骨の在処は海の底 | ナノ
 ミュージック

 ああ、とひとつ溜め息。

 凝りに凝った肩を揉み解しつつ、ヨゼファは時計を確認した。午前零時過ぎ…針は体感と大体同じ時刻を示していた。


(……眠くないわ。)


 疲労しているにも関わらず眠れないことは些か辛いことのひとつである。リラックスとリフレッシュが不足しているな、と彼女はぼんやり考えた。

 眼下のテーブルの上には、頭の中と同じようにまとまらない仕事の数々が規則性なく散らばっている。伸びを一度してから、ヨゼファは立ち上がり部屋の奥へと足を向けた。

 その後を、暗い室内を照らしていた小さな灯りがユラユラと追いかけては付き従っていく。





 

 床に置いた鞄型のレコーダーを開き、ヨゼファは中に標準的な12インチのレコードを置いた。

 やがて黒い盤は回転を始めるので、その上へと銀色に尖った針を慎重に落としていく。ブツブツと音が飛ぶのが静寂の浴室に響いた後、低いヴィオラの音色がささやかに運ばれてきた。

 ヨゼファはなんの感慨も持たずに、ただただぼうっとして旋律に乗せられいく低く甘い女性の歌声を聴いた。

 中東の伝統的な唄を基にして作られたものだとレコードのジャケットには書かれていた。ヨゼファは行ったこともない中東の…見知らぬ景色を頭の中に思い浮かべながら、ようやく身体を起き上げて浴槽に湯を張っていく。



 私について来なさい 光り輝く海を渡り

 私たちの知るこの世界の彼方で 待っている国へと




 古びが青く錆びついた蛇口から温かい湯が落ちていく。水音の背景で、甘やかな歌声は続いた。

 ヨゼファは黒いローブをスルリと脱いで、下に着ていた対称的に白いシャツも同じように身体から取り払い、壁に打ち込まれた楔に適当に引っ掛けた。

 服と同様に黒色の下着の金具を外すと、乳房の重たさをより一層肩へと感じた。当たり前に同色のパンティストッキングとショーツを脚から抜き取りながら、(私の服って黒ばかりね…)と今更すぎることを思う。


(ランジェリーくらいカラフルにしてみようかしら。)


 下着をまとめて籠の中に入れながら、止め処ないことを考えた。


(……………聞いてみようかなあ)



『貴方、女性の下着は何色が好きなの?』



 と質問した時の彼の反応をイメージしつつ、ヨゼファは非常に可笑しい気持ちになって喉の奥でクッと笑った。


 温めに張った湯の中に爪先を入れ、バスタブへと身体を沈めていく。

 私室に据えられた浴槽は非常に小さいため、上背のあるヨゼファは三角座りにならなければ身を収めることが出来なかった。彼女があまりこちらを利用せず、広い共用の浴室を普段使いしている所以である。

 バスタブの縁に頬杖をついて、針が飛ぶ音が紛れる音楽に再びぼんやりとしてヨゼファは耳を傾けた。中東のメロディー、アジア人の歌姫、そして英語の歌詞。なんともインターナショナル、と思いながら。



 私について来なさい 愛だけが見ることのできる道を通って

 歳月を重ねた夜の喜びよりも高みへと昇る その道を




 浴室の青いタイルは、湯気で濡れ色になって孔雀の羽に似た深い色になった。

 海の中にいるような気持ちになってヨゼファは弱く息を吐く。


 天井へと昇っていく湯気が白い靄に形を変えて蠢いた。

 彼女はじっとして動かず、ただその動きを視線だけで追っていく。


「さすがにこれだけ狭いところだと、空気を読んで小さくなってくれるのね…。」


 呟いて、ヨゼファは現れた白色の鯨の守護霊の方へと掌を伸ばす。ゆったりとした動きでそれは彼女へと近付いた。イルカほどのサイズである。


「そうね、貴方は音楽が好きだから…。」


 目を細め、冷たいような温かいような自分の分身を手の甲で触れて撫でた。


「良い夜ね、私も音楽が好きよ。人生を豊かにしてくれるわ。」


 呟き、浴槽にのせた腕に頭をのせて瞼を緩く下ろした。

 自らのパトローナスに守護られている安心感のもと、背景には静かな女性の歌声が続いている。


(人生で、最も幸せな記憶……?)


