◎ 冬のミルク
スネイプはサッと首を巡らせて、今しがた鈍い音を立てて開かれた扉へと視線を送る。
入って来た人物も無論こちらを見ていた。そうしてその緑色の瞳を見開いては小さく息を呑む。
「………ハリー?」
スネイプと共にいたヨゼファもまたその少年…いや、もう青年と言った方が良いのだろうか…の姿を認めて名前を呼ぶ。
そうして分かりやすい安堵を声色に滲ませて、「どうしたの?」と彼へと尋ねた。
スネイプは隠しもせず大きく舌打ちをして、今しがた掴み上げていたヨゼファの襟首を乱暴に離す。彼女は少し蹌踉めくが、なんのことはなくすぐに姿勢を正してはまたハリーへと笑顔を向けた。
「スネイプ先生に用事?」
ハリーはスネイプの一連の行為に驚いて目を見張っていたが、当のヨゼファはそれを気にせず彼の傍へと歩んでいく。平素の如く教師らしい物言いに、彼はどう反応すれば良いのか分からないようだったが、ひとまず首を縦に振った。
………そうだ、タイミングが悪かった。とスネイプは考える。今夜は校長に頼まれて奴の閉心術の指導に当たる日付だった。
もちろんそれを忘れていた訳ではない。だが、つい激昂してしまった。ヨゼファを責め立てることをせずにはいられなかった。
「あら…そう。もしかして、ディナーの約束でもしてた?」
ヨゼファは空気の重さを払拭しようとしてるのだろうか。スネイプへと振り返り、場違いに明るい声色で質問をする。彼はそれを取り合わず、「違う。」とだけ端的に返した。
「僕は…。スネイプ先生に、閉心術の指導を。……。」
スネイプに変わって、ハリーがヨゼファに説明をする。彼女もこの青年の精神に起こった異変は知るところだったから、「そう…、」と言っては少し目を細めるようだった。それからハリーの頬に触れ、頭髪をそっと撫でた。
「無理しないようにね。慣れないと大変な魔法だから、適度に休みながら。」
「休んでいるような猶予はない。お優しい…ヨゼファ先生はどうぞ、おかえり願えますかな。」
「……………。セブルス、あまり厳しくしすぎては駄目よ。」
「黙れ。」
低く冷たい声で言って、スネイプは頑なな視線をヨゼファへと向けた。彼女はそれを意に介さず今一度微笑み、ハリーとスネイプへと「おやすみなさい。」と夜の挨拶をした。
ヨゼファがいなくなった地下室の空気は、より一層重たく、闇の深さは一段と増した。
ハリー・ポッターもまた非常に居心地が悪そうにスネイプの様子を伺っているが…やがて、その口を開いた。
「あの。ヨゼファ先生と一体、何を…。」
「話す必要のないことだ。」
「いえでも。こう…服の胸元を掴んでいましたよね。あまりそういう、乱暴なことは「黙れ。」
先ほどヨゼファへ向けた時と同じく攻撃性を含めて言葉をぶつければ、彼は数回瞬きをしては眉根を寄せる。その仕草は驚くほど父親そっくりで、スネイプの逆立った神経を更に強く刺激した。
「…………。知ったような口を聞くな。……なにも、知りもしない分際で。」
ひとつずつに重さを込めて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「まるで父親と同じだな。余計なことばかりに首を突っ込みたがる。興味本位で。周りはいい迷惑を被るばかりだ…。」
その発言はハリーのどこかに触ったらしく、彼は声を硬くしては言葉を返した。
「父さんのことを悪く言わないで。確かに、僕は事情を知りません。それでも…暴力は、良くないことだと思います。」
スネイプはハッとして息を呑んだ。
お前がそれを言うのか、と、頭へ一気に血が昇る気分だった。
彼はハリーとその父親を取り間違える錯覚を一時的に起こしていた。それほどまでにこの父子は似ていたのだ。自分ばかりが正しいと思っている。
こちら側の事情を分かりもしないくせに。
「………なるほど…。」
動揺と混乱を胸の奥で押し潰すように沈めて、スネイプは静かに応対した。
