骨の在処は海の底 | ナノ
 ひとり言

 ここは、幾千年前、幾千年後のものが世界中から求めるものの必要に応じて現れる部屋だった。

 ヨゼファが求めた通りに、大聖堂の内陣のように広々とした床、壁、天井を有した造りである。

 背面で、扉が閉まる音が重々しく伽藍の堂に響いた。青く不透明な闇が充満した室内で、たったひとつ…金色の装飾で縁取られた背の高い鏡がポツリと置かれていた。

 彼女はそこまで歩み、曇った鏡面にそっと掌をなぞらせる。

 顔を上げ、自分の顔を認めた。

 ハッとする。目を見開き、今一度そこを覗き込む。


「え?」


 思わず、小さな声が口を突いて出た。確認のため、顔にかかっていた前髪を退けて右眼の中をもう一度…食い入るように見る。

 瞳を閉じ、目を擦り、もう一度。しかし鏡面の中に映る光景は変わってくれなかった。指先を、右の下瞼に触れさせる。震えていた。……恐怖だった。焦りだった。


「うそ、」


 深い青色の瞳と、淡い灰色の髪色は母親から受け継いだ唯一のものだった。右眼の中にその色は無く、色濃い赤い瞳が濡れてこちらを見つめ返すだけだった。


「や、やだ………」


 ヨゼファの混乱に呼応するように瞳の中を漂う赤色が蠢いて、色彩の鮮明さを増して浮かび上がる。熱を帯びた痛みを覚え、咄嗟にそこを抑えては呻き声を上げる。

 乱れる呼吸をどうにか、どうにか平静に落ち着けようとする。しかし無理だった。重たい沈黙の中、荒い彼女の呼吸が神経質に響いていく。


 もう一度顔を上げて鏡の中を見れば、髪に混ざり込んでいた黒色の毛がその量を増やしたようだった。瞳と同じように、身体の右側。インクが沁みを作るように、黒色は目に見えてヨゼファの髪の中に広がっていった。


 ただただ呆然として、自分の身体に急速に起こる変化を目の当たりにする。今まで、こうも顕著に肉体の変化が現れることはなかったのに。どうして、と鈍い思考を巡らせながら。

 淡い灰色の柔らかい髪。深い青色の瞳。それが無くなって仕舞えば、自分を自分だと証明するものは一体どこに存在するのだろう。これだけが、これだけが……ヨゼファをヨゼファだと証する、最後に残されたものだったと言うのに。


(…………………………。)


 けれども、仕様がないことだと思った。

 呪いとはそう言うものである。己をどこまでを殺せるかが重要だった。自らをどこまで呪いに喰らわせられるかが戦いだった。自分自身との、長い長い泥試合の果てである。


 V字に開かれた襟元から伸びる首には、スネイプに絞め上げられた痕跡がしっかりと残っていた。視覚情報としてそれをまざまざと見せつけられると、なんとも言えない気持ちになる。

 首まで、黒い魔法陣が至っていた。少し、おかしいと思う。どうやら広がる速度が、範囲が、広くなっている。

 襟を広げ、肩の傷の具合も確認する。血液が止まらない傷口は、白いネグリジェをしとどに汚し続けていた。


 傷と、痕と。


 色味が全くない皮膚の上に広がる惨状を鏡の中に見ながら、ヨゼファは苦笑した。



 醜い


  お前は、醜い女だよ。




 鏡から顔を逸らして、床を眺める。魔法陣の構成のために充分な広さだ…と考え、行うためにそこから歩み出そうとした。

 静かに一度、鏡面が光を揺らめかせる。

 緩慢に振り返ると鏡の中の深い闇の中、白い掌がそっと現れる。次に、身体。整いすぎた顔。黒い髪、青い瞳。


 少女はいつものように微笑み、唇の動きだけでヨゼファに夜の挨拶をした。それに応え、弱々しく笑い返す。


 彼女はこちらとあちらの境目の冷たい透明色の鏡面に掌を触れさせ、少し首を傾げてはヨゼファのことを求めた。

 誘われるままに鏡越しに手を合わせ、彼女の頬の辺りを撫でる。


(本当はずっと…この子が誰なのか、私は分かっていたの。)


