◎ 世界樹の下で
「ヨゼファ、気に病む必要はない。」
着座していたダンブルドアは、背の高い彼女の方をチラと見上げてそう言った。
ヨゼファはそれに視線を合わせるが、ひとつ息を吐いてから首を緩く横に振るに留まる。
「…………。しばらくは…、」
少しの沈黙を置いてから、スネイプが口を開く。老齢の魔法使いはヨゼファから彼へと空色の瞳を向けた。
「しばらくは、呪いを片方の手に封じ込められます。やがては広がりますが。」
スネイプは淡々と告げながら、老人の節が目立つ黒ずんだ掌の具合を確かめた。ダンブルドアもまた別段感情を起伏させることはせず、「そうか」と相槌を打つ。
「いつまでじゃ」
「恐らく一年かと。」
一年か、
独り言のように呟き、彼は色が変わってしまった細い指先を顎の辺りへと持っていってはなにかを思案するようだった。
「ヴォルデモート卿が、ドラコ・マルフォイに儂を殺せと命じた…。」
暫時あって、彼は再び口を開いた。
「不可能です、」
言葉少なだったヨゼファがそれに応える。「彼に行えるとは思えない。」と続けた。
「あの子は…校長先生、貴方に反発しつつも畏れと尊敬を抱いている。優しさが覚悟を鈍らせます。」
「左様、力もまだ成熟しているとは言い難い。」
「セブルス、侮ってはいけない。その未熟さ故に、彼は最も恐るべき存在なのだよ。」
嘆息とともに一拍おいて、ダンブルドアはスネイプとヨゼファ一人ずつの瞳の中を探るように見つめた。目を伏せかけるヨゼファへと「儂から目を逸らすな」と静かな語調のままで伝える。
「だが成功の確率が高いともし難いのは確かだ。そして…彼が失敗すればその仕事を引き継ぐのは、他ならぬ君たちじゃろう。」
ホグワーツの教鞭を取って久しい二人の魔法使いの、黒い衣服に包まれた胸元をダンブルドアは順繰りに指差す。
「ヨゼファ。魔法陣の完全な完成の前に試してみるのだ。未完であれ、恐らく
不死鳥を殺すことができる。」
「校長先生、
不死鳥ですよ…。」
「その通り。フォークスの死はひとときのものだ、然しながら殺すのは君でなくてはならない。君たちが儂を殺すのだ。それしか方法はない。そして君ら二人は闇の帝王の完全な信頼を手に入れる。」
強く言葉を続けるダンブルドアの様子を、スネイプは言われた通りに目を逸らさず見下ろしていた。口を閉ざしたまま。
「今回のことはヨゼファ……、君の身体にも幾許か負担をかけた。デートとはいえ洒落込めず、申し訳ない。」
「心配しないで、何も問題はありませんよ。先生も少しキレが鈍いですがジョークを言えるくらいなら大丈夫なんでしょう…。安心しました。」
弱々しく笑うヨゼファの横顔へとスネイプは黒色の瞳を移動させた。
その彼へと、ダンブルドアはやや細めた視線を向けてくる。三者三様、視線が交わらないままで少しの時が経過した。
「ドラコのことをよろしく頼む……、あの子は複雑だ。」
ダンブルドアは黒ずんだ掌で頬杖をついては溜め息と共に呟いた。それにはスネイプが返す。
「彼には家族がある。我々が出る幕は大してないでしょう。」
「……そうだな、そうだった。」
「今はご自分を考えることに専念されるのがよろしいかと。」
「最もじゃセブルス。君たちも…、そろそろ休まれた方が良いだろう。夜分遅くまで悪かった。」
今更、と肩をすくめたスネイプへと、ダンブルドアは場の空気にそぐわぬ穏やかな表情で応えた。少し笑っていたのかもしれない。
それぞれ夜の挨拶を告げ、スネイプとヨゼファはホグワーツの長の個人的な執務室を後にする。
既に時刻は新しい一日に差し掛かっていた。
*
しかしヨゼファは、あまり時間を置かずにその場所に舞い戻る。
既に無人となっていたダンブルドアの執務室にわだかまる夜陰の輪郭に、不可解な黒い図象が蟲のように蠢く。その沼に似て底が見えない闇の中から、ヨゼファは浮かび上がって姿を顕わした。
