骨の在処は海の底 | ナノ
 蘇る陽

 採光・・最高・・の部屋だなあ、なんて、初めてここを自室として与えられた時に思ったものである。


 くだらないことをぼんやりと考えながら、ヨゼファは椅子に腰をかけてこちらに背を向けている黒いシルエットを眺めた。斜めに差し込む金色の日差しが、その柔らかい毛先に溜まって弱く光っている。


 胸が痛んだのは、こちらを認めたスネイプの表情に怯えが入り混じっていたことだ。

 ヨゼファはそれがなにに対する恐怖なのか想像しては遠慮を抱き、少しの距離を取って傍に立った。


 数ヶ月ぶりに足を踏み入れた自室は清められていて、時間の経過を感じさせなかった。

 光の眩しさを覚えながら窓の方を見上げた時、両腕を掴まれて座っている彼の元へと引き寄せられる。


 視線を合わせて、彼の怯えの所以をヨゼファはようやく理解する。そうして自然と眉根を寄せ、緩く首を横に振った。


(違う……。私は貴方を責めるために戻ってきたわけではない。)


 自分のために、自分などのために、ヨゼファはスネイプに心を痛めて欲しくなかった。

 ただでさえ彼の人生は悲しいことばかりなのだ。心にかかる負荷を手伝うために、支えるために傍にいるのに、これ以上の重荷を背負わせてしまっては意味がない。


(そうして、貴方を裁くためにここに居るのではない。私は決して…)


 一体、誰が他人を勝ち誇って裁けると言うのだろう。裁くこと、糾弾すること、そうして自分たちだけが正しいと思うことが正義の行いならば、それは悪とどう違うと言うのか。



 いつの間にか身体に回っていた彼の腕が自分を引き寄せるので、膝の上に腰を下ろしてしまう。

 重くはないか、と尋ねると、抱えられない重さではない。と答えてくれる。


(そうね…。貴方、結構力が強いもの。)


 自分の首に未だ浅黒く残っているスネイプの指の痕を思い出してしまい、ヨゼファの口元には小さな笑みが浮かんだ。


(それから、身体が大きい。背が高い。)


 膝の上に座っているので、スネイプの黒い瞳よりヨゼファの視高は上だった。下を向いてその整った顔を眺め、ふと、自分がいない間にここを清潔に保ってくれたのは彼なのではないだろうかと考えた。


「私が出来るのは、待つことばかりだ……。」


 彼の発言から予測を確信へと変化させると、胸の奥の肉が押し潰されるように痛む。

 望まれているのだ。

 どんな形であれ、それが揺るぎないものではないのだとしても、その事実に強い喜びを感じてしまう自分自身のおめでたさに呆れて、それでも嬉しくて、ただ緩く瞼を下ろせば涙が重力に従って降りていく。白い雫は、彼の頬へと落ちた。


「君は、美しい魔女ひとだ。」


 左右の色を違えてしまった自分の瞳から決して目を逸らさないで、スネイプが言う。

 今、この時の彼の発言と、伴って熱を伝えてくる皮膚の感触をずっと覚えていようと誓った。額縁に入れて胸の中に飾っておきたいような優しい一言だった。全てが報われたと思えるほどに。


 無言でスネイプを見下ろして涙を流すだけのヨゼファの唇に、彼は二度、三度と触れるだけのキスをする。

 くすぐったさに弱く喘いでしまうのが恥ずかしくて、唇を結んで声を飲み込もうとする最中、首の後ろと背中に腕を回されてより近くへと抱き寄せられた。それに驚き、抑えようとした声を逆にあげてしまう。


 抱擁の暖かさを全身に覚えて思わず溜め息をした。みっともないほど大柄な彼女の身体でも、スネイプの長い腕、広い胸の中にならば収まることが出来る。

 結局…助けて支えているつもりで、助けてくれるのも支えるのもいつも彼の方だったのだろう。スネイプがいなければ、彼への愛情を知らなければ、ヨゼファは闇に浸り切ったまま二度と光の差す場所には戻らなかったに違いない。


(貴方が居てくれたから、)


 その触れ合いや、言葉や仕草のひとつひとつに、生きることの喜びや素晴らしさを思い出させてもらえる。


 肩口に顔を埋められるので、その薄い唇の端から漏れる呼吸を服越しに弱く感じた。そうして彼の柔らかい髪が、頬に触っていく感触が好きだった。堪らなく。


 愛おしかった。


(愛している。)


「愛しているわ。」


 心をそのまま言葉にして、強く抱き返した。自分の力の強さを知っているのに、どうしても上手く加減が出来なかった。きっと痛いに違いない。だからごめん、ごめんなさい、と新しい涙を拭わないままで謝った。