 それを強く思い浮かべた時、守護霊は実体化するのだと多くの魔法使い及び文献が語っている。

 ヨゼファの場合は、音楽だった。

 顔の知らない父の書斎の奥、異国フランスの書籍の山に埋もれていたレコードである。知らない言葉の歌声。意味は分からずとも、それを美しいと思う気持ちが少女の自分の宝ものだった。


 守護霊の出現の初めてを、彼女は思い出すことができない。

 それはホグワーツに入学する前から当たり前に傍にいた。



(別に…パトローナスを呼び出そうとして白い鯨この子が顕れたわけじゃないわ。)


(私はただ友達が欲しいと思っただけ。)


(私の初めての魔法よ。魔法で自分の友達を作ったの。)


(こんなことはお人形遊びみたいなものだって分かっていたけれども。だって白い鯨は私だもの、友達ではない。)


(でも、寂しかったから。)


(一人は寂しかったから。)


(今もきっと、同じように私は一人なんでしょうね。)


(そして今も、同じように寂しい?)


(いいえ寂しくはないわ……。決して、ね。)



 私に…、私について来なさい この高い山の向こうの遠い国へと

 そこでは私たちがいつも心に持っていた音楽の全てが 空を満たすでしょう

 そして世界は周り 回り続け、

 廻って 落ちてゆくのです……








 腕を強く掴まれる感覚に驚いて、ヨゼファは肩を揺らして目を見開いた。


 状況が飲み込めず、なにも言えないでいる。


 瞬きを数回して、ほとんど焦点が合わないほど近くにある彼の顔を見た。両の二の腕を掌で捕まえられている。

 二人は暫し微動だにしなかったが、弱いとは言えない力でスネイプがヨゼファの肩をそのまま揺さぶった。再び驚き、ヨゼファは声を上げる。


「………………。ここで…、なにをしている?」

「それは私も聞きたいことなんだけれど……。」


 ヨゼファはアハハと弱く笑って場をやり過ごそうとする。スネイプがこちらに向けてくる空気があまりにも真に迫っていた為だ。


(あれ、お風呂…水になってる……。)


 こちらを捕まえている彼の掌が熱く感じるほどである。バスタブに張った水とその中に沈んだヨゼファの体温は至極低いものとなっていた。


(少し寝ちゃってたのかしら。)


 よく回らない頭ながらも彼女は自分の状況を理解する。

 全く、眠りたいときは眠れないのに…と胸の内でぼやきつつ、それをスネイプの質問への回答にしようと口を開きかけた。しかしそれは成されず、代わりにヨゼファは三度目の驚きに由来する声を上げることになる。


 ヨゼファは突然身体を包んだ浮遊感と不安定さに上げた声を半ば悲鳴に変え、咄嗟にスネイプの服を掴んだ。ザバリとした大きい水音がその後に続くのを耳が覚える。


「、セブルス」


 寝起きの不意を突かれたせいか、驚きのせいか、彼女は続く言葉をうまく口にすることが出来ない。

 何故か必要以上に緊張してスネイプの服を掴んだまま、「服が…」と小さく声を漏らすのが精一杯だった。


「貴方の、服が随分濡れてしまっているわ…。」

「………………。どこかのボケ老人の所為で。」

「ボ、ちょっと待って、それ私のこと?ボケてないし老人じゃないわよ。」

「ボケてないならベッドで寝ろ、この間抜け!!」


 想像以上の圧を含んだ声で怒られたので、ヨゼファは閉口しては再び愛想の入り混じった笑みを浮かべた。笑って誤魔化すな、とそれを見透かされた上に一喝される。


「ああ……、」


 どうにも出来なくなったヨゼファは大きく息を吐き、スネイプの胸に頭を預けて声を漏らした。


「…………。ごめんなさい…これから不注意には気を付けるわ。もう、大丈夫だから…」


 そう言いながら顔を上げると、こちらを真っ直ぐに見下ろす黒色の瞳と視線が合った。居住まいが悪く、それを逸らしてしまう。


「大丈夫だから…、私、重いから。もう下ろして…」


 そのままで訴えるが、まるで叱られている子どものような弱々しい声だった。彼はそれを無視してヨゼファの身体を横抱きにしたままバスルームを後にする。

 浴槽に手を突っ込んだ所為ですっかりと濡れそぼってしまっている彼の服のことを気がかりに思いつつ、ヨゼファはその厚みのある胸に頭を預けたままにした。


(暖かい……、)


 冷えてしまった身体が触れ合った場所から温められていくのが分かる。心地良さに思わず嘆息した。


「セブルス、貴方は結構…力持ちなのね。」


 ヨゼファの呟きにはなにも返されなかったが、抱いてくる腕の強さは心持ち強くなり、肉体が更に密に接触した。

 低い女性の歌声を漂わす音楽は、今も弱い音でスピーカーから流されている。時々針を飛ばして、不鮮明な音質で。







 ヨゼファの守護霊が出現すると、距離が少しばかり離れていても彼は知覚することが出来た。お互いがこのホグワーツの敷地内にいれば、大体察することができる程度には。

 恐らくそれは彼女の守護霊の体積の大きさに由来しているのだろう。巨大な白いナガスクジラのパトローナスだった。顕現されると、海の底に沈んだような静けさとしめやかさが音もなくこの城内全域へと広がっていく。