脳裏を、ヨゼファに行った数々の乱暴な行為とその痕跡の光景がかすめていく。それが善いことだとは、もちろん微塵も思っていない。
スネイプとヨゼファの関係の詳細を、ハリーは知る由もない。
それでも、自分の因縁全てを引き摺る男の生き写しに、ひどく痛いところを突かれたのだ。その事実はスネイプの精神を揺さぶり動揺させた。乱れそうになる呼吸をどうにか保ち、彼は全身を駆け巡る辛苦を押さえつけながら、無理に平静を演じようとる。
「そうか。……貴様もまた、
優しい優しいヨゼファ先生の信者と見える。物事の表層しか見ることができず、つくづく浅はかで、哀れだ。」
「……………。どういうことですか。」
「本当に、あの女が見たままの無害で清らかな人間に見えるのか?ああ…
確かに。奴が口にする耳あたりの良い言葉は、さぞかし心地が良かったろう?」
「ヨゼファ先生をそんな風に言わないでください。彼女は優しい…善い魔女です。」
「甘えたことを、くだらない!どれほどの穢れがあの内側にあるのか知りもせずに…!!」
「そんな、、ヨゼファ先生は少しも穢れてなんかいないです!」
「それが浅はかな思考だと言っている、お前はただただ母親の代用として…あの、どうしようもなく、外面ばかり取り繕った醜女を盲目的に慕っているだけだ!!」
烈しい音が鳴った。
ハリーが拳で机を打った音だった。
石造りの地下室にそれは良く響いて、残響は色濃い闇の中に長い間取り残される。
スネイプは再び息を呑んだ。眼前の青年の激昂に驚いたわけではない。自分の口から飛び出した、ヨゼファに対する言葉にショックを受けたのだ。
思っても、いないことだった。我慢できない憤りに任せて、、、
けれども、どんな理由があれ、言って良いこととならないことがある。黒々とした自己嫌悪が、足元からズルズルと這い上がってくる馴染み深い感覚を覚えた。
「どうして……、」
若い彼はどうにかその怒りを懸命に体内に留めようとしているようだった。薄闇の中で、赤くなった目の縁の内側から、緑色の瞳がスネイプのことを鋭く捉えている。
「なんで、そんなひどいことが言えるんですか!!!貴方たちは友達でしょう!!!???」
ほとんど絶叫するような訴えを、スネイプはただ黙って聞いていた。彼の緑色に瞳からは、目を逸らせずにいる。
やはり、その瞳の色はリリーと寸分違わない優しい色をしていた。
新緑を思わせる虹彩は、薄く濡れていよいよ瑞々しく、美しかった。
------------------その、彼の全ての所作が、父親のジェームズと重なって見えていたのだ。だから、ハリーの行為は余すことなくスネイプにとっての苛立ちだった。
だがこの夜の、その言葉だけはリリーのものだった。
彼女とヨゼファは…仲が良い、とは言えないほどの希薄な関係だった。寮も異なっていた上に、明るく美しくていつでも人の輪の中心だったリリーと、消極的が過ぎるヨゼファは全くもって違う世界を生きていた。
それでも…リリーはヨゼファの姿を見かけると、心配そうに眉を下げていたことを今更ながらに思い出す。
『可哀想ね、』
リリーはぽつりと呟いた。
その視線の先には、図書室の大テーブルの一番端に腰掛けては何をするでもなくぼんやりとしているヨゼファの姿があった。窓の外では冷たい雪が降っている。そこから差し込む淡い灰色の光を、彼女は目を細めて眺めていた。
リリーが、スネイプの隣の席から立ち上がろうとする。それを留めるために腕を掴み、元のように腰を下ろさせた。彼女は訝しそうにこちらへと顔を向ける。
『…………。何をするつもりでいた。』
『何って…。声をかけようと思っていたのよ。課題をしているのはヨゼファも同じでしょう?一緒にやったほうがきっと早いわ。』
『会話がままならない奴と同席して気分がマズくなるのはごめんだ。』
『なんてことを言うの。』
『それに、君がいくら気にかけたところであれの声が治るわけじゃない。』
