骨の在処は海の底 | ナノ
 壊れもの

 地平線に、細い糸のような光が現れた。

 そのか細い光を背景に、丈の長い白いネグリジェを纏った女性が夜明けの闇を泳ぐようにして、ゆったりと近付いてくる。


 ダンブルドアは、少し目を細めて彼女のことを眺めた。

 ヨゼファもまた彼を認め、にこりと笑って軽く手を上げる。

 それに応えようとダンブルドアも手を上げかけるが……姿を確認したときから覚えていた違和感から、今一度よく見知った背の高い魔女のことを観察する。

 ヨゼファがこちらに近付いてくるので、薄闇の中でもその様子が段々と確認できるようになった。


 まず最初の違和感は、寝間着姿だったこと。

 自室に戻ってゆっくりと眠れるような余裕などは勿論無いだろうに。

 そうして…最初は暗闇の陰りが深いだけかとも思ったが、その頭髪の多くが黒色に変わっていること。裸足であること。更に、、、と思考する間に、ヨゼファはダンブルドアの目の前までやってきていた。


 彼女は冷たい両の手でダンブルドアの掌を握り、「良かった、」と小さく呟く。


「校長先生……、ああ、本当に良かった。無事だったんですね。」


 嘆息とともに彼女は弱く微笑した。

 ダンブルドアはヨゼファのことを見つめたまま、その手を握り返す。


「…………ヨゼファ。なにか、手ひどい仕打ちを…。」

「いいえ、拷問などには決して。私は昔から逃げ足がとっても早くて……今回も、無事に逃げ果せることができました。まあ…そうですね。強いて言えばちょっと、プライベートの方でも些かの問題があって…。」


 あはは、と弱ったように笑いながら、ヨゼファは片手を後頭部に回してそこを軽くかいた。

 その首を、黒く鬱血した指の痕がグルリと巡っている。一体なにがと尋ねかけるが、なんとなくの察しがついてしまったので…その問いかけを一度胸に仕舞う。青白い彼女の首には、絞痕のみならずいくつもの噛傷が刻まれていた。


 ヨゼファに取られたままだった手を一度離し、腕を握り返しては声を潜める。


「ここは中継地点だ。目的地にはあと一度の移動が必要となる。」

「さすが用心深くていらっしゃる。たしかに、用心するに越したことはありませんからね。」

「しっかりと捕まっていなさい、でないと耳だけ千切れて置いてけぼりになってしまうかもしれない。」

「まあそれはいやだ。耳がないと、お気に入りのレコードが聴けなくなってしまうもの。」


 消耗しきってはいても冗談に応じるだけの気力はあるのか。それとも努めて明るく振舞おうとしているのか。判別は難しい。ヨゼファもまた、スネイプと同様に心の真実の音を人に気取らせない類の人間である。

