骨の在処は海の底 | ナノ
 ひょうひょうと

 私は鳥である。名前はない。

 とは言っても、名前がないことに大した不満は抱いていない。人間から見たら、鳥なんてほとんど大差なく漠然と鳥だろうし。更に私はこの通り嘴の先から尾羽まで真っ黒の特徴もこれと言ってない鳥なので、余計に鳥間違いされることが多い。

 けれど名前には頓着なくても、私にはひとつだけ夢がある。それはにっこりと笑ってみせることだ。……まあ、不可能な話である。どうも神さまは人間を贔屓しすぎていると常々思う。私たちには人間のようなにっこりも、うえーんと泣くことも許されていない。精々この黒い嘴をカチカチ鳴らして感情表現をするに留まっている。

 そうしてほら、見たことか。私の顔をじっと覗き込んでいたセンセイが(彼女は周囲の人間からセンセイとよく呼ばれるので私もそう呼んでいる。)少し首を傾げ、「元気ないわね、お腹減ってるの?」と語りかけてくる。別段元気がなくはないし、お腹もそこまで減っていないのにも関わらず。(与えられたものは有難く頂戴するが。) この人の私に対する見解はいつも的外れだ。


『ふん、相変わらずの穀潰しね。恥ずかしくないの。』


 私がセンセイから与えられた豆をツンツンと嘴の中に運んでくると、アイボリーの羽毛を持つメンフクロウのヴァルキリアが話しかけてくる。

 彼女は私と違い名前を持っている。確か先先先先代の主人につけられた名前だったか先先先先先先代に付けられた名前だったか。

 何しろ彼女は美しい鳥だがあまりに気位が高いのでご主人とうまく言った試しがほとんどなく、色々な人間の手から手へと渡り歩いてきた。そうして最後にお鉢が回ってきたのが呑気が過ぎる私のセンセイだ。彼女は間抜けなのか大物なのか分からないが、ヴァルキリアとかいう格好つけが過ぎる名前のこのメンフクロウの我儘をさして気にせず、まあまあうまくやっている。


『間抜け面ね。働きもせず食べる豆は美味しいのかしら。』


 彼女は自分の豊かな毛並みを嘴で整えながら仕切りに私への毒を吐く。私もセンセイほどではないがかなり呑気な方なのでさして気にはしていなかったが。

 で、彼女の私に対する嫌味だが。魔女魔法使いと生活を共にする鳥は、面倒を見てもらう代わりに主人のために働くのが役目だ。鳥の仕事は主に郵便物の配達だが、私たちのセンセイはそれに関してはあまり鳥を使用しなかったし(別の方法が主だった。ここら辺の詳しいことはおつむの小さい鳥にはよく分からない。)使用するとしてもそれはヴァルキリアの役目だった。

 ヴァルキリアは私が働かないことに対してチクチクと虐めてくるにも関わらず、手紙の配達の役目は自分のものであると妙なプライドを持っている。その仕事を奪うつもりは全くないが、私が彼女の役目を代わりにしてしまったらさぞかし臍を曲げるだろう。

 センセイもまた私に対して何かを望んでいる風ではない。何もしなくてもそれなりの愛着を持ってもらえているようなので、それで良いではないかというのが私の考えだ。センセイに愛想を尽かされて外へ放り出されてしまった時はその時である。思い悩むのはその時がきた時でよろしい。



 私が好きなことは、机に向かって本を読んだり書きものをしている人間の手の甲に頭を乗せて休むことである。

 主にその相手はセンセイだ。彼女は一日の大半は机に向かって過ごしている。机上になんとはなしにのっかっているその手の傍までテケテケと歩き、頭を乗せる。私に気が付いたセンセイが笑い、喉のあたりの毛を撫でたり頭の上をカリカリくすぐってから私のために手を提供する。私はそこに頭を乗せて暫しウトウトとするのである。


 机に向かっていない時のセンセイは、大勢の子供たちや子供と大人の中間の人間たちの前に立ってなにやら話をしている。私は暇を持て余してはその様子を拝みに行ったりもしていた。時々子供たちの手を借りていつものようにウトウトとする。どうも穏やかな子がここには多いらしい。手を払われた経験はそこまでなく、皆喜んで私に枕を提供してくれる。