 指先で、金色の鏡の縁をなぞる。刻まれた装飾的な文字は "Erised stra ehru oyt ube cafru oyt on wohsi"

 子どもでも分かるような、至極簡単な言葉遊びだ。鏡のように反転させて読めば良い。


「私は……」


 ヨゼファがそれを微かな声で口にすれば、鏡の中の少女も同じように唇を動かす。


「『あなたの、顔ではなく、』」


 本当に、彼女は美しい少女だった。だが考えれば、それは至極当たり前のことである。
 

「『あなたの、心の、』」


 彼女はヨゼファの娘であると同時に、ヨゼファの母親の孫だった。チェンヴァレンの血を引く娘はたった一人の例外ヨゼファを除き、皆美しすぎる顔立ちをしていたから。


『のぞみ、をうつす』


 ずっと…分かっていたのである。だが分からないふりをしていた。認めてしまうには、それはあまりに空虚で、惨めが過ぎるものだった。


 両の掌で、触れることが叶わない願望の虚像へとそっと触れて、ヨゼファは微笑んだ。鏡も一緒に優しく笑ってくれた。


 太腿の内側を、また…ツ、と生温い液体が伝うのが分かる。

 スネイプから……そういった・・・・・気遣いを受けたことは無い。ヨゼファが自分で自身をケアしなければ、この長い年月の中で彼女を身体に宿すことはまるで容易だったろう。

 一度鏡から目を逸らし、高い天井を見上げ、その何もない空間へと大きく息を吐く。全身から力が抜けそうになるが、それを留めて両の足で石床を踏み直す。

 そうして、愛らしい自らの娘と再び視線を合わせた。


「…………ごめんね。」


 少女は、ヨゼファの謝罪に不思議そうな表情で応える。


「私の前に姿を現してくれて、ありがとう。すごく嬉しかった。でも…無理だわ。私は貴方は生めないの。だからもう、ここでお別れ。」


 ポツリポツリと言葉を繋ぎ合わせ、ヨゼファは彼女に触れていた掌を一度ひとたび離し、指を開いてその顔を覆うようにかざそうとした。

 しかし、出来ない。

 声に阻まれた。

 ガラスの鈴が石床を転がるような、静かで可憐な………


 あの子テレサと同じ声、



『どうして?』



 掌は、中空で縫い留められたかのように固まっていた。

 少女は深い青色の瞳を見開き、ヨゼファから決して目を逸らさない。

 白い指で自らを示し、


『私を、』


 また、唇を開く。


『私を見て。』


 胸が痛くなるほど切なげなその表情に、ヨゼファは今すぐにでもその華奢な身体を抱きしめてやりたい衝動に駆られた。しかしこちらとあちらは別の世界だった。触れることはままならない。

 彼女の背後に、もう一人少女の面影が重なって見える。それを誰だか理解してヨゼファは焦燥した。マズいと感じた。自らの過去を、内面を掘り下げる行為は彼女が一番に避けていたものである。向き合う覚悟はない。

 しかし長い灰色の髪が柔らかくふわりと揺れて、且つてのヨゼファ彼女はついに鏡の中、黒髪の少女の隣に並んだ。

 四つの、同じ色をした瞳がヨゼファのことを真っ直ぐに見つめる。


『ママ、』 『ママ、』

『お願い、私を見て。』


 二人の少女は、悲しげに繰り返して訴えた。


『私はずっと、本当の家族が欲しかっただけなのに……!!!』


『私は、大好きなママに会うこともできないの?』



 ガラスが石床に打ち付けられたような、烈しい音が鳴った。

 それはヨゼファの頭の中で響いた音だった。ゆっくりと、自分の頭へと…ヨゼファは掌をやる。半分以上の毛髪が黒くなってしまったそこを、クシャリと握りしめた。(……伸びてる、)と思った。伸びた前髪が、バラバラと顔にかかった。それをかきあげて、自分の憧憬と願望を顕現させた少女たちからの視線を受け止める。