 夜の気配が未だ色濃く残る空気が唐突に渦巻き、手を握り合った二人は時空の裂け目へと瞬時に引き込まれていった。


* * *


 顕れた場所の床板…古くなって浮いてしまっていた…に蹴躓いたのか、ヨゼファが間抜けな声を上げてからその場で横転する。


「大丈夫かね、ヨゼファ。」

「まあまあ…それなりに。そろそろ床に鉋をかけられてはいかがです?」

「たしかに。考えておこう。」


 ヨゼファの腕を掴んでその身体を起こしてやろうとすると、「いた、」とその口から生理的な声が漏れた。


「……………。随分と深い傷を、こさえられている。」


 その右袖をしとどに汚した血液の有様も見下ろし、ダンブルドアは言葉を囁きに変えては零した。


「まずは傷の手当てをしようか。ヨゼファ、立てるか。」


 腕ではなく背の方を支えてやりながら、ダンブルドアは彼女が立ち上がるのを助ける。ヨゼファは苦笑しながら、「どうも、すみません。」と謝った。







「ここ、どこなんですか?」


 ダンブルドアの杖先の光に照らされた傷が塞がっていく様を興味深げに眺めながら、ヨゼファが質問する。


「さて……、どこだろう。」


 それにひとまずの相槌をしつつ、ダンブルドアはヨゼファの治療に集中していた。


「多くの人々から忘れ去られた場所じゃよ、ヨゼファ。暫くは誰も君の行方を分かるまい…。状況が落ち着くまで、ここに身を潜めていなさい。」


 ヨゼファの屍人のような色をした剥き出しの肩には、胸部からそこを過って首へと…魔法の痕跡が細かい網のように広がっていた。そこを指で触れる。ヨゼファはこそばゆいのか少し身動ぐが、それでも彼のさせるままにしていた。


「思い出しますね……。」

「なにを。」

「もう何年まえでしょうね。私が我が君・・・から逃げに逃げて貴方のところに転がり込んできた雨の夜も、今みたいに傷を治してもらった。」

「そんなことも…あったかね。ああ、たしかにあった。」

「本当はちゃんと覚えているんでしょう?私は先生に助けてもらってばっかりですよ。」

「なるほど、儂は君にそれなりに恩を売れているわけか。」

「ええ、そういうこと。だから私は貴方のお願いには逆らえません。」


 ヨゼファは傷が癒えつつある肩に触れ、痛みが弱まっていることに機嫌を良くしたらしく明るい語調で言う。

 ダンブルドアは少しばかりの笑みを浮かべるが、いつものように会話に応じることはせず…「ヨゼファ、」と彼女へと呼びかけた。


「色々と…大変だったろう……」


 冷たい肩に手を置き、それから未だに首を強く絞めつけているかのような黒い痣を視線で示す。

 ヨゼファは脱力した声で、「まあまあですよ…」と先ほどと同様、曖昧な返答をした。


 ダンブルドアは以前にも幾度か、スネイプとの行為の果てに傷付いたらしいヨゼファの身体の痕跡を目にしていた。

 最初…ヨゼファとスネイプを引き合わせた時、二人が肉体関係を持つようになることは想定しないでもなかった。しかし可能性はあってもそれは低い確率だろうと考えていた。


 元よりヨゼファはスネイプに大層執心していたが、彼女は男女間の関係については積極的でない性格だったし…非常に申し訳ないが、男性性を唆るようなタイプではなかったから。

 そうして何より、ヨゼファは身を弁えていた。それが良いと思えた。スネイプがリリーへの想いを決して忘れないことを充分に理解している上で、その傷心のクッションの役割を彼女へと押し付けたことは、少し、残酷な行為だったと考えなくはないが……


 だが、気難しさが人一倍な上にいたく傷付いて過敏になってしまっているスネイプの神経には、誰とでも気さく且つ深入りし過ぎずに、しかしながら辛抱強く付き合うことを厭わないヨゼファからの好意が丁度良い薬になるだろうと思えた。

 予測は功を成し、ヨゼファとスネイプは年を同じくしていることもあってか良い関係を築いていた。


 然しながら想像以上に二人はよく似ていたのだ。近付きすぎてしまった。……結果がこれである。あまりにも、拗れに拗れてしまった。


 騎士団の再招集の際の、シリウスとヨゼファの喜ばしい再会を目の当たりにして…それからスネイプが静かに取り乱している様を感じ取って、ダンブルドアがこの二人のこれからを些か憂慮したのはたしかだ。

 しかしヨゼファであれば、いつものように上手く立ち回れるだろうとも思っていた。だが…そうだった。ヨゼファは人間関係の特定の領域においてはひどく不器用な人間であることを忘れていた。

