◎ ハッピーエンドに憧れて
緩く浮上した意識の中で、白い光が瞼に眩しいと感じた。
感覚的に、今が昼過ぎであるとスネイプは察する。眠っていたというよりは気絶していたのだろうか。休息を得た感覚はなく、むしろ疲労感ばかりが澱のように溜まって起き上がることができなかった。
(夕刻のコマに、五年生の授業がある。)
仕事すべき時間が平素よりも遅いのは幸いだった。
生徒たちの学業はこの混乱の最中でも優先すべきものであると彼は考えていた。学校の日常と平穏が脅かされている今だからこそ、予定を違えず粛々とこなしていくことが重要である……、と。
(成すべきことを為さなければ)
しかし肉体は重たかった。
鼻腔に運ばれる空気は生臭く、汗とも体液ともつかないものに塗れたシーツは不快である。
この場所でなにが起こったのか…自分がなにを起こしたのかを思い出すうち、これを最悪の目覚めだと理解した。
当たり前だが、隣にこの部屋の主の姿は無い。
無意味に手を伸ばし、そこにいるべき彼女の輪郭を中空に探した。やがて腕を上げていることに草臥れてシーツの上に落とす。薄く目を開いて、落とした先を見た。
ハ、として身体を起こす。ベッドを汚していたのは自分の体液だけではなかった。既に褐色になって久しい血痕がべとりとそこを汚している。
なにも言わずに…その生乾きの血液を指でなぞった。痛いか、痛かったか、と今更ながら胸の内で労わるように。
とにかく、べとついた身体が不快だった。
(ああそうか、)
いつもはヨゼファが汚れを清めてくれていたから。
そうか、そういえばそうだった。とぼんやりと頭の中で繰り返しながら、彼女の私室のバスルームを拝借する。
シャワーを浴びている間もどこかぼんやりとして、なにを考えるのも億劫だった。
頭から被った温い水が、排水口へと吸い込まれて行くのをただただ眺める。
バスタオルで適当に身体を拭って…しばらく裸のまま、また、ベッドに腰をかけた。
室内には生臭さが充満して鼻が曲がりそうだった。
外はよく晴れているらしい。透明色の乾燥した光が、斜めに部屋へと差し込んでくる。
彼女の服はほとんど元の形状を保たずに床に散らばっていたが、自分のものは全く問題なく着ることができたから、それに腕を通した。
髪は、まだ少し濡れている。
結局ヨゼファの寝室を整えることもせずに、スネイプはそこを後にした。
ドアを開ければ彼女の個人的な作業部屋だ。
ヨゼファの家にある『最後の晩餐』と同じように大きなテーブルがあって、製図用の使い込まれたコンパスがいつもの場所に常の角度と違わず置かれている。
白、茶、斑ら、様々な種の鳥の羽ペンが、陽の光を受けて柔らかな輪郭を細かい埃で光らせていた。
色褪せた革張りのソファが向かい合って二脚、その間に低いテーブル。
ここに向かい合って座り…時には隣り合って……。なにか、色々と話をした気がする。よく喋る彼女と付き合ううちに、自分のことも少しずつ話して、聞いてもらったのだ。
書きもの机の脇に据えられている書架に収められた本へと指先を滑らせる。
どれも古いもので背表紙から内容の判別は不可能だった。だが全く埃の気配が無く……、古いながらもよく、手入れされて使われている。
その中、最も使用の痕跡が色濃い小さな書籍を抜き取った。中身は彼女の日々の予定が簡潔に書き留められた手帳であることを知っている。そうして…ついでのように、一日の出来事が短く記されていることも。
毎日の講義、補修、ささやかな茶話会のスケジュール…。その横には生徒たちに関わる些細なことが書き留めてある。
今日も私の授業には眠り姫が三人。ナノン、アレクシア、ジャド。でも成長期って眠たいものだわ、無理に起こすのも可哀想。
彼らの長兄が卒業して久しいウィーズリー兄妹だけれど、あの双子の個性の強さは一体どうなのかしら。他の子たちはほとんど手がかからないのにね。将来確実に大物になるわ。
