぬよりも一緒に生きたいけれど。)


(それは貴方にとって、難しいことなのかしら…)



 ヨゼファは釦を留め直しながら、背景で流れる音楽に合わせて軽く鼻歌する。妙に音程が外れていた。生憎彼女は音楽に関する才能は全くもって持ち合わせていないのである。ただ、幼い頃から聴くのは好きだった。


「セブルス。貴方は…まだ何か、不安があるのかしら。」


 ポツリと呟いて、ヨゼファはゆっくりと瞼を下ろす。

 しばらくの間、単調で静かな旋律に聞き入っては頭の中で繰り返した。イギリスよりも、もっと寒さが厳しい国の民謡である。明るいような、妙に寂しいような曲調が不思議だった。


「私…。貴方に、なにをしてあげられるのかな。」


(ずっと心配なのは、彼の心の負担ね…。確かに…私の皮膚に噛み付いたり、引っ掻いたりで傷痕を残せば一時の安堵は出来るのかもしれないけれど。)


(やっぱり、辛いでしょう。しんどいに違いない。)


(この関係じゃあ、いずれは終わってしまうのかしら。)


(貴方が望むなら、私はいつでも傍にいるけれども。望まれないなら、遠くに離れないと……。)



 ヨゼファは大きな窓の傍に至り、菱形に区切られた歪んだガラスの中、ひび割れた一枚をそっと指でなぞった。



(お別れの日が近い。……そう、なのかもしれない。)



 ヨゼファは微笑み、瞼をゆっくりと下ろす。



「私、少しは貴方の助けになったかしら。」



 肩の辺りに掌を触れた。それから首、いつの間にか幾分も肉が落ちた自らの頬を撫で、唇を指先で少しなぞる。彼はよく、その順でヨゼファに触れては肉体を開いていく。思い出すことを思い出し、また、溜め息をした。



「私たち、良い友達よね…。」



 何故か、窓ガラスに触れてる指が震えている。


 そうね…分かった。

 急ぎましょうね、

 早く終わらせましょう。


 血液が、肉の下で疼く感覚を覚えては言葉をいくつか唇から零す。

 考えれば、今の校舎には生徒も教員もいないのである。深夜に魔法陣の構成を行う必要はなかった……。


 ヨゼファが釦を元の通り首元まで留めてその場から歩き出せば、白い陽光によって作り出された彼女の影が伴ってその爪先へと付き従って行く。

 一度、室内の家具置物全ての足下に蟠る暗がりが蟲のようにゾワリと蠢いた。ヨゼファは唇に指を当ててはそれらに静寂を促す。


「陽が落ちてないわ。」


 そして室内はシンとた。音楽もいつの間にか止められている。沈黙が重さを持って、部屋の空気が冷たくなった。


「まだ。静かにね…、」


 囁いて、ヨゼファは自室を後にした。

 いつの間にか、昼、太陽の光が苦手になった、とヨゼファは廊下に差し込む暖かな光を眺めながら思う。


 窓を飾る装飾的なアーチの縁に溜まっていた影がそろりと伸びて、白く光っていた窓を覆っていく。彼女の歩みに合わせて、窓から差し込む光は奪われ、辺りは夜陰に近しい暗がりとなった。



(天文台……。私の魔法がたどり着くのに、未だ些かの時間がかかりそうね。)


(でも、今までの膨大な時間を思えばほんの少し。)


(長かったわ。本当に長かった。……あそこが、折り返しの場所。)


(そして、魔法は始まりの場所へと続く)



 硬いヒールで石段を踏み鳴らし、搭上へと歩みを進める彼女の黒いローブを風がゆるりと泳がせた。

 石壁に落とされた深い影の中、夥しい瞳が緩やかに瞼を開いて黒衣の魔女の歩みを視線で追いかけていく。ヨゼファはそれに気が付き、彼女たちへと親しみを込めて笑いかけた。



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