室内を満たす静寂は重たかった。水底に沈められたかのように、息をすることすらも困難である。
窓の外には柔らかな雨が降り出しているらしい。それがより一層、辺りの青い闇の深さを色濃いものとしていた。
ホグワーツの校長を長年に渡って勤めた彼のパートナー…或いは分身のような存在なのだろうか。不死鳥のフォークスは、留まり木の上で自らの豊かな羽毛の中に首を埋めては瞼を下ろしていた。
ヨゼファはその場から動かずにじっと彼のことを眺める。視線に気が付いたらしく、フォークスはゆっくりと長い睫毛に覆われた瞳を開いてはこちらを認めた。
無言のまま、ヨゼファは不死鳥の元へとゆっくり歩を進める。彼の顔の傍へとそろりと掌を寄せ、触れるのを許されるのを待った。フォークスは暫く、闇の中で透き通って光る瞳でヨゼファを探っていたが、やがて目を細めて彼女の手の内に頭を寄せる。
………しかし、ヨゼファの体温が低すぎることが気に召さなかったのかすぐにそこから離れ、それ以降柔らかな羽毛を寄せてくることはしなかった。
ヨゼファは弱く笑っては「ごめんね、」と囁く。
そして…ふと、胸中のポケットから銀色の円盤を取り出した。金属の薄い板の上で、光の粒子がさやさやと舞い上がっている。
指先で、刻まれた自らの魔法陣をなぞった。そうして「はい、」と小さな声で囁く。銀盤の呼び出しに応じて。
『……………………。』
しかし、少しの間沈黙が続いた。ヨゼファは今一度「はい、聞こえるはずですよ。話してください。」と相手が分からない銀盤の向こうに呼びかけをする。最も、彼女と通話が可能なこの薄い金属板を所有している人物は片手で数えられる程度である。誰が自分を呼び出しているのか、ヨゼファにはほとんど見当がついていた。
「もう遅い時間だけれど…起きているのね、セブルス。」
そして、無言の彼へとこちらから声をかけることにした。
『……どこにいる。』
言葉少なに質問されるので、ヨゼファは「校長先生の部屋。」と同じく言葉少なに返した。
そうしてまた少しの沈黙の時間が経過する中、糸のような雨がサワサワと黒い森へと触れていく音が暗闇の室内に忍び寄ってくる。
「貴方は?今どこにいるの。……自分の部屋?」
質問に答えが返されることはない。ヨゼファは眉を下げて微笑んだ。
「会いにいきましょうか…?」
呟くように言いながら、ヨゼファは幾分も昔のことを思い出していた。
彼がホグワーツに教員として勤めるようになってから、まだ日が浅い時分である。ボーバトンへの出張の最中、ダンブルドアとの事務報告に自分はまさにこの銀色の円盤を使用していた。その時、何故かスネイプが彼と同じ場に居合わせていたのだ。
まだまだ親しくもない頃だったから、突然耳に飛び込んできたその低い声に幾分も驚かされたのだ。緊張を悟られないように、変におどけて、奇妙に上ずった態度で…なんでもないようにすることに心を砕いた。
「いいえ、会いに行っても良い?」
そうしてその夜、フランスからイギリスまで箒一本を走らせて帰ったのだ………
今と似たような声をしていた気がする。
何を考えているのか、その声を聞けばほとんど理解出来るほどだった、今もそう。
(観察の積み重ねの賜物よ。ずっと見ているからね…)
(でも、バレないように。)
(ほとんど病的である自覚はこれでもまだ一応、あるのよ。)
「私も、貴方に会いたいから……」
沈黙への呼びかけを三度行ってから、ヨゼファは口を閉ざした。
銀盤にほとんど耳をくっつけなければ聞こえないほどの、微かな答えを受け取る。
ヨゼファは眉根を寄せては小さな笑みを零す。
(なんて……、)
彼女はこちらを未だじっと見つめているフォークスに気が付き、「ごめんね、」と今一度謝罪した。
「おやすみなさい。…また、ね。」
別れの言葉を告げて、ヨゼファは部屋の一角に蟠る黒い陰の中に再び身体を沈めていく。