20:00にお茶会------ 不思議なものね、私はそんなに相談しやすいのかしら。彼女や彼らの淡く切ない恋の悩みに応えられるほどの経験や知識なんて無いのだけれど。泣いてしまって、可哀想に。チョウの立場はとても複雑だわ。 無限頁の魔術が使われていた。だが日付を捲っても捲っても、自らの名が記されている頁を見つけることができない。
ついに、自分と彼女が再会した、
あの日付へと至る。
だがやはり、以前目にしたときと同じように、そこには続く日常の延長だけが書き留められていた。
凝視しても、なにも変わることはない。思わず眉根を寄せて唇を噛む。
彼女の手帳を閉じ、……そうして、今一度開いた。
は、と思った。
真っ白だったのだ。
先ほど細かい文字でぎっしりと埋められていた頁の全てが、ぽっかりと空白だった。
その最中、たった一言が走り書きされていた。
瞬きをして、もう一度書籍を閉じる。
もしやと考え、逆方向…左から開く。何度か目にした、細かい文字が連なった予定帳の姿がそこにはあった。
そうして、更にその逆…右から開いた。頁は白かった。なにも記されていない。
どう言うわけか、鼓動が早く浅い。日付のみが無機質に打刻された真っ白いページを、ゆっくりと指で右から、左へ。右から、左へ……
先ほど偶然開いた頁だ。衝動的に書いたに違いない。黒いインクが掠れて、文字は乱れていた。
ごめんないお母さん、私は善い魔女になれなかった 暫しそれを視線でなぞり、弱く嘆息して、次の頁へ。次の……
二人が再会した日付を、彼は覚えていた。そこへと至る。
やはりその頁にスネイプの名前はない。けれども幾行か言葉が連なっている。それが自身のことを記しているのだと、気が付かないわけがなかった。
いつでも彼女は自分のことを見ていた。学生時代から…言葉が無くとも、否無い分、その眼差しは熱を持ってこちらに注がれていた。
そのヨゼファが、スネイプとの再会になにも思わない筈はない。
久しぶりに、あの人に会った。
私のことを覚えているような、いないような。
多分覚えていない。
そうで無くても、彼は今、とても大きな絶望の中にいるから。
でも貴方は、辛い道を、苦しみを、長い間、、とてもよく堪えて、ここに来てくれたのね。
嬉しい。本当に嬉しい。これは特別なことだ。
私がして欲しかったことを、うんとしてあげよう。
貴方が辛い時、苦しい時、それを取り除ける力を、神さま、私にどうか
時間も手間も体力も、惜しいものなんてなにもない、、
だから今度こそ、私は善い魔女に、、、 透明色の光が、大きな窓から斜めに差し込んでくる。
空白だらけの手帳は、日光に晒されて弱く光っていた。
スネイプは今一度…彼女と再会した
この日を思い出す。
ヨゼファは気が抜けたような笑みを浮かべ…丁寧が過ぎる畏まった口調で、『よろしくお願いします。』と手をこちらに差し伸ばした。
その手は冷た過ぎる上に握ってくる力が強かった。そうして、こちらを見つめる瞳は冷え冷えとした青である。青の奥に、深い色の炎が宿っていた。情念の色だ。その目で、ずっと…ずっと見られていた。あの日から、否…更に昔から、今日の日まで。
小さな手帳を片手にぶら下げたまま、スネイプはゆっくりと踵を返していく。踏み出す足取りもやはり緩慢で、しかし、一歩ずつ、ヨゼファの寝室へと再び近付いていく。
そうしながら、自分の今までの人生は何なのだろう、と彼は考えた。
深く、あまりにも深く愛した女性は自分ではない男を望み、それでも助けたいと…たったひとつの願いすらも叶わずに、彼女は死の腕に抱かれてしまった。
人々は自分のことを疎んじて、才能を認めようともしない。この身体を、精神を虐め抜いて傷付けた者たちが正しいとされていた。
実の父母はこの存在を眼中にも入れてくれなかった。だが、今思えば、
彼らは彼らの事情があまりにも苦しかったのだ。
だが苦しみは他人を傷付けて良い理由にはなり得ない。どんな事情があろうと、誰かを傷めつけて自尊心を保つことを正当化して良いものか。