「…………そうね、」


 不自然に落ち着いて、低い声が唇から漏れた。


「そうなのよ。私……。ずっと、家族が欲しかった。」


 掌を鏡面に這わせ、いじらしく目に涙を溜めた彼女たちに触れようと繰り返し繰り返しそこを撫でる。ままならず、爪を立てそうになるのを、寸でのところで堪えた。


「愛する人に当たり前に愛されて、一緒にいることに憧れていた……。」



『ママ…、』


 茜色の光が斜めに差し込む夕刻の室内で、少女は座り込んでいた。

 足元に白い花弁がいくつも落ちている様を、ただ見下ろしながら。

 やがて…ノロノロと、それを片付けるために指を動かす。

 折れた茎に、床に落とされた拍子に崩れ千切れてしまった花芯の集まり。


『ごめんなさい、』


 謝る。

 無残な姿になってしまった花に対して、そうして、もっと別のなにかにも。


 ふと顔を上げる。

 玄関の方で複数人の気配がした。

 母親が出かけるのだろう。ヨゼファは掌中の真っ白い花の残骸を思わず床へと落とし、『待って、』と小さく呟く。


 立ち上がり、廊下を駆け抜けて玄関の大きな扉をくぐり、赤い光に満たされた野外へと至る。

 母親の姿はもう深い黒色のシルエットになってヨゼファから遠くに離れていた。


『ママ!!』


 追いつくために、そこから更に走り出す。

 呪われたように真紅の太陽が空を埋め尽くす夕焼けの中、振り向くことなく歩いて行ってしまう母親のことを追いかけて、ヨゼファは叫んだ。


 待って、ママ。

 お願い待って、

 私はここよ、ここにいるの。

 どうしてこっちを向いてくれないの。

 ごめんなさい、ごめんなさい、

 ただママを喜ばせたかっただけなの。

 もう二度としません、善い子になります、善い魔女になります、約束します…!!



『だからお願い、私を見て!!!!!』



 雨の夜に、使命を賜った死喰い人として…彼女の新しい家族を初めて目にした。

 半分血が繋がった三人の妹と、優しい表情の母。絵本の中に似た夢のように暖かい家庭だった。そこには平穏と平和があった。

 それは彼女マリアがヨゼファに与えることが出来ず、ヨゼファが母親マリアに与えることが出来なかったものだ。


(私、なにしてるんだろう……。)


 急に、頭の奥が深々と冴えたことをよく覚えている。

 ひどく落ち着いた気持ちで、双子の末妹たちが寝かされた揺籠を少し背伸びして覗き込むテレサと、彼女の華奢な肩を抱いてそれを揺らす母の優しげな表情を眺めた。


(良かったね…。やっと幸せになれたんだ。私は貴方のそんな穏やかな顔、初めて見たよ。)


 ベラトリックスの魔法によって美しい顔立ちに…皮肉にも新緑の色に変化した己の瞳を細めながら。甘い声の子守唄が、母の口からささやかに漏らされる中で。



(私は、どうして生まれたのかな。)