『本当にそう思っているの?肉体が病気や怪我の時は、心だって傷ついているものよ。身体と心は決して別々ではないもの。』
リリーはスネイプの手を軽く払って立ち上がる。彼は小さく舌打ちをした。
『それなら君だけで行ってくれ。僕はここにいる。』
『ええ…そのつもりよ。また後で。』
彼女はスネイプを一瞥してから、淡い灰色の光の中でぼんやりとしているヨゼファの傍へと歩を進めていく。
リリーが声をかけると、ヨゼファは曖昧に笑ってそれに応えていた。スネイプは至極つまらない気持ちになり、その方を見るのをやめて机上の課題へと視線を戻していく。 …本当に、リリーは清らかな女性だった。正しくないものを、正しくないままにしておけない。
『肉体が病気や怪我の時は、心だって傷ついているものよ。身体と心は決して別々ではないもの。』 自分がヨゼファの身体に振るった暴力によって、その心が傷付かないことがあるだろうか。否ないだろう。
今、自分が彼女へと為していることを見れば、きっとリリーもハリーと同じように憤るに違いない。
あの叱責は、リリーからのものだった。恐らく…きっと。
*
どうして、と考える。
どうして、幸せというものはいつも、自分とは縁がないのだろう。
灰色のソファに身体を沈ませ、首を折ったまま長い間動かずにいた。
膝の上で組んだ自分の色の悪い掌を、じっと見下ろす。
時計の音だけが規則的に黒い床へと転がっていく、夜の静寂の中で。
そう、静寂だった。
だから空間が震えるように微かな、いつもの音をすぐに感覚することができた。
それでもスネイプは顔を上げることはせずに、けれども弱い光の線がしなやかに空間に垂れていく様を、肌で感じては嘆息する。
足音なく傍に至ったヨゼファは少しの間、座っている彼を無言で見下ろすようだった。
「……何の用だ。」
辛うじて出た声で、それだけ聞く。
彼女はスネイプの隣に腰掛け、「用は無いの。」と応えた。
「ただ、そろそろハリーとの個人レッスンも終わるかなあと思っただけ。………随分、疲れてるわね。」
ヨゼファがこちらにそっと腕を伸ばすのを感覚するので、「触るな。」と短く拒否を口にした。
彼女は素直に掌を中空に留め、ゆっくりと自分の膝の上に戻していく。
「なにか、あった…?」
その質問には応えなかった。
二人して沈黙するので、また薄暗い地下室には時を刻む古びた音のみが響いていく。
やがてヨゼファは立ち上がるらしく、衣擦れの音が近くでサラサラと鳴った。
「今夜は…温かくして寝ると良いわ。急に寒くなったから。おやすみなさい。」
そう言って、彼女は来た時と同じように音もなく立ち去ろうとする。スネイプは急に弾かれたように立ち上がり、ヨゼファの長く黒い手袋に覆われた腕を掴んだ。彼女は面食らったらしく、目を見開いてこちらを振り返る。
「
どこへ行くつもりだ…!!」
絞り出すような声で、行き場のなかった感情を憤怒としてヨゼファに吐き出す。掴んだ腕にこもった力が強すぎるせいで、彼女は顔を顰めた。
「どこと言われても……。自分の、部屋だけれど…。」
そして、弱々しい声で返答する。
また、暫時の静寂。
彼女はやや困ったように眉を下げるが、やがて小さな声で、「ねえ、」と言葉をかけてきた。
「触っても、良い…?」
律儀に尋ねられた言葉になにも返さずに、その深い青色の瞳の中をじっと見つめ続ける。
彼女は決して目を逸らさずに、スネイプの頬に触れてから黒い髪を耳にかけさせた。
「
心を扱う魔法はとっても疲れるから…。今日はもう、ゆっくりお風呂に入って寝るのよ。考えごとは、明日の朝。」
穏やかな声色で囁かれる。
ヨゼファの細くなっていく目を見つめながら、スネイプは彼女の腕を掴んでいた掌を緩慢に離す。
そうして改めて彼女の両掌を取って、握った。
*
「ヨゼファ、」
突如として眠りの淵から浮上したスネイプは、感覚で隣にいるべき人物がいないことを感じ取ってその名前を呼んだ。