不死鳥は長い睫毛で縁取られた瞳で数回瞬きをして、弱く一声鳴いた。透明色の涙が、ヨゼファが消え去った深い闇が伸びる床の上へと数滴落とされていく。
*
静かな声だった。
女性にしては少し低くて、もう若くはなく、けれどもゆっくりとしていて聞き取りやすい。
彼女の講義はさぞかし…色々な意味で生徒たちにとって快適なのだろう。何しろ、眠気を誘うような心地良い響きをしている。
『もう遅い時間だけれど…起きているのね、セブルス。』
綺麗な発音で、そう語りかけられる。
黒い夜の色に浸かった窓ガラスの向こうには、柔らかな雨が降り続けていた。それを背景にして、ただひたすらにしめやかな……
『会いにいきましょうか?』
心を見透かされて尋ねられた。
無言で頷けば、それが分かるかのように微笑む吐息が、薄い金属板の向こうで気配する。
やがて闇色の室内の中空に光の雫が沙耶と垂れてくる。植物が蔓を伸ばしていくかのように、サワサワと静かな囁きを漏らしながらそれは円形の模様を描く。
水紋に似た装飾紋が一度中心へと強く収束した後、現れたヨゼファの首の辺りをスネイプはなんの断りもなしに捕まえた。胸から上だけこちらに覗かせた彼女は当然驚き、「え?」と声を漏らす。
シンプルな白いネグリジェの襟を両手で掴み上げ、無言のうちに強くこちらに引いた。予想外の出来事に対応しきれないヨゼファが驚きの声を更に大きくする。そうしてスネイプの力に従って、彼女は円形の魔法陣から全身を引きずり出されて彼の部屋…ベッドの上に腰掛けていたその胸の内へと落っこちる。
それを抱き留め、抱き直した。衝撃にベッドのスプリングが数回軋みを上げる。
スネイプの膝の上にほとんど腰を下ろしてしまったヨゼファは未だ驚きの最中にいるらしい。暫く行き場のない腕を中空に泳がすが…やがて、彼の背中にそれを回しては「こんばんは、」と夜の挨拶を耳元で囁いた。彼女の背中で、光の線を描いていた魔法陣が銀色の煌めきになって中空に四散していく。
柔らかな雨は止む気配もなく降り続けている。
そのままで、スネイプはヨゼファの冷たい身体に少しずつ自分の体温が移って温められていくことに感じ入っていた。彼女もまたその感覚を覚えているのだろう。嘆息とともに、小さな声で「温かいわ…」と呟いた。
少しばかり身体を離し、またも前置きなしにスネイプは彼女の服に手をかけた。ヨゼファは再び「え?」と声を上げる。
「ちょっと……。」
彼女は戸惑うらしく、こちらの手の上に掌を重ねては遠慮がちに行為を制止させる。
スネイプはヨゼファの瞳へと視線を向けた。…確かに、言葉足らずが過ぎたかもしれないと思ったが、気持ちが逸っていたのだ。「見せろ、」と低い声で漏らす。彼女はまだこちらの真意を理解しかねるのか、心弱い笑みをして眉を下げた。
「
身体に負担をかけたと校長は言っていた。どれほどの負担だ。」
一口に言葉を並べてから、彼は再び自身の膝上のヨゼファの衣服に手をかける。
ヨゼファは慌てたように「ま、待って。服なら自分で脱げるから…」と漏らすが、その発言の最中には既に粗方の釦が外されていた。肌触りの良い冷たい光沢の寝間着はスルリと彼女の皮膚を滑り落ち、その上半身の肌が露わになる。
既に入浴を終えて寝る準備を整えていたらしいが、それでも一応下着は着用していた。ヨゼファのランジェリーは悉く黒色なのだが、これもまた例に漏れずである。同じく黒いレースで装飾されて、彼女の重たい乳房を包み込んで支えている。
ヨゼファは笑みを曖昧なものにしてから、何とは無しに居住まい悪そうにして腕を胸部の辺りに持っていく。
右胸を始点とした黒い呪術の痕跡は上は喉元、下はウエストから今は服に隠されている腰の方へと続いている。
「顔も…、時間の問題かもね。」
彼女は小さな声で言いながら、青白い乳房を穢す黒い痕跡を柔らかくなぞったスネイプの指先から掌へと…視線を落とした。
「一言も相談されていない。ダンブルドア校長からも知らされなかった。信頼されていないのか。」