 記憶と現在が錯綜して混乱するヨゼファの脳内で、今一度声が響く。自分の声に似ているけれども、違う。呼んでいる声だ、(私のことを、)呼んでいる………



  ママ……


 傍に立つ、黒髪の美しい少女がヨゼファの掌にそっと触れて、自分の方へと弱く引く。


  お願い、お願い。


 手を、その白い頬へと持っていかれる。暖かい、柔らかな皮膚が掌に触れて、そこから溶けていきそうな感覚だった。


  私を見て。



『私を、愛して。』



 愛する必要なんてないのよ、


『大丈夫。』



 そう言って、スネイプの女のように白い肩をベッドの中で抱いた記憶が、混沌としていた海馬の中から重たいあぶくのように浮かび上がる。


 今よりも余程軽度だけれど、この時も絞痕が首輪のようにぐるりと皮膚を一周して鈍く痛んでいた。

 スネイプの身体を抱き寄せる為に腕を伸ばすと、傷付いた背中の皮膚がつって痛覚を齎した。小さく声を漏らせば、それに気が付いた彼が掠れた声で謝罪する。気にしないでと、できるだけ安心してもらう為に穏やかに返す。


 そう……それは嘘ではない。


(私はずっと、ずっと…大切な貴方にできることはなにかと、考えていたから。)


 それで気が済むならば、それで良かった。都合よくこの身体を使えば良い。痛みは些細なことだから。


(けれども貴方が満たされることは結局、無かったのね。)


 自分を傷付ける度に、スネイプの方が余程消耗して傷付いていることを知っていた。

 どうすれば良いのだろう、と暖かいその身体を抱き締める真夜中に考える。


 彼が喜ぶことを、楽しい気持ちになってくれることを、悲しみが取り除かれる術を…考えるのが好きだった。それを思って優しい気持ちになれることが、自分にとっての最後の良心と人間らしさだと思っていた。

 けれどもそれは結局自己満足の賜物だったのだろうか。善意や親切だけで苦しみが救えるものなら、そんな簡単なこともない。善意や親切や思いやりは時には罪悪をつくることさえあるのだ。だからそう…ヨゼファが思い知ったのは、ただただ、自分の無力さだけだった。



 私は無能で、無力で、

 ずっとずっと…………

 何年も昔から、生まれた時から。

 ずっと…………



(そうね、ヨゼファ。貴方…、知ってたでしょう。)


 白い光が差し込む中庭を並んで歩み、自分から遠ざかっていく仲睦まじい少年少女の背中をぼんやりと昏い廊下から眺めている…思春期の頃の自らの背後に立ち、ヨゼファは自分自身へと呼びかけた。


(セブルスはリリーのことを、彼女のことだけを愛しているの。その純情と真摯な精神を深く愛してしまった貴方なら、いやという程…思い知っているわよね。)


 斜めに光が差し込む石造りの廊下の中で、そっと首を垂れた少女のヨゼファの長い髪を、弱い風が揺らした。その背中を抱きしめ、ヨゼファは瞼を下ろす。


(それでも…再会できて、もう一度言葉を交わせて、私の声を初めてあの人に聞いてもらえて、私は本当に嬉しかったの。)


 けれども、その喜びの気持ちだけに行為を留めておくべきだったのかもしれない。

 種は種である以上、もっと早くそれを摘んで捨てるべきだった。種から芽が出て茎が伸び葉を出し、もうどうにもならぬほど深く根をおろす前に、切り取っておくべきだった。



(『愛している。』言わなければ良かった……。)



 ああ…そうだ……黒い森の中で息絶え絶えになっている彼を抱き起こした夜も、雨だった。

 これ以上冷たい雨がその身体を濡らさないように、強く抱いて木立の上を駆けていったこと、、、覚えている。



(彼の美しい思い出を…美しいままに留めておくことだけが、私に出来るただひとつのことだったのかもしれない。)



 まだ熱が残る彼の身体に引き寄せられた夜のことだって、勿論覚えている。

 背の高い本棚と本棚の間、小さな灯りの下で交わしたささやかな言葉だとか、


『待っている。』


 五年間、待っていてくれたこととか……



(出来なかった…。)



 冷たいこの身体を温めてもらいながら、綺麗だと、言ってもらえたことを……繰り返して毎晩のようにヨゼファが思い出すのを、きっと彼は知らない。今までも、これからも。



(愛する気持ちを抑えておくことなんて、私には出来なかった……!!)



