◎ 魂のアリバイ
先ほどから寂とした空気が張り詰めていた元地下牢の教室に、何かが震えるような鈍い音が微かに響く。
スネイプは何かと思い、作業を中断して顔を上げた。
……………机と机の間、人一人が立てるほどのスペースに白い魔法陣が光って点滅している。
唐草が絡んだような独特の文様には早くも嫌という程見覚えがあり……マズい、と思い陣を打ち消そうと杖を構えた瞬間、その中から相も変わらずだらしない表情で笑った人物の顔が覗いた。そうして嫌な予感は確信へと変わる。
「スネイプ先生、お取り込み中失礼します。いやー…中々重たいものばかりだから大変でした、ってうぉ、蹴らないで下さいよちょっと!!!!!」
魔法陣から胸くらいまで出現したヨゼファを思いっきり足で踏みつけようとしたスネイプへと彼女は抗議の声を上げる。
「黙れ……。扉から入って来ない者に入れる部屋は無い。」
「いや……ちょっ、話聞いて下さいよ……。頼まれた買い物を今ダイアゴンで済ましたんですよ。暖炉に帰ってからこの部屋に運ぶよりも、横丁から直に来た方が楽だと思ったんで………」
「…………よかろう。なら荷物だけここに置いて貴様は徒歩で帰って来い。」
「徒歩で!?」
頭を踏みつけながら一言ずつ圧をかけていう。
ヨゼファはスネイプの黒い靴底を押し返しながら、げんなりした表情で「歩いて何日かかると思ってるんですか……」とぼやいた。
「それに転移中にゴタゴタやってるとマズイですよ。下手したら私このまま一生この教室に胴だけ生やしたままになっちゃいます。」
「…………………。それは…困る。考えただけで頭痛と吐き気がする……。」
「ええ………。普通に傷付く反応してくれますね…。」
ほら、足どかして下さい。とヨゼファは溜め息交じりに言う。
スネイプは無言で足をどかし、一歩引いて不本意ながら彼女を教室へと招き入れた。
ようやく全身を現したヨゼファは、服についた埃を軽く払ってから「どうも、お邪魔します。」と挨拶する。スネイプはそれに唾を吐き捨てて応対した。
「しかし…ほぼ書籍と薬物薬草関連ばかりですが。良いんですか。」
「問題ない。」
「生活用品とか無いと困りませんか…。言って下さればまた買いに行きますよ。」
「必要ないと言っている。」
「じゃあこれは」
「いらん。」
ヨゼファが荷物の中から取り出したガラスの花瓶を、スネイプは躊躇なく床へと放り投げる。
彼女は「ちょっと!!!」と焦った声を上げながら、それが床面に激突する寸でのところでキャッチした。
花瓶の無事を確認して安堵の表情を浮かべた彼女の襟首を間髪入れずに掴み、スネイプは凄むように「お前、」と声をかける。彼女は苦く笑いながら「はい、なんでしょう…。」と応えた。
「人の金で我楽多を購入してなんのつもりだ……!」
「いえいえスネイプ先生、これ我楽多じゃありませんよ。ほら見てください。」
彼女は華奢な造りのガラスの容器を少し持ち上げてみせる。
………何か、中から小さな音がした。訝しく思ってそれを睨みつけるように観察すると、中からすらりと青い茎が伸びては頂きに細長い一輪の蕾を形作る。それはふっくらと水色の花弁を広げ、淡い香りを鼻腔へと運んできた。
「今の季節で一番綺麗な場所の花を同じようにここに咲かせてくれるんですよ、素敵でしょう。」
多分これはシーニゲプラッテの蘭ですねえ、と満足げに言うヨゼファを尻目に、スネイプはその花器を取り上げては彼女の襟首を締める力を強くする。「やはり我楽多ではないかああああああ!!!!!!!!」との叫び声と共に。
「ええ……。そんなに怒らないでくださいよ、それにこれは私の自腹ですから………。」
ヨゼファは良い加減げんなりとした表情でぼやく。
そしてスネイプの白い…血の巡りが悪そうな色をした…掌を軽く叩いては「ほら、離してくださいね。」と片目を瞑って訴えた。
「私から歓迎のお祝いですよ。ようこそいらっしゃいませ……いえ、ホグワーツへおかえりなさい、スネイプ先生。」
スネイプの掌から逃れ自由になったヨゼファは、ひとつ深呼吸してからいつものようにニコリと人畜無害そうな笑みを浮かべた。
そして花器を持ったままの彼の掌を今一度ポン、と叩き、「花は良いですよ、生活を豊かにしてくれます。」と楽しげな口調で述べる。
スネイプもまた溜め息を吐き、掌中でそよそよと揺れるどこぞの花を見下ろした。………相手にしない方が良いのかもしれない、と思った。ヨゼファに関わると精神的な何かをごっそりと削り取られる感覚すらする。
「後は言われたものだけですよ。また何か必要なものがあったら言ってくださいね。」
軽く腰に手を当ててヨゼファは微笑む。
暫時二人は無言で見つめ合うが、やがて彼女は「では、私はこれで。」と言ってあっさりとその場から背を向け退散しようとする。
咄嗟にスネイプは「チェンヴァレン、」と声をかける。応えて彼女はすぐに振り向いた。
再び視線がパチリと合う。
だが…呼びかけたは良いものの、スネイプは彼女へとかける言葉を特に持ち合わせていなかった。暫時沈黙の時間が再び経過する。
「…………何か謝礼をしておきたい。」
そしてようやく声が出る。すぐにヨゼファは「大丈夫ですよ、お気遣いどうもありがとうございます。」とその申し出をやんわりと断った。
「いや、借りを作ったままでは気分が悪い。」
言っていてなんだか居心地が悪くなり、スネイプはヨゼファが購入してきた書籍のひとつを手に取ってそこへと視線を落とした。
表紙に箔押しされた文字を目でなぞるが、瞳が滑ってうまく頭に入らない。………やはり、どうにも具合がおかしかった。
「そうですか。それでは私のお茶にでも付き合って下さいよ。」
しかしヨゼファは特に彼の様子に気が付かないようで、目を細めて冗談っぽく言った。
スネイプは本の表紙を眺めたままで、暫し口を噤んでは自分の私室へと向かう扉へと歩き出す。
少し進んで振り返り、ヨゼファに「どうした、」と声をかける。彼女は訝しそうな表情をこちらへと向けた。
「…………ここは仕事場だ。個人的な用事は私室で済まさせて頂く。」
状況が飲み込めていないらしい彼女を一瞥して言うと、ようやくヨゼファも「ああ、」と声を上げる。
「でも良いんですか。私室にお邪魔なんかして。」
「何か不都合でもあるのか。」
「いえ……何も。先生がそれで良いのなら。」
彼女はどう言うわけか穏やかな口調で呟く。
そうして今しがた自分が購入してきた荷物の数々を視線で示してから、「じゃあこれをついでに運んでしまいましょうか。」と言ってヒョイと持ち上げる。
「意外と馬鹿力だな……」
と呟けば、「これくらい普通ですよ。」と明るく笑われた。
*
「ひとつ聞きたいことがある。」
彼の私室にあった唯一の茶葉であるニガヨモギから抽出したものを口に含んでは、非常に渋い顔をしていたヨゼファへとスネイプが切り出した。
…………日頃の腹いせに茶葉の量を多くしたのがよほど苦かったらしく、彼女は眉間に皺を寄せながら「なんでしょうか……」と応えた。
「貴様は本当にヨゼファ・チェンヴァレンなのか。」
外部からの光が入らない部屋の灯りと言えるものは、無機質に灰色の光を吐き出すランプのみだった。
全てにおいて色彩が失せた室内では、ヨゼファが贈った花器の上を漂う花弁の薄い水色が、変に鮮やかな存在感を持っていた。
「…………………。と言いますと…。」
質問の意味を分かりかねるのか、彼女は少しの間を置いて聞き返した。
「…………。例の期間において、多くの混乱が生じた。大勢の人間が死んだ。……よもやお前は死んだヨゼファ・チェンヴァレンに成り代わった別の人物ではあるまいな。……元生徒の名を語ってホグワーツに侵入した……
良くないものなのでは?」
片眉を上げて、ひとつずつを区切りながらゆっくりと発言する。
彼女もまた少し眉を上げながらスネイプの話を聞くようだった。
「…………なるほど。難しいですね、自分を自分自身だと証明するのは意外と困難だ。」
ヨゼファは微笑して、カップをソーサーの上に置いてから脚を組んだ。
それから、「ですが先生、何故急にそんなことを。根拠をお聞かせ下さい。」と静かに応える。
「私の記憶が正しければ。ヨゼファ・チェンヴァレンは進んで人と関わろうとする人間では無かった……。無駄なおせっかいなどを焼く性格でも無かった筈だ。そもそも、私は貴様が…いや、貴様では無いのかもしれないが…まともに喋ったところすら見たことが無い。あまりにも性質が違う。」
一口に喋ってから、彼は自分のカップに口を付けて大して美味しくも無い茶を口に含む。視線は向かいに腰掛けるヨゼファから決して離さずに。
ヨゼファは自分の短い髪の毛先を少し弄ってから、何かを考えるように目を伏せた。そうして今一度スネイプへと向き合っては少し困ったように笑う。
「喋らなかったんじゃなくて、喋れなかったんです。……ある時期からしばらくの間。」
そして応えた。
今度はスネイプとの間にあるテーブルに置かれた花器の蘭を、手持ち無沙汰に弄りながら。
「思春期のハートは脆く傷付きやすいから…心と身体の具合がとてもダイレクトに繋がってしまうんですね。……まあ。私は元からそんなに喋る方ではありませんでしたけれど…それでも不便でしたよ、生活で授業でしょっちゅう呪文を唱えるのに言葉が扱えないなんて。」
肩をすくめて、ヨゼファはなんでも無いようにしてまた笑ってみせた。
スネイプは黙っていた。……彼女の言葉を吟味している。作り話にしては中々の出来だと思った。
「スネイプ先生は逆に全く変わられていない。私は貴方のことをとてもよく覚えていますよ。」
そして続いた彼女の言葉に、スネイプの身体は微かに硬直する。
………自分の学生時代。人からどんな印象を抱かれているかは重々承知していた。ただ一人にだけ真実の自分を分かってもらえればそれで良いと思っていたのだ。
(だが……)
「…………。先生は優秀なことで有名でしたから。上級生が知らないような魔法も楽に使いこなしていらした。」
ヨゼファが愛想の良い笑顔で続けた言葉に、ひとまず彼は安堵する。
………やはりこの女、見た通りのお人好しのままに人に悪意を持つことをほとんどしないらしい。
「でも…それ以外にも。私は例の通り喋れませんでしたから、その所為でよくグリフィンドールの悪ガキに虐められていたんですね。………それを先生が一蹴して下さった。そっちの方が、私にとっては印象深い出来事です。」
スネイプは考えを巡らす。……残念だが、そのような記憶はほとんど無いと言って良かった。
だが話し振りから察するに、グリフィンドールの悪ガキとはポッター及びそこらの一帯だろう。それならば常日頃から犬猿の仲だった自分が突っかかっていったことも容易に想像できる。ヨゼファを助ける為でもなんでもなく。彼に食ってかかれる口実があれば、なんでも良かったのだ。
「………それは、」
それを言いかけようとするが、ヨゼファは「大丈夫ですよ、分かってます。」と言葉を遮った。
花器から、今度は白い蕾が伸びて来て花開く。星でも灯ったかと思うほどに眩しい純白だった。
「貴方にとっては些細なことでも、私にとっては本当に嬉しいことでしたから……。それでもう、良いんですよ。」
ヨゼファは白色の花弁にそっと触れながら言葉を続ける。
「だからセブルスさ、いえ…スネイプ先生は、私にとってはずっとヒーローみたいな存在だったんですよ。」
少し喋りすぎましたね。
穏やかな声でそう言って、ヨゼファは渋すぎるに違いがない茶を今度は表情を変えずに一口飲んだ。
…………スネイプは奇妙な気持ちになった。
今まで彼の人生の物語には、自分とリリー…その他有象無象…と言うような人物しか登場しなかった。それがところ変わってヨゼファの物語においては、自分は何か重要な位置を占めていたらしい。彼自身が預かり知らないところで。
やはり、奇妙だった。人間というものは、人と人との関わりというものはどこまでも奇妙で、計り知れない。
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