骨の在処は海の底 | ナノ
 さらば、あの日

 ああ…夢かしら。


 ヨゼファはゆっくりと瞬きをしてそう思う。


 -------------------夢は、彼女の領域でもあった。

 いつからかヨゼファの専門となっていた魔術…魔法陣は本来、子どもの夢想を表現する手段として広く親しまれているものだった。それを体系付けて学問の形に整えはしたが、自分のその行為は無粋だったのではないかと…時折考える。


(夢は夢、子どもの遊びは遊びのままにしておくのが良かったんじゃないかしら。)


(何故、魔法陣が長く忘れ去られた学問だったのか…。理由があるのよ。本来の使われ方は人を不幸にしかしないもの。)


(私の著作が焼却されたのは良い機会だったのかもしれない。)



 ホグワーツに構成した魔法陣に因って、自らの血肉とこの巨大な石の城が深い繋がりを持って久しい。

 その所為で、彼女は時折この学校で眠る誰かしかの夢の中に足を踏み入れてしまうことがあった。

 自分が呼ばれる夢は…果してこれは、夢なのか、過去なのか、幻想なのか…悲しくて寂しいものばかりだった。助けを求める言葉、孤独を呟く唇に引き寄せられるのだろうか。

 そんな彼らのために出来るのは、寄り添うことだけなのだが。

 そうして彼らは、目を覚ました時には夢を忘れてしまう。



 ヨゼファは仄暗い微睡みの中をゆっくりとした足取りで進み、拓けた風景の中へと至った。

 温い空気が肌を滑っていく。どうやら時刻は夕暮れ…否、今は夏だ。この夢の中もきっと盛夏、日の入りがひどく遅くなる白夜の時期である。夜だ。辺りの仄明るさに、不思議な気持ちを呼び起こされる。


 ヨゼファの視線の先に、線の細い少年が立っていた。

 そして彼の視線の先には広大な公園がある。豊かな緑が整えられ、立派な噴水が据えられたそこでは夏の終わりを惜しむ祭りが盛大に催されている最中だった。

 この期間のみ据えられる回転木馬には色とりどりの電飾が灯り、手すりの隅のぼろぼろのスピーカーからは華やかな音楽が流れ出ている。

 しかし音割れした音楽、人々が話し合う声、その騒がしさがここからはどこか遠い。屋台で売られている菓子類や食べ物の油っぽい匂いが、温い空気の中で弱く漂ってくるだけだ。


「行かないの…?」


 彼の隣に立ち、ヨゼファは驚かせないようにゆっくりと話しかける。

 今よりひとまわりもふたまわりも若い時分…少年のスネイプがこちらを見上げた。蒼白な顔をしている。無表情だ。


「ほら、連れていってあげる。」


 ヨゼファは微笑んで、彼の頼りなく薄い掌を握って引いてやった。

 しかし彼は立っている場所から動こうとしない。


「行きたくないの?」


 無理に引っ張ることはせず、しかし手を握ったまま、ヨゼファは彼に尋ねた。

 スネイプは口を開かない。黙って彼女を見上げて、それから夥しい電飾で飾られた公園の方へと視線を移し、眺めるだけである。


「綺麗ね…。」


 太陽が沈みかけた薔薇色の空を枝に透かし、緑を伸ばす森の合間にぶら下がる光の装飾や、その先の大きなステージを遠くから見ながら、ヨゼファは自然と言葉を漏らした。


「遠くから見たって、充分に綺麗だわ。」


 痩せた少年の肩を抱いて、ヨゼファは穏やかな気持ちになる。


「それとも、やっぱり遠くは嫌?直に触れて…光の中に足を踏み入れたい。そう思うのかしら。」


 視線を夏至祭へと向けたまま、ヨゼファは夢の中にいるスネイプへと言葉を続けた。

 再び彼を見下ろすと、顔を伏せていた。細く艶がある黒い髪が、その頬にサラサラとした影を落としている。


「こっちにおいで…。良いところに、連れていってあげる。」


 再びスネイプの手を引き、公園に背を向けてヨゼファは歩き出した。

 今度、彼は素直にそれに従った。しかしそれでも、少しずつ遠ざかる夏至祭のキラキラとした幻想を、幾度か名残惜しそうに振り返るようである……。







 さて、屋上に据えられたパーラーのテラスのテーブルを挟み、改めて少年か青年かその中間かのスネイプと向き合ったヨゼファだが、今更に警戒心を隠さず探るようにこちらを見る彼に些か笑顔が心弱くなる。気を取り直しては、言葉をかけた。