 気持ちを伝えられたことが嬉しかった。

 頼ってもらえることが、信頼してもらえたことが喜びだった。

 必要としてもらえる時、生まれてきて良かったと…本当に、何度も思えた。



(好きだったから、)



 言葉で気持ちを交わして、触れ合うことが好きだった。

 昔から変わらずひたむきな彼のことが、本当に好きだったから。



「愛して、いるから………っ、」



 絞り出すように漏らした気持ちとともに、まなこを今一度開く。

 鏡の中からは、相も変わらず自分の憧憬を形とした美しい少女が青い瞳でこちらを見つめていた。そこから逃れたくて、ヨゼファはひび割れた冷たい石床へと目を落とす。


「結局いつも、私は……自分のことばかり。」


 ポツリと呟いた声は微かだったが、それでも無音の空間にはよくよく響いて、いたたまれない。



(分かっていたのよ。最初から、全部…全部………)



 誰しもが、誰かの代わりになることは出来ない。



「だって私、あの女性ひとじゃないもの。」



 紛いものの肉体をいくら抱いたところで、スネイプが満たされることなど有りはしない。


(もしも………。私じゃなくて彼女・・だったら、彼は優しく抱いてくれたの……?)


 そっと首に這わせた指で皮膚を抑える度、鈍痛は強さを増す。そのまま指を滑らせていく最中、肩の傷にうっかりと触ってしまった。思わず身体を揺らして声を上げる。「痛っ、」血が、またそこから滲み出ては垂れていく。


(…そうよね。そうだわ。そう言うものよ……。愛しい人に触れて、抱擁するだけでセブルスの全ては報われるんだわ。)



 そして、私が求める言葉を幾度でも、何度でも、囁いて



「え?」


 顔を上げる。ゆっくり…ゆっくり……鏡に映る、赤くなった自らの瞳と…黒く染まりつつまる頭髪を認めた。

 クシャリと、また、両掌で頭髪を掴む。頭を抱えた。静かに、自分の気が触れていくのを感覚する。



「………やだ。いや、どうして…………。」



 自分のやったことは悉く徒労となり、

 意志したことはすべて無意味となり、

 愛情であったものは実は自己満足のためであったことを、

 眼前に突きつけられるような気持ちがした。


 その様を青い瞳の美しい少女が鏡の中から見つめている。

 息を吸うのも、吐くのも辛かった。今ヨゼファは、自らですら目を背けざるを得なかった自分の本当に深淵の、最も醜い場所を覗こうとしていた。
 


「私、だって……………っ、」



 口を突いて出そうになった言葉を呑み込む。口元を手で抑え、溢れ出しそうになる感情を必死で留めた。

 無理に嗚咽を嚥下し続ける所為でひどい嘔吐感に見舞われた。頭痛がする。歯の根が噛み合わず、ガチガチと不快な音が鳴った。

 それでもどうにか感情を言葉にせず、代わりに親指に歯を立てる。ほんの微かに残っている、白い古傷の上に強く噛み付いた。


 それは願うことすらも愚かしかった。鏡がヨゼファの願望を察知して鏡面を揺らめかそうとした刹那、手を素早くかざしてそれを押し留める。「やめて、」歪んだままのそこには瞳孔が開ききったヨゼファの、脂汗に濡れた顔が映っていた。



「違うわ。私の望みなんかじゃない。だって…、ね。一方的な気持ちを悪戯にぶつけて、一体誰が幸せになれるって言うの……?」



 無理に笑顔を作って、幾千年もの間、人間の欲望に形を与え続けてきた鏡へと震える声で弁明をする。



「私は充分に思い知っているから、本当にもう…勘弁してちょうだい。大切なものを大切にするためには……、我慢と、諦めが…、必要なんだから。」



 さざ波のような揺らめきをようやく落ち着かせた鏡面に、黒髪の少女は再び姿を浮かび上がらせた。彼女へと今一度視線を合わせるためにヨゼファは膝をつき、顔の高さを同じくする。