だが自分はまさにそれを、蔑んだ両親と同じことを行なった。
自分というものが、人間という正義が、どんなものかを思い知ったのがスネイプの今日までの人生だった。
閉じられていた寝室の扉、真鍮製のノブに手をかけ、下ろして、開ける。
ドアを開くと、今一度強い悪臭が鼻腔をついた。
だが乱れたベットの上には、広いヨゼファの執務室と同じように陽の光が柔らかく差し込んでいる。
目を細め、その透明色の光を眺めながら…やはり緩慢な足取りで、血痕が残るベッドへと至る。
「……どうすれば良い」
胸の内に留めるつもりが、小さく声に出ていた。
ヨゼファのベッドとは思えないほどに汚らしく乱れたそこを見下ろし、見ていられなくなって目を逸らす。
『やめて』 弱い声で零された、ほとんど初めての拒否の言葉が耳を掠めた夜だった。その時は聞いてなどいなかったが、今更それを思い出す。
「………どうすれば良い、」
同じ言葉を繰り返して、口元へそろりと指先をやった。
「リリー、一体…僕は、どうすれば良い………、」
人間など、不幸せになるために、この世に生まれてきたものだ。
忽然と、それを理解したスネイプは瞳の奥が熱くなるのを感じる。涙が一筋垂れた。右手には、まだ、ヨゼファの手帳がぶら下がっている。
薄く濡れた瞳を巡らせて、よく見知った彼女の部屋を見た。
ベッドの傍のサイドテーブルの上、細く青いリボンがかけられた、片手に収まるほどの白い箱に目が止まる。
なんだろう、とぼんやり考えた。その横に小さな銀盤が置かれている。彼女が人とコンタクトを取るために使用する薄い金属の板である。魔法陣が細い線で彫金されている。
手帳をサイドテーブルに置き、代わりに白い箱を持ち上げて青い光沢のリボンを解く。厚みのある蓋を開けると、藍色のベルベット地の中に黒色の万年筆が寝かされていた。銀箔の細い線が二本、艶のあるペン軸を装飾している。
必要なときに 手帳の傍の銀盤に、ただ一言だけ綴りが浮かび上がった。言葉は暫く白い光の粒を辺りに弱く零していたが、やがて窓から差し込む光の中へと溶けて見えなくなる。
スネイプは今一度、持ち上げた黒い万年筆へと視線を落とした。
『いつも贈られるものは消えてしまうものばかりだ。』 そう……、彼女の家で過ごした数年前の夏のバカンスで、自分は言ったのだと思い出した。
『形に残るものが、欲しい。』 ------------------聞こえますか? ヨゼファの声がする。
いつの言葉だろう。まだ、ここに戻って日の浅い時だ。
フランスから帰ってきたばかりのヨゼファに黒い森から連れ出されて……
高熱に魘された自分はこの、今は見る影もない彼女のベッドで眠っていた。
彼女は冷たい掌で額に触れ、小さな声で語りかけてくる。
聞こえますか、聞こえていないと良いんだけれど。と、ほとんど囁き声で。
苦しいものよね、一度暗がりに落ち込んだ人間が、再び明るい場所へと戻るのは。 ヨゼファはスネイプの額の温度を確認してから、濡れたタオルで汗を拭っている。その最中、独り言のように声を漏らしていた。
それとも、貴方の苦しみは別のことが由来かしら。きっと両方ね。私と貴方は違うけど、似ているから。どうしても気持ちが分かってしまう。
私は貴方のことを愛している。でも、
こんなに力になりたいと…少しでも気持ちを楽にして欲しいと思ってしまうのは、きっと貴方に自分を重ねているから。
同じように、高熱を出したのよ。闇の印を隠してくれる隻眼の樹に不用意に触れてしまって。必死だったから。
あの時の心細さと言ったら無かった。世界中で一人になってしまったような気がした…… 消えてしまいたい、といつも思っていた。 貴方を助けることは、私の過去を助けることだから。
どうか貴方に優しくすることを、許して欲しい。 手を取られた。冷たすぎる掌が恐る恐る、躊躇に躊躇を重ねて、スネイプの手を握ってくる。