 そんなわけで、私は人間が嫌いではなかった。沢山の人間が過ごすこの…私の家のことも好きである。


 センセイは私に関して、いやヴァルキリアに関してもひどく放任主義で、籠に入れたりすることをしない。そのために私は折に触れてはパタパタと、このだだっ広い建物の中を飛んで見て回る。


 センセイに比べると随分若い人間たちばかりだ、ここは。勿論センセイより遥かにおじいちゃんやおばあちゃんもいたりするが、数は大分少ない。

 子供たちは皆、私のことを発見するとにっこりして指をさして友達に話しかけたり、おいでおいでと仕草をしてくれる。最近鳥間違いされなくなったのは、センセイが私の首に緑色のリボンを留めてくれたからだろう。


 子供たちに一通り可愛がられ、沢山のにっこりを受け取った私はホクホクした気持ちでセンセイの部屋に帰る。いつものように机の前に腰掛けている先生の元まで飛んで至ると、こちらをじっと見つめては「あら、どうしたの。」と尋ねられる。

 私はそれに応える言葉を持たないので、ただ彼女の手にいつものように頭を乗っけてはじっとした。


「もしかして、お腹減ってる?さっき夕ご飯食べたばかりだけれど…」

 
 だからお腹は減っていない。まったく、動物には食べ物を与えればそれで良いと思っているセンセイには繊細さが足りない。(与えられたものは有難く頂くが)

 私は彼女がくれた白い豆をツンツンと嘴の中へと運びながら、書きものをしているご主人のことをじっと見た。私のセンセイもまた、人一倍よくにっこりと笑う女性である。


 私は人間の笑顔が好きだし、泣き顔だって素敵なものだと思う。笑って泣いて、そして沢山おしゃべりをして。私には出来ないことだから、よりそれに憧れて良いものだと感じるのだ。

 だがしかし…私は人間でありながら全く笑わず泣きもしない人を一人知っている。それがカレである。


 カレは…センセイの机から少し離れた場所にあるソファに腰掛けて何かを考えているのか険しい顔をしていた。最もカレはいつも険しい顔をしている男性なので、本当は何も考えていないのかもしれない。明日の朝ごはんの卵は堅焼きにしようか柔めにしようかなどなど考えているのかもしれない。いないのかもしれない。

 カレもまたセンセイと同じように多くの人間からセンセイと呼ばれているが、センセイが二人いると混乱してしまうので、(私は自分が鳥頭だということを自覚している)私は彼のことをカレと呼ぶ。


 そしてカレは時々私のセンセイの部屋にやってくるのである。私と同じく頭からつま先まで真っ黒な出で立ちで、大抵子供たちが寝床に収まって静かになる夜の時間帯に。別段用事があるわけでもないのに、なんなのだろうかと常々考える。

 センセイの冷たい掌の近くから、カレの傍へと私はパタパタと飛んで至る。

 そのローテーブルの上の掌に、私はいつもセンセイや子どもたちに行うように頭を乗せた。………暫時、私の方へカレの黒い瞳からの視線が注がれる。そしてなんのこともなく手を払われ私の頭はそこから遠ざけられた。

 やれやれと思い、少し離れたところから彼のことを見上げて首を傾げた。私たちの瞳はじっと合っている。

 やがて私は再びそろそろとカレの傍に至ってその手の上に頭を乗せる。間髪入れずにまたしても頭を払われた。全く、この人にはいつも余裕がない。


 センセイが自分の用事を済ませたのかカレの傍……ソファまでやってくるので、私は飛んで来た時と同様にパタパタと羽を動かしてセンセイの掌に収まる。彼女は体温がいたく低くて皮膚が冷たいのだが、それでもその手の中が私は好きだった。

