骨の在処は海の底 | ナノ
 無限の荒野

 なにか…攻撃的な魔法が爆ぜたような派手な音が屋敷の中に響いて、シリウスは顔を上げてハッとする。


(…………………。)


 もしや、闇の陣営またはダンブルドアに不信を抱く魔法省の過激派が、不死鳥の騎士団本部となっているここに攻撃を仕掛けたのだろうか。

 そろりと杖を抜き、彼は気配を殺して様子を伺った。現在、ここにはシリウスと屋敷しもべ妖精のクリーチャーしかいなかった。今の騎士団本部を守れるのは、彼のみである。


 シリウスは暫くそのままでいたが、無音の時間が続くので痺れを切らして音の出所…恐らく応接室…に向かうことにした。

 灯りが落とされているその部屋は扉がほんの僅かに開いていた。元から開いていたのか、それとも爆発の衝撃で開いたのか。どこからか吹く弱い風に煽られて、古い建材の扉は鈍く軋みを上げている。

 近付いて室内の様子を伺った。……何者かが息衝く気配が、確かにある。緊張から、杖を握る手に汗が滲んでいくのがよく分かった。

 深呼吸をして、三つ数えてからドアを蹴って開けた。杖先に強い明かりを灯して室内及び不審者を照らし出す。そしてそこに居た馴染み深い人物を認め、彼は拍子抜けをして瞬きを数回行った。


「………………。君が、うちでいつも紅茶に入れる砂糖の数は。」


 だが…念のため、反射的に両手を上げては固まっている友人が本人かどうか確認の質問する。

 彼女は声色に焦りを滲ませながらも、「四つ。でも遠慮してるだけで、構わないなら五つ入れたいわ…。」と正直に返した。


「……駄目だ。リーマスと言い君と言い、このままでは生活習慣病まっしぐらじゃないか。」


 脱力して溜め息しながら、シリウスはヨゼファへと「頼むから、来るなら普通に来てくれ…。」と零す。

 彼女もまた上げていた両手をゆっくりと下ろしていった。だがその表情にいつものような笑顔は無く、なにかを考えるように下げたばかりの手で口元へと触れる。

 その指先が、少し震えていることに気が付く。シリウスはその様を訝しく眺めるが、ヨゼファはすぐにそれを強く握って無理矢理に抑え込んだ。


「………。なにか、用事?学校はどうしたんだ。今の時間は授業中じゃないのか。」


 シリウスはとりあえずの言葉をヨゼファへとかける。

 ひとまず不審者の侵入がなかったことに安堵をしたのは良いが、彼女の挙動のおかしさがシリウスの焦燥をどこか煽った。(良くない感じがする、)と勘が告げていた。


 ヨゼファは「そうね…」と相槌しながらも、どこかが上の空でそこから続く言葉を口にしようとしない。

 また、なにかを思案するのか指先を唇に触れさせている。それから「いけない、」と呟いて額のあたりに手をやった。


「ごめんなさい…。ここ以外に行く場所が思いつかなくて。でももう立ち去るつもりよ、騒がせて悪かったわ……。」


 未だ上の空のようでシリウスを見ることもせず口早に言葉を並べてから、彼女は微動だにしなかった場所から動く。その腕を掴んで留めながら、「どこに行くつもりだ。」と少し強い語調で声をかけた。

 ようやくヨゼファがこちらを見た。

 すっかりと伸びてしまった灰色の前髪が片目を隠している。こちらから見える方の瞳の中には、透明色の弱い光がぽっかりと浮かんでいた。叱られる直前の子どものような、純粋な眼差しだった。