望んでもらえるなら、必ず…どんな場所からだって戻ってくるわ。
傍にいる、決して一人にしない。
今の貴方がどれだけ孤独でいるかを私は知っている。
私はずっと、貴方の味方でいるから…覚えていて。 貴方のことを、愛している。 その冷たすぎる体温とは比べ物にならないほど、熱を含んだ声で、眼差しで…彼女はいつも、自分への愛情を言葉にしていた。
「ヨゼファ、」
彼女の名前を呼んで、虚ろに光る銀盤を手に取る。「ヨゼファ、」と今一度そこに呼びかけた。
「ヨゼファ、聞こえるのか、ヨゼファ、、聞いているのか、、!!」
繰り返して呼びかけるが、そこから返事がなされることはない。
苛立ち、思わずそれを床へと叩きつけそうになった。しかし堪えて、薄い金属の板を懐へと収める。
(必要なときに……)
その言葉を思い直して、気持ちを鎮めた。黒い万年筆もまた、箱には戻さずにローブの中へと。たかがこれだけの小さなものふたつを身に付けただけなのにも関わらず、重たいと感じた。
(……重くないはずはない…)
ヨゼファの愛情は重い。
だが、自分も余程だと思う。
こんな自分だからこそ、ヨゼファもその穏やかな人相の下にある本当の気持ちを晒して向き合うのだろう。
多くの人間が、生徒が…彼女の出身寮を聞くと驚く。
だがヨゼファは典型的で模範的なスリザリンの学生だ。
その一面を知るのは自分だけである。どれだけ親しい人間も…彼女が信頼を寄せるダンブルドアも…その母親すらも、決して全てを与り知らない。
窓からは、透明色の日差しが室内の空気を金色に染めて差し込み続けている。
そこを開いて、外の空気を取り入れた。篭って淀んだ空気を入れ替えるために。
ベッドは相変わらず汚れて、床にはヨゼファの衣服の残骸が散らばっていた。
それを拾い上げ…シーツを剥がし、マットにまで汚れが至っているのを認めて目を細める。
(……早く洗い流さなければ)
そう考えるが、そろそろ戻らなくては自身の授業に間に合わないことに思い至る。
夜にまた戻ってこようと考えた。せめてこの部屋を清めて、彼女が帰って来た時に身を休めることができるように。
「一人にしないと、言っていた…。」
言ってくれた、と言葉を続け、部屋の一角に行儀よく揃えられて置かれている、青色の靴に視線を留める。
彼女はまだ、数えるほどしかこれを履いていない。この靴は、特別な時にだけ履くと言っていた。……二人で、出かける時。
「どんなところからも、必ず…帰ってきてくれると。」
私のところに、
靴を手に取り、足首に留める華奢な飾りに触れた。ゆっくりと、胸にそれを抱く。
………スネイプの自室には、随分と昔に彼女から贈られた紙の花が薬瓶の中に収まって未だに置かれていた。
それを眺めながら、五年間の月日を待った。
そうしてヨゼファは帰ってきた。
だから今回も待とうと思った。帰ってきてくれる筈だ。
一度も約束を反故にされたことはない。ヨゼファにとっての最優先はいかなる時もスネイプだった。
(ヒーローのように)
望めば、駆けつけてくれた。
(だが、自分がしてしまったことを思うと、分からない。)
(帰ってくるとは思う。だがそれは私の元ではなく、このホグワーツへ、かも知れない…。)
「それでも………」
ヨゼファ、
私も同じだよ。
想像の中では、妄想の中では、彼女に優しく語りかけることができる。
私も、君の寂しさや苦しみがよく分かる。
その傷付いた身体を労って、素直に心を言葉にできる。
「いさせてくれ、」
一緒に、
「ヨゼファ」
青が…青色が、
貴方にはよく似合う。
そうして、それよりもっと白が似合う。清純な白色が……
美しい
女、
一度も着飾ることをしないで生きてきた貴方に、いつか、白色の涼しげなドレスを着せてあげたい。
髪を銀色の装飾で飾って、青色の花束を贈ろう。
青色の花の意味は、
「ありがとう。」
そうしてもうひとつ、
貴方のことを
「私は、」
*
*
こんにちは、
ねえ、貴方は私のことを知っているかしら?
