骨の在処は海の底 | ナノ
 涙がこぼれたら

「そう緊張するでない。」


座らされたソファがあまりにもフカフカ過ぎて、身体が飲み込まれそうになるのを精一杯に留めていたヨゼファはダンブルドアの言葉に顔を上げる。

そうしていつものようにゆっくりと目を細めて笑った。言葉が不自由な現在、ヨゼファがただひとつできるコミュニケーションが笑顔である。社交的な母の教育の賜物か、彼女はどんな時でも微笑みを絶やさない術を心得ていた。

しかし眼前の老齢の魔法使いはそれに応えず、逆にこちらの瞳の中をじっと覗き込んでくる。

ヨゼファはダンブルドアの言葉とは反対に緊張した。参ったなあと思う。


「君は今、声が出ないと儂は聞いておる…。」


そうだね、と穏やかな声で確認されるのでひとつ頷いた。申し訳なさの気持ちを表すために眉を下げて。

「ああ…これ、そう謝るでない。ヨゼファのどこにも非はなかろう。」

自分が言いたいことを彼は分かってしまうのか…不思議だな、と思う。しかし謝らなくて良いと言われてもどういう表情をすべきなのか分からないので、ヨゼファは引き続き眉を下げて困ったように笑った。


「おかしなことじゃ…。身体のどこにも悪いところは無い、至って健康じゃ。中には君が授業をサボる為の口実として言葉が扱えぬフリをしていると言う者もおる。」


それには流石に首を横に振った。

ダンブルドアは既に承知していたようで、「分かっておる、」と安心させるように笑ってくれる。ヨゼファはホッと溜め息を吐いた。


「そうであれば、今日わざわざここに相談しに来ることもあるまい。儂は嬉しい、ヨゼファ自らがここに話をしに来てくれたことが。」


ヨゼファはなんだかむず痒い気持になって、口元に手を持って行って小さく笑った。それにはダンブルドアも応えてくれる。

つくづく彼にはなんでもお見通しなのだなあ、と…ヨゼファはやはり参った、と言う気持ちになった。


「声が出なくなって、どのくらいじゃね?」


ヨゼファは指を二本立てて見せる。

彼は「二日かね?」と尋ねながら、ヨゼファに供されていた紅茶の中に小さな貝殻を象った淡い色の砂糖をふたつ入れて来る。

そうして「そんな筈はない。もっと前からじゃろう…」と言って更にもうひとつ砂糖を加えた。


今一度彼はヨゼファの二本の指をじっと眺めてから…「では二ヶ月かね。」と言って更に砂糖を追加してこようとするので、流石に焦った彼女は急いでそれを留めた。


「そうか………二年。なんと…」


ダンブルドアはハア、と息を吐いて目を伏せた。それは辛かったろうに…と真摯な労りの言葉をかけられたのが、不覚にも心の柔らかいところに突き刺さる。


「不便では無かったかね。」


その質問には少し首を傾げたまま、曖昧な表情で答えを濁す。

確かに面倒ではあったが、元よりヨゼファはそこまで喋る方では無かったのだ。自分に進んで話しかけて来る人間も既にいなくなって久しかった為…十代の少女にしては、そこまでの不便は無かっただろう。


「では今回、何故相談をしに来たのじゃ。声が、言葉が必要になったからではないのかね。」


ヨゼファはそれを肯定する為にコクリと頷き、紅茶を一口飲む。カップを傾けると底の方で原型を留めていた貝殻の砂糖が崩れて、オレンジ色の紅茶の中を漂った。


「伝えたいことがある?」


ヨゼファは軽く瞼を閉じた。きっとこの人はもう何もかもお見通しなのだから、もう頷く必要も無いと思ったのだ。


「…………男の子かね。」


ヨゼファは閉じた瞳を開き、ちょっとはにかんで笑う。


「愛の告白か。」


しかし次に続いた言葉には口に含んでいた紅茶を吹き出さざるを得なかった。ゲホゲホと咳き込んだ彼女のことを、ダンブルドアは「おお、大丈夫かね。」ととぼけた様子で心配する。