「……なにかが、あったんだろう。ヨゼファが連絡もなくやってくることなんて今までなかった。」


 よっぽどだ、と言いながら…騎士団のメンバーたちによってかけられた空間を閉じる魔術へと、護りの魔法を更に一層重ねる。


「理由を話してくれないか…。力に、なれるかもしれない。」


 ヨゼファの前髪を横に流して耳にかけてやりながら、瞳を逸らさず真っ直ぐに言葉を伝える。

 露わになった彼女の両の瞳もまた、こちらをじっと見据えていた。







 いつの間にか、窓の外からは斜めに茜色の光が差し込む時間帯だった。

 今の時期、傾き始めた日が完全に落ち切るまでには然程の時間を要さない。夜の帳が深々と降り始めていくのを、肌は感じ取っている。


 少しの間、色濃い赤色の光の中で二人は立ち尽くしたまま沈黙していた。

 シリウスは深い溜め息をひとつする。ヨゼファも、肩を竦めて息を吐いた。どこか他人ごとのように軽い反応である。


「そうか、」

 シリウスは呟き、頷いた。


「……ヨゼファ。差し支えなければで良いけれども。君の身体には、その禁じられた魔法陣の痕跡が…本当にあるのかな。」


 尋ねられて、ヨゼファは右胸の辺りに掌を持っていく。「ええ。」と答えて、彼女は艶のある黒いローブの上から、その付近を指の動きで示した。


「ヴォルデモート卿から、逃げるとき?」

「そうね…。」

「で、女史の言葉を拾って推測するなら、今も増えてる。」

「そういうこと。」

「どうして。なんのために?今はもう誰かの腕を吹き飛ばして逃げる必要もないだろう。」

「ホグワーツへとかける守護の魔法なのよ。護りとはいえ…人を傷付ける魔法陣には術者の血液が必要だから。でも完成すれば、有事の際に学校の異物を一括に除くことが出来るわ。」

「そんなことをしなくても…私たちの学校は歴代の魔女魔法使いが残した守護の魔法がかけられているのでは?」

「それは確かに。けれども言葉の呪文は術者が亡くなった後に効果が薄くなっていくでしょう。今もなお、それが死喰い人たちを退けられる力を有しているのか怪しいし…。ねえシリウス、ヴォルデモート卿の身になって考えてみて?貴方だったら、ホグワーツを完膚なきまでに地均ししようと思った時、どれほどの力を必要とする?」

「私はホグワーツを完膚なきまでに地均ししたりはしないよ。」

「あはは…、そうね、それはその通り。例えばの話よ。私だってしないけれども…私だったら、そうね…持てるだけの力を全て注ぐわ。ホグワーツは教員も生徒も優秀な魔女魔法使いばかりだし。なにより、あのお方は私たちのダンブルドア校長先生と、ホグワーツにいた頃の自分自身を乗り越えることを強く願い続けていたもの。人生の大きな目標よ、出来ることを余すことなくしないわけがない。」


 ヨゼファは赤い陽の光が斜めに差し込む窓へと視線を向け、そこへとゆっくり歩み寄る。後ろ手に回した指の青白さが、黒い服の中でへんに目についた。


「一体、どれほどの力が私たちにあれば生徒を守ることが出来るのかしら。彼の復活を目の当たりにして、心から、それとも恐怖から…どのようにしても、大勢の人間が従うでしょう?闇の力は甘美な麻薬だわ、暴力的な魔法を素晴らしく増強させる。正しい道を歩もうとする若い魔女魔法使いなどひと堪まりもないのかもしれない。……だから私も、彼と同じように出来ることを全てやろうと思ったの。」


 不自然に落ち着いた口調で言葉を並べながら、彼女はゆっくりと歩んでいる。硬い靴音が、その度にコツ、コツと鳴った。


「具体的には?君の魔法陣が完成したら、ホグワーツはどうなるんだ。」


 開いてしまった二人の距離を詰め、窓際、更に強くなった赤い光の中でシリウスは質問する。斜陽の光は、二人の色濃い影を床へと落としていた。


「ホグワーツは…とても長い歴史のある建築だわ。既に霊的な性質を帯び始めて久しい。あの巨大な城を礎に、混乱バラルの扉を開きます。あの城ホグワーツにとっての異物は全て平等に消え失せるでしょう。」

「なにを言っている。…不可能な話だ。」

「私の力だけではね。でも、ホグワーツは強大な魔力の磁場でしょう。妖魔ルシファと魔法使いの契約が幾度もあそこで交わされた。条件は潤沢に揃っているわ、私みたいな木っ端魔法使いでも出来得ることよ。」

「それで、君は?ヨゼファはどうなるんだ。」

「うん…私?」

「そう、君だ。」


 シリウスは声を潜め、ヨゼファの黒い服に包まれた腕を掴む。

 他人ごとのように自分を話す彼女に、しっかりしろと伝えるために指に込めた力を強くした。


「なるほど、君とホグワーツの魔法陣は確かに魅力的な魔術だ。犠牲を大幅に抑えることが可能だろう。だが…本当は望んでいなかったり、洗脳されて死喰い人に降った魔法使いを救うことが出来なくなるじゃないか。」