 手を伸ばして頬の辺りを撫でてやれば、彼女はそっと目を細めて微笑んだ。


「………ごめんね。」


 もう一度、謝る。


「やっぱり……。私なんかの子供に生まれて、貴方が幸せになれるとはどうしても思えない。私はね、自分の子供に…生まれて来なければ良かったなんて、思って欲しくないの。」


 先ほど見た幻覚のように彼女の頬へと直に触れられたらどんなに良かっただろう。触れることは叶わずとも伝わることを願い、ヨゼファは愛情の全てを持って愛しい少女へと語りかけ続ける。

 寄る辺ない寂しさを埋める手段として子を生むことだけはしたくなかった。母親のエゴイズムのために子供を利用するのは自分がなされたこととまるで同じで、それがどれだけ悲しい結果を齎すのかを身を以て思い知っていた。


(私、自分がどうして生まれてきたのか知っているわ。)


 そうしてヨゼファには前科があった。昨日、自分に向けられた糾弾を、人々の信頼が潮のように引いていくさまを肌で生々しく思い出す。

 この先の未来…強大な闇の魔術が打ち砕かれて平和が訪れようと、犯罪者の娘として後ろ指をされて生きていく娘のことを思えば心が千々に引き裂かれるような痛みを覚えた。また逆に、不死鳥の騎士団が敗れ闇が勝利した世界に彼女を生み落すことは以ての外だった。

 決して通じることのない虚像の世界の表面をヨゼファは何回も指先でなぞり、掌で触れた。繰り返すほどに愛おしい、自分の最も強い望みへと。


「でも…。私の前に姿を現してくれて…こんなに綺麗に育った貴方を見せてくれて、ありがとう。もうそれで良いの。私はきっと、満たされたから……。」


 両の手を鏡面へとつけ、唇が触れてしまうほどに近付きながら、ヨゼファは囁く。


「私は貴方を生めないけれども。……会うことは、叶わないけれども……っ、どうか忘れないで。私は、貴方を愛しているわ。」


 言葉にすれば、その気持ちはより一層の真実を帯びた。


「いつか私ではない、善いママの元に生まれておいで。」


 ヨゼファは笑い、泣きたくなって、それから憤って、やっぱり自分の感情の表現方法が分からず、いつものようにただただ、笑った。



「………愛している。愛しているわ。……愛しているの…。愛して、いるのに。」



 鏡の前で跪いたまま、長い口付けをそこに行った。


 時間をかけて緩慢に、顔を上げる。


 鏡面は、真っ暗になって、そこに少女の面影は最早認められなかった。


 ただそこに映るのは、老婆のように白黒が斑らに混ざる髪を振り乱した、右目が赤くなった自分の成れの果てだった。

 許されざる魔術によるものだけではない。自分でも自分を呪わなければならない運命が、たしかにヨゼファの姿形を醜く歪めていた。


「……………さようなら。」


 呟くが、それでも視線は黒い鏡面から離せずにいる。

 確かにここに、映っていたのだ。

 白く透き通るような肌、自分と同じ色の青い瞳。少女なのに大人の女性のように紅い唇で。華奢な手足に細い指。いつでも、こちらに触れようとしてくれていた。



「私…ずっと、善い魔女になりたかったのよ。」


 沈黙の後に呟けば、みぞの鏡がその願いを反映して少女時代のヨゼファが理想とした自分自身の姿が現れた。

 母に似て美しく、もちろんのこと組分けはグリフィンドールに選ばれている。全ての人に…やはり、さすが、と感嘆してもらえるような能力を有し、それでも奢らず優しくて……


(ああ、妹たちは私の理想そのままだったのね。あの子たちは三者三様に本当に優秀で、美しくて、善い子たちだった。)