「大丈夫よ、別に取って食べたりしないわ。ああ。自己紹介をしていなかったわ…私はね……、…。ベファーナよ、貴方の名前は?」

「……………………。」


 彼の混乱を避けるため、かつて母親へと名乗った偽名を名乗る。応えはない。無言である。

 しかしこうして随分と警戒しながらも、スネイプは席を立つことをしないでいた。

 恐らくどうすれば良いのか分からないのだろう。何しろ夢の中である、彼は自分がどのようにしてどこから来たのか、その帰り方すらもよく分からないに違いない。


(これは、いつの貴方が見ている夢かしら。)


 今、隣で眠りながら見ている夢なのだろうか。

 それともこの背格好と同じ頃に見た夢なのか…。あるいはもっと先、これからの未来で夢見る風景か。

 どれでも構わないとヨゼファは思った。

 夢の中には憧憬と淡い切なさが漂っていた。折角…呼んでもらったのだ。少しでもその心が楽になるように、出来ることをただ考えよう。そう、思っていた。


「さあ…、好きなものをなんでも言って。アイスクリームでもケーキでも。なんでもあるわよ。」


 よく糊がきいた白いクロスの上に置かれていた細長いメニューを彼へと渡した。


「今日は特別な日よ。美味しいものを食べて、素敵な夜にしましょう。」


 組んだ掌に顎を乗せ、ヨゼファはメニューへと視線を落とすスネイプのことを優しい気持ちで見守る。


「……あの、」


 暫時してこちらを見つめ返し、彼は小さく呟く。細い声だった。今の低く甘やかな声より、幾分も未成熟で透明な響きを持っている。


「貴方は…誰です。」

「ベファーナよ、魔女のベファーナ。」

「………、…、」

「……聞きたいのは、そういうことじゃない?」

「僕のことを知っているんですか。」

「知っているわ。」

「僕は貴方を知らない。」

「それで良いと思うわ…。それでね。」


 そして、これからも知らずにいた方が良かったのかしら。

 私なんて、知らないでいた方がきっと良かったのかしら。


 ヨゼファはゆっくりゆっくりと口角を上げて微笑んだ。

 温い風が、少年の線が細い黒髪をサラサラと泳がせていく。美しい男の子、彼女はその光景を見ながら胸の内で呟いた。


「あら、綺麗なピンク色のサンデー…。イチゴ味かしら。バニラアイスもお月さまみたいな色で可愛いわね、貴方は甘いものはあまり好きじゃない?それならサンドイッチもあるわよ。」


 声を一段明るく切り替えて、ヨゼファはメニューに載っている写真に視線を落としながら機嫌良く言う。

 そして彼が示したシンプルなチョコレートとバニラのアイスクリームを傍のウェイターに頼み、自分にはブラック・コーヒーを注文した。



 ----------------スネイプ少年はバニラとチョコレートのアイスが混ざり合わないように、慎重でいてどこか優雅な手つきで銀のスプーンを操り、ガラスの鉢からアイスクリームを掬い取って口に運んでいた。

 それは今、大人になった彼が薬剤や薬草を扱う時と同じように洗練された仕草だった。ヨゼファは思わず見惚れてしまう自分を可笑しく思いながら、砂糖だけをハラハラと入れたブラック・コーヒーに口をつける。


(…………………。)


 夢の中だからだろうか。

 否、恐らく違う。


 ここ数年、ヨゼファは味覚の衰えを顕著に感じていた。自分を蝕む黒い魔術の対価であることは明白である。肉体が少しずつ人間から乖離して、理解が及ばぬ場所へと持っていかれている。