 真夜中である。ようやく仕事をひと段落させた時にその瞬間が訪れた。毎度の深々とした静寂に小さく息を吐いてから…何事だろうかとスネイプは考えた。

 守護霊が必要に迫られるような緊迫した空気を察することはできなかった。ヨゼファが気紛れに出現させただけだろうか。


(だが…そうだ。どちらにしても)


 自分の私室の真上…間に4フロアーほど挟んだ遥か彼方真上…に据えられているヨゼファの部屋の方向を眺める。視線の先には黒い石造りの天井に渡された太い木の梁があるばかりだ。


(………。行こう。)


 思い立ち、机上に散らばっていた書類を杖の一振りで整頓した。


(会いに行こう。)


 どうやら起きているらしいから。話がしたいと考えた。

 あまりにも人が多いこの校内、二人きりで会話する時間はそれなりに貴重だった。







 青色のタイルが張られた浴室の中で、バスタブの縁に頭を乗せて気を失っているヨゼファを発見した時、心の芯が凍るような心地がした。

 濡れて深い孔雀色になったタイルに囲まれた室内で、バスタブとヨゼファの肉体だけが無機質な白色に浮かび上がっている。その中空を、イルカほどの大きさになった鯨が漂っていた。彼女の守護霊にこちらを認められたことに気が付いてハッとする。


「ヨゼファ、」


 彼女を抱え起こそうと走り寄って肩に触れたときに覚えた体温の低さ、浴槽に張られた水の冷たさに驚いて息を飲んだ。


「ヨゼファ…!」


 名前を呼んで、掴んだ両肩を揺すった。袖をまくることもしなかった所為で冷たい水が容赦なく服へと滲んで皮膚に触れてくる。

 ヨゼファは中々目を覚まさなかった。瞼を閉ざして、瞳を開けることをしない。


 「ヨゼファ!!」


 怒りに似た感情に任せてその名を怒鳴った。

 ようやく、彼女は薄く目を開いた。緩慢にこちらを見上げてくる。乱れた息を整えながら、その視線が定まるのを少しの間待った。

 
 スネイプの気持ちなど分かりもしないらしく、彼女は弱ったような笑みを浮かべて応対する。流石に苛立ち、大きな舌打ちをひとつした。


(馬鹿、)


 すっかり水へと変化している浴槽の中から彼女を抱え上げた時、以前よりも身体軽くなっているような気持ちがした。自分の力が強くなったのかそれともヨゼファがやつれたのか、どちらが理由かは分からない。両方かもしれなかった。


(この馬鹿、)


「セブルス、貴方は結構…力持ちなのね。」
 

 彼女は小さく呟きながら、こちらに頭を預けてきた。

 時々、普段では考えられないような幼い仕草をする時がある。それはこちらをなんとも形容し難い気持ちにさせた。


 背景には甘い女の歌声が古びたスピーカーから流れてくる。

 ヨゼファを抱えたまま杖先だけ向けてそれを黙らせた。鞄型の蓄音機はゆっくりと畳まれ、蓋を閉じては押し黙って動かなくなった。それと同時に、彼女の守護霊である白い鯨もうっすらと姿を消していった。

 
 