 何しろ、今まで彼女が情愛を傾けた人間は実の母親マリア他の女性を愛する男スネイプの二人だけだ。経験不足は言わずもがな、所謂普通・・を踏襲できる筈もない。



 じっとして考えを巡らせているダンブルドアの様子をヨゼファは伺い、「ダンブルドア先生?」と不思議そうに声をかけてきた。


「…………ヨゼファ。肩の傷も、それから他の傷も…恐らく今瞬時に治すことは難しい。ある程度までには出来るが。」


 ダンブルドアの発言に、彼女は表情をきょとりとさせつつも、「そうですか、」と相槌する。


「なにか恨みを抱いたようだね、ヨゼファ。強い怨恨に由来する傷痕の治療は魔術では難航する。幾許かは、自然に任せる必要が……」

「なるほど。」


 ヨゼファは首を巡らし、部屋に据えられていた化粧台の曇った三面鏡で自身の絞痕の具合を確認した。

 恐らく、こちらが一番治りが遅いものになるだろう。


「外傷の他に、身体に不具合はあるかな。」

「いいえ特には。むしろ身体が魔力で漲っていることを感じるくらいで…」


 彼女は不自然に穏やかな表情で、腰を下ろしていた古い革張りの椅子へと身体を深く預けていく。

 ダンブルドアは黙って、その様を少しの間観察した。


「そんなに消耗してしまうほどに…魔法省とのトラブルのみならず、に一体、なにがあったのかね。」


 そうして再び口を開いてヨゼファへと尋ねる。

 それを受けて、彼女は眉を下げ弱々しい笑みを漏らした。


「分からないんですよ…。私は母親と仲が悪いアンブリッジ先生の恨みを買ったこともあって、追われる立場になった。それはよくよく分かります。原因と展開が一致している。けれども、そのの方を上手く理解できていない。………私は、分からないんですよ。」


 ヨゼファの傷の治療がこれ以上功を為さないことを悟ったダンブルドアは、部屋の片隅で埃を被っていた椅子を引き寄せてはポツリポツリと言葉を漏らす彼女の傍に着座しつつ、杖を懐に仕舞った。


「ダンブルドア先生……。貴方はもちろん、私がセブルスに対して同僚…友人…それ以上の気持ちを抱いていることを知ってますよね。」

「それはもう。よくよく。」

「そうなんですよ、私、馬鹿なことにあの人が好きなんです。愛している。……だから幸せになってもらいたい。でももう…どうすれば良いのか、よく、分からなくなっている。」


 頭を項垂れたヨゼファの顔に、最早ほとんどが黒色の髪がバサバサと落ちていく。表情は酷薄な笑顔で語調は淡々としているが、その佇まいは昏かった。色濃い諦めが、その周囲を取り巻いていた。


『私の人生は本当に……なんと言うか、諦めと我慢の連続ですよ。』


 ふと、いつの日かヨゼファが零した言葉を、思い出す。



「分からないことはないだろう。君はセブルスにとって大きな支えだ。そうしてセブルスもまた、君のことをよく助けたのではないのかね。少なくとも儂にはそのように思えたが……」

「どうなんでしょう。まあ…でも、きっと。私もセブルスも、とても寂しかったんです。寂しかっただけなんでしょう。結局のところ、彼との友情もそれ以上を関係したことも、傷の舐め合い以外のなにものでもない…。最初から心のどこかで…理解は、してたんだと思います。」


 分厚い心の壁の中に溜まったものを、ポツリポツリと雫を垂らすようにして彼女は零していく。

 しかし、言葉を伝えながらも彼女はダンブルドアを見ていなかった。ただ、時間と埃が堆積した傷だらけの床のどこかを見下ろしては、疲労が滲んだ笑顔を浮かべている。


「でも…、私は私なりに、これでもやってきたつもりです。少しでも喜んでもらえたら、どうすれば彼の気持ちが楽になるのか…そう言うことを考えるのが、好きでした。実のない話に興じることも幸せでした。幸せになって欲しかったんです……セブルスに。………幸せになって、欲しいんです。」