「もっと……、」


 弱い声でスネイプが伝えてくる。

 一度身体を離して、聞き取るために向き合った。


「もっと、強く。強く抱いてはくれないか。」


 頬を、やや荒れている指腹で撫でられ、幾許か長くなってしまった髪を耳へとかけられる。

 髪は、いつの間にか感情に伴って伸縮するようになっていた。ヨゼファの心の動きに合わせるよう、毛先が弱く畝って彼の指へと触っていく。


「痛くして、消えないくらいに痕を残して欲しい………。」


 スネイプの喘ぐような訴えに、ゆっくりとした瞬きで返した。ヨゼファは左右に首を振る。


「そんなこと……、しないわよ。」


 頬に触っていた彼の指に手を添えて握った。


「どうかそんなことを言わないで。貴方を傷付けたくないわ。」

「それならば……、愛していると。」


 掌をずらして、指で唇に触れられる。瞼を下ろして、時間をかけて深く頷いた。


「何度でも……。喜んで。」


 今一度まなこを開いて、彼の望みを承る。


「セブルス、貴方が望んでくれるなら。…私は貴方を愛しているわ。私が死んでも、この想いは決して亡くならないネバー・ダイ永遠なのよネバー・ダイ……。」


 素敵な人、


 額と、鼻先とを合わせて擦らせ、唇にキスを贈る。

 重ねた唇を舌先でなぞれば緩く開いて受け入れてもらえた。黒い髪をゆっくりと撫で、心の限りに丁寧さを心がけて、彼に向かう無尽蔵の愛情を行為で伝えていく。その狭間、望まれたように吐息交じりで告白をした。



「愛している…。貴方を、貴方を愛して、愛しているわ。……本当に、素敵な人、」



 スネイプが彼女リリーへと向ける愛情が永遠であるならば、自分の心もまた永遠だった。

 何年もの間、最早愛情と執着の境が分からないほどに想って、きっともう、気が触れてしまっている。

 ずっと見てきたから。

 その真摯さと義理堅さをヨゼファが一番に知っている。だからこそ、自身が報われないことを理解していた。初まった時から初恋と失恋は絶え間なく、幾度も幾度も目まぐるしく繰り返されている。

  

(絶望しない自信なんかない。)


(きっと辛い。)



 それでも求められれば心から肉体まで、指や目玉などの血肉まで差し出すことを躊躇しないのは、全てをまったくの無意味だとは思わないからだ。



(貴方が、リリーへと捧げた愛情が決して無駄ではないように。)



「セブルス、貴方は私にとって特別なのよ…。」



 両頬に手を添えて、ごく近い距離で囁いた。

 濡れた黒い瞳の中に、自分の姿がある。見てもらえている。いま一時だけは、彼は自分だけを見つめている。

 このいやらしく重たい愛情を晒しても拒絶されないことは喜びだった。憧れに加えて、信頼を抱くに至った。


 暫し互いを眺め合ってから、ヨゼファの胸の上にゆっくりとスネイプが頭を預ける。抱き寄せると、自然に笑みが溢れた。



(どうしよう、あまりにも愛おしすぎる。)


 過ちからしか学ぶことが出来なかった人生の中でも、この男性を愛したことは間違っていないと確信を抱けた。人を愛することの尊さと幸せを教えてもらったのだ、それはヨゼファが生きる上で軸となった信念である。



(出会えて良かった。)


(生まれてきてくれて…本当に、ありがとう。)



 今でも、壁と人に閉じ込められて逃げ場を失っていたこの手を…痩せこけた腕を引いて、彼が自分を連れ出してくれたことをより鮮明に思い出すことが出来る。

 そうして少しの間そのまま腕を繋げて歩いてくれた。本当に短い距離で、短い時間だった。

 けれどもその記憶こそが、また明日の出発にも光を与えてくれている。



 きっと私にとって彼は、彼を愛することは、希望なのだと思う。

 だから私は誓ったのだ……。

 愛されずとも、

 愛し抜くことを。








 滞りなくとはいかないながらも一年を終え、ホグワーツから自宅までの道程を得て…そうして眼前に広がっていた景色を眺め、ヨゼファは数度ゆっくりと瞬きをした。


 時刻は夜だった。しかし夏季、日が長くなった周囲はまだ仄かに薄明るく、哀れな様に成り果てた彼女の家の姿をよくよく認めることができる。


 ヨゼファはひとつ息を吐いて、壊された壁から家内へと足を踏み入れる。

 外と中とを隔てる壁面はそのほとんどが瓦礫となって地面に崩折れていた。

 天井はどこに行ってしまったのだろうか、と考えながら、ヨゼファは水色の闇が滲み出した空を見上げた。屋根を支えていた柱だけが樹木のように真っ直ぐに地面から生えている。