「……危なかったわ、本当にどうもありがとう。」


 ようやく意識をはっきりとさせたヨゼファは、スネイプによってタオルでぐるぐると拘束されたような状態からもたもたと腕を動かしつつ声をかけてきた。

 部屋中のタオルが身体に巻きついた状況からなんとか脱し、彼女は裸の素肌にネグリジェを一枚着用した。

 スネイプは鼻頭に皺を寄せては「薄着すぎる」とそれを諌める。


「心配性ねえ」

「心配などしていない、この馬鹿」

「馬鹿じゃないわよ……」

「では痺れ薬を50g精製する際のニガルリソウとニガキダチの配合量を答えたまえ」

「そんな苦いものばっかり入れたら美味しくないわよ、少しチョコレートを加えない?」

「この馬鹿!!」


 ヨゼファのベッドに腰掛けていたスネイプは怒りに任せて枕を投げつける。それは見事に持ち主の顔面に的中した。

 彼女は少しよろめくが、持ち直して床へと落ちた枕を拾い上げる。


「んもう……、薄着してるくらいで馬鹿呼ばわりされる日が来るなんて」

「日頃の行いのツケだ、これだから思考力の低い文系教師は」

「…、あ、そういえばそうだ……セブルス、貴方女性の下着って何色が好き?」

「?????さ…さては貴様、馬鹿だと思っていたがやはり馬鹿だったな…??」

「あんまり人のことを馬鹿馬鹿言わないの。いけません。」


 ヨゼファは人差し指を立てては片眉を上げて注意してくる。今更の教師面した物言いにひとしきりの違和感を覚えて仕方がなかった。


 彼女は一応こちらの忠告を受け入れるらしく、燻んだ灰色のショールをひとつ肩から羽織ってはスネイプの隣、ベッドへと腰掛けた。表情はすっかりと明るく、体調が悪いわけでもないらしい。

 だが、やはり異常だとスネイプは考えていた。その太い精神によって彼女は黒い魔法陣の侵食に耐え得るようだが、肉体にはいくつかの不安定さが垣間見える。


 不安だったのかもしれない。この時の自分は恐らく、ずっと不安だったのだ。

 
「ねえ…セブルス。それじゃあ心配性ついでに一緒に寝てくれない。」

「生憎今夜は気乗りではありませんな。」

「嫌ねえ、貴方っていやらしいことばっかり考えるわよね。」

「ふざけているのか、死ね。」

「安心しなさい、簡単には死なないわよ。」


 ヨゼファは眉を下げて笑顔を楽なものにしては彼の方へと少し身体を寄せた。


「一緒に寝るだけの夜だって、よくあるでしょう?」


 彼女はひとつ伸びをしてからそのままベッドの上に身体を沈めて寝そべった。

 視線の高さが異なる状態でこちらを見上げてくる。目が合うと、にこりと微笑まれた。

 ポン、とヨゼファは自分の隣に空いている空間を軽く叩いては傍に来るようにと促す。目を細め、スネイプは睨みつけるようにしてその様を見下ろした。


「ほら、おいで。」


 すっかり乾かされた袖を指先で引かれる。少しの時間と沈黙を置いてから、従って彼女の隣に身を横たえた。

 ヨゼファは嬉しそうにスネイプの身体を抱きしめる。毎度しっかりと抱いてもらうその腕には、予想を裏切らない安定感があった。


「私……また、貴方に助けられたのね…。どうもありがとう。」


 彼女は胸に抱いたスネイプの頭へと頬を擦らせては猫のように甘えた素ぶりを見せた。


「本当にありがとう……。」


 言葉を繰り返し、ヨゼファは静かに、ゆっくりと毛布を自分とスネイプの身体の上へと重ねていく。


 そして耳元で囁かれた。何度となく同じことを伝えられてきたが、聞くたびに心の奥が締め付けられるような心地になった。その感覚は懐かしさに似ているのかもしれない。もしかすると、母親に覚える憧憬にも近しいような。

 だからスネイプは不意に、彼女の子どもに生まれたかったと思うことがあった。時々、そして度々。















 もう随分と古くなってしまっている、鞄型のレコーダーをスネイプは開いた。

 中へと12インチ盤の黒いレコードをセットする。回りだした円盤に針を落とすと、ブツブツと音を飛ばしながらもやがて所定の音階を探り当てたらしい。静かで音数の少ない旋律が流れ始める。


 スネイプには、ずっと音楽を嗜むという習慣は無かった。

 だが、彼女はそれが好きだった。ヨゼファ自身は演奏も歌もからきしだったが(特に歌はひどかった)。だからその山のような私物の内一角を占めるものが、多量で様々なレコード、複数の蓄音機とオーディオなのは道理である。


 低い甘やかな女性の歌声が流れるのを、動かず、黙って聞いていた。


「ヨゼファ。」


 突如として胸の奥に突き上げるような痛みが走り、彼女の名前を呼んだ。

 部屋は暗かった。音楽は変わらずに流れていたが、それ以上に静寂の存在感を色濃く感じる。


 彼女のレコードを、彼女の蓄音機で、彼女がいない夜に聴いていると涙が止まらなくなる。

 それでも繰り返してそれを行うのは、信じているからだ。


 然しながら、あれ程ヨゼファとその守護霊白い鯨が好きで、愛した調べをレコーダーは奏で続けていると言うのに。あまりにも大きなナガスクジラの気配を覚えることは無い。

 ただ音だけが、音が連なった旋律だけが、スコアの上を予定調和に滑っては消えていく。



 提供頂いた素敵なネタより、主人公が初めて守護霊を出現させた時に絡めて書かせて頂きました。
 ご協力いただき、どうもありがとうございます。


 clap



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