身体を起こしてそこに視線を落とすと、やはり思った通りに彼女はいなかった。今はまだ真夜中だ。起きて自室に戻るには早過ぎる。
冷たい床に裸足を着けて、彼は暫しなにかを思考する。……いつものように身体は清められていたが、互いの衣服はそこに散乱したままだった。その中から自分のものと靴を適当に引っ掛けてはゆっくりと立ち上がる。
ヨゼファの姿は存外早く見つかった。
寝室を出てすぐの…スネイプのプライベートな空間で、いつもは自分が腰掛けている椅子へと座り込み、整頓されているとは言い難い机に倒れ伏すようにして眠っていた。
傍に数冊の書籍が読書の痕跡として積まれている。また、眠れずにいたのだろうか。
足音を殺して近付き、傍に立ち尽くす。
突っ伏して眠っているために、不健康な蒼白さの頸が広くこちらに見えた。手当されていない生傷がその白いネグリジェの襟首を汚している。
等間隔に並んだ自身の歯列と同じ形の傷痕を無意識に指先でなぞると、ヨゼファの身体がびくりと痙攣して「いた、」と生理的な声が漏れる。
ゆるりと身体を起こしたヨゼファは、すぐ傍に立っていたスネイプに驚くことなく視線を送る。青い瞳が自分を見据えた時、スネイプは反射的に彼女の服の胸ぐらを掴んだ。ヨゼファは驚きから肩を跳ねさせ、そのままで瞬きを数回繰り返した。
「……………。何故、ここにいる。」
「あ、ごめんなさい…勝手に机を「何故、」
寝起きでやや舌足らずな謝罪を遮って、スネイプは低く言葉を被せる。言葉が途切れた時の静かさが、いやに骨身に沁み入る夜だった。
「何故、寝室にいない…!!」
「え……?」
「私がいるからか、そうだろう!!!」
突発的に声を荒げると、ヨゼファの表情にハッキリと戸惑いが浮かび上がる。
掴み上げていた胸ぐらに更に力を込めるので、V字に開いた彼女の襟ぐりが危うげな音を上げた。肩口まで広がってしまったそこから覗く皮膚には頸と同様に醜い痕が残っている。
こんな仕打ちを、習慣的に繰り返す人間の傍で安らげる筈はない。
最近、距離を置かれているのではと錯覚する度にそれを考えた。
実際のところのヨゼファは、普段となにひとつ変わらず接していたのかもしれないが。この時のスネイプは常に彼女に対して疑心暗鬼だった。姿が見えず、ブラック邸にいるのだと悟った瞬間すぐさま学校に呼び戻すのもその為である。用事など、ただひとつを除いて皆無なのに関わらず。
喉元にこみ上がった嗚咽が飲み込めず、唇の端から漏れ出ていく。痛いほどに力を込めて握っていた拳に、冷たい感覚が触った。恐らく、上から掌を添えられている。
「………どうしたの?最近、少し不安定ね。今夜は特に……。」
ヨゼファはやはり戸惑いを隠しきれないようだったが、それでもスネイプよりは落ち着いていた。
少しの間自分の胸ぐらを掴み上げていたスネイプの女のように白い手を上から握っていたが、やがて両腕を伸ばして頬を包み込んでくる。
そのままで見つめ合い、やがて彼はそろそろとヨゼファの服から拳を解いた。
やはり、襟ぐりを合わせていた布が幾分も裂けてしまったようで、ヨゼファの傷だらけの肩は広がり切った襟から片方のみ晒されたままになる。
「そうね……。」
スネイプはなにも応えていないが、それでもヨゼファは幾分かを理解したように弱く頷いた。
「言葉にできないことの方がよっぽど多いわよね。さぁ、こっちにおいで。」
ヨゼファはスネイプの頬から手を離し、力を失っていたその掌を握っては引いていく。先ほど長い間腰掛けていたソファに促され、二人は隣り合って着座した。
胸元に抱き寄せられるままに頭を預ける。皮膚を擦らせれば柔らかく形を変えていくそこは、まるで彼女の母性的な性質を表しているようだった。
「……傷を、」
胸の中で、小さな声で呟く。スネイプを抱き寄せたまま、その肩をゆっくり摩っていたヨゼファは「うん?」と優しげに聞き返した。
「傷の、手当をさせてくれ………。」