 最近は何を食べても砂を食んでいるようで、そこに喜びを見出すことは難しい。大好物のケーキすら最早美味しいとは感じなかった。

 そして今、やはりコーヒーからは何の味も香りも分からない。無味無臭のブラック・コーヒーを口に含むたびに、彼女は静かな気持ちになった。


 やはり、自分は死ぬのだと思う。


 自分にだけは奇跡が起こらないとを、ヨゼファは知っていた。

 だが、それでも……信じ抜くこと、卑屈にならないこと、そして愛しいものを想うこと。絶望しないでいることが、自分が生きる意味だと…心に沁みて、想っていた。


 
 スネイプは目をパチパチとさせて、ヨゼファの様子をそっと窺うようだった。

 ヨゼファはそれに笑顔を返す。「安心して、」と声をかけた。


「品の良い子だって感心していただけよ。それに私は沈黙に気まずさを感じないわ。貴方と過ごす時間そのものが私にとっては大切なの。……ゆっくりと食べて。ここは涼しいから…、アイスもまだ、当分溶けないでしょう。」


 半分ほど飲んだコーヒーをソーサーの上に置き、ヨゼファは「ねえ、」と言葉を続ける。


「貴方の名前…教えて?」

「僕のことを、知っているんでしょう。貴方は…。」

「貴方の口から聞きたいわ。」

「……、プリンス。」

「そう…王子様、お名前の方は?」

「セブルス…。」

「素敵ね、名前も姓も。とても素敵だわ。」


 そう言った彼女が瞼を下ろすのと、青ずみ始めた空に金色の花火が開くのはほとんど同時だった。

 ヨゼファは目を開き、「ああ、始まったわ。」と言ってはすっかり温くなってしまったコーヒーを飲み干す。


「公園より、ここの方が近くで花火を見れるのよ。人も少ないしね…」


 良いところでしょう、と少し得意げにヨゼファはスネイプを見る。

 彼は少し口を開き、にわかに頭上に開いた花火に驚いているようだった。

 暗くなる空に、また花火が昇っては開いた。今度は紅色をしている。

 二人は少しの間、沈黙のうちにそれを見上げていた。


「公園では……」


 花火の音にかき消されるほど小さな声が、ヨゼファの耳に届いた。

 彼女は視線をスネイプへと戻し、軽く頷いて聞こえている旨を伝える。


「公園に、好きな女の子がいるんです。今……。花火を、見にきてる。」


 彼は全くの無表情で言葉を続けた。ヨゼファは「そう、」と返す。


「でも…。僕じゃない友達と一緒に来ている。僕じゃない、男と一緒にいる…。」


 黒い瞳が、花火の煌めきを反射して小さな光を灯している。

 ヨゼファはただ黙って、彼の言葉を聞いていた。


「なんで来ちゃったのかなあ……。……でも、来ちゃったんだ、僕は。」


 スネイプは弱く笑って、小首を傾げた。

 彼の言葉を聞き届けたヨゼファは、数回瞬きをしてから「ごめんね、」と謝る。


「そうだったのね。知らなくて、連れ出しちゃって悪かったわ…。今からでも公園に戻りましょうか。」


 彼は首を左右に弱く振った。


「彼女は友達と…何人かで来てるのよね?それじゃあどこかでばらけて一人になっているかもしれない。大丈夫…、協力するわ。その子を誘ってみましょう?」

 更に首を強く振られるので、ヨゼファは眉を下げては相槌するに留まった。


「僕は…ひどいことを言ったんだ、もう……、、嫌われてしまったから。」

「じゃあ尚更よ、今日はとても良い機会だわ。ちゃんと話し合いましょう?遅いなんてことは絶対に無いから。」

「できない…、無理だ………」

「今だってこんなに辛そうなのに、これではずっと引きずってしまうわ…。それはとても苦しいことよ。」


 ヨゼファは説得を試みるが、それでもスネイプは弱く首を振って拒否をするだけである。

 白い頬を涙が一筋伝っていくのを見て、彼女は席を立ちその隣へと座り直した。

 涙をハンカチで拭ってやるが、拭った傍から涙はまた細く頬を濡らし、顎を伝っては空になったガラスの鉢へと垂れていく。


「良い……。もう、いらない……、、」


 針の先のように、今の少年の精神は痩せて鋭利になってしまっていた。