「そんなことあるわけないでしょう、校長先生が今最も信頼を寄せるのは貴方よ。間違いないわ。」
「違う、、そうではなく………。」
唇を閉ざして彼女の肢体を暗闇の中に見る。
自分がした仕打ちによる痕は消えていなかった。特に首に巻きつく指の跡と肩の傷が…まだ、治るまでに幾許も時間がかかるのだろうか。それを見ないようにしながら、また口を開く。想像以上に自分の声は小さかった。
「……………。無茶を…、」
「もしかして貴方は…、私を心配してくれているのかしら。」
「しないと思ったのか。」
馬鹿、と憤りのような悲哀のような感情を幼稚な言葉にして表現すると、優しげに受け答えをしていた彼女は少々面食らったらしく数回瞬きをする。そしてまた柔らかい表情に戻っては、「いやだ、」と笑みに少しの苦さを滲ませた。
「可愛い人だわ…、素敵で…」
なんて愛しい、とヨゼファは独り言のように漏らしてから額を軽く合わせてくる。
「まだ時間はかかるのか…。いつになったら魔法陣の構成は終わる、これ以上の血液の使用は看過し難い。」
「あと少しよ、本当に少し…。魔法陣は
円の形が基本なの、残りの仕事は始まりの場所へと戻るだけ。」
「始まりの…」
「そう、始まりの場所よ。」
ヨゼファはスネイプの頬に手を添えて、そのまま彼の黒い髪をクシャリと撫でた。
彼女がそれ以上なにも発言しなかったので、スネイプもまたなにも聞かないことにした。穏やかな形になったヨゼファの瞳の奥には、左右で色が異なる青色と紅色の炎が棚引いている。
再び服を身につけていく彼女を見守りながら、スネイプはその耳の飾りが元の小さな真珠の粒に戻っていることに気が付いた。それを指摘すると、ヨゼファは「ベラに壊されちゃったのよ。」と残念そうに応える。
「新しいのが欲しいわ、ダイヤモンドが良いかな。」
「調子に乗るな。」
間髪入れずに返すと、彼女は明るい笑い声を上げた。しかしすぐに声を沈めて言葉を続ける。いつの間にか二人の顔の距離は再び近くなり、すぐに触れ合ってしまいそうだった。
「……で、その時彼に会ったわ。本当に久しぶりに。」
「初耳だな。」
「初めて話すからね。」
「そればかりだな、よく喋るくせに肝心のことは話さない。」
「そんなつもりは特にないわよ。ああ…いえ……、やっぱりそう言う癖はあるのかも。でもセブルス、貴方にはよく話している方よ、取り繕っても仕様がないことが多いもの…。色々と、恥ずかしいところを知られてしまっているから。」
ヨゼファはスネイプの膝の上から降りては隣へと腰掛ける。
溜め息混じりの発言に、お互い様だと短く応えた。ありがとう、と彼女はそれに礼を述べる。
「あの人、喜んでくれたわ。私がこの学校を呪う魔法の構成を続けてきたことに。」
「…………。言い様だな。」
「嘘はついてないからね。」
「だが疑われていないのか、君は一度逃げ出したはずだ。」
「もちろん信頼はされていないけれど…最も彼は誰のことも信じていないでしょう。探られるから、心の表層にもうひとつ仮の心理を描くイメージよ。それで疑われることはないわ、貴方も得意でしょう…」
「我々に、殺すことができるのか。」
「校長先生のこと?」
「
否、彼のことは殺す。それはもう決まったことだ。」
「淡白ね。」
「その方が…あの老人も幸せだろう。私には時折、彼がひどく疲れているように思えてならない……。」
「そうなの…。よく見ているわ。」
「ヴォルデモート卿のことだ、私が言っているのは…」
「ああ、そうね。私たちが危惧すべきは彼のことだわ。まあ…きっと無理よ。私たちに闇の帝王は殺せない。」
ヨゼファは組んだ脚に頬杖をしながら会話を続ける。瞳は半目に伏せられ、少しばかり気怠げな雰囲気だった。
「殺せるのは選ばれた男の子だけでしょう。私たちは
彼のための道を拓くのよ…。」
促すと、彼女は頬杖をしたままこちらに視線だけ向けてくる。