 どうやら火を放たれたようだ。家具は黒く煤けて見る影もない。


 骨芯を半ば剥き出しにしてるソファに誰かが腰をかけ、壁がなくなった屋内からよく見通せる水平線を眺めていた。

 昇り始めた細い月を逆光にしたその優雅なシルエットを、ヨゼファは薄闇に目を凝らして観察した。


「私じゃないよ。」


 彼女はヨゼファに背を向けたまま言う。そうして立ち上がってこちらにかんばせを向けた。


「私が来た時には既にこの有様さ。お前、新聞は読んでいるかい。」

「一応。でも最近、読む暇がなかったかも…」


 ヨゼファはとりあえずの言葉を、ベラトリックスへと返した。


「ひと月前。」


 彼女はすっかりとヘタれている新聞を一揃いヨゼファへと投げてよこす。


「お前が死喰い人で投獄されていたことが、すっかりと衆目に明らかになったようだね…。」


 ベラトリックスの言葉を聞きながら受け取った新聞を開き、ヨゼファは一面を認めた。しばらく白黒の紙面の上で同じ動きを繰り返す自分の写真とセンセーショナルな文句の見出しに目を留めた後、彼女は肩をすくめた。


「もう少し美人に写ってる写真を使ってもらいたかったわ。」


 そう言って、造りの丈夫さ故に形を留めていた『最後の晩餐』の上にそれを放る。


「まあ良かったじゃないか、怒れる正義の魔法使いたちにお家を模様替えしてもらったんだろう?すっかり有名人になったね、ヨゼファ。」

「貴方に比べたら、まだまだ…。それにこれは模様替えというよりもリフォームの域よ。」

「随分と風通しが良くなったね。」

「良くなりすぎ…。これでは寒くて風邪を引いてしまうわ。」


 ベラトリックスはヨゼファの傍へと距離を詰めた。

 その動きが急だったので、ヨゼファは曖昧に笑ってから少し後ろに退く。


「なんにせよ…ベラ。久しぶりね、長いことご無沙汰して悪かったわ。」

「一日は長いけれども一年はすぐだよ。大した時間じゃぁ…なかったね。」


 声を潜めて、二人は言葉を交わした。

 垂れた前髪に隠れたヨゼファの右目へと、ベラトリックスは探るような視線を向けてくる。

 彼女の長く淑やかな指が、こちらへと伸びた。ヨゼファはそれを拒まず、ただ行先を見守る。


 ベラトリックスはヨゼファの黒いローブの上から胸に触れ、少しの間そこを撫でてくる。先ほど少し開けた距離は既に元のように詰められ、彼女はヨゼファの耳元に唇を持ってきては呟いた。