 ヨゼファは溜め息をともに、言葉を繰り返した。

 白々と明け始めた空から、細い光がヨゼファの生白い肌を斜めに照らしている。けれども彼女の周囲には、未だに夜の暗闇が漂っているようにも思えた。


「でも、どうしてなんでしょう。神さまはあまりにも彼に厳しすぎる。………駄目なんです。私たちは同じ種類の毒だった。同じ毒を舐め合っても、所詮互いを腐らせていくだけでしょう?」


 彼女は言葉を続け、再びダンブルドアの方へ視線を上げた。

 視線を受けた彼がそっと手を伸ばして片目を隠したヨゼファの長い前髪を避ければ、左の目とは色を違わせた赤い瞳が現れる。しかし、両の目と共に子どものような無垢を含んだ光を浮かべている。

 掌を滑らせ、頬に、指先を唇の端に触れてやる。


「笑うのを、止しなさい。」


 静かに語りかけると、ヨゼファはハッとしたように逆側の頬に触れた。

 深呼吸をして、眉を下げ、瞬きをする。

 それでも、喜劇に使用する仮面のように張り付いた笑顔がどうしても拭えないらしい。笑みを苦くして、弱り果てた情けない声で、ヨゼファは笑った。


「………………。駄目なんですよ。ひとりよがりの善意が相手を傷つけ、親切が重荷になることを気付かぬような人間ほど始末の悪いものもないでしょう。私では、私では……、…………もう、駄目なんです。」


 消え入りそうな声で漏らし、ヨゼファは朝日に照らされた顔をゆっくりと両手で覆う。

 そして深い深い溜め息を今一度行い、また、顔を上げた。

 ダンブルドアは真っ直ぐに彼女を見据えたまま、その名前を呼んだ。


「ヨゼファ。」


 彼女は黙って、こちらを見つめ返す。


「………………。終わらせることを、考えているね。」


 手で、その心臓の上を示した。彼女はなにも応えなかった。強くなりつつある日差しが、その目元に色濃い影を差し込ませている。


「その気持ちを否定はしない。死ぬことだけが解放に思えるものもおるからに。なにより……言葉にすれば軽薄だが、よく分かる。これだけの年月を生きていれば、今の君と同じ気持ちを抱かざるを得ない出来事も、それなりにあった。」


 ダンブルドアはヨゼファの手を取り、立つように促した。


「そうしてヨゼファ。儂はセブルスのことも、君のことも…決して毒だとは思わない。」


 おいで、と囁き、ヨゼファの手を引いてひび割れた三面鏡の傍まで至る。彼女は素直に従い、その前の色褪せた丸椅子へと腰を下ろした。

 ヨゼファの髪を撫でて触れ、インクが滲んだように黒く染まってしまっていた部分を、元の淡い灰色に戻す。

 そうして幾許か元の面影に近づいた鏡の中の彼女と視線を合わせ、目を細めて笑った。


「瞳の色は……。難しい。髪よりも余程複雑に、深く呪いに結びついてしまっている。少しの間は隠すか、色が変わってしまった理由を考えた方が良かろう。」


 すっかりと長くなっていた彼女の髪を耳へとかけさせる。いつものように、否いつも以上に草臥れたその表情が露わになった。

 肩甲骨に触れるほどになっていたその乱れ髪を、指で整えた。「随分と長くなられた。」と独り言のような感想を漏らす。


「確かに君の魔法陣が完成すれば、君の命の是非を問わず魔術は顕現する。だがヨゼファの勤めは魔法陣を完成させることだけではない。……そうは思わんかね。」


 鏡ごしに、ヨゼファはぼんやりとした表情でダンブルドアの表情と手の動きを追っていた。

 消耗しきっているのか、言葉は口にせずにただ黙って耳を傾けている。


「ホグワーツに初めて足を踏み入れる生徒は、まだ十の齢に届いたばかりの子どもだ。期待はもちろん、不安を多く抱えている。多少成長して思春期に差し掛かった少年少女たちも、また不安定な存在だ。心細い思いを多くする。彼らにはヨゼファ、君のことがまだ必要だ。まるで母親のような存在である優しいヨゼファ先生が。」