「ねえセブルス、今もまだハリーに向き合うのは複雑なの。」
「…………………。」
「私も…全く何も感じないと言えば嘘になるけれども。最初は貴方の代わりに様子を見るだけだったのよ、」
「私の代わりに?」
「ええ、そう。多くの人にとって同様、いいえそれ以上に…貴方にとっては特別な子でしょう。」
眉根を寄せてヨゼファを見つめ返す。ほとんど睨んでしまっていたと思う、彼女の微笑から何を言わんとしているのかを無言のうちに理解したからだ。
「母親似よ……。間違いないわ。」
「違う、」
「セブルス、貴方の一途な愛情は素晴らしい財産よ。もっと大切にしなくては。」
「君は彼から慕われている、善人のように振る舞って…だから贔屓目に見えている。それだけだ、」
「そうね……。そう。その通りだわ…、例え教師として作った上面だとしても、それを慕ってもらえて嬉しかったことは間違いない。………可愛いわ。疑ってしまえば楽になるのに、懸命に信じようとしてくれている。私なんかを。」
ヨゼファは言葉を選ぶようにしてゆっくりと発言する。……彼女がスネイプのハリーの運命に対する危惧を分かっているように、彼もまたヨゼファの複雑な思いを理解していた。だから反駁することをやめ、口を閉ざしてその言葉を聞くに留まる。
「鏡のように素直に周囲を投影するのよ、あの子は。こちらが愛情を持って接すれば愚直過ぎるほどにそれを返そうして、ね。彼は貴方の真意を与り知らない、でも時折救われていることは分かっているんでしょう。だから完全に嫌いになれないのよ。今の貴方と一緒…同じ姿をした、鏡だわ。」
彼女は頬杖を解いてスネイプの手の甲に掌に重ねた。少しの間そこを撫でてから、緩く握ってくる。
「大丈夫よ、心配いらない。来るべき時ハリーの魂を救うために、出来る限りのことをすれば良いだけだわ…。」
貴方には出来るはずよ、と肩を抱かれるので、引き寄せられるままにしてヨゼファの胸の辺りに頭を預けた。彼女は服を再度着てはいたが、釦を留めていないので青白い皮膚が広く覗いている。柔らかさに感じ入って、ゆっくりと瞼を下ろした。
少しの間沈黙して、ヨゼファの言葉と、リリーとの思い出と、その忘れ形見の青年のことを繰り返して考える。
そうして、小さな呟きでヨゼファとの会話を再開した。
「昔から…そんなに大きかったか。」
「なにが?」
「身体が……ヨゼファの。」
「ええ大きかったわよ、いつも頭ひとつ周りから浮かび上がっちゃってね。覚えていない?」
ヨゼファはスネイプの髪を撫でながら言葉を返す。そうではなく、と応えると、彼女は少し思案してから「やだ、」と楽しそうに言った。
「どこ見てるの。」
「…………………。」
「そうねえ、確かに私は二次性徴が遅かったから違和感も無理がないかも…。恥ずかしながら、もう十代も後半に差し掛かった頃ね。」
一度身体を離し、互いの瞳を覗き込む。
彼女の前髪が赤い右目を隠すので、耳にかけさせて現れた瞼に口付けた。その際、微かな喘ぎが耳を弱く掠める。
「背が高いのも……胸が大きいのも、私は好きじゃないけれど。」
「何故、」
「大き過ぎるとみっともないもの。それに、あまり目立ちたくなかったから…。」
どちらともなくベッドに隣り合って横になり、ごく近い距離で会話を続けた。
いつも自分が行われるように、ヨゼファの柔らかい髪を指先で梳いてから撫でる。彼女は弱く息を吐いて、ゆるりと瞼を下ろした。
雨が辺りの静けさをより色濃いものにしている。お互いの声が、自分自身の声が、変によく聞こえる夜だった。
「どちらも、悪くはない。」
「どうかしらね…。華奢で小さな女の子に憧れるわ。」
「今でも?」
「ええ、今でも。」
「それは少し困る。」
「何故?」
「包むように抱いてもらうことが…、ヨゼファに、」
好きだから……
引き寄せた掌の指先に唇をつけながら、ほとんど声にしないで囁いた。