「貴方の言うことはもっともだわ。けれども私は、未来に繋がる子供たちの命の方をより優先すべきだと思うの。」

「それに、なにより君のことだよ。異界の口をこじ開けて無事だった魔法使いの話を聞いたことはない。」

「……そうかもね。でも、私が死んでも魔法陣は必ず発動するから、何度でも。ホグワーツはこれからもずっと、生徒たちにとって最も安全な場所よ。」

「いや違う、その話は今していない。ヨゼファ自身の話だよ、死んでしまったらなんの意味がある。こんなに生徒を大事に思っているのに、見届けてやることをしないなんて。」

「いいえ、死ぬとは限らないわよ。それに…今ある生が死ぬことによって意味あるものになってくれるなら、それも悪くないとは思わない?」

「ヨゼファ、君は間違っているよ。落ち着いて…一度考え直してみてほしい。」


 腕を掴んでいた掌をその両肩に乗せて、シリウスはヨゼファの瞳の中を見据える。

 その青い瞳は、やはり幼い子供のように無垢な光をぽっかりと浮かべている。

 不思議だ、と思った。ヨゼファは年相応…それ以上に老け、いや大人びて、教師らしい成熟した女性なのに。根幹にあるのは少女の姿のような気持ちがした。

 きっと…自分や周りが思うほど、彼女は昔から変わってはいないのかもしれない。


 こうやって、間近でお互いの瞳の中を覗き込むのは初めてではなかった。だが、学生時代に相対していた時とは気持ちを全く別のものにして、彼女の肩を掴み直す。強く、けれども痛くないように。


「今すぐ、魔法陣の構成をやめるんだ。」

「…………………。」


 ヨゼファは、シリウスの言葉の意味を分かり兼ねるようだった。

 数回瞬きをして…不思議そうな表情でこちらを見つめ返す。


「多くの魔法使いや闇祓いがホグワーツを護ろうとしている。他に手立てが必ずある筈だ、一緒に探そう。決してひとりで抱え込まないで。」

「………。ありがとうシリウス、でもひとりで抱え込んだりはしていないわよ。私が言い出したことだもの、ちゃんとやり遂げるわ。」

「肉体を傷ものにしてまで…魔法省から追われる立場になってもやり遂げる意味はあるのか?仮に生き残っても、またアズカバンだ。一度でもあそこに収容された人間なら、二度と戻りたいだなんて思わないだろう…!?あれは地獄以外のなんでもない、このままじゃ君は死ぬか地獄かの二択しか選べなくなる!」

「私のことは然して大きい問題じゃないわよ。」

「なぜ?大問題じゃないか!……分からないな、なんで…どうして、自分のことを大切にできないんだ!?」


 自分の言葉が一向にヨゼファの中に響かないことに焦れて、シリウスは語気を強くする。

 彼女の肩に置いていた手をその頬へとやり、身体の距離を更に近くした。「ヨゼファ」と名前を呼ぶ。いつの間にか、周囲を埋めていた色濃い斜陽に青色が混ざり、辺りの空気はしめやかになっていた。


 星を…アズカバンで二人が落ち合う時はいつも夜で、星が鉄格子の隙間から覗いていた…その星を、何故か今思い出す。『あの中のどれがシリウス?』と邪気なく尋ねてきた彼女の笑顔と共に。


「ヨゼファ…私は少し、前よりも君のことが分かるよ。……怖いんだね、なににも・・・・なれないことが。」


 彼女は…非凡な能力を有した母親から生まれた、凡庸…いや、はっきり言うとそれ以下の娘だった。自分がどういう目で人から見られているかを、少女自身が一番よく分かっていただろう。自尊心をすり減らし、矜持を保つことはままならなかった。

 だから、嬉しかったのだろう。自分自身の魔法に出会えて。それを役立てたいと思うのは道理だ、気持ちを否定することは出来ない。(だが、)


「でも…、よく聞いて。なにかを成し遂げなければ生きている意味がないなんて、どうかそんなことを思わないで欲しい。」


 ヨゼファは近すぎる顔の距離に驚かず、ただ呆然とした表情でこちらを見つめてくる。自分のやや浅黒い指先と彼女の紙のような白さの皮膚は並べると色の差が際立った。そして、その皮膚はあまりにも冷たい。まるで死人か無機物だ。これもまた、血の魔法陣の呪いなのだろうか。