ヨゼファは掌をヒラヒラと左右に振り、そうではないと訴えた。ダンブルドアは何か言いたげに楽しそうな表情を向けてくるが、それを飲み込んでは小さく笑うらしい。


「だが折角相談しに来てくれたところ申し訳ないが……儂にはヨゼファに声を取り戻してやることは出来ないんじゃよ。」


ダンブルドアが続けた言葉に、ヨゼファは掌を膝の上へそっと戻し、眼前の老人の瞳の中を見つめた。その際、自分の長い鈍色の髪が頬を撫でてハラハラと動く。


「身体の不調なら簡単じゃ。それくらいならマダム・ポンプリーがすぐに治して下さる。しかし君の場合はもう少し問題が難しい。…………どこが悪いか、分かるかね。」


ダンブルドアは節くれだった掌を伸ばし、喉元から深緑と銀のタイが伸びているヨゼファの胸の辺りへとかざす。

そうして無言で彼女の方を暫し見つめては、数回頷いた。ヨゼファは彼が示した自分の心臓の上にそっと手を置く。弱い鼓動が微かに伝わって来た。


「ヨゼファ、何も恥じる必要は無い。君が弱いわけでは無いのだ、少し繊細なだけで……」


ダンブルドアは何かを呼ぶように人差し指をちょいちょいと動かす。すると部屋の奥から巻かれた羊皮紙と万年筆、そして深い青色のインク壺が音もなく空中を漂ってきては彼の掌の中へ収まった。


「良いかね、ヨゼファ。」


ダンブルドアはヨゼファへと呼びかける。彼女はゆっくりと瞬きをして、続く言葉を待った。


「言葉を使用しない呪文もこの世に多くあるのは知っておろう。………君がその純粋な気持ちを伝えたいと強く願うのならば、方法がゼロな訳では無いのじゃよ。」


暫時二人は見つめ合うが、やがてヨゼファは(ああ…)と心の中で思い出したように呟く。

ダンブルドアは「察しが良い子じゃ、とても賢い。」と彼女へと暖かな笑顔を向ける。

率直な褒め言葉に慣れていないヨゼファは、身体の奥が熱くなるような気恥ずかしさを覚えて思わず俯いた。


「魔法陣は…子供のもの、非力なものとされ、あまり重要視されていない。しかしそれは考え方が逆じゃ。魔法陣は繊細で純粋な子供にしか扱えない非常に無垢な魔法なのじゃよ。………ほれ、子供の落書きが大層に形式張って飾られている大作よりも美事なことなどいくらでもあろう。」


ダンブルドアは自分の掌中にあったものを、ひとつずつヨゼファへと渡していった。

大した重量もないはずなのに、それをずしりと感じたのは何故だろうか。負荷がかかるような重さでは無く、自分の重心を定めてくれるような感覚が身体の奥へと降りてくる。


「マグルのみならず、我々魔法使いも大人になると忘れてしまう魔法があるんじゃよ。………ヨゼファ、自分の繊細さや傷付きやすさを決して攻めるで無いぞ。それは君のかけがえのない財産なのだから。」