ヨゼファは穏やかな空気を纏ってその様を見守っている。それから、「セブルス、」と名を呼んできた。
「じゃあ、抱きましょうか?」
こちらの返事を待つことはせず、彼女はスネイプの身体に腕を回して引き寄せる。
スネイプは決して細身でも小柄でもなかったが、そんな自分を抱いてなおも余裕を感じさせるだけの安定感と安心感が、彼女の腕の中にはあった。
ヨゼファはスネイプを胸に抱いたまま、背中を擦ったり手持ち無沙汰に髪に指を絡ませたりして少しの時間を過ごすようだった。
お互いに言葉少なである。この時の二人は様々な不安を抱えていた。同じではないが、ある部分では重なり合って共通の不安を。
「不思議ね……。」
彼女の胸に顔を埋めているために、そのゆったりとした声がささやかな振動になって皮膚に伝わってくる。やはり彼女の声は静けさだ。深い夜と同じ響きを持っている。
「私が貴方を好きになったきっかけは知っているでしょう?まだ愛情とは呼べない幼稚なものだったけれども、大切なきっかけだったのよ。貴方のことを意識し始める……、見つめるようになって…それが習慣になって、やっぱりちゃんと好きだと思えて嬉しかったわ。失恋しちゃったけどね。」
ヨゼファが笑うので、息がふうと皮膚を過ぎった。
こちらからも腕を伸ばして彼女の身体に回す。ウェストのくびれを掌で撫で、腰へと。
「大人になってから再会したのも、もう幾分昔のことになってしまったわね。学生時代よりも長く同じ時間を過ごすようになって…やっぱり好きだと思ったわ、より一層。」
促されて顔を上げると、微笑まれて軽く口付けられた。
「不思議なほどに、貴方は素敵な人だわ。」
彼女は少し肩をすくめて可笑しそうに言葉を続ける。
「綺麗な顔とか…洗練された仕草とか。いつでも一途で誠実で、少し素直じゃない人間らしさとかも、ね……。」
普段であれば、ふざけたことをと一蹴するに留まるようなヨゼファの発言を、言わせるままにしておく。聞いていたかった。確かな言葉と形になった彼女の愛情が、今は必要だった。
ふと…ここで初めて彼女を抱いたことを何故か思い出す。
きっかけはヨゼファから告げられた想いの丈であったことは違いないが、ほとんど強引に情事に持ち込んだのは自分だった。
そうして彼女との関係を選んで…友人では留まらない関係を選んで……今なのだ。ヨゼファから無条件に与えられる愛情を甘受するのは心地が良い。唐突に鋭い痛みを胸の奥に覚えることもある、それでも触れて、触れ続けていて欲しかった。
(どうすれば良い、)
リリー、僕は一体どうするべきなんだ、と。
時折、胸の中で今もなお生き続ける愛しい少女の面影に尋ねることがある。
しかし彼女が応えることはない。過去の憧憬とはそうなのだ、そういうものだった。だからこそ美しい。
永遠に変わらない綺麗な微笑みを湛え、透き通った新緑色の瞳でこちらを眺めるだけだ。
(今は、現実は……、)
どのように生きても苦しみだった。
(全ての人間が等しく痛みを知って生きている。)
だがその苦しみと痛みとの対峙によって、人間は少しずつ答えを見つけていくものなのかもしれない。それが、人生というものなのかもしれない…。
「私に…、貴方を愛することを許してくれてどうもありがとう。」
業の深さと重さが過ぎるのだ、ヨゼファが自分に向ける愛情は。
だがそうでなくては困る。(愛しているなどと、)簡単な気持ちで口にして欲しくなかった。
自分がそうであるように、人生を賭して、命を削って愛情を紡いでもらいたい。
「自分に忠実でいることほど幸せなことはない、そうでしょう?」
彼女の首を、また締め上げたくなるのを堪えた。だが新しい自分の痕跡を更に深く刻みつけたくて、それを行わなければ不安になる。
「愛しているわ…。セブルス。」
やはり我慢ができず、自らの指跡が絡み付いているヨゼファの青白い首に手を伸ばした。弱く力を込めて握り、引き寄せる。