あら、そう。
それでは Enchantée -初めまして- , Monsieur
ねえ、私はね、どうやら死んでしまったようなのよ。
ママは私を生まない選択をしたの。
ねえ、でも私は生まれてきたいわ。
この世界がどれだけ悲しさと哀しさで満ちているか、私はママを通してとても多く知っているけれど。
悲しくなければ、心まで冷え込んでしまうのではないかしら。
哀しくなければ、生きている意味なんてないんじゃないかしら。
そうして涙が無ければ、愛することも分からないわ。
ねえ、私は生まれてきたいの。
そうして貴方に会いたいわ。
ママの次に、私を抱っこしてくれるのは貴方でしょう?
- Mon père -
**
「セブルス!!!」
ほとんど夏休みを迎えようとしていた学校の静けさの中、ノックもなしに開けられたドアの音はなかなかによく響いた。
部屋の主であるスネイプは、騒々しく開けられた自室の扉の方を怪訝な表情で見る。
開く勢い余って重い扉が石壁に激突するので、その振動で杭に引っ掛けられていた釜が三個ほど床に落下して派手な音を立てた。
マクゴナガルはその方を見て、瞬きをしては「…失礼しました。」と一応の謝礼をする。
だがそれまでで直すことはせず、室内のスネイプの方へと歩を進めた。
何事かと彼が老齢の美しい魔女へと質問しようとする前に、マクゴナガルは珍しく焦った声色で「ヨゼファが、」と口にする。
「セブルス、ヨゼファが帰ってきたのを知っていますか…!?」
彼は数回ゆっくりとした瞬きを行い、「…いや……?」と表情の怪訝さを一層深めて応答した。
「知らないなら仕方がありません、今まさに、ですから。ヨゼファは帰ってきたのですよ。アルバスも一緒です、彼が教えてくれました。ですが彼女の姿だけ見当たらない…!今すぐにヨゼファの力が必要…、いいえ、それをさておいてもあの子の姿が見えないんです、貴方なら見当がつきませんか?ヨゼファの居所が……」
早口で告げられていくマクゴナガルの言葉に、スネイプは着座していたテーブルから立ち上がっては「……ヨゼファが、」と呟いた。本当に、と独り言を続けて。
「…………失礼ですが…ヨゼファ先生の、私室は調べられましたかな。」
「確認しました。当たり前です、」
「教室…、または図書室」
「姿は見えませんでした。」
「それでは厨房。確か焼き菓子のストックをよく失敬しに行っている……」
「……あの子そんなことしてたんですか。」
「いや、それよりも、、」
最後まで言葉を終えないまま、彼はその場から素早く歩き出した。マクゴナガルは面食らったようにその背中を見送るが、やがてハッとしたようにそれに続く。
地下のスネイプの私室から石の階段を登りきり、地上階へ。
アンブリッジの恐怖政治から解放されては夏休み前の空気をのんびりと楽しんでいた生徒たちは、二人の寮監教師が足早に…ほとんど走って廊下を過っていく様を不思議そうに眺めていた。
だがすぐに元のように、友人同士の会話へと戻っていく。
いつものように、廊下は生徒たちの明るい話し声で満たされていた。
ちょうど初夏の光に照らされた装飾的な窓は、校内の仄かな暗がりの中へと光を忍ばせてくる。
このように人が多く、賑やかで楽しげで明るい場所に今のヨゼファはいないとスネイプは知っていた。
人の中で心の底からは安らげない人種なのだ、
自分たちは。
(もっと、人がいなくて……)
だが、
学校はどこにも必ず人の気配がある。
二人三人、あるいは四人五人、固まって言葉を交わし、各々の鮮やかな青春を積み重ねて謳歌している。
それが出来ない自分たちが身を落ち着かせられる場所は限られていた。
----------------この場所はね、学生時代の…友達がいない可哀想なヨゼファちゃんの秘密の場所だったのよ。 柔らかな陽が広がる緑の芝へと解放された巨大な扉に至り、外へ出る。
茂る草から覗く赤土にも薄日がさして、古色蒼然たるホグワーツの石階段には苔の青色のさびがある。