「そんな馬鹿げたことがあるものか…!ヨゼファ、目的のために生きるんじゃない。生きるための目的だ。君はこんな単純で簡単なことを、一体全体なぜ分からないでいる!?」


 シリウスの言葉の強さに驚いたのか、それともなにか別のものを畏れたのか…ヨゼファは彼の元から一歩後退る。それを防ぐため、両腕を再び掴んで元の位置へと寄せた。


「生きているだけで構わないんだ…!それこそが人間の最も尊い営みだと、誰も君に、言わなかったのか!?」


 ヨゼファが胸の前で握った手に力がこもっているのが見て取れた。爪先が白くなってしまっている。その表情から弱い笑顔が消えて、ただただ困惑の色だけが顔に浮かんでいた。(混乱しているんだ、)シリウスはその反応を答えとして受け取り、瞳を伏せ、「そうか、」と返す。


「それならば、私が言おう…。君がちゃんと意味を理解してくれるまで、何回でも。」


 目まぐるしく畝って変わる空の色が、ついに夜を連れて星の灯りを辺りへと散らしていくのが分かった。

 ヨゼファは愕然とした表情をこちらに向けている。シリウスは「ヨゼファ、」とその名前を今一度、ひたむきに呼んだ。


「生きていることこそに価値があるんだ。君は生きているだけで…それだけでもう、良いんだよ。」


 彼女の腕を掴んでいた掌をその背中に回して、強い力で抱き寄せる。

 無抵抗だった。ヨゼファはシリウスの腕の中、天井を見上げて深い溜め息を吐く。強張っていた彼女の身体から、ストンと力が抜けていった。崩れそうなその膝を支えるため、抱き直す。


「君は私の大切な友達なんだ、どうか死に急がないで欲しい…!身体を休めたいならいつまででもここに居て構わないんだ、一緒に考えればきっと別の道がある!!」


 耳元で、どうにか彼女の心に届いて欲しいと願いながら訴えた言葉は掠れていた。

 なにもヨゼファの身に降りかかっている不幸だけに胸を痛めているわけではない。その愛情深い性質にも関わらず、自分に対してこれっぽちの価値を見出せていない彼女の生き方が、人生そのものがシリウスには辛かった。

 シリウスは、ヨゼファのことが好きだった。

 それが男女間で育まれる恋愛感情なのかと問われると首を傾げたくなるが。それでも、短くはない獄中での生活で築いた信頼関係は何にも代え難いものである。人間同士の絆の脆さを思い知っている彼だからこそ、自分に残された数少ない友人を心から大切にしたかった。

 生き延びて欲しい。自分がしてもらったように、彼女のことを助けたかった。

 そして全ての終わりまで…終わった後、それからもずっとヨゼファと交わす言葉と笑顔を持っていたい。愛情を込めて抱く力を更に強くしながら、そう強く願った。


 窓から差し込む、炉にくべられた錫の雫のように強く煌めく星の灯りを見上げ、シリウスは一度瞼を下ろした。


「今夜の星は、アズカバンで見たものに似ているな…。あんなところだからこそ、自然は涙が出るほど…残酷なまでに、美しかった。」


 独り言のように呟き、ヨゼファの灰色の柔らかい髪に頬を寄せる。

 青い闇が漂う室内、入り口の扉付近に黒い影が立ち尽くしていた。

 暗闇にその身体をすっかりと浸らせ、それ故に顔の青白さだけが異様に際立ち、その中にふたつ浮かぶ黒い瞳は夜よりも深い闇色だった。


 青白い星陰に照らし出されたその姿を眺めながら…シリウスは二、三度瞬きをして目を細める。ヨゼファのことをそっと抱き直しつつ、彼へと夜の挨拶をした。

 それによって、彼に背を向ける形になっていたヨゼファもまたその存在を知るところとなった。彼女はシリウスの腕の中で伏せていた顔を上げ、ゆっくりと首を巡らせていく。

 その青色の瞳と夜を引き摺る男の黒い瞳とが視線を重ねたであろう刹那、彼は弾かれたように踵を返して薄暗い廊下へと引き返す。

 暗闇の中、その乱れた靴音が古い屋敷の腐りかかった床板を鳴らした。ヨゼファが我に返ったように息を呑むのを感覚でよくよく覚える。スネイプを追って今にも走り出しそうな彼女の腕を掴み、引き止めた。こちらを振り返ったその瞳の中に、星屑が細かい光の粒になって浮かんでいた。