彼女の身体に覆い被さって口付けて、その冷たい唇を押し開いた。静かで、優しい、深い青色の眼差しが、こちらを捉えている。
* * *
「破れぬ誓い!?」
当然のように情事に移行する流れだったが、その最中、一貫してしめやかだった地下の寝室にヨゼファの頓狂な声が響いた。
ヨゼファが上、スネイプが下の状態で二人は暫時互いのことを数回の瞬きと共に見つめ合う。
すっかり難しい顔になった彼女は、身体を起こし指先を口元へと持っていっては何かを思案するようだった。半端に服を脱がされる作業を中断されたので、スネイプは非常に焦れた気持ちになる。
「……然したる問題ではない。先ほども言った、ダンブルドア校長が我々に殺されるのは既に決まっている。それをこなせば良いだけだ。」
「だからと言って、誓いまで立てるのは」
「信用はないよりもあった方が良かろう。」
「心にもないことを……」
「ほう…。君に私の心が分かるのか。」
「大体はね。どちらかというと煩わしいと思うタイプでしょう貴方、そういうのは。」
早いところ愛撫を再開させて欲しいので淡白に応対するが、ヨゼファの頭からはまさに始まろうとしているセックスのことなどどこかに飛んでいってしまっているらしい。
スネイプの身体の上で腕を組み、天井を斜めに見上げては、困った表情で再び彼のことを見下ろした。
「確かに…。だが私も君も、まだ
死喰い人からの信用は希薄なことは確かだ。」
「………でもね。ああ、いいえ。もう過ぎてしまったことだから仕様がないけれど。死のリスクは軽いものではないわよ。」
「それを君が言うのか。」
鋭く返すと、ヨゼファは頭を左右に緩く振った。
その手を取り、自らの胸元、外される途中だった釦の上に置いて続きを促す。しかしながら彼女は不安げな表情のままで行為を再開することはしなかった。
スネイプは仕方なしに一度身体を起こし、自分の手で釦を外しては脱いだローブをベッドの近くにあった椅子の背にかけた。
「もしかして…心配しているのか。」
「しない訳ないでしょう。」
スネイプの呟きにヨゼファは即座に返しては溜め息をする。その背に片手を回して下着の金具を外してやると、窮屈そうだった彼女の白い乳房が解放された。
互いに半身を起き上げた状態で今一度向かい合うと、ヨゼファがこちらに手を伸ばす。そしてゆっくりと頬を撫でられて抱き寄せられた。
素肌が触れ合う感覚が心地良くて、少しの間そのままで時間を過ごした。
「…………。ヨゼファ。」
彼女の肩に頭を乗せて身体を抱き返しながら名前を呼ぶ、言葉の返事はなかったが、緩く髪を撫でられることで応えられた。
「耳の飾りではないが、渡したいものがあった。………、身に付けてもらいたい…。」
抱きしめていた身体を解放するが、ごく近い距離で囁くように言う。
少しばかり不思議そうな表情をする彼女に、こちらに背を向けるように促した。
素直に従うヨゼファが向ける青白い背中を、一度掌でなぞっては触れる。小さな声がヨゼファの唇から漏れるのを聞き、肌が弱く粟立った。
「黒いペンを受け取った…。」
「ああ、無事に手に取ってもらえたのね。」
「使い心地は悪くない。」
「そう、良かったわ。もしかしてお返しをもらえるのかしら。」
ヨゼファは肩越しこちらを振り返り、嬉しそうに笑う。
今一度前を見るよう促してから、サイドテーブルに備え付けられた簡易な引き戸から取り出した細身の黒いベルベット地を、彼女の首に回した。ヨゼファはそれに触れては「首飾り…?チョーカーかしら、綺麗ね。」と呟く。
「ん…、セブルス。少しきつく締まってるわ、緩めてもらえる。」
ヨゼファの発言と固い金属音…施錠音は同時だった。彼女は自然とこちらに首を回し、音の出所を探ろうとする。
その赤色と青色の瞳は、スネイプの右手の中にあった小さな銀の鍵を捉えた。ヨゼファは緩慢な動作で自身の首に巻き付く黒いリボンの枷に触れ、頸…ちょうど脊椎の上に位置する施錠された鍵穴を指先で確認するらしい。
