骨の在処は海の底 | ナノ
 敗者の刑

 憧れていた。


 その美貌とカリスマと、それを裏打ちする高貴な家柄と他者から頭ひとつ抜き出る魔力の力強さ。

 マリア・チェンヴァレンという女に対して、男女問わず何人の学生が憧憬を抱いただろうか。

 それはドローレス・アンブリッジも例外では無かった。


 当時の学校ホグワーツは、女王マリアを筆頭とした明確なヒエラルキーが存在していたと言っても過言ではなく、多くの者が少しでも彼女の目に留まるために周囲に集っていた。


 その美しいピラミッドに変化が訪れたのはいつだろう。

 フランスから、汚らしい奨学生が編入してからだ。

 この国の言葉もろくに話せない貧乏人の男。冴えない、純血でもなければ、外国人の、乞食の身分だった男が。


 誰も理由は分からなかった。しかし、女王が唯一にして最も愛したのは彼だった。

 彼女は今まで築いた自分の立場をあまねく捨て去って、彼の心を惹きつけるために心底必死になっていた。

 

 変わっている男だった。

 英語が不自由な以前に人付き合いを好まない性質なのだろう。集団を避けて、一人でいることが多かった。

 マリアの信望者たちから手酷い仕打ちを受けても、眉を下げて笑うだけの。

 奨学生故に学業で結果を残さないといけないから、いつも勉強ばかりしている。甲斐あって成績は常に首席だったけれども。


 背が高くて、十代の青年とは思えないほど草臥れた顔立ちだった。

 手首に、深い傷の痕を隠し持っているのを知っている。



『遊び…?遊びなんかじゃないわよ!!どうしてそんなこと言うの!?貴方はいつも…!!!』


『愛しているのに。私、貴方のこと愛しているのに、貴方はいつも信じてくれない、、!!』
 

『男も女も、誰だって私がその気になれば靡いてくれたわ!どうして!?他に好きな女でもいるの?言ってみなさいよ。私の方が優れていると証明してみせるから!!』


『貴方だけなの、本当の私を見てくれたのは…!貴方と結ばれないなら生きてる意味なんかない。お願い、お願いだから、私のことを一人にしないで……っ、!!』



 図書室の窓を彩る薄いカーテンが、光を透かせて揺れている。

 静寂の室内で、マリアは烈した想いを彼へとぶつけていた。まるで女王とは程遠い、ただ・・の少女のように、彼女はその感情を露わにしていた。



 どうか泣かないで、美しい人。



 それに男の声が静かに答えている。

 昼下がりの柔らかな風が吹き込む図書室で、彼の低い声はしめやかだった。
 
 苦労を重ねて、けれども乗り越えてきた彼の言葉にはそれなりの重みがある。


(……恵まれていないのは、私も同じなのに。)


 向上心のない父親と口ばかりのマグルの母親に、知恵と魔力が足りない弟と。

 中途半端でひとつとして美しいものが見出せない家庭で育ったアンブリッジは、洗練されて完璧なマリアだからこそ恋心を抱いていた。それなのに、彼女はこの男の前ではまるで普通の女である。

 それが嫌だった。

 失望していた。

 自分が憧れて善いと思う、美しいものが汚されたのだと、否定されたのだと、少女の彼女の胸の内側は傷付けられたのだ。



 そうしてホグワーツを卒業して、アンブリッジとマリアは立場を違えて顔を合わせることになった。

 マリアが卒業後すぐにあの男と結婚して、あまりにも短い幸せの後に失ってしまったことは周知である。

 纏う空気に少しの寂寞を纏うようになった彼女はいよいよ美しかった。逆らえない老いに肉体が蝕まれるのをアンブリッジが実感する中、彼女は時が止まったようにずっと美しいままだった。


 二人は考え方の違いからたびたび衝突して、アンブリッジはマリアから鬱陶しがられるようになった。

 アンブリッジもまたマリアが憎たらしかった。少女の自分の憧れを悉く打ち壊し、恥にも似た屈辱を味合わせたにも関わらず、知ったような口を聞かないで欲しかった。『まったく、昔からお前は』恵まれた環境でのうのうと過ごしてきたこの女になにが分かるというのか。



「ヨゼファ先生!!」



 複数の生徒が、彼女の名前を呼んで廊下を走っていく。

 その・・名前を知っていた。ホグワーツへの赴任に当たって、教員である彼女のことはつぶさに調べ上げていた。マリアによって丁寧に握り潰され葬られたその過去については、役に立たない情報しか手に入ることは無かったけれども。


 女生徒たちを目で追っていけば、まさに名を呼ばれた人物が目に入る。


 顔を直接見るのは初めてだった。

 写真で見るよりも更にそっくりだと思った。その母にではなく、父親に。

 確か、彼も幾分か中性的な顔立ちをしていたのだ。

 そうして…背の低い生徒の目線に合わせるために、その上背のある身体を丸める仕草だとか。

 全体に漂う軟派な雰囲気、ふわふわとした緩いくせ毛や、笑うと目がなくなってしまうほどクシャクシャになる人の好い表情だとかが。


 恐らく…アンブリッジは、マリアに対する愛憎に上乗せて彼に対するコンプレックスを抱いていた。

 彼女は自分が不幸な少女だと、女性だと、常に考えてきた。だがあの男の境遇の方が余程厳しいものである。それでも心を折らないで、せめて生きようと彼が努力を重ねてきたことは理解っていた。

 そういった真摯な姿勢を保つ人間が嫌いだった。

 決して幸せになり得ないこの世で、どうしてねじ曲がらずに生きていくことが出来るのだろうか。まるで自分が間違っている、汚れている、と言われているような気分になった。その存在自体にひどい苛立ちを覚える。


「あら、みんな。アンブリッジ先生よ。」


 あんまりに凝視した所為か、ヨゼファは少し離れた場所にいたアンブリッジを認めては生徒たちへと話しかける。


「ちゃんとご挨拶しないとね…。笑顔と挨拶はレディーにとって最高のお洒落なのよ。」


 彼女に促されて、やや緊張した面持ちの少女たちがまだ教師としては馴染みのない自分へと会釈をした。

 一人の痩せこけた栗毛の女生徒の指が、ヨゼファの黒い袖を捕まえている。


(随分…懐かれているのね。)


 父親と同じ顔と…母親と同じ色の髪と瞳の色を持って、まるで善い・・魔女のように振舞っている。


(罪人のくせに。)


 アンブリッジは、何故マリアが娘のヨゼファを愛することが出来なかったのか、その理由を何とは無しに理解していた。それはきっと、マリア自身も預かり知らず…否、懸命に知ろうとしない事実だ。


(これだけ、父親に似ているんですもの。)


 母娘間で幸か不幸か交わることのなかった歪な愛欲を考えれば、それは恐ろしいほどに罪深い母子とその血縁関係だった。

 
(気持ち悪い)


 そんな女に、一時でも憧れを覚えたのは自分の人生最大の汚点のひとつである。眼前の黒く細長いシルエットを持つ魔女にもまた、生理的な嫌悪感を一通り抱いて身震いをした。間違いなくこの女は自分にとって、世界にとって憎悪の対象だった。



(存在してはならない。)


(存在自体が許されていない。)


(生まれてきたことが間違っている。)


(過ちを正さなくては。私は正義そののために魔法省で懸命に働いてきた。)


(私の過去に絡みつく汚物め、居るべき場所に還してやる。)


(二度と私の眼前に、この世に顕れることがないように。) 



「これは…これは、ヨゼファ先生。」


 アンブリッジは胸中の黒い気持ちを押し隠しては笑顔を浮かべ、ヨゼファからの挨拶に応える。

 彼女もまた呑気な様子で笑い、それから少し首を傾げて、「あらアンブリッジ先生……、お召しものになにか、」と言いながらこちらに手を伸ばしてくる。

 反射的にそれを避けると、ヨゼファはやや不思議そうな表情をした。


「いえ、け、結構ですわ…、自分で。」


 と思わず吃ってしまいながら返しては、アンブリッジはヨゼファと生徒たちの脇を早足で過っていく。


 彼女たちの視線が自分へと届かない場所へと至るや否や、アンブリッジはほんのひと時ヨゼファの色の悪い指に触れられた服の肩口を、桃色のレースをあしらったハンケチーフで繰り返して拭き取った。


「汚い、」


 眉根を寄せて、心の音を思わず声に出す。


「気持ち悪いわ……本当に…!!」


 金糸で優雅な刺繍が施されたそのハンカチを、アンブリッジは躊躇せずに窓から投げ捨てた。

 そうしてオペラピンクの靴の底で廊下の固い石床を叩きながら、再び歩き出す……



*  



 ヨゼファはその部屋に足を踏み入れて…室内彩色において桃色の割合があまりにも多かったために、思わず瞼をパチパチとさせた。恐らく、今まで生きていた中で最も多くのピンクが視覚情報を埋めていた瞬間かもしれない。


(ああ…でも、確かボーバトンの生徒たちに強請られて連れて行ったニナスのサロン・ド・テもこれと似たようなものだったかしらね。)


 瀟洒なパリのティールームの中で浮いて仕方がなかった、草臥れた中年の自分の有様を思い出し、ヨゼファは可笑しくなって笑ってしまった。


「………ヨゼファ?」


 部屋の主であるアンブリッジに声をかけられる。しかし…ヨゼファは挨拶もそこそこに、室内に馴染みある生徒の姿を認めて不思議に思っていた。


「ハリー?ここで何してるの。」


 尋ねると、彼は応えて口を開きかけるが、その前にアンブリッジが「ヨゼファ、何の用ですか。」と硬い口調で質問してくる。

 その際彼女の指輪で埋まった掌中で杖がサッと振られ、ハリーの捲られていた袖のボタンがきっちりと手首まで留められた。更に、彼が何かを書きつけていた机上の羊皮紙がスルリと滑ってアンブリッジの元へと引き寄せられて行く。

 ヨゼファは何かを訝しく思い、そのほうを眺めたままで「いえ……、」ととりあえずの相槌を打つ。


「アンブリッジ先生、貴方が私をお呼びになったんじゃありませんか。」

「呼んだかしら……。ああ、そう言えばそうだったわね。貴方に少しお話があるの…お茶を淹れましょうか?ヨゼファ、」

「ありがとうございます、でも今は結構ですよ。」

「……………。そう、そうでしょうとも。貴方は忙しいから。しなくてはならないことが沢山あるものね?」


 彼女の口ぶりに何かが含まれているのが気になったが、ヨゼファはひとまずハリーの傍まで至って小さく溜め息をした。そうして彼へと笑いかけるが、ハリーは笑い返すことはなく、ただ何かを訴えるようにその緑色の瞳でこちらを見上げてくる。

 ヨゼファは少し首を傾げつつ、座っているハリーの肩に掌を触れてやりながら「随分遅い時間よ…。もう寮に戻った方が良いんじゃないの。」と促す。彼が、あまり良い理由でここにいるとは思えなかったからだ。


 ふと、ハリーが手にしている羽ペンに目が留まる。それを眺めながら、ヨゼファは「アンブリッジ先生…、」と部屋の主へと今一度呼びかける。


「随分、レアーな文房具をお持ちでいらっしゃいますね。」


 彼の指から黒い羽ペンを引き抜き、そっと中空に泳がせては再び自分の掌中に納めつつヨゼファは言った。

 そうしておもむろにペン軸を素手で折る。

 鈍い音が桃色の空間に鳴り、自分以外の室内にいた二人が息を呑む音がそれに続いた。


「失礼…昔から、力が強いんです。壊してしまってごめんなさい。」

 とりあえずの謝罪をして、笑いながら真っ二つになったペンをアンブリッジの元へと返す。


「アンブリッジ先生、私は貴方のことを良く存じ上げないのですが…あまり…教育者に向いておられないようで。」


 ヨゼファは彼女に呼び出された用事を聞く気も失せて、ハリーのことを立たせながら早々にこのけばけばしい空間から立ち去ろうとする。

 アンブリッジは折れたペンへと暫し視線を下ろすが、やがてそれをポイと床に投げ捨てた。そうして淡いピンクのカーペットの上をコロコロと転がっていくペン軸に視線を向けることもなく、「そうかしら?」とヨゼファに甘い声で応対する。


「そう言う貴方も、闇祓いには向いていなかったようね。」


 既に出入り口近くへとハリーの手を引いて至っていたヨゼファは、アンブリッジ女史へと振り向いては斜めに視線を向ける。


「貴方が私のことを知らなくても、私は貴方のことをそれなりに良く知っているわ。残念だったわね…、お母さまに似なくて。どうやら、顔のお直し・・・・・はなさらなかったようね?」


 ヨゼファは咄嗟に…無意識にハリーの手を握っていた掌の力を強くするが、すぐにハッとしてそれを離した。

 しかし、務めて冷静でいようと思ったが、顔に熱が多く集中していることを感じずにはいられなかった。


「私には……なんのことだか…。」


 ここで、動揺して反応しなければ良かった。何も返答せずに、ハリーを連れてさっさとこの部屋を後にすれば良かった。それは後々強く後悔することだった。


「大丈夫よ、緊張なさらないで…。私は別段貴方に不都合をかけるつもりはないの。ヨゼファ先生は過去の罪だって綺麗に清算なさっているもの、世間に恥じることなど何もないわ……。」


 ヨゼファは動くことができなかった。ハリーがこちらに投げかけてくる疑問の視線が痛々しい。どうしよう、と心中大きく動揺していた。その時が来ることを予測しない訳ではなかったのに、突如としてその可能性が現実に浮かび上がって困惑したのだ。……生徒に、自分の過去が知られることを。


「ただ、清算なさったのは過去の罪だけよね?貴方は今、校長先生と何か…良からぬ企みをなさっていないかしら。………噂があるのよ、貴方が未だに闇の、


 けたたましい騒音によって彼女の発言は途中で遮られる。

 ヨゼファが横一直線に振った杖によって、ペン立てに複数本まとめられていた例の真っ黒い羽ペンが容器ごと粉砕された音だった。


「ごめんなさい………。昔から、力が強くて。またうっかり。」


 最早弁明になっていない言い訳を繰り返し、ヨゼファは弱々しい笑みを浮かべた。

 そうして、「ダメですよ…」と小さく続ける。


「先ほど良く知らないと申し上げましたが…私、貴方のこと少しだけ知っています。あの女性・・・・と仲が大変よろしくないこと。でも……ダメですよ、彼女を貶めるために私を利用しようとしても無駄です…。手を打っていない訳がない。あの人、性格は最悪だけれどそれ以外は完璧なんです。……ムカつきますよね。」


 十年以上の歳月を挟んだのだろうか。本当に久しぶりに自分の母親を口にした声が情けなく震えた。

 絵画の住人のように整った顔立ちの中、ふたつ浮かんだ深い青色の瞳は今でも克明に思い出される。愚かなことに、ヨゼファは今でも母親に憧れを抱いているらしい。母に向ける娘の愛情としては度が超えているほどに。彼女をとても懐かしいと思ってしまった。もう一度会いたいとも、願ってしまった。


「アンブリッジ先生は…私に、何かの取引を持ちかけようとしているのでしょう?でもごめんなさい。私、貴方が言うことをひとつとして承諾できる気がしません…。二度と下らない用事で呼びつけないで頂けますか。」


 足元に散らばった黒い羽ペンの残骸を淡いピンク色のカーペットの上に踏みつけながら、ヨゼファは今度こそハリーを連れて部屋を後にしようとする。

 だがその背中に、「……良くもそんな口を、」と甘い声色から一転して怒りを滲ませた女史の言葉が投げかけられた。ヨゼファはしまった、と感じる。感情的になりすぎたのだ。こういった強い手段は、せめてハリーがいないところで打つべきだった。


「私が教師に向いていないならば、貴方だって相当でしょう。ダンブルドア校長はやはり頭がおかしいとしか思えないわ……!!ハグリットと言い、野蛮な前科者にこの伝統あるホグワーツの教員職を与えるなんて!!!」


 感情的に大きくなった声がヨゼファの背中を打った。それは勿論のことハリーにも聞き届けられる。純粋な緑色の瞳がこちらを捉えているのを、先ほどからずっと感じている。その視線が含む疑問に答える言葉を、今のヨゼファは持ち合わせていなかった。


後悔するわよ・・・・・・、母娘揃って憎たらしい、惨めな出来損ないのチェンヴァレン。フランス男蛙食いの混血児如きが良くも私に対して…!!同じ空間にいたくもないわ、出ておいきなさい!!」

「……………D’accordお望みのままに, Madame.」


 ヨゼファは彼女に背を向けたまま一言だけ返す。そうしてようやく…目眩がするようなこの桃色の空間を、ハリーを連れて後にすることができた。

 心臓がドクドクと波打っている所為で呼吸がままならず苦しかった。

 本当に久しぶりに感じる怒りという感情を、やはり、ヨゼファは好きにはなれずにいる。







「…………ヨゼファ先生、」


 自分の手を引いて歩くヨゼファへと、ハリーは躊躇しつつ声をかけた。

 先ほどから彼女はずっと黙っていたが、その呼びかけに応えてようやくこちらを向く。そうして疲れ果てたような笑顔を向けては「ごめんなさい、」と一言謝罪する。


 その言葉に、何を返せば良いのかハリーには分からなかった。

 彼女は歩む歩調をゆっくりとしては、深い溜め息を一度してハリーの手を離した。


「傷…身体のどこにこさえたのかしら?多分腕よね、さっき彼女の魔法で袖に隠されるのを見たわ。大丈夫よ…ちゃんと手当てをすれば綺麗に消えるから……」


 おいで、と今一度腕を取られて導かれる。恐らくヨゼファの部屋へと向かうのだろう。……このまま付いていって良いのだろうかと、ハリーはほんの一瞬逡巡した。

 しかしすぐに思い直し、一歩を踏み出してヨゼファの隣に並ぶ。身体を少し寄せて二人の距離を縮めると、それに気が付いたらしい彼女が堪らなさそうにして、草臥れた笑顔をクシャリと浮かべた。


* * *


「ダンブルドア先生は…どうしてあの人をホグワーツの先生に。」


 ハリーの腕の傷を労っていたヨゼファへと、彼はポツリと声をかけた。

 彼女は弱く溜め息をして、「そうね…」とそれに応える。


「魔法使いにも色々大人の事情があるのよ。誰が何を吹き込んだのか分からないけれども、魔法省と魔法大臣は校長先生のことを怖がっているみたい。」

「ダンブルドア先生を?どうして。」

「どうしてかしら。……でも、世界の空気がどんどんと暗くなっているのは感じるでしょう?公には闇の魔法使いの復活を認めないとしておきながらも、皆疑心暗鬼になっているんだわ。偉い人もそれは例外じゃないみたいね…だから、ホグワーツと校長先生の監視のためにアンブリッジ先生が遣わされた。」

「そんなの断れば良いのに…。」

「本当よね、その通りだわ。でもダンブルドア先生は、今だからこそ魔法省とホグワーツの協力や絆が大切だとお考えなのかしら…。きっと…多分、そうなんでしょうね。」


 ハリーの皮膚に刻まれた僕は嘘を吐いてはいけない≠ニの言葉が、ヨゼファがあてた白い布で隠されていく。その様を、彼はただじっと見下ろしていた。


「僕は…、あの人や、あの人たちとの絆が大切だとは思わないけれども。」

「望まざる人とも仲良くしなくちゃいけないのは、人間の面倒なところよね。」


 ヨゼファは苦笑しながら、傍のテーブルに頬杖をついた。

 中空には、彼女の小さな灯りが四つほど漂っては仄明るい光を室内にもたらしていた。ヨゼファの顔はそれに照らされて深い影が落ち込んでいる。けれども、伴って浮かび上がる草臥れた笑い皺はいつものように優しかった。


「その人たちが、間違っていても?」

「何が間違いかを瞬時に判断するのは難しいわね。大概、自分が間違っている時はそれに気が付かないものだし…」


 彼女のその言葉の背景に含まれた意味や気持ちを薄ぼんやりと感じ取り、ハリーは目を伏せた。

 ヨゼファもそれに思い当たったらしく、また弱々しい笑みを漏らす。


「……先生。」


 呼びかけると、穏やかな声で「なに?」と返される。ゆったりとした、眠気を誘う声だった。それは授業中は半ば苦痛にも様変わるが、会話を交わす時は良いものだと…ハリーはいつも思っていた。


「なんだか最近、生きることが難しいんです…。すごく好きで綺麗だと信じて疑わなかった、この世界の見たくないものがどんどん見えてきて。善いと信じていたものをそのまま信じて良いのか、よく分からなくなる。一体善いことって、なんなんでしょう。」


 ハリーの率直な質問に、ヨゼファはやや言葉に窮したように思えた。

 それでも彼女は教師らしさを失わないように務めているらしい。「そうね…」と返す言葉を探して、瞳を伏せるようだった。


「貴方はもう小さな子供ではないから、そのように考えるのは当然だわ。でも、どうか貴方が信じるものへの憧れを失わないでと…先生は思うのだけれど。」


 夜と同じように静かな彼女の声色を聞きながら、馴染み深いこの教師の過去になにがあったのかを尋ねたいと…、ハリーは思っていた。

 ハリーは彼女のことを信じていた。けれどヨゼファは先ほどのアンブリッジとのやり取りを弁明も釈明もしてくれない。

 もう…彼女の昔日に横たわる暗いものを出鱈目だと言い切るのは、難しいように思われた。一度でもその人生に深い影が落ち込んだのは間違いが無いのだろう。その事実は、ハリーのことを辛く悲しい複雑な気持ちにさせた。

 でも、どうして。理由が知りたい。意味がないとは思わなかった。きっと何か…どうしてもままならない理由があったのだろう。せめて、それくらいは信じさせて欲しいと思う。


 ヨゼファは表情を柔らかくして、「安心して、」と言葉を続ける。


「例え今が良くない状況でも、私たちは…人間の歴史は、ある目的に向かって進んでいる筈ですよ。傍目から見たら延々と足踏みをしているようにしか思えなくても、ゆっくりと、大きな流れの中でね。」

「目標…?それは何ですか」

「それは人間がつくりだす善きことと、美しいことの結集ですよハリー。それぞれがてんでバラバラに見えて、人の希望や夢はとても似通っているの。それをどうか、覚えておいてね。」


 ヨゼファは傍にあった羊皮紙の歯切れとペンを引き寄せて、会話の片手間に魔法陣を描いていく。それがなにを構成しているのか、もうハリーはよく知るところだった。初歩的で、彼女が得意とするもののうちひとつである。


「美しいものと、善いものは決して無くなりませんよ。辛く苦しく醜い現実に直面しても、忘れちゃいけない。大切にしないと…。」


 空中へクシャクシャと己を丸めながら浮上した羊皮紙の切れ端が、新しい橙色の炎を灯した。黒い夜の闇が二人から幾分か遠ざかっていく。

 ヨゼファは真新しい包帯が巻かれたハリーのシャツの袖を元に戻し、釦をひとつずつ留めていった。その右手の薬指と親指に、青色のインクが滲んでいる。目元には灰色の髪が作り出す深い影が落ち込んでいて、青い瞳の色を確認することは出来なかった。


「ヨゼファ先生。髪、伸びましたね……。」


 ヨゼファの掌中から離された腕をなんとなく撫でながら、ハリーはポツリと呟いた。

 彼女は長くなってしまっている前髪を避けて耳へとかけては、「そうね…」と返す。


「最近なんだか、伸びるのが早いのよ。」


 そう言って笑う彼女の耳殻では、菱の形をしたガラスの耳飾りが、橙色の灯に照らされて弱く光っていた。



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