 柔らかいヨゼファの髪を、自らの節が目立つ細い指でゆっくりと結い上げていく。

 今の長さであれば、それが充分可能だった。彼女の細い毛質は素直にダンブルドアの指先に馴染み、女性らしい形へと変化していく。

 後ろ髪を房にしてまとめた箇所を、白金が真珠で彩られた髪飾りで留める。朝日が、薄暗い室内でそれを弱く光らせた。ヨゼファの顔の角度を少し違えさせ、三面鏡で真珠の飾りを認めさせる。彼女はぼんやりとした表情のまま、「綺麗、」とだけ感想を漏らした。


「プラチナも真珠も、全て本物だ。この美しい髪飾りのことを君は知っているかね。」

「そうですね……。ああ、なんとなく思い出しました。貴方のお髭用の飾りじゃないですか…これ。」

「よく覚えてるのう。だがあれは嘘だ。」

「ええ、嘘ですか。」

「そもそも儂のものではない。これは、とある美しい魔女が自分の愛娘のために作らせた最高級のものだ。恐らく…髪や瞳の色…そうして顔立ちなどを思い出し、考えに考えて形にしたのだろう。甲斐あって、よく似合う。」


 ヨゼファは赤と青の瞳の横目で、三面鏡の中の髪飾りをじっと認めた。ゆっくりと、手を触れさせていく。そうして弱くかぶりを振った。


「結局、これを作らせた母親は娘に手渡すことが叶わなかった。だがそれが儂の元へと渡り…巡りに巡って、ここに。」


 後ろから、丸椅子に腰掛けたヨゼファの双肩に掌を置く。

 少しの間、静寂が室内を満たした。


「君のものだ。」


 そして続きを口にする。

 ヨゼファはなにも返さず、ただ顔を伏せた。

 その動きに合わせ、白い髪飾りが静かに光った。美しい工芸品である。そうしてそれを身につけたヨゼファもまた、、、

 長い年月と多くの試練に洗われ、今こそ彼女は美しかった。そうして彼女の美しさは、同じように挫折と失望を繰り返して味わったものにこそよく分かる。


「終わらせることばかりを……どうか考えないで欲しい。」


 目を伏せ、鏡の中の自らを見ようとしない彼女へと言葉を伝え続ける。


「すべてが報われるわけではないが、すべてが無駄だと思ってはいけないよ。………まだ君は若いのだから。終わりよりも、終わりの先に始まることについてを考えるべきだ。」


 ヨゼファ先生、


 多くの生徒が呼んだであろう名前を口にして、呼びかける。



「一体何人の生徒が君のことを心から慕っていたか、知っているかね。分かっているだろう。卒業した後も、皆よくよく君のことを良い記憶として、懐かしいホグワーツでの生活と共に思い出す。毎年君の誕生日に元生徒から贈られる花や、クリスマスのカードの量を考えてごらん。年々多くなるものだから、昨年はフクロウが三羽がかりで運んできた。余程重たかったのだろう…。」

 フクロウのうち一匹が重さに堪え兼ねたのか墜落し、大広間に運ばれてきたクリスマスカードの山がヨゼファの頭上に豪雨のように降り注いだことは記憶に新しい。


 自分は…ヨゼファに教員となることを薦めた時、子どもたちを導くことによって罪を濯ぎなさいと命じた。

 彼女はそれを忠実に守り、善い教師として驚くほどによく働いた。その心性は救いを求めるが故の仮初めのものであったが、最早それは本質的な彼女の性格である。
 
 
「そして……。ホグワーツにおけるアンブリッジ女史の天下はそう長くはあるまい。彼女は多くの反感を買いすぎた。そうして儂も君も、ホグワーツに戻る必要がある。まだ、やるべきことが残されているのだから。」