ヨゼファは受け取ったものを自分の子供のように胸に抱き、今一度眼前の魔法使いの空色の瞳を覗き込む。

深く呼吸が出来た気がした。

ずっと、浅瀬に打ち上げられた魚のように胸が苦しかったから。こんな感覚は久しぶりだった。







更に数年前---------



「こんにちは。」

声をかけられ、ヨゼファはその方へと振り返る。知らない女の子だった。しかし知らない人に声をかけられることに慣れていた彼女は、笑顔で「こんにちは。」と返した。


「貴方がヨゼファ・チェンヴァレンさん?」


瞳の緑色の美しさが印象的な彼女は嬉しそうな表情で質問をしてくる。ヨゼファは笑顔のままで「はい、そうですよ。」と返した。


「わあ…!同じ学年だなんて嬉しいわ、私はリリー。リリー・エヴァンスです。貴方のお母様のことはよく知っています。憧れなんです。」


ハキハキとした喋り方からは、彼女の利発さが良く伝わって来た。花がある人だなとヨゼファは思う。手を差し伸ばされるので、笑顔のままで握り返した。


「どうぞこれからよろしく。仲良くしてね。」

「勿論です。こちらこそよろしく。」


今まで、何人とこのやり取りを繰り返しただろうか。その度に肩身が狭くて仕方が無い。


ふいに、愛らしい彼女の背後に影のように寄り添っていた少年の黒い瞳と目が合う。

ほんの数秒見つめ合うが、すぐに彼の方から視線を逸らされる。………同じ寮である彼には覚えがあった。


(グリフィンドールとスリザリンなんて、珍しいカップルだわ…。)


大した感慨も抱かず、そう考える。

そうして眼前の彼女の胸元、勇気を象徴する緋色と金色のネクタイを眺め…ヨゼファは相手に気が付かれないように目を細めた。


(お母様には、私よりも相応しい子供が沢山いるのね。)







そもそも声が出なくなった原因はなんだったのだろうか、とヨゼファは思いを巡らす。

瞼の裏には、家の中に掲げられた『善き魔法使い、魔女で在れ。』とケルト風の豪奢な飾り文字で家訓が書かれたタペストリーが思い浮かぶ。

ホグワーツにやってくるまで、ヨゼファは広い屋敷の応接室に据えられたそれを毎日眺めて過ごしていた。

代々続く闇祓いの血筋に生まれたヨゼファは勿論のことそうあろうとしていた。その言葉を体現したような自分の母親へと、一際の憧れを抱いていたからだ。


美しく強く、一族の歴史の中でも最高の闇祓いと謳われた母のようになりたかった。その希望を胸に宿し…母、祖母、その祖母、そのまた祖母たちが学んで来たホグワーツの門をくぐったのが11歳の夏。煌びやかな光に溢れた学校の大広間へと、初めて足を踏み入れた時の感動はまだ記憶に新しい。

しかし組み分けの儀式。無情にもヨゼファはチェンヴァレン家の者が代々入寮し、偉大な闇祓いを多く輩出してきたグリフィンドールではなくスリザリンへと組み分けられる。


(どうして)


帽子へと問いかけるが、彼が答えをくれる前にマクゴナガルがヨゼファの頭からそれをヒョイと持ち上げてしまう。………もう、組み分け帽子の言葉は聞こえない。理由も分からないままに、ヨゼファは自分が着席すると思っていたテーブルの真反対に位置する卓へと導かれる。

その際、自分の背後で囁き声がさざ波のように流れていくのが分かった。


あのチェンヴァレンの娘がスリザリンだってよ………



しかしそれはきっかけに過ぎない。

ヨゼファはホグワーツで学ぶうち、自分の魔法に対する才能の無さをすぐに思い知るのだ。

自分はもしやスクイブでは無いのかと思うが、どうもそれは違うと診断の結果が出た。


(では、何故。)


名家の出身、史上最も強く美しい闇祓いの魔女の娘。

その為に寄せられた期待が、自分がミスを犯す度に潮が引くように無くなっていくのを肌で感じる。そうしてそれは分かり易く失望か同情に変わるのだ。


母親の失望の色もまたあからさまだった。

やがてヨゼファは家から足が遠のくようになる。夏休みを迎えるのが苦痛だった。

それでも夏には帰らなくてはならない。10歳と少しの子供に、家以外に頼れる場所などあるだろうか。


憂鬱を引きずって帰ったある夏、その日も日差しは強かった。


母は客を招いて、また応接室で持て成しているようである。………先ほど挨拶をしに行ったが、恐らく彼女と同業者の魔女だろう。皆自信に満ち、正しいことをしているという自負に溢れていることからすぐに分かった。