 ぼんやりと考える。

 真実を知らないテレサ、そしてその双子の妹たちフランチェスカとアンジェリカは皆素直で、ヨゼファのことを教師としてよく慕ってくれた。


「善い魔女になりたくて…それに近付こうと、私は自分なりに試行錯誤をしてはみたのよ。変なはなし、それで生徒たちに懐いてもらって、この学校で必要としてもらえて……。本当に、善い魔女になれたような錯覚に陥ってしまっていた。」


 鏡面へと手を滑らせ、不毛な自らの妄想を拭い去る。そのままで、髪をかきあげては深々とため息を吐いた。


「そんなもの、今更なれるわけないのにね。」


 負の感情を持って自分の顔を眺めれば、髪の色は更に黒色を増やした。汚らしい…と、思わず本音の感想を漏らしてしまう。


「私は今こそ…本当に、決して自分が善い魔女になれないんだと理解ったわ。だって私、殺してしまったもの。自分の子どもを……、、、、あ、ぁ、殺してしまった………!!!!!!!」



 辛うじて均衡を保っていたヨゼファの精神のバランスが遂に、そうして唐突に崩れた。



「うわあああああああああああああああああああ」


 臓腑の奥から滲み出すような低い声が、喉から湧き上がる。

 そうして、涙が滂沱として頬へと落ちてくる。何もすることができず、ただ蹲り、遠くに広がる灰色の天井を見上げながら、滝のような落涙を拭うこともせずに降らせた。

 涙は熱かった。凍えるように体温が低いヨゼファの肉体から生まれたものとは思えないほどに、焼き鏝を押し当てられるような痛みを伴うほどに。


 ヨゼファは抱いた。

 なにも宿らず、これからもなにひとつ宿ることのない空っぽの自らの腹を抱えて獣のような呻き声を上げる。


 悲しかった。

 生きてきた中で悲しい経験も哀しい経験も数多くしたが、いまが最も悲しいと、間違いなく言い切ることが出来た。


 全ての母親という生き物に激しく嫉妬して、愚かしさ故に生涯母親にはなれない自分自身を烈しく憎悪した。



(私、自分がどうして生まれてきたのか知っているわ。)



 ヨゼファがマリアの胎内に宿った真実の理由を、もう少女の時分には預かり知っていた。

 父のことを、愛情と執着の境も分からぬほどに愛した母が、彼を自分に、この国に、そうしてあの家に縛り付けて離さないための鎖として自分は作られた。


 父は病弱だったと聞いていた。男性の立場などろくにないあの家が彼にとって良い環境だったわけがない。身体を、心を思い遣ってもらえるわけがない。

 きっと父もマリアがヨゼファを成さなければこんな冷たい国で、あんな息が詰まるような家に絡め取られることもなく、故郷のフランスに帰ることが出来た筈だ。

 言葉も文化もまるきり違う外国で、ひとりぼっちで死んでいくこともなかった筈なのに。
 


「生まれて、こなければ良かった…………」



 呟き、そうして考えることは、やはり愛しい彼のことだった。

 彼もまた、ヨゼファと出会わなければ心を乱すこともなかったのだろう。無駄に傷付いてしまうこともなかったのだろう。



(私……、なぜ生きているの。人を不幸にするだけならば、この命には一体なんの意味がある。)



 「…………消えてしまいたい、」


 
 少女時代に幾度となく呟いたひとり言を漏らしてから、ヨゼファは瞳を伏せ、首を垂れて、動けなくなった。



 ヨゼファ、



 また、自分を、呼ぶ声がする。

 暖かくて、力強い声だ。どうにか気持ちをこの場所に繋ぎ止め、ヨゼファは涙と汗と鼻水とで汚れた顔を服の袖で拭う。



「…………シリウス。」



 掠れた声で、友人の名前を呼ぶ。そうして昨晩の彼の言葉を、ひとつずつ思い出した。

 眉根を寄せれば、拭ったばかりの顔にまた別の種類の涙が垂れていく。



「ありがとう………。」



 声になりきらないほどに掠らせた音で、心からの礼を述べた。


 そして伏せた視線のまま、自分の胸元を見やる。黒い魔法陣をいつものように認め、目を凝らし、もう一度涙を拭った。



(私は、)