 ヨゼファの耳に口を寄せ、潜めた声で言葉を紡ぐ。

 彼女はゆっくりと頷いた。ようやく緩慢に顔を上げ、鏡の中の自らを、そうしてダンブルドアのことを見る。


「やるべきことが終わっても、君は…ホグワーツのヨゼファ先生でいてくれるかね。君なら、君にしか出来ないことが多くある。……生きることを、諦めないでいられるかね。」


 真っ直ぐに見つめ返し、ダンブルドアは尋ねた。


「……………分からない。」


 それに、ヨゼファは小さな声で答えた。いつの間にか表情から笑顔が消え、そこには疲労感だけが残っていた。無表情のまま、ヨゼファは一言だけそう漏らす。


「でも………。頑張りたい…。」


 掠れた声で続けて、彼女は瞼を下ろす。

 その際に、白い涙が一筋頬を滑っていった。


「友達が…、私の大切な友達が、生きているだけで良いと言ってくれました。私は彼のように勇ましくはないけれども、彼や…貴方、そして、、、気が付かないうちに沢山の人に大切にしてもらっていたことを思えば……、きっと。」


 それきり、ヨゼファは口を噤んだ。

 ダンブルドアにとってはおおよそ初めてのことだった。この女性が涙を流すのを目にするのは。

 だが、一粒だけだった。再びまなこを開いた赤色と青色の瞳には、涙の気配のみが漂うに留まっている。


「つくづく、不器用な子じゃ。」

「そうですね。仰る通り……」


 ヨゼファは笑い、鏡の中で顔の角度を変えて銀色の髪飾りを眺めては目を細めた。


「ああ、確かに…綺麗です。私が好きな形です。なんだかんだ、私のそれなりを知っていてくれたんですね。……あの人。」


 ポツリと呟き、彼女は自らの肩にのせられていたダンブルドアの手の甲に掌を重ねる。


「私は知らなかったんです。泣くことが、涙を流すことが…悲しみに正面から向き合うことが、こんなにも苦しくて恐ろしいことだったなんて、知らなかった……。」


 彼女は眉を寄せ、表情をクシャリと歪める。頭を緩く振り、言葉を続ける。


「みんな……、こんなに苦しい思いをして、いつも泣いているんですね。そんなの、なんて……、あまりに…タフすぎる。」


 唇を噛んだ彼女の頬を、また涙が一筋、二筋伝っては落ちていく。

 

(………愛という感情は、)



 その様を見下ろしながら、ダンブルドアは弱く嘆息しつつ考えた。



(人間に許されたものの中で最も尊く、果てしなく残酷だ。)



 靄がかかったような記憶の中、ただ一度烈しく愛した憧憬が影とした浮かんだような気持ちがする。

 しかし影はあくまで影だった。もう、昔のことだ。本当に昔のことだった。鮮明にその姿を、自分に触れた心を思い出すには、あまりにも時間が経ち過ぎていた。



(全ては昔日で、儂自身も昔のものだ。今ではない。だから、考えるべきは自らではなく……今を生きる、彼らの、、、、)



 「ヨゼファ。」



 彼女が、ホグワーツに入学したときのことは覚えている。彼女だけではない、全ての生徒のことは顔と名前を一致させて、それをつぶさに思い出すことができた。自分もまた他の教員と同じく、彼らによって多くを救われたのだから。

 一年生のヨゼファは、選ばれては着席したスリザリンのテーブルでニコニコと笑いながら、細長い身体をひたすらに小さくしようと懸命になってはその時間を耐え忍んでいた。

 いつもその存在感は希薄だった。必死でそれを行ったのだろう。いつしか本当に、彼女がそこにいるのかいないのか誰も気にかけなくなっていった。



「儂は、君を愛しているよ。」



 静かな気持ちで思いを伝えた。

 消極的な性質がすぎる少女のヨゼファが助けを求めて自分のところに来た時、嬉しかったことを思い出す。

 彼女の状況の哀れさはずっと気にかかっていた。だが、少女自身が己を変えようと思わねばこちらも手を差し伸べることが出来ない。いつでもヨゼファは自分に許されたほんの少しの可能性の中で、懸命だった。ずっと…今も、常に……同じように。