 私を腕に留まらせて自然な動作で羽を撫でながら、センセイはカレの隣に腰掛ける。


「なんだか楽しそうだったわね。いつの間に仲良くなったの?」


 センセイは私とカレを見比べながら言った。まあ、カレとは仲が悪くはない。そこそこですよ、と私は心の中で返した。カレはセンセイには応えないでいる。

 そして…私は察しが良く空気が読める鳥である。センセイの肩に乗って耳を軽く甘噛みしてやった後、半分開いていた窓からスウと夜空の中へと飛び立っていく。


 今夜は金色の円いお月さまが出ていたが、それでも色濃い闇は暗く、私は夜の中に溶け込んだような気持ちになって自分の黒い翼を空に泳がせた。

 眼下に梟小屋が見える。音もなくそこまで至り、留まり木で羽を休めていたヴァルキリアに夜の挨拶をした。彼女は返事の代わりに『ふん、』と言って私につれない態度をとる。いつものことである。


『今、部屋にカレが来ているよ。』

『へえそう。それじゃ今夜はこっちで寝たほうが良いかしら。』

『いや?知らないけれど。自分が寝たいところで寝れば良いんじゃない。』

『気が利かない鳥ね。』

『違う違う、君が言ってることは分かるよ。でも人間にとって私たちなんてたかが鳥だからね、いてもいなくても変わらないと思うよ。』


 ヴァルキリアはそう、と一度相槌を打った。そうして白い面を上げて、金色の月を目を細めて見上げる。


『ねえヴァルキー、センセイとカレの子供はいつ生まれるのかな。』

『何言ってるの、貴方馬鹿?ああ…そう言えば馬鹿だったわね。失礼したわ。』

『いや、私は何かおかしいことを言っているのかな。オスとメスが愛し合えばそれは家族を作ることじゃない。それなのに一向に子供が生まれないから、私は変だなあっていっつも思ってたんだよ。』

『それは鳥の話ね。…それも貴方みたいな短命種の。人間は鳥よりずっと長生きだから、子作り以外の理由でも愛し合ったりするのよ。あとヴァルキーって呼ばないで。』

『じゃああの二人はなんのために愛し合ってるの?』

『知らないわよ、たかが鳥に聞かないで。それにあの二人は果たして愛し合っているの?私はそうは感じないけれど。』

『愛し合ってるよ。センセイはカレのこと大好きじゃない。』

『それは分かるわよ。でも逆は?』

『カレだってセンセイが大好きでしょ。嫌いな人のところにわざわざ遊びに来たりしないよ。』


 私は何故かムキになり、留まり木の上でぴょんぴょん跳ねながらヴァルキリアに応対する。彼女は小屋の中で眠っている仲間のことを気にしてか、それをやめるように私の腹のあたりの羽毛を嘴で毟った。


『カレは…良くない人よ。センセイにひどいことするじゃない。私は彼女に、あの人はやめるように忠告したいといつも思う。でも鳥は言葉を持たないし、下手なことをして殺されたくないから。』

『ヴァルキーが殺される?どうして。』

『たかが鳥だもの。軽い命よ、ちょっと気に障ったくらいで、それだけの理由で人間に殺されもするでしょう。私は何回か激昂した元主人たちに殺されそうになったもの。』

『それはヴァルキーの主人運が悪すぎるだけなんじゃ…』

『私がこの通りの性格だってこともあるけれどね。貴方が私たちのセンセイしかご主人さまを知らないのは呑気で幸せなことよ。とにかく……私はカレがいる間は部屋に帰らない。可哀想なセンセイの姿なんて見たくないもの、悲しくなるから。』

『…………そう。でも可哀想なら余計傍にいてあげたら?センセイはヴァルキーが一緒にいると嬉しそうだよ。』

『鳥がね、人間の考えを…運命を変えるなんて奇跡でも起こらない限り不可能だから。私は人間じゃないもの。センセイの為に手紙を運ぶことしか助けにはなれない。』


 ヴァルキリアがそれきり嘴を閉ざしてしまったので、私は少し首を傾げて彼女のことを眺めた。

 私はセンセイを可哀想と言う彼女のこともまたとても可哀想に思え、そのアイボリー色の羽毛にグリグリと頭を押し付けて好意を表してやった。


『ねえ……。そう言えば、知ってる?』


 私の頭を足で遠ざけながら、ヴァルキリアがまた話し出す。私は『なにが?』とそれに応対した。


『センセイ、暫く遠くに行くんだって。』

『知らない。暫くって一週間くらい?』

『馬鹿じゃないの?』

『びっくりした、急に罵倒しないでよ。』

『年月は…まだ分からない。でもセンセイが改まって切り出すくらいだもの、それ相応よ。その期間について望みを聞かれて、私はこの梟小屋で過ごすことに決めたわ。貴方はどうするの?……最も働かない鳥にこの小屋の居場所はないわよ。』