後ろからついてくるマクゴナガルへの気遣いをほとんど忘れて、スネイプは石段を二段ほど抜かしては黒いローブを風に泳がせて走った。
走る彼の傍を一樹、思うままの針葉樹の枝ぶりが過っていく。
渡る風に、サラサラと静寂な響きが混ざってくるのが聞こえた。-----------水場が近い。
だが、共に度々歩んだ湖畔に彼女の姿は無かった。
立ち止まり、目を見張ってそこを確認する。変わらず、飛び石が影を青い水面に沈めているのが見えるだけである。
(いや、)
それでも、一度留めた足で青い草を踏み分けて歩み出す。
----------------この場所はね、学生時代の…友達がいない可哀想なヨゼファちゃんの秘密の場所だったのよ。 よく晴れた日和だと言うのに、湖畔の空気はいつもと変わらずひやりとして冷たかった。
水気を孕んだ風が、スネイプの黒いローブの裾へと触っていく。
すり鉢状で奥まってるからいじめっ子にも見つからないし、静かですごく綺麗。 風は、昼でも黒い森の方へと渡っていった。ざわざわと樹々が揺れる音が、へんによく聞こえる。
週末の晴れてる日は一日中ここでぼんやりしてたものだわ--------------- 「--------- ヨゼファ!!」
スネイプがその名を呼ぶ前に、後ろについてきていたマクゴナガルが彼女の姿を認めてほとんど叫ぶように言った。
そうして彼のことを追い越して、よく見覚えのある背の高い黒いシルエットに向かって走っていく。
ヨゼファは呼びかけに応じて、こちらを…少々、面食らった表情で振り返った。だが、すり鉢状の斜面を転がるようにやってきた母娘ほど年の離れた魔女を認め、彼女の細い身体を腕でしっかりと受け止める。
パチパチと数回瞬きをして、ヨゼファは自身の胸の中に収まった魔女のことを見下ろした。幾分か伸びた前髪が、その右目を隠している。
彼女が何かを言おう開いた唇が言葉を成す前に、マクゴナガルが「ヨゼファ、、」と再びその名前を呼んで双肩を掴んだ。
「ああ、ヨゼファ…!!本当に無事で、ひとつも連絡を寄越さないなんて貴方もアルバスも飛んだ薄情な……!いえ、今それはどうでも良い、」
マクゴナガルは息継ぎ、風に煽られて乱れた髪を抑えては再びヨゼファのことを見上げる。
ヨゼファは相変わらずきょとりとした表情で、細く筋の正しい彼女の身体を抱き留めながら、珍しく取り乱したその様子を見守っていた。
「なにも、ヨゼファ。なにも気にしなくても良いんですよ…!貴方が今まで、どんな道を歩んできた魔女だろうと…貴方はここの先生です。この学校が、貴方の居場所ですから…っ 忘れないでください、」
強く自らの肩を掴み続けるマクゴナガルの掌に、ヨゼファはそっと手を重ねた。
「…………ミネルバ?」
そうして、彼女の名前を囁くように呼ぶ。
二人の魔女はそのまま暫し無言で互いを見つめ合った。
やがて、マクゴナガルが弱く溜め息をする。二人はそのままなにか言葉を交わすが、ひどく小さな声だったためにスネイプは聞き取ることができなかった。
「すみませんヨゼファ…。驚かせました。……、貴方に言いたいことは山のようにありますが…それより、帰ってきて早々ですが力を貸してほしい。……ハリーが、いいえ、歩きながら話しましょう。さあ急いで、」
マクゴナガルは気を取り直して姿勢を正し、ヨゼファの腕を引っ張って湖畔の斜面を登り始めた。
ヨゼファはそれに従いながら、小さな声で「ハリーが…?」と呟いては神妙な面持ちになる。それは教師の表情だった。
二人が立ち尽くすスネイプの脇を通っていくとき、彼の黒い瞳とヨゼファの青い瞳は触れるように互いを認めた。
だがそれだけで、すれ違っては歩みを止めることはしない。
スネイプもまたそこに立ったままで、ホグワーツの校舎へと戻っていく彼女たちの背中を見送るに留まった。
風が……
冷たい風が、弱く吹いていた。