 遠くで上がる火花にその輪郭が照らされ、頬を伝う涙が弱く光っている。


「消えてしまえば良いのに……っ、みんな……、全部……………」


 掌で顔を覆い、彼はテーブルへとゆっくりと伏せる。

 ヨゼファはその様を見下ろし、それからそろりと肩に手を置いた。


「辛いわね……。」


 小さな声で、呟く。

 彼の痩せた肩は震えていた。

 今、この少年がどれほど大きな悲しみ中にいるのかをヨゼファはよくよく分かって、同じように悲しかった。


「どうしてでしょうね……。どうして人生ってこうなのかしら。」


 かわいそうに、と胸の内で零す。

 これからどれだけの夜、彼はこの日の苦しさを思い出して生きるのだろうか。こうして今、夢に見てしまうほどに。


「みんな、みんな幸せになりたくて…ただ、一生懸命なだけなのにね。」


 肩を抱くことはせず、撫でるに留めて言葉を続けた。

 ゆっくりと摩り、身体まで蝕むほどのその心の痛みが和らぐようにと願う。


「貴方の手…、冷たい………、、」


 彼が涙交じりの声でポツリと言う。ヨゼファは謝ってそこから掌を退けた。


「嫌、、って言ってるんじゃない…。」


 テーブルに顔を伏せた状態で、スネイプは顔だけこちらに向けて言葉を続ける。


「ただ、冷たい…、冷た過ぎるって……、思っただけ………っ」


 しやくり上げる最中、零される言葉にヨゼファは笑って返す。


「貴方が温かいだけよ。」


 優しい子、


 今一度肩に触れ、ヨゼファは耳元で囁いた。


 すっかりと暗くなった空に、また、新しい花火が浮かんで消えていく。

 炉にくべられた錫のように激しく光っては燃え尽きる花々を、ヨゼファは見上げては溜め息をした。


「なるようにしかならないわ…。悲しく沈む夕陽でも、明日になれば昇るのよ。」


 ちょうど大きな花火が銀色に花開くので、彼女の声がスネイプに届いたかどうかは定かではない。

 細い肩はまだ震えていた。服越しにも熱くなってしまった彼の身体を冷やすため、ヨゼファは自らの冷たい掌で、そこを暫くの間撫で続けていた。



* 



 手を引かれて歩いている。

 自分よりも一歩手前を行く背の高い魔女の背中を、スネイプはぼんやりと眺めていた。


 涙はもうすっかり収まっていたが、それでもしゃくりあげるほどに泣いていたため、頭の中は麻痺しているようでふらふらとした。

 握られた掌は、彼女の低い体温によってひやりと冷たくなっていく。……人間ではないのかもしれない。幽霊ゴーストにしては、ハッキリとした実態を持っているけれども。


 パークで盛大な夏至祭が催されているため、皆そちらに行っているのだろう。少し離れた街の片隅、この通りは静かで人の気配がしなかった。


 ふと立ち止まった彼女はこちらに笑いかけてから、繋がっていた掌を離してそっと肩を抱いた。

 それは至って当然なように行われるが、触れ合いに多く慣れていない彼は僅かに身体を緊張させる。魔女はそれを感じ取り、「…震えてる。寒い?」と尋ねてきた。

 応えずにいると、彼女はぽっかりとこちらに口を開けたアーケードを指差す。


「あっちに行きましょう。」


 そう言って、またスネイプの手を取って歩き出した。


(この人、足音がしない。)


 やはり、彼女は人間ではないのかもしれない。



 アーケードには夏至祭に合わせた飾りつけが天井から垂れ、アーチの中にも花火が爆ぜているかのように煌びやかな様子だった。

 淡い黄色に光る沢山のショーケースには、行儀よくそれぞれの店の売り物が収まっている。


 その並びの中のひとつ、緑色の木の枠によく磨かれたガラスが嵌ったドアを開け、彼女はスネイプの手を引いたまま店内へと入った。

 一階、地上階、地下一階の3フロアを利用した吹き抜けの空間の壁には書籍がぎっしりと並んでいる。古めかしい本屋だった。


「ひとつ、好きなものをあげるわ。」

 
 肩に手を置かれ、囁かれた。ようやく顔を上げると、左右で色が異なる青色と赤色の視線がこちらに注がれていた。見つめ合うのを避けて、彼はオレンジ色の光に照らされた広い店の中を見渡す。