「君が、苦しむ姿をいつでも傍で見てきた。救うことができない自分を無力だと思う。……こんな陳腐な言葉しか与えられないことを、許しておくれ。」

 
 愛しているよ、


 言葉を繰り返し、綺麗にまとめられた髪を撫でた。

 ヨゼファは脱力し、背後に立つダンブルドアに少しの間身体を預ける。


 お父さん、


 彼女の口からそう漏らされたような気持ちがした。

 それが自分に対してのものなのか、神の名を呼んだものなのか、それとも彼女の実の父に充てられたものなのか…判別は難しい。


 然しながら呼びかけを甘受して、ダンブルドアはひとつの封箋を化粧台にそっと置いた。ヨゼファは視線でなにかと尋ねてくる。


「ラブ・レターじゃよ。」


 冗談めかして言うと、ヨゼファは片眉をあげて笑った。


「………好きなときに開封していただいてよろしい。」

「そう言われると困りますね。今すぐに開けてみたい気もしますし…もう少し後の方が良い気もします。」

「ヨゼファの考えに任せよう。君はいつも、良い判断をするから。」

「なにを言ってるんですか。」

「本当のことだよ、ヨゼファ。……ああ、話は変わるが…君の今のヘアースタイルは実に良い。このまま教職に復帰できなかったら靴下屋を始めようかと思っていたが、バーバーを開業するのも悪くはないのう。」

「それは素敵。良いですね…開業祝いには抱えきれないような花束をお贈りしますよ。」


 ヨゼファは自分の栓もない冗談に付き合ってくれる数少ない友人の一人だった。

 その存在を改めて有り難く思い、ダンブルドアは謝礼する。彼女は「そんな、」と苦笑してから、「むしろ…私の方こそ、いや、私の方が。」と言葉を散漫に返した。


「このまま髪を伸ばしてみる気は無いのかね。折角一等品のジュエリーを手に入れたのだし…長い髪なら、使用する機会も多くなる。」

「そうですね…。でも、今はまだ、元のままに。」

「……………そうか。」

「ホグワーツに先生として戻れても、また近くに大きな戦いが控えているでしょう?平和な日常はもう長くは続かない。でもその束の間が続く間は、子供たちにとっていつものヨゼファ先生でいたいんですよ…私は。」