スネイプはゆっくりと瞼を下ろして柔らかい陽光とそれとに感じ入る。
瞳を開け…、あの日から今日まで胸の中に仕舞い込んで携帯していた、銀色の小さな円盤を取り出した。
細い線で刻まれた魔法陣が弱く光っている。
後で 白い文字が、弱く光ってそこには浮かんでいた。
眉根を寄せて眺め続ける。
私の、部屋に やがて光の文字は消え、円盤は元の鈍色へと戻っていく。
それを胸中に収め、先ほどの彼女たちと同じように……スネイプもまた、ホグワーツへと戻る道を辿り始めた。
*
自分からの罰則を待たされている時の学生も、このような気持ちでいたのだろうか。
通い慣れたヨゼファの部屋の椅子に腰掛け、彼女のことを待ちながら…スネイプは、ふとそう考えた。
乾燥した光が差し込む室内は、全てのものの輪郭が淡い金色だった。
金色の空気に混ざって、この部屋の主である彼女の香りが弱く漂っている。
ヨゼファが身につけている香水が、なんと言うブランドの、なんと言うものだったか…もう、知っている。薄い山吹色の細い瓶に入れられたパフュームだ。ミモザの匂いを基調としている。
だが、全く同じものを購入して個人的に使用しても、彼女と同じ匂いにはならなかった。やはりその皮膚に触れて反応させなくてはいけない。
会いたい時に姿をくらませるヨゼファを探して…探して探し、疲れてはこの部屋に戻って今座っている椅子に腰を下ろした。すると数分と待たず、背後から声をかけられる。日が落ちていれば、首に腕を回されて緩い力で抱いてくる。
「………早かったな。」
振り返らずに、言葉をかけた。
ヨゼファが弱く笑うらしい気配を、背中越しに感じる。
「ご用事は…済まされましたかな。ヨゼファ先生。」
ゆっくりと身体の向きを変えて彼女の方を見た。
ヨゼファは瞳を伏せ、一度頷く。
歩を進め、彼女は座っているスネイプの傍まで至った。
然しながら一定の距離を保たれているので、腕を弱く掴んで近くに来るよう促す。ヨゼファは素直に従った。
「私のこと、迎えにきてくれたの。」
そうして目を細めて囁く。スネイプが黙っていると、「さっき…、」と言葉を補っては、どこか居住まいが悪そうに笑った。
それには答えず、スネイプは座ったままでヨゼファのことを見上げる。暫時、二人は口を噤んで沈黙していた。
「………身体、は。」
掴んだままだった腕を離し、手を伸ばして恐る恐る左肩に触れた。ヨゼファはそこに視線を下ろし、手を重ねてくる。
「もう…平気なのか…。」
「ええ、もう平気よ。」
ヨゼファは穏やかな口調で返した。そうして重なった掌を、握ってくる。
「、痛かったか。」
「………そうね。痛かったけれども、物凄くではなかったわ。」
スネイプが手を伸ばすのに従って、ヨゼファは彼が自分へと触れやすいようにと少し腰を下ろす。
冷たい頬に触れると、弱く溜め息をされた。
貴方のことを、愛している。「…………まだ、」
愛されているのだろうか、と、幾万回と繰り返された彼女の言葉を思い返しながら疑問に思う。
ヨゼファは頬へと触っている彼の青白い指にも再度手を重ね、ただ、心弱い笑みを浮かべた。
身体を起こし、彼女は大きな窓へと視線を向ける。
菱形に鉛線が渡る窓を眺めながら、ヨゼファはポツリと言葉を零した。「私はね……、」小さな声だった。
「私はね、貴方のことを愛した時間が…年月が、あまりにも長いものだから。それはもう、生きる理由とか人生とかと、同じ意味になってしまったのよ。」
彼女はスネイプの方に視線を戻さないままゆっくりと続けていく。
「だから私が私でいる限り、貴方を愛さない選択肢は無い。自分でも驚くほどに、私は貴方を深く愛し過ぎている…。」
そこで苦笑して、彼女は「どうしようもないわ。」と独り言のように言った。
「普通だったら気味悪がられてしまうか、気持ち悪がられてしまうほど。……異常なのかも。でもセブルス、貴方なら、私の気持ちを分かってくれるでしょう。」