「ヨゼファ、」
片手で容易く包み込める鍵を握り、離して、跡形もない銀砂の塵と成り果てたそれをサラサラと手の内から落とす。
ひどく呼吸が苦しく、自然と息が荒くなった。ヨゼファは何も言わずにただこちらを見ている。きょとりとしていた。
「ヨゼファ………、」
今一度名前を呼び彼女と視線を交え、暗闇に露わになっているその両肩を掴んで身体をこちらに向き合わせた。
「私が死んだら…、一緒に、死んでくれ。」
ヨゼファの肩、首、そして頬へと、手汗が滲む掌を這わせては沈めた声で訴える。長い間、胸の底に孕ませていた欲求を。
「良いよ。」
彼女は間を置かずに答えた。いつもの会話のテンポだった。その冷たい頬を覆っていたスネイプの掌の上へと彼女は手を重ねては握ってくる。
「貴方が望むことで私が叶えられるものなら、なんでもしたいと思うけれど。でも…どうか、あまり悲しいことを言わないで。」
ポツリと呟いた彼女の微笑みがひどく寂しげだったので、スネイプはハッとした。
しかし首の後ろに腕を回され再び抱き寄せられるので、すぐにその表情は分からなくなる。
強く抱かれるままシーツの上に二人で身を横たえると、鼻先が触れ合うほどの距離だった。ヨゼファの青白い首に、自分が締めた黒い枷が弱く食い込んでいる。
「楽しい話をしましょうよ……。一緒に生きる話の方を、もっと。」
耳を掠める優しい言葉を受け取りながら、彼女の皮膚と枷の境目を指で触れる。その場所に、首を伸ばして口付けた。数回唇を付けてから、舌先を尖らせてそこをなぞる。ヨゼファの身体が反応して強張った、何をされるのかを彼女は経験から知っている。
なぞる行為から舌の腹でなぶることに移行して、自らの唾液がその皮膚に充分に馴染んだことを確かめてから歯を立てる。強く噛み付いた。痛みを堪えるヨゼファの肢体が震える。奥歯に力を込めると、耐え切れなかった彼女の唇から苦しみに由来する呻きと悲鳴の中間の音が漏れた。口内に血の匂いが立ち込めて、その皮膚が裂けたことを感覚する。
やはりこの感情は、一度昂ぶれば歯止めが効かなかった。
自分のためだけに生きて欲しい。
全てを犠牲にして愛して欲しい。
そして自分が死んだら、一緒に死んで欲しかった。
(その自分は嘗ての思い出に未だ繋がれたままなのに) 繰り返してヨゼファの皮膚に噛み付くので、鍵を失った枷に締められたその首はすっかりとスネイプの唾液と彼女自身の血液で汚されていた。
生理的な涙がヨゼファの瞳から連なって溢れている。それを舐め取り、「言ってくれ、」と訴えた。
彼女は痛みを堪えるために全身を緊張させていた。肩を上下させて絶え絶えに呼吸している。
しかしスネイプの声を聞き届けているようで、濡れた瞳を彼へと向けてはその身体を抱くために腕を伸ばした。
「愛して、いるわ……。」
貴方を、
胸に抱いた彼の頭に唇を寄せて、愛情を言葉にして伝えてくる。いつものように、望んだ通りに応えてくれた。そうしてこれからも、永遠に……。
「もう…、一人になりたくない…、……。」
静かな声で。聞き取れないほどに静かな声で。スネイプもまた気持ちを言葉にした。
「一人にしないわ、安心して。」
大丈夫よ、大丈夫、とヨゼファは繰り返す。そして彼の肩や背中を、子供をあやす母親のようにして撫でた。耳元で、良い子ね、と優しく囁かれる。
「さあおいで、セブルス。今夜は……、私のどこで、貴方に触れましょうか。」
女性にしては少し低くて、もう若くはなく、けれどもゆっくりとしていて聞き取りやすい。静かな声だった。
二本の腕で、更に近くへと引き寄せられるのに抗わない。深い海の底に絡みとられていくように、彼女の冷たい愛撫に肉体を任せた。
黒い夜に雨が降り続いている。糸のように細く、長い雨が、ずっと……。
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