「ヨゼファ、」


 声を低くして呼びかけると、彼女は気を取り直すようにして曖昧に微笑んだ。


「…………。もしかして、付き合ってるのか?」


 スネイプが消えたこの部屋の入り口、深い闇へと四角く開いた扉へと視線を向けて尋ねる。

 ヨゼファは「まさか、」と苦笑し、即座にそれを否定した。


「でも…。日陰者同士、どう言うわけか気が合うのよね。」


 そう続けた彼女の表情は穏やかで、先ほどの覚束ない様子など微塵も感じさせなかった。

 そして、自らの腕を掴むシリウスの手の甲へと掌を乗せて、優しく握る。


「シリウス、どうもありがとう…。」


 嘆息とともに告げられた謝礼には、少しの涙の気配があった。けれども、気配だけだ。やはりヨゼファは泣かなかった。

 思えば、一度も涙を流させることに成功しないでいる。…別段成功しなくても良いのだが。自分の役目はきっと、ヨゼファを大いに笑わせることだから。そんなことを、ふと場違いにシリウスは考えた。


 シリウスが彼女の腕をそっと離すと、今度はヨゼファが先ほどの彼のようにこちらへと手を伸ばし、両掌で頬を包むようにして触れてきた。彼女はありがとう、と同じ言葉を繰り返す。


「本当に、どうもありがとう。貴方は私に、今まで誰にも与えてもらえなかったものをくれた人だわ。とても励まされたの。なんとお礼を言って良いか…」


 優しげな表情の中でクシャクシャとした笑い皺を隠しもせず、ヨゼファは笑顔だった。


「私…、やっぱり出来ることをやるだけやってみようと思うわ。私のことを、貴方がこんなにも思い遣ってくれているんだもの、もうそれだけで充分よ。報われたわ。」

「………このまま続けて、仮に成功して…でも、生き残る保証は無いだろう。」

「死ぬ保証だって無いわよ。それに生きるか死ぬか分からないのは騎士団員なら皆同じでしょう。そう…私は皆と、貴方と全く変わらないの。私たちは同じ志と目標を持った仲間だわ。」


 ヨゼファはシリウスの頬からゆっくりと手を離した。

 そして一歩後ろへ退き、夜の闇へと黒い衣服に包まれた身体を沈ませていく。


「また…落ち着いたら会いましょうね、シリウス。」

「……………。そうだな…、私はいつでも友達のことを待っているよ。休みたくなったら、遠慮せずに来て。」

「ありがとう、私の大切な友達。きっと次に会うのは少し先になるから…その時は私の長いお喋りに付き合ってもらいたいわ。」

「もちろん……。私も、ヨゼファを沢山笑わせることが出来るように…楽しい話を用意しておくよ。」

「嬉しいわ。とっても楽しみ。」


 そう言って再三度笑った後、足音もなく、彼女は完全に夜の闇に溶け切って見えなくなった。

 少しもせず、真っ白い光が弾けて見慣れた細い線の魔法陣が中空に浮かぶ。強い光は闇に慣れてしまった目には些か眩しすぎた。


 シリウスはいつも持ち歩いている小さな聖書を模した箱を懐から取り出し、掌中のそれを暫時見下ろす。

 開くと、いつものように黒々とした穴が偽物の頁の中にぽっかりと口を開けていた。


「私も…。少しは、君を助けることができたかな。」


 ヨゼファ、と友人の名前を呼び、彼は双子匣を閉じて元のように胸の内へと戻していく。

 それは彼女との単なる通信手段と言うよりは、つながりを具現化したものだとシリウスは考えていた。

 持っていると、見守ってもらえているような気持ちになれる。







 止まるかと思っていた心臓の動きが、いやに鈍く、大きく蠢いているのを骨の下、肉の狭間に感じる。

 息がうまく出来ずに、スネイプは喘ぐような呼吸でどうにか体内に酸素を取り入れた。

 そうやって、移動してきた暖炉の前で蹲っては…バラバラになりそうな精神の平静を、暫くの間保っていた。


 やがて暗闇に包まれた身体を緩慢に起き上げ、ふと、ここはどこだと考えた。

 闇雲に移動したためか、自室ではない場所に到着してしまったらしい。

 しかしすぐに今いる場所を理解する。よくよく覚えがある部屋だったからだ。


 …………首を巡らし、無人の室内を見回す。

 傷だらけの机、その傍らの小さな書棚に化石のような年代ものの書物が詰め込まれている。三色のインクがラベルを揃えてこちらを向いていた。複数の羽ペンがいつものように行儀よく並び、金色のペン軸が弱い星陰の中でその身を光らせて……