「随分……、らしくなったね。」


 黒い服越し、ほっそりとした五本の指に絡んでいくように形を変える自分の乳房を眺め、ヨゼファは小さく息を呑む。

 ベラトリックスの掌の上に手を重ね、「ダメよ、」と彼女と同じように静かな声でその行為を止める。


 二人の顔の距離は、ほとんど鼻先が触れ合うほどに近かった。

 青白い月の光がベラトリックスの白い肌と黒い睫毛、紅い唇の色を、それぞれ高いコントラストで魅せている。


 自らの唇に接吻を受ける間際、ヨゼファは彼女と自分の狭間に指を置いてそれをやんわりと拒否した。


「ベラ……。貴方、結婚してるでしょう。ダメよ。」


 指の腹で彼女の真っ赤な唇に触るので、皮膚に鮮やかな口紅の染色が移っていく。

 ベラトリックスはヨゼファをめ付けるが、声色は相変わらず淑やかで艶があった。


「私とあの男との間に、愛情などはない。」

「では貴方、私のことを愛しているの。」

「まさか。あり得ない。私の全ての心はたった一人のお方のために。」


 ヨゼファは弱く笑い、年上の友人の額に唇をほんの僅かに触れる。彼女の身長は幾分も昔に超えて久しかったから、それは容易く行えた。

 そうしてようやく身体を離そうとするが、腕を、彼女の艶やかな黒い爪に飾られた掌で掴まれて逆に引き寄せられる。

 ごくごく近しい距離のまま、ベラトリックスはヨゼファの青い左目を見据えて囁いた。「ヨゼファ、」と名前を。


「お前……、良い・・耳飾りをしているね。」


 そうして空いている方の手でヨゼファの耳を飾る透明な菱形の飾りに触れた。

 次の瞬間、その場所から熱を含んだ激しい痛みが突沸じみて湧き上がった。突然のことに、ヨゼファは辛苦と驚きに由来した呻き声を上げる。

 耳から毟り取られた小さな菱形は、ベラトリックスの掌上の血溜まりの中で月下の青さを反射させて光っていた。


 その様を眺めながら、ヨゼファはこれをスネイプに贈ってもらった日のことを思い出す。

 購入したのはほとんど露店のような小さな店だった。選んでくれたのだ、自分に似合うものを。幸せな、ささやかで、本当に幸せな時間だった。 


「言葉を撤回するよ、ひどいジュエリーだ。」


 ベラトリックスの言葉に、ヨゼファは思考を現実へと戻す。

 裂けた耳が鋭く痛んでいた。熱にうなされたように頭がクラクラとして、よく回らない。


「粗悪で劣悪で、邪悪とすら言える。低俗なものを私に見せるんじゃないよ……、本当に。吐き気がするから。」


 彼女は強い力でそれを瓦礫が散乱する床に打ち付けた。

 ヨゼファはそれを留めようと腕を伸ばすがひと時が足りず、ガラスが砕け散る高い音を耳に覚える。


 …………耳朶に指で触れると、血液がしとどに垂れているのが分かった。それが肩口の服や襟から覗く白いシャツを汚しているらしい。

 呆然とするヨゼファの頬に、ベラトリックスの指が触れては撫でてくる。弱く爪を立て、また優しく撫でられた。

 刹那、傷口に覚えた生温い感触と激しい痛みから思わず声を上げた。耳殻に触れていく彼女の舌の愛撫に肌が粟立つ。ヨゼファはやめて、と悲鳴に似た声をあげてその肩を掴み、身体を無理やり自らから離した。


 細めた視線をこちらに投げかけたベラトリックスの紅い唇の端から、同じく紅色の血液が一筋垂れる。そうして彼女はヨゼファの逆側の耳に残されたもうひとつの耳の飾りを、今度はそろりとした優しい手つきで取り去った。

 ベラトリックスの指先に揉まれ、ガラスの飾りは細かい塵となって消えた。キラキラと光って、夜の薄暗さの中へと流されていく。


「……………。誰に、許した?」


 掌中から消え去っていったガラスの屑を目で追いながら、ベラトリックスが質問した。

 ヨゼファはその意味を分かりかね、口を閉ざしたままだった。


「誰に肉体を許したと聞いているんだよ!!!よくも恩を忘れて、やってくれたね・・・・・・・!!!????」


 今までの静けさとは打って変わり、唐突に激した彼女の有様にヨゼファは反射的に身を震わせた。


「誰だ!!??名前を言え、殺してやる、お前もその男も殺してやるから!!!!!!」


 怒りに駆られたベラトリックスが、黒い爪に飾られた指を、二本のしなやかな腕をこちらへと伸ばして掴みかかる。それはヨゼファにとっては然程問題にならない攻撃だったが、烈した彼女の激情に気圧されて二の句を告げることが出来なかった。

 耳から噴き出す血液は止まらず、今だに首筋から肩にかけてを赤く汚し続けている。

 そこにひやりとした空気が触った。否空気ではなく、ヨゼファが冷たいと感じるほどに凍てついた熱を持つ、何者かの……


 背後から、彼はヨゼファの耳朶に触れていた。

 傷が癒え、痛みが退いていく。


 ベラトリックスもまたその存在を認めて、掴み上げていたヨゼファの服から、緩慢な動作で手を離す。

 彼女がこうべを垂れる様を認め、ヨゼファは小さな笑みを漏らして囁いた。


「相変わらず、お優しい……。優しい方でいらっしゃる。」


 ヨゼファは肩越しに彼の赤い眼を見据え、そうして身体を反転させて向き合った。

 少しの間、お互いがお互いの瞳の中と胸の内を視線で探り合っていたが、やがてヨゼファは瓦礫だらけの床へと膝をついては彼を見上げた。


 辺りは青い闇である。黒い海が、飛沫を崖へと巻き上げる音がした。低い海鳴りがその上へと重なって響く。崖へとぶつかる波は、露出した岩肌を舐め取っては海底へと引き摺りこんでいくのだろう。削れた岩石が、黒い闇を湛えた水面へと堕ちていく気配を覚える…

 過っていく風に前髪を払われたヨゼファは、彩度の低い赤と青の瞳を弓形にして笑みを作り出し、差し出された手を取った。


「お久しぶりです。我々の心、我が君。」


 彼の手の甲に唇を落とせば、やはりそこは冷たかった。ヨゼファは良かった、と閉ざした心の内側で思う。

 名前を言ってはならない魔法使いこの男に比べれば、自分はまだ人間らしい体温を保つことが出来ているらしい。



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