「お菓子とかの方が良かった?」


 彼女が笑って尋ねてくるので、「いや、」とそれを否定する。


「いや……。でも、なんで?」

「『なんで』って?」

「……全部。」

「そう、私のことが分からないのね。どうしてこんなことをするんだろう?って貴方は不思議に思ってる。」


 スネイプの少ない言葉の裏を、彼女はスラスラと理解しては口にする。


「私はね、貴方に元気になってもらいたいの。励ましたい。楽しい気持ちになって欲しい。それだけで、下心なんてありはしないわ…。」


 共に歩みを進めては児童書のコーナーに差し掛かるが、「もう、こういうのを読むにしては大人ね。」と彼女は穏やかに言ってそこを素通りした。


「小説は好き?詩は読むの。」

「……少しは。」

「そう…。でもそういうのは、きっと自分で買った方が良いわね。」


 彼女は目的なく人気が疎らな本屋の中を歩むらしい。

 次に庭造りの本に目を留め、綺麗ね。と言っては中身の素朴な田舎風の庭園の写真を見せてくる。歩む傍、適当な書籍を介してそんなやり取りを何回か繰り返した。


「これはすごいわね、大英博物館の収蔵物の写真がほとんど載ってる。」


 独り言のように言いながら、彼女は次に大型の書籍を軽々と取り上げては中身を確かめた。


「本物の美術品は大きすぎたりあまりにも高価だったりで、私たちの手が届かないことがほとんどだけれど。この本を買えば、あの大きな博物館の中のものが全部手に入るわ。」

「…………え?ただの写真じゃないか。」

「ええそうね、その通り。でもそれ以上の、本物を超えた存在にもいつだってなり得るわ。人間の想像イマージュ創造インスピレシオンの可能性は無限よ。」


 彼女はずっと穏やかな表情で、語調も静かだった。

 腰を落としてスネイプに見せやすい高さに大きな図版を持ってきては、ミルクに血液を垂らしたような薔薇色の石彫のヴィーナスや、ミイラが収まっているエジプトの棺、鶏卵ほどの大きさにもなるブルーダイヤモンドなど、目を惹くものを見せてはそれぞれの簡単な解説をする。まるで教師のように説明に慣れた口調していた。


「あのね…セブルス君。愛や絆なんてものはいざという時、ぜんぜん役に立たないことがあるの。それほどに脆くて、絶対的なものではない。見掛け倒しなことが多い。…知っているわよね。でも、どんな本でも沢山読んで識っておくと、そこから得た知識は決して貴方を裏切らない。助けになってくれるわ……。」


 彼女は立ち上がり、背の高い書棚へと博物館の図録を戻していく。そこから腕を伸ばし、今度は幾分も小さい書籍を棚から取り出してスネイプに渡した。


「本だけじゃないわ。なんでも見て…聞いて、色んな経験をしてみて。無理せず、自分のペースでね。」


 手の中に収まった渋色の書籍は薬草に関するものだった。仔細な植物画の横に、簡単な解説が記されている。

 それを視線でなぞりながらも、やはりスネイプは分からなかった。この女性が一体何者で、何の目的があって接触してくるのか。まるで小さい頃から自分を知っているような口ぶりをする。少なくともスネイプ自身は彼女にまったく覚えがなかった。


(誰…)


「……でも、愛や絆が全く意味のないものとはどうか思わないで。無意味だと言い切る人の言葉に、惑わされては駄目よ。」


(この人は、)


「そんなものは弱者のためのものだと、強者には必要ないのだと…貴方の孤独を理解したような口を利いて、誘惑する人がいつか現れるでしょう。でもそれは耳障りの良さだけで、まるで薄っぺらい思想だとは思わない。」


(知るはずがない、……この年の頃、誰かとゆっくりと会話した記憶はほとんどない。)


「貴方が彼女を愛する心や、彼女が貴方に向ける優しさはかけがえのないものでしょう?例えなんの役に立たなくても、愛情がなくては人は生きていけないのよ。これは本当のこと。忘れてはいけません。」


(いつも一人で…、一人で。)