「マリアさんと違って娘さんは少し大人しそうな感じだわ。」

「そう、顔立ちも控えめなのね。上品そうな子だわ。」

「あら…それじゃあ私は下品だっていう事かしら。」


母の発言と同時に、彼女たちの明るい笑い声が上がった。

外の光を多いに取り入れる大きな窓が据えられた応接室は明るく、夏の透明色の光で満ちていた。

そこからヨゼファが佇む廊下へと、光の糸が細く溢れてくる。扉一枚隔てたそこは暗く、蒸し暑かった。


「でも残念なことに成績はあまり良くないの。無害さだけが取り柄の子よ…私たちみたいな闇祓いにはきっとなれない。無理だわ、スリザリンだし。」


母の声はよく通る。ハキハキとした物言いは、学校で彼女に憧れているとヨゼファに言ってきた女生徒たちに通じる者があった。


「まあ…けれど。一応はこの家の人間だし、そこそこの人生は送れるでしょう。適当な人を見つけて結婚させて。それくらいの世話なら私にも出来るわ。」

「ママは大変ねえ。」

「母の務めですもの。あの子にはじきに顔のお直しも必要だわ、良い施術士を探さなくちゃ。」


ヨゼファは…廊下の壁に寄りかかり、ハアと息を吐いて高い天井を眺める。母を真似て長く伸ばしていた髪が重たくて鬱陶しい。蒸し暑い空気の中で、灯を落とした鈍い色のシャンデリアが弱い風に吹かれて揺れていた。

…………ヨゼファはすぐ隣にいた甲冑へと心弱く笑いかけ、肩をポンと叩いてやる。


(顔のお直しだってさ、)


そう呟こうとした時、自分の声が失われていたことに気が付いた。

別にひどく劇的なことがあった訳ではない。ただ、この生温い空気と同じように緩やかにゆっくりと。濁って行き場所を失ってしまっただけで。







ヨゼファは、ぼんやりと光が射す方向を眺める。

冬の淡い白色の光の中で、並んで歩く男女を認めてゆっくりと微笑した。


そうして、ポケットから生成色の封筒を取り出しては弱い太陽の灯りの中へと翳す。

しばらくそれを眺め、もう一度ポケットへと収めて顔を上げた。先ほどと同じように、視線の先遠くにスネイプとリリーが伴っては遠ざかっていくのが伺える。

ヨゼファは引き続き微笑を描き、自分の長い髪をそっとかきあげた。鈍い灰色の髪を風が煽って揺らしていくのを頬で感じる。


(行き場を無くした言葉たちは、一体どこへ行くのかしら。)


そう考えながら、結局渡せなかったささやかな魔法陣が収まった封筒を服の上から撫でる。

ああ、やはりね。という気持ちで落胆を優しく包み込み、自分を慰めた。

辺りは静かで寒くて、まるで海の底にでもいるような気分になる。



やはり声が、言葉が無ければ何も伝えられないだろうかと考える。しかし、例え私が喋れたとしても結果は同じだろう。

私の声はとても小さいから。きっと同じように、彼に届くことは無い。



(彼が……今。私のことをほとんど忘れていてくれて本当に良かったわ。)


あれから…いいえ、あの時も。彼は彼の事情でとても大変だった。

それを慮れずに一方通行の気持ちを押し付けたことを、私は恥じる。


一ヶ月ほどだろうか。声を失った私と魔法陣との短い付き合いはひとまず終わった。

その晩、唐突に言葉が私の元へと帰って来たからだ。皮肉なものだと思う。諦めることで手に入るものがあるなんて。



(こうやって心の中にある宝石をひとつずつ踏み潰しながら、私たちは大人になっていくのね。)


でも…それでも。散ってしまった私の恋だけれど。

何にも積極的になれずにいた臆病な私が、想いを伝えた勇気だけは褒めてあげたいと思う。




ヨゼファは自分の向かいに座り、こちらを探るように眺めてくるスネイプに向かって心弱く笑った。そうして話を続ける。


「だからセブルスさ、いえ…スネイプ先生は、私にとってはずっとヒーローみたいな存在だったんですよ。」


その後、微笑を苦笑いに。少し喋りすぎましたね、と付け加えて。



闇の魔法使いの台頭、寮内の張り詰めた空気、そうして悪化の一途を辿る私と母との関係。

色が失せ匂いも亡くなり乾き切っていく私の青春の中、あの思い出だけが清らかに光って、今でも心をざわつかせる。




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