ようやくこちらに視線を合わせて、ヨゼファは苦い笑みのままで目を細める。
「でも私は、貴方が望まないことをするのは本意じゃない。貴方には自分の人生を好きに、思うように生きて欲しいわ。だから……私のこと、もう待たなくて良いのよ。」
「……………。私は、」
それに、表情を変えずに返す。
再度開いてしまった距離を戻すため、両腕を掴んで引き寄せながら。
「私に出来ることは、待つことばかりだ…。」
手を伸ばせば、意思を汲んで腰を落としてくれた。
頬に手を触れてから、首に腕を回す。ゆっくりと行うつもりが、堪らず強い力で引き寄せてしまった。
ヨゼファは一時身体を強張らせるが、やがて力を抜いて身を預けてきた。スネイプの膝の上に腰を落ち着かせてしまった彼女は「重くない?」と相も変わらず小さな声で尋ねてくる。
「抱えられない重さではない。……決して。」
それに同じように小さな声で返しながら、彼女の冷たい身体を抱いた。
自分の肩口にヨゼファの頭を抑え込んでいるために彼女の顔は見えない。
「帰らないかと、思っていた。」
石壁に木の梁が渡された天井を仰ぎながら、喘ぐように心の音を漏らす。
思わず抱く力が強くなった。
「まさか。私が帰る場所はここしかないからね。可愛い生徒たちに愛想を尽かされてしまっても……」
「そんなこと、私が…私が、待っている。」
「ありがとう。セブルス…辛い思いをさせて、ごめん…ごめん、ね。」
ヨゼファは今一度ありがとう、と呟いた。謝るな、謝らないでくれ。とお互い視線を交えないまま言葉を交わす。
「私のこと、迎えにきてくれたのね。」
彼女は今一度、先ほどと同じ質問する。大きく頷いて、今度は答えを返す。
「私は…私が、迎えに行く。君を迎えに行くのは私の役目だから……。」
「………ありがとう…。私もね…、私も、呼ばれたらすぐに帰るわ。どんなところからも、貴方が私を望んでくれるなら、すぐ傍に。」
ヨゼファは身体を起こして、そっとスネイプの顔を覗き込んだ。まだ、表情は心弱い苦笑だった。
半開きの窓から吹き込む風が、彼女の淡い色の髪を揺らした。頬に手を添えられる。その感覚に感じ入って、ほんの少しの声を漏らす。
「そうね……。私はきっと…。」
ヨゼファは顔を上げ、窓の外を渡っていく鳥の方を眺めては穏やかな声色で言う。
「私はきっと孤独だから、恐らく孤独な貴方と一緒にいたいのかも。……情けないけれども、情けないほどに……、、私は、孤独だわ。」
柔らかい陽射しが、一筋垂れていく彼女の涙を静かに照らした。
こちらを見るように促せば、ヨゼファは僅かに異なる視高から彼を見下ろした。右目を隠す前髪を耳にかけさせると、左とは異なる赤色の
眼が顕れる。
濡れた青色と赤色の瞳の中…自分の顔が映り込んでいるのを眺めていると、スネイプの顔へとヨゼファの新しい涙が垂れた。
音もなく、スルスルと彼女の灰色の髪が伸びていく。それはスネイプの鼻先に触れて、所在なく微かな風に煽られた。
頬に添えられているヨゼファの手の甲には、黒い呪いの痕跡が及んでいる。上から掌を重ねて握れば、ほんの僅かにそれが引いたような心地がした。
鼻腔に馴染み深い彼女の香りを覚える。骨の髄に、この匂いを覚えさせておこうと思った。
スネイプは首を前に出し、声も嗚咽もなくただ涙を流すヨゼファの唇に口をつけた。
触れるだけに留めて、顔を離す時に今一度その瞳を眺める。………今も、昔も、ヨゼファは自分を見ていた。冷たい体温とは裏腹に、熱いほどの視線を注いでくる。
「君は美しい…。」
注がれ続けたコップから水が溢れていくように、自然に言葉が口をついた。
「君は、美しい
魔女だ。」
左右異なった色の視線を真っ直ぐに受け止め、繰り返して続けた。
ヨゼファは弱く首を振る。
そうして下ろした瞼の裏から、またひとつ、涙がこちらに降ってくる……。
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