 やはり彼女は教師なのかもしれなかった。少し身を屈めて視高を合わせてはゆっくりと話す口調はそのものである。

 けれども、どの記憶を遡っても彼女のような先生に会ったことは無かった。……ただでさえ珍しい、左右で異なる瞳の色である、一度見たら忘れるはずはない。


「貴方は誰。」


 先ほどと同じ質問をする。彼女はやや首を傾げ、「ベファーナよ、魔女のベファーナ。」とやはり先ほどと変わらない返答をした。


「違う…。"ベファーナ"なはずはない…、……。」

「…………うん?」

「"ベファーナ"はイタリアの伝承の中の魔女だ、子供を失って気が狂って……、存在しない自分の子を探してずっと彷徨ってる魔女。貴方のはずがない。」


 彼女はこちらをじっと見つめたまま、スネイプの言葉に耳を傾けていた。うん、とひとつ頷いて優しく笑う。


「詳しいのね…。でも、ベファーナの伝承はそれだけじゃないわ。彼女はクリスマスの夜、イエスさまの誕生をお祝いするための焼き菓子と、その母親のマリアさまに贈るための箒を持って旅に出た魔女よ。旅中、色んな家に立ち寄って子どもにプレゼントをするうちにすっかり遅刻して、結局お祝いの席に出席することは出来なかった…。でも沢山の子どもを笑顔にすることができた。幸せな魔女のお話。」


 彼女はスネイプの手を取って、緑色の木枠で仕切られた夜色の窓ガラスの傍へと促す。

「見て、」と言われる方に視線を向ければ、黒々とした建物から伸びる沢山の煙突の向こうに、未だ続いていた打ち上げ花火が遠い空を金色に飾っては落ち、また打ち上がるのを儀式のように繰り返していた。「綺麗ね…」背後の魔女が囁く。


「最初の目的…目標とはまた違った場所へと至ることは、決して悪いことじゃないわ。そこ・・に貴方は必要とされたから立っているの。どちらにせよ、貴方はこれから…いいえ、今も。本当に素敵な人だもの。どうか胸を張って。」


 花火が打ち上がる振動が足下から伝わってくる。だが、やはりここは静寂が空間の多くを占めている。

 店内の照明を反射して鏡状になった窓ガラスの中の、所在なさげな自分の姿をスネイプは見た。同じく映っている魔女と窓越しに目が合うと、微笑まれた。


「私は貴方が大好き。」


 目尻に皺を寄せて瞳を細める様は幾分か草臥れているようにも思える。…どこかで彼女を見たような気がした。同じような笑い方をして、


「もしも不安な時や、困った時はいつでも私を呼んでね。どこからでも、どんな時でも…呼んでくれたら必ず会いに行くから。」

「…………え?」


 スネイプはハッとして後ろを振り向く。

 しかし先ほどまで近くにいた細長いシルエットの魔女の姿は影も形も失せていた。

 オレンジ色の灯りに照らされた書店の中には、ただ大きな柱時計が1秒ずつ時を刻む音…そして終わる気配のない遠くの花火の弱い振動が触れていくばかりである。


 …………ゆっくりと、掌中を見た。小ぶりな渋色の本が一冊。それは確かに実態を持ってそこにあった。


(ああ、)


 目の色に、惑わされていた。

 確かに左右で瞳の色が違う魔女には会ったことがなかったが、あの笑い方には見覚えがある。

 でも、声を聞いたのは初めてだったから。


(あの……、声がなくて………髪が長くて、痩せぎすの……)



「そうか…ああ言う大人に、なるのか。」


 幾分も成長した彼女の姿は、今のスネイプが知っている少女の姿とはほとんどかけ離れていた。

 いつも薄く笑って人の顔色を伺っているような不健康な有様とはまるで違い、落ち着いて、安定した発音でよく話し、そして


(…………、綺麗に…)


 なにがあって、どのような過程を経てそうなったのかは分からない。それを知ることができるのは、自分も同じ齢に達した時なのだろう。


(君が何故……、僕のことを)



『私は貴方が大好き。』

 

(そうか……。)


「ヨゼファ、」


 名前を呼んでみると、不思議な笑みが口元から漏れた。


「ほら…呼んだよ。」


 辺りを満たす静寂は相変わらずだった。

 夏の夜の温かさに浸されてすっかり緩くなった窓ガラスに触れて、姿を消してしまった彼女に呼びかける。


「呼んだのに……、会いにきてくれないなんて。約束と違うじゃないか…。」


 段々と広い書店の中のオレンジ色の灯りは暗くなり、周りの景色は暗がりに溶けて存在を失せていく。

 そうして劇間のブラックアウトのように明かりは落とされ、完全な闇となった。



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