 壁には、黒く光沢のある長いローブがかけられていた。白色のシーツが、整えられたベッドの上で皺の中に星明かりを蓄えている。

 あ、と、息を呑む音か声かも定かでないような不確かなものが口を吐いて出た。


 ここから今すぐに立ち去らなくては、とスネイプは焦燥する。心の薄い表層が今にも破れて、なにかが溢れ出しそうだった。

 整い始めた呼吸がまた乱れていくのを感じて、急いでこの部屋の扉へと向かおうとする。しかし覚束ない足取り故に蹌踉て、ゴブラン織のカーペットに蹴躓きバランスを失う。

 咄嗟に身を守るために倒れた先は、星屑の光が多分に蓄えられた真っ白いシーツだった。

 ベッドのマットがよくよくスプリングを利かせてくれたお陰で、スネイプの身体はなんの痛みもなくそこに受け止められる。

 しかし、鼻腔が残酷なまでに馴染み深い香りを覚えて、思わず噎せそうになった。


 そのままで…動くことが出来なくなった。何度となく身体を横たえたこの大きくはないベッドの上で。

 喘ぎ声のような言葉を成さない音が、また口から漏れる。そこを抑えるために咄嗟に手をやるが、堪えきれずに自らの指に歯を立てた。


 窓の外からは、相も変わらず美しさが過ぎる星明かりが運ばれてくる。やめてくれ、と本当に小さな声で悲鳴を上げる。自らの歯型がついた指で、白いシーツを握りしめた。


 こうしてここで堪えていると、いつも背面からそっと腕が回ってくるのだ。落ち着かせるように、彼女は自分のことをただ抱き締める。少しの沈黙の後、言葉が二言三言かけられた。思い遣りのある言葉だった。望めばもっと強い力で抱いてもらえる、その腕の中で。



 -----------------ヨゼファがいないこの部屋で一人、今のようにベッドに身体を横たえた夜はそれなりにあった。

 彼女が年に一度は必ず、ひと月ほどフランスに行ってしまうとき。そして更に昔の五年間。

 本当に…思い返せば、あれはあまりにも長い時間だった。

 アズカバンに五年もの間繋がれていた彼女の辛苦は当たり前だが自分以上だろう。しかし…それでも。深夜、無人のこの部屋に足が向く。

 壁に引っ掛けられた黒いローブを掌で撫でた。サラサラとした冷たい感触を齎して指先を滑っていくそれを、壁から外してじっと見下ろす。そうして目を細めて…躊躇い、もう一度躊躇ってから胸に抱いた。

 室内の生活の気配が完全に失せても、ベッドには彼女の面影と弱い香水の匂いがずっと残っていた。真っ黒いローブと共に、ゆっくりと身を横たえて瞼を下ろす。そうして自らを慰めた記憶を鮮明に思い出し、スネイプはハッとして奥歯を噛み締めた。


(ヨゼファ、)


 …………今日…ヨゼファの身に起こったことは、すぐに学校中の知るところになった。地下の教室で授業をこなしていたスネイプの耳にもそれは即座に入れられる。

 動揺しないわけがなかった。彼女の行方と安否がまず第一に気がかりだった。然しながらダンブルドア校長がいなくなったばかりだったのだ、この学校は。予想外の事件に弱く、混乱を収束することも覚束ない。

 その中で自分が取り乱すことは許されなかった。それがどうした、とその知らせを一蹴して授業を続行する。一日の終わりまで粛々と。そうして教師としての義務を果たし終えた夕刻、すぐさま彼女を探して心当たりを虱潰しに調べ上げる。

 行方の分からないヨゼファを探すことは習慣のようなものだったから、場所を突き止めるのに然したる苦労は要さなかった。だが…なぜ、と考えた。なぜ、そこだったのか。


(私のところには……)


 来るはずがない。出来得る限り学校ホグワーツから離れた方がより安全なのは分かり切った当然のことだ。

 あの館は不死鳥の騎士団の本部だ。護りの固さも折り紙つきである。


(……それでも…どうして、なぜ、)


 先ほどの光景が、瞼の裏で劇的に蘇る。(やめろ、)また小さな声で呟いた。(やめろ…!)と掠れて音にもならなかった。


 よく晴れて空気が乾燥した夜の、降って来そうなほどに美しい星空は嫌いだった。憎んですらいた。夥しい星屑の下で、彼女・・は自分ではない男性に身体を預けていた。

 その様をただただ呆として眺めながら、自分は孤独なのだと深く強く改めて感じ入った。だが、全ては自らの性質と行動が招いた結果なのだと思う。なぜ、こうも生きることは難しく、学ぶことは出来ず、過ちは繰り返されるのだろうか。


『ヨゼファ…私は少し、前よりも君のことが分かるよ。……怖いんだね、なににも・・・・なれないことが。』


 ずっと、その不安はあった。

 もし仮に、ヨゼファのことを真実に思い遣って、愛情を齎す人間が現れたとして……生徒たちが思い描く教師としての彼女のある種の虚像ではなく、その本質と真摯に向き合うような……そのことを考えるのは、恐怖だった。

 執着とも言えるほどに自分に向けられていた、ヨゼファの深さが過ぎる愛情が薄れていく未来があるのだろうか。それが別の人間に奪われることもあるのだろうか。


 今は……そんなことを考えている場合ではない。この学校が置かれた状況は最悪だった。ダンブルドアと連絡を取り合うことが未だ難しい以上、スネイプは彼に変わってこの場所の平静を保たなければいけなかった。一時の烈した感情に身を任せている時間と余裕はないのだ。

 ……ヨゼファは個人的な感情を除いても、次に控えた大きな戦いで重要な存在だった。失う訳にはいかない。今は、あの屋敷に身を潜めているのが得策である……。
 

『ヨゼファ、君は生きているだけで…それだけでもう、良いんだよ。』


 それでも、と掌で顔を覆う。苦しくて、思わず呻き声を上げた。


だって、ヨゼファを大切に思っている……!!)


 そうして信頼を寄せていた。自分がその孤独の受け処になっている自覚もあった。

 けれども思っているだけでは無いものと同じだ。言葉にして、行動にして示してやらなければ。

 友人でも…恋人でも、家族でさえも。人間同士の関わり合いは、相手を思い遣ることが出来なければうまくいく筈がない。



(離されたく、ない……)



 静寂が、四方から急速に押し寄せてくる。静寂とは音がしないことではなかった。静寂とは、巨大な黒い森が夜風にざわめく葉ずれの音、その時折聞える猛禽の鋭い鳴き声、そして、闇の中で身じろぎもせずにいる自分の黒い影だった。


(それでも…)


 それでも、どうしても感情に歯止めを効かせることができなかった。

 自分のためだけに生きて欲しい。全てを犠牲にして愛して欲しい。自分が死んだら一緒に死んで欲しい。



 もう二度と一人には、なりたくなかった。


 自分から離れるくらいなら、いっそお前は死んでしまえと。本心で、強くそう思った。



 殺してやる



 背面から、そっと冷たい腕が回されていくのが分かる。落ち着かせるように、彼女は自分のことをただ抱き締める。

 少しの沈黙の後、スネイプは強い力でその腕を掴んだ。

 黒い杖を抜き、空間を強固に閉じる魔術でこの部屋を覆う。護るためではなく、逃がさないために。


 掴んだ腕を引き、その肩を抑え込んで今しがた自分が倒れ込んでいたベッドにヨゼファを引き倒す。

 突然のことに驚いた彼女の息を呑む引き攣った音が耳を掠めた。靴も脱がずに土足でベッドへと上がり、スネイプはその身体に馬乗りになる。

 明確な殺意を持って、力の限りにヨゼファの首を両の掌で絞め上げた。


「殺してやる…!!!」


 叫んだ声は、貝のように閉ざされたこの空間にくぐもって響かずに、耳障りだった。


「裏切ったら、殺してやる!!!!!」


 それでも、声が裏返ることも気にせずに絶叫した。

 滂沱として降った涙が、ヨゼファの顔へと真っ直ぐに、幾重にも落ちていく。


 殺してやる、

 殺してやる、

 裏切ったら殺してやる、

  
 もう何度叫んだか分からない。

 血を吐き出すような気持ちで。


 声が枯れるまで、何度も。何度も。何度でも。

 分からせてやらねば、気が済まなかった。



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