妙に掠れた言葉を受けて、ヨゼファは暫く黙るが…「じゃあ、お願いしようかしら。」と笑顔を返した。
「ありがとう。」
告げられた謝礼に耳を塞ぎたい気持ちになる。責め立てられるよりも、余程辛かった。
* * *
薬が沁みるのか、ヨゼファは時々ぴくりと身体を震わせた。
自分がしたことにも関わらず、積年に渡って重ねられた最早消えそうにない痕を、スネイプは他人ごとのように眺めながら処置を続けていく。
………もちろんのこと、ヨゼファを憎んだり嫌っての仕打ちではない。むしろ彼女には友情と言えるような信頼を寄せていた。
それでも、彼女を抱く度に容易には消えない傷跡を、容易には拭えない辛苦を刻みつけずにはいられない。
女性を抱く際の情というものは…自分の中で唯一清らかと呼べる、リリーへ向けたような神聖な想いではないのか。やはり、ヨゼファに向かう気持ちはそれとは異なるのだろう。泥に沈めていくように、彼女のことを執拗に穢したくなる。
その理由を考える。
精神の不安定を訴えて、心配して欲しいのだろうか。その皮膚に刻む傷痕と痛みによって、自分のことをひと時として忘れさせないためか。そうして、彼女を逃さないために…。……離されないために…。
その感覚が異常とは思わないほど、スネイプは人の心を失っていない。ヨゼファから、とうの昔に愛想を尽かされていてもおかしくはないのだ。
だから…それでも尚、彼女が自分を深く愛していることが嬉しかったのだろう。
強く愛されている感覚を何度でも覚える度に、酷い仕打ちを繰り返している。
「自分でやるより具合が良いわ…。背面になるとなかなか難しいのよね。」
処置を終えたスネイプに今一度礼を述べ、ヨゼファは手当のために半分脱いでいたネグリジェを今一度着込んだ。彼の爪が幾重にも刻んだ夥しい赤い線が、それに伴い隠されていく。
「次は、私ね。」
そうして彼女は柔らかく笑って、スネイプの方へと少し身体を寄せる。
なんのことかと訝しく思って視線だけを向けると、「心配ごとがあるでしょう。」と少し首を傾げて尋ねられた。
「話してみる?」
手を両掌で包まれながら言われた言葉には、「いや……」と短く返す。
顔を逸らして唇を結んだ。ヨゼファもまたなにも言わず、ただ黙っている。
「………、………………。見られた…、」
彼女を見ることができないまま、スネイプは微かな声で心のうちを零した。
「心を……」
先ほど閉心術の指導の際にハリー・ポッターとの間に起きた出来事、そこから繋がり彼に見られてしまった過去の記憶…それを思い返すたびに、羞恥と怒りに身体が震え、破れた心から負の感情が濁流のように吐き出されそうになる。
ヨゼファはスネイプが精神に負った傷を労わるように、握っていた手のうちの彼の掌をゆっくりと撫でていた。
「……………………惨めだ…。」
言葉を掠れさせて、心の音をたった一言にのせて呟く。
ヨゼファが弱く嘆息する気配がした。顔を上げてようやくその方を見れば、逆に彼女は先ほどまでスネイプが見つめていた場所…黒い床石…を眺めて、目を伏せていた。
彼女は、骨身に沁みてスネイプの苦々しい気持ちを理解するようだった。首を弱く左右に振り、「それは………。」と彼と同じように掠れた声を詰まらせて、黙った。
薄暗い闇に覆われた地下室で、ふたつの黒い影帽子は動かないままで少しの時を過ごした。ヨゼファの手だけは、ゆっくりゆっくりとスネイプの掌を包んで撫でていたが。
「いやね……。」
やがて彼女は呟き、一度スネイプの手を離した。そしてソファーに身を沈めて、重たい石で固めた天井を横切る太い木の梁を見上げる。
「本当にいやなことよね、過去なんて関係ないって言葉、聞いたりするけれど。やっぱり過去って関係あるわ。いやなことはずーっと覚えてるもの、心を守る術を知らない子ども時代のことなら尚更。」
ヨゼファは「いやだわー…」と繰り返し、天井を見上げたままその方へ手を伸ばす。