 そうか、とダンブルドアは今一度相槌した。ヨゼファもまた、そうです、と笑顔で応える。


「でも、このジュエリーはとても綺麗ですから…。またいつか、終わった後の始まりに。必ず……」


 ヨゼファは穏やかに言葉を紡ぎ、自らの灰色の髪から白金色の髪飾りをそろりと引き抜く。

 まとめられていた髪は解けて淡い灰色を光らせて畝り、重力に従って真っ直ぐに降りた。


 彼女は椅子から立ち上がり、下ろされた髪を耳へとかけては直接ダンブルドアに向き直る。


「ダンブルドア先生、どうもありがとうございます。私も貴方を心から愛していますよ。その優しさと勇気を、尊敬しています。」

「それは……どうも、、、」


 冷たい朝の光が眩しいのか…ヨゼファは目を細めつつ、けれどもはっきりとした語調で礼を述べる。

 彼女の言葉に応えようとしてダンブルドアは一時声を詰まらせ、そうしてまた続けた。


「なかなかどうして、照れるな。君は時々驚くほどに思い切りが良い。」

「先生でも照れてくれることがあるんですね。」

「実を言うと、『愛している』は言うのも言われるもそこまで慣れていないんじゃよ。」

「あら……。そうだったんですね。」

「君と同じだ。心の音を漏らすことにはずっと抵抗があった。この歳にして…ようやく少し、と言ったところかな。」

「なるほど。それじゃあ、今こそ貴方の正直な気持ちを伝えてみてはどうでしょうか。」

「…………それは、」

「言ってあげなきゃ。待ってますよ、きっと。」


 顔を見合わせて二人は心許ない笑みを交わし合った。

 吹き通る朝風に、緑色の木立がざわざわと葉を泳がせる音がする。鳥の羽音も同様に。

 やがてヨゼファは少し首を傾げては口を開いた。


「なにか言いたげでいらっしゃいますね?また頼みごとですか。」

「勘が冴えていらっしゃる。」

「こういう時だけね。なんでも言ってください…さっきも言ったでしょう?私は貴方のお願いには逆らえないんです。」


 ヨゼファは可笑しそうに目を細めては笑みを濃くした。

 やはり彼女には笑顔だった。安定感のある佇まいだとダンブルドアは思った。うっかりと頼ってしまいまたくなる、どこかの誰かのように。


「ヨゼファ。………夏のバカンスに予定はあるかね。」

「いいえ、とくには。」

「少し付き合ってもらえるかな。力をお借りしたい。」

「喜んで。なるほど、デートですね?」

「その通り。おっと……誰かにひどい焼きもちを焼かれてしまうかな。」

「焼いてもらえるなら光栄ですね。むしろ嬉しいかも。」

「罪な女性でいらっしゃる。」

「まさか、私ほど真摯な女はいやしませんよ。我ながら馬鹿正直さに嫌気がさします。」


 ヨゼファは声をあげて軽快に笑う。

 その横顔を斜めに照らし続ける透明色の朝日が、笑い皺を浮かび上がらせた。


 その様を眺めながら、ダンブルドアは…ヨゼファはもう、大丈夫だろうと考えた。

 いや、大丈夫と言う言葉は正しくはないかもしれない。だが彼女はそれを取り繕うことが容易く行える。


 それなりに生きていれば、人間はそのほとんどが大丈夫≠ナはない。それでも皆、騙し騙しやっているのだ。

 それで良い。自分を他人を騙し騙し、危ういながらもバランスを保って歩き切れば人生はそれで良い。

 他人に支えられながら、時に支えてやりながら。



 別れの言葉を短く交わし合い、ダンブルドアとヨゼファは別れた。

 夜の名残の白い月が所在ない様子で薄い青色の空に浮かんでいる。もう、星は見えない。薄暗かった空はほのぼのと白みかかって、やわらかい羽毛を散らしたような雲が棚引き、灰色の暗霧は空へ空へと晴れて行く最中だった。


 谷。その名が形容するように周りから一段と低くなっているゴドリックの地形を、ダンブルドアは静かな気持ちで見下ろす。


(今も、)


 心のうちで呼びかけた。家族にだった。彼がみぞの鏡の中に見る憧憬は、もう長いこと彼らとのもしも・・・の時間である。



(今も、待っていてくれているのか。)



 言ってあげなきゃ。



 かつて妹が使っていた三面鏡の前で、ヨゼファは左右異なる色の瞳でこちらを見つめては言っていた。



 待っていますよ、きっと。



 朝露もまだ乾ない樹々の葉の上を吹く朝風を身体に覚えながら、彼は目を閉じる。



 伝えるべきものが最早存在しない言葉は、口にすればするほどに陳腐だった。

 けれども愛することを忘れてはいけない。やはり、自分は考え続けなくてはならないのだから。



「愛して、いるよ……、」



 そうして朝凪が今一度樹々の葉を揺らした時、彼の姿は消えていた。

 誰一人としていなくなったそこを、瑠璃色の翼を持つ小鳥が舞い立って過っていく。高く澄んだ鳴き声はよく通り、谷へと響いた。 



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