『…………………。』



 私は唐突に聞かされたことに思考を停止させて、更に首を傾げてはヴァルキリアの話を小さい頭の中で反芻する。

 ………………。彼女に話したと言うことは、センセイは近いうちに私にもその話をする筈だ。その時になんと答えたものか。ヴァルキリアがいるならこの梟小屋の厄介になるのも悪いことではないような気がしたが…


 私はヴァルキリアへの夜の挨拶もそこそこに、再び自分の体毛と同じ色をした黒い空へと軽い肉体を滑らせて上昇する。

 そうしてセンセイの寝室の窓へと至り、細く開かれていたそこから中へと至った。


 金色の細い月明かりだけが差し込む暗い部屋の中で、センセイはベッドの中で身体を丸めて眠っている。カレを胸へと寄せて、腕の中で抱っこして眠っていた。よく見かける光景だ。私はそれを見ると、まだ巣立っていないとても小さい子どもの頃に、お母さんの腹の羽毛に包まれて眠った記憶を思い出す。

 月光に照らされた剥き出しのセンセイの肩にそろりと体を落ち着かせた。彼女は肩や首に生傷をこさえていることが頻繁なので、そこを爪で引っ掻かないように慎重になりながら。

 その頬に頭を擦らせると、センセイはゆっくりと私の黒い羽毛を撫でた。私は瞼を下ろし、彼女の冷たい掌の感覚を少しの間甘受する。


(………ねえ、センセイ。)


 私は考える。考えながら瞳を開いて、ヴァルキリアが言うように『可哀想なセンセイ』の有様を見下ろした。それからその腕の中に抱っこされている彼のことを。

 何故か良かった、と思えた。如何にも神経質で余裕がないカレも、こうしてセンセイの胸の中にいる時はじっとして静かに眠っている。私がお母さんの温かい毛に埋もれていた時が安らぎだったように、彼もまたセンセイの冷たい腕に抱かれている時は安心できるのだろうか?分からないが、そうであって欲しいと思う。人間にも鳥にも、その時間はとても大切で必要なものだから。


(でもセンセイ、貴方のことは、誰が抱っこしてくれるのかな。)


 それに気が付いた瞬間、私もまたセンセイのことがとても可哀想になった。

 彼女は暫く遠くに行くという。そこは良い場所なのだろうか。そこには彼女のことを抱っこしてくれる人がいるのだろうか。いないのだろうか。とにかく、私は突然センセイのことが心配になった。ついていこう、と思う。その暫く・・の期間。


「ごめんね……。」


 ぽつりと、センセイが小さな声を漏らすので私は顔を上げて彼女のことを見る。深い青色の瞳がこちらを捉えていた。


「多分、動物は連れていけないの。」


 センセイは今一度謝り、私の羽毛をゆっくりと撫で続ける。なあんだ、と思った。彼女はいつも頓珍漢に私の言葉を曲解するのに、大事なところはちゃんと分かってくれるらしい。


「貴方は…どうしたい?」


 そうして改めて、暫く・・の過ごし方について尋ねられる。私は懸命に、どうにかそれに対する答えを考えた。彼女を見下ろし、自分の回答を伝える。センセイは「そう、」とそれを快諾した。


「それは良い考えだわ。とてもね、」


 そう言って、彼女は穏やかな表情で目を細めた。







 かくして、私の二人目の人間のご主人さまはカレになったのである。

 彼の部屋はセンセイのものとは違いえらく暗い上に窓が狭い。私は籠の中から、何やら苛ついた有様で…いや苛ついてはいないのかもしれない、何しろいつも不機嫌そうな表情の人だ…黒い鍋の中を覗き込んでいるご主人のことを眺めた。