「セブルス、やっぱり夜に考えごとは良くないわ。日常に忙殺されるままに忘れてしまって、思い出さないのが一番よ。こういうことって、結論が出ないのが分かり切ってるのに深追いしがちだからすごい危険。」
彼女は伸ばした腕を下ろして自分の頭の後ろで組む。
そうしてスネイプへ、心弱いながらも親しみがこもった笑みを向けた。
彼は口を閉ざしたままでそれを見つめ返すが、やがて力を抜いて、彼女と同じようにソファへと身体を預けては深い溜め息を吐いた。
「流石…自分を騙す術を、よく心得ておられる…。」
「自分なんて騙し騙し中途半端で良いのよ、適当にね。貴方は全てにおいて真面目すぎるから。」
そういうところが魅力でもあるけれどね…、とヨゼファはポツリと独り言のように呟いた。
そうして頭の後ろに回していた手を解き、だらんと脱力させてソファの上に落とす。
それをそっと自分の元に引き寄せながら、スネイプは瞼を下ろした。
「………………。教育者の言葉とは思えないな。」
「そうかしら。でも、何でもかんでもきっぱりしてたら息詰まりでしょう。それなりにご自由に解釈を、と、神さまが私たちの人生を手抜きしてくだすったのかも?」
「手抜きすぎだ。」
「しかもサポートに個人差があるのよ、人生ってとっても
不公平。」
「ムカつくな、今日から背教してやる。」
スネイプの言葉に、ヨゼファが声を上げて明るく笑う。
辺りを覆う暗闇が一段薄くなって、呼吸が少し楽になったような心地がした。
「ねえ、」
彼女が身体を起こして、こちらを覗き込む。
明るい笑顔のままの表情につられて、スネイプも少しばかり笑った。
「セブルス、キスしても良いかな。」
ヨゼファはまるで年端のいかない生徒に対するような優しげな口調で聞いた。その唐突な申し出を、然しながら自然なことにも思える行為の是非を。
……弱く頷くと、時間をかけて瞳の中を観察された後、いつものように両頬に手を添えられる。彼女の身体の重心が、ややこちらに傾いた。頬には柔らかく吐息が触っていく。
ゆっくりとした、丁寧な口づけが齎された。
スネイプが衝動的な行為に走らない…静かな夜は、それなりに今までもあった。そういった時のヨゼファの行為はいつでも焦れったいほどにもどかしく、そうして愛情深くて丹念だった。時間をかけて身体を解かれていくその感覚は、嫌いではない。彼女の愛の最たるものを、今自分だけが享受しているのだと実感できる。
黒い髪を何回か梳いてから片耳にかけさせ、ヨゼファはスネイプの頬、鼻、額、様々な場所と皮膚を合わせてはまた口付けた。時折顔を離して笑いかけられるので、どうすれば分からずに瞳を逸らす。……苦笑された。
それでもどうにか見つめ返して、深い青色の瞳の中に自分の姿を確認する。
頭を、ヨゼファの肩に預けて首筋から彼女と夜の匂いを鼻腔に取り込んだ。
ふんわりと自分を抱き留めている彼女へと、「もっと強く…」と訴えた。望み通り、更に身体を引き寄せられてしっかりと抱かれる。
腰の辺りに腕を回して抱き返し、身体の距離を無くした。預けたままの頭を撫でられるので、その名前を呼ぶ。
「ヨゼファ、」
ヨゼファの斑らに痕が残ってしまっている胸元の皮膚へと、自分の涙が一筋滑っていく。
きっと、熱かったに違いない。彼女の皮膚は、体温は、相も変わらずあまりにも冷たすぎるから。
恐らく、不安を抱えていたのは自分だけではなかったのだ。
この時、ヨゼファもまた彼女自身の悩みや考えるべきことが多くあった。
それを気遣うような言葉を少しでもかけてやるべきだったのだろう。
否…それが分かっていたとして出来たかどうかは分からないが。自分は自分のことで精一杯だったから。
それでもどうして、こんなにも素直になることが難しかったのだろうか。
一度として彼女に優しく出来なかったことを、何度悔やんでも悔やみきれずにいる。prev|
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