(私は……、これで良い。)



「大丈夫よ………。私、やり遂げられる。だから最後まで、、、。」



 首を折ったままゆらりと立ち上がり、顔を上げ、ヨゼファは最後に今一度鏡へと笑いかけた。



「全部、終わらせてみせるのよ。私は先生だもの。子供たちの未来を守らないと…。」



 闇が漂う空間に手を伸ばすと、ヨゼファが望む魔法陣が即座に中空へと結ばれる。

 魔法陣を構成するための床も壁も、彼女には最早必要無かったのだ。

 身体は魔力で満ち満ちていた。呪いがより一層強く、肉体との結び付きを強固にしたことを細胞が自ずと感じ取る。


 細い線で結ばれた魔法陣の中へと、ヨゼファは黒い影として引き込まれていく。

 涙はすっかりと成りを潜め、いつものように微笑することは容易かった。















 時々ね……。あの子が私の元に生まれてきたら、一緒になにをしようって他愛のない想像をしていたのよ。

 良いじゃないの、夢を見るだけならば自由だわ。

 初めて胸に抱いた時、一体どれほど幸せな気分になれるのかしら。


 でも、もしかしたら夜泣きがひどくてろくに眠れない日々が続いてしまうかも?

 子育てが大変だってことくらい、あまり頭が良くない私だって分かるわ。きっと毎日クタクタかも。

 けれども多くのお母さんがそうであるように、自分の子どもの笑顔でその苦労はあっという間に報われるの。


 お誕生日にはなにを買ってあげましょうね。

 クリスマスにはどんなサプライズを準備しましょうか。

 小さな彼女の身の丈よりも大きなプレゼントをあげてみたい。沢山の嬉しい驚きを知ってもらいたい。


 私、料理を作るのは好きだけれどそんなに上手じゃないの。

 でも毎日食べる母親の料理が不味いのはいやでしょう?頑張って上達してみせるわ。

 腕によりをかけて、美味しいものをいっぱい作ろう。だって貴方に美味しい、って言ってもらいたいもの。


 喜んでいる笑顔が沢山見たいわ。幸せそうな表情や仕草が見てみたい。

 本当にそれだけ、それだけなの。


 手を繋いで色々なところに出かけて、色々な遊びをしましょう。

 そうして空が赤くなる頃、出かけたときと同じように手を繋いで家に帰るの。


 夜には綺麗な絵本を読み聞かせてあげようかしら。この世界にあるのは悲しい物語だけじゃないのよ。面白くて、幸せな話の方が数多くあるわ。

 年頃になったら可愛い洋服や靴を買いましょうね。どんなものだって似合う筈だわ。貴方は世界で一番可愛い女の子だもの。


(可愛い、可愛い……)



 世界で一番可愛い、私の子。



 不安になってしまう夜にはベッドの中で抱っこして、そう囁くわ。

 私がして欲しかったことを全部…全部してあげる。


 いやね…こんなことでは子離れが難しいかも。思春期がきたら嫌がられてしまいそうだわ。

 でも仕様がないことでしょう?親とはそう言うものだし…私は貴方のことを、愛しているから。本当に、ね。




「…………変なの。」



 辿り着いた場所で、朝露に濡れた草を裸足で踏んで…

 ヨゼファはポツリと、呟いた。


「そんな心配は徒労だわ。」


 顔を上げて空を見れば、暁の星がたったひとつ透き通った藍色の空に瞬いていた。



「おはようヨゼファ。夢の時間はおしまいよ……。」



 ほとんど囁き声を漏らし、ヨゼファは夜明けが近い空気の静けさをゆっくりと肺へと満たしていった。



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