 カレは薬剤を調合する時のみ『気が散る』とのことで私を籠の中に入れるが、それ以外は概ねセンセイと同じく放任主義だ。しかしそれなりにきちんと面倒を見てくれるので、私は私の新しいご主人にそこそこ満足していた。


 ああ、籠に入れられる時間は他にもあった。授業中だ。この部屋にやってきた当初、センセイの授業の時と同様に子どもたちの掌を枕として失敬していた時である。

 ………センセイの時とは異なり、子どもたちは随分と緊張しているようで私にあまり構ってくれない。やがて女生徒の手の上でスヤスヤと眠っている私のことを発見したカレが即座に私の首をつまみ上げ、容赦無く籠の中へと放り込む。

 突然のことに私は目を白黒させるが、郷に入れば郷に従えである。面倒を見てもらっている以上文句は言えないので、授業中に遊ぶときはカレにバレないようにこっそりすることにした。

 それでも…机の中、黒い鍋の中、生徒のローブの中、様々な場所に隠れているにも関わらず、彼はよくもまあ目敏く私を見つけるものである!幾度も首をつまみ上げられては、いやいや、と足をばたつかせる応酬を繰り返し、ついに私は授業中は常に鳥籠の中にいることになってしまった。自業自得といえば自業自得なのだが。


 やがて薬の調合を終えたらしいカレが鳥籠の傍までやってくると、律儀に扉を開いてはまた背を向けて遠ざかって行く。その後を追い、私は彼の黒い肩の上にすうと着地する。

 ちら、とこちらを眺められた。最近はあまり追い払われないようになったのは喜ばしいことである。まだ耳を甘噛みさせてはくれないが。

 カレは机に向かって書きものをするようなので、私も机上に降りてその様子を見守った。

 …授業中、子どもたちと遊べなくなってしまって悲しい私だが、良いこともそれなりにあった。彼が私のために手を提供してくれるようになったのはそのうちのひとつである。

 当初は以前と変わらずさっさと掌を払って私の頭を遠ざけようとしていたカレだが、最近は慣れたのか諦めたのか(恐らく後者)私の頭を乗っけさせたままにしてくれる。

 私は存外この手が好きなのである。暖かくて厚みがある。不思議と安心することが出来て常々そこで爆睡してしまう。


 今日もいつものように、その手の甲に首を伸ばして頭を乗せた。一旦作業を止めて、彼が私のことを見つめた。

 そのままで少しの時間が経過する。


「…………似ている。」


 それだけ呟き、彼は自分の仕事へと戻る。なにが?なにに似てるの?と尋ねてみたかったが、勿論言葉にはできないので、私はこの無愛想がすぎるご主人のことをただ見上げるだけである。


 寂しいのかなあ、と私は思った。如何にも人嫌いな癖して、センセイの部屋にわざわざ遊びにくるくらいのこの人だったから。彼女がいなくなってしまって、寂しいのかなあと思ったのだ。だから、センセイが残していった私の面倒をよく見てくれているのかもしれない。


(センセイが、早く戻ってくると良いですね。)


 私は胸の中で今のご主人さまへと言葉をかける。


(戻ってくるときには、一緒にセンセイのお迎えにいきましょうね。)


 暖かい彼の掌に触れながら、私はうつらうつらとし始める。………黒い羽毛を撫でられたような気持ちがした。気持ちだけである。夢と現実の境目にいる私には、それが願望なのか実際なのかの判別は難しかった。



 一緒に、センセイのお迎えにいきましょうね。



 カレに胸の中でそう言った私の言葉は真実の気持ちだったのだ。嘘ではない。

 けれども、結局それは叶わなかった。私は鳥で、しかも短命な種だったから。自分の命が終わるその日、そうか、今日なのか。と気が付いてしまったのだ。


 私は、私が死んでしまったと知ったセンセイが悲しむのが嫌だった。にっこりとよく笑ってくれる彼女が泣いているところなんて考えただけで胸が張り裂けそうに痛い。

 それに黒い鳥の死体なんて、見かけた人間がとてもいやな気持ちになることくらい予想できた。だから誰にも気が付かれないように、誰も知らない場所で自分の命を終わらせようと決めたのだ。


 カレの部屋にある、ただひとつの明かり取りの窓から私は空へと真っ直ぐに上昇する。夜だった。今夜のお月さまは白い。白くて細い、弓型の月の光が、私の黒い羽の輪郭をそっと撫でている。


 私は夜の中を泳ぎながら、私のセンセイと、二人目のご主人さまのカレのことを頭の中に思い浮かべた。

 センセイのことだけじゃない、私はカレのこともまたとてもとても心配だった。センセイの腕の中で静かな眠りに落ち込んでいたあの人。もしかしたら彼は、今までセンセイ以外の人に抱っこされて眠ったことがなかったのかもしれない。

 私たち鳥は、お母さんの大きな羽の下に抱かれて眠った経験が必ずある。でも彼にはそれがなかったから、上手に抱かれることが出来ないのかも。安心して眠ったことが少ないから、夜に不安になってセンセイのところに来ていたのかもしれない。

 可哀想、と私は思って本当に辛い気持ちになった。

 折角人間に生まれたのに、にっこり笑うこともうえーんと泣くことも上手に出来ないなんて。大切な人を愛情深く抱き締めてあげられる二本の腕があるのに、それを行えないなんて。


 ねえ神さま、私はやっぱりにっこり笑うことに憧れます。だって笑顔って素敵です、誰かが笑えばそれを見た人も一緒になって笑って、それだけで幸せな気持ちを半分こできるんです。

 私たち鳥は、どれだけ人間のことが好きでもそれが出来ない。傍にいることでしか好意を表現できないんです。


 私はキシキシと嘴の奥から鳴き声をあげた。寒い夜空の中に、私の真っ白い息が吹き上がる。凍てつく空気が、細く鋭い氷混じりの霜が、私の黒い羽を針のように刺していく。予想はしていたが、やはり死ぬことは苦しいことだった。

 私は先ほどよりも幾分も自分に近くなった白いお月さまを見上げて、再び鳴き声をあげる。先ほどと同じように、神さま、と呼びかけながら。


 神さま、神さま、お願いです。

 どうか次にこの世に生まれるとき、いいえ次でなくても良い、でもいつか私を人間にしてくれませんか。

 私は短命で人間はとても長生きだから。きっと人間になった私はセンセイとセンセイが大好きなカレにどこかで会えると思うんです。

 その時私は二人ににっこりと笑いかけてあげたい。二本の腕で抱きしめて、心からの好意を伝えたい。

 つまり、私は私の大切な人を幸せにしてあげたかったんです。でも鳥である私にはそれが不可能だから。人間を幸せにできるのは人間だけだから…!


 吸い込まれるほどに黒い空を真っ直ぐに見上げ、自分の無力さがあまりにも悲しかった時が私の最後だった。

 嘴から垂れた血液が、遥か下の地上へと落ちて行くのを感覚する。そうして私は上に昇っているのか下に墜っているのか、もうよく分からなくなった。


 心残りは、最後にセンセイに会えなかったことだ。今あの人は、どこの空の下で何をしているのだろう。どうか辛い目に…合っていなければ良いのだけれど……







「あら……」


 自室の窓へと視線をやったヨゼファが小さく声を上げる。

 そうしてパタパタと急いでそこへと至る…が、窓の桟で羽を休めていた黒い鳥が自分のよく見知っているものよりも一回りほど小さいのに気が付き、ほうと細く嘆息をした。


「………、どうしたの。こんなところで。」


 気を取り直して黒い鳥へと呼びかける。触れようと手を伸ばしても逃げる気配がないことから、不思議に思ってその様を観察してみた。そうして、「あら」ともう一度声を上げる。


「羽を怪我してるの…。それじゃ飛べないわね、可哀想に。」


 ヨゼファは鳥へと伸ばしかけていた手でその頭をそっと撫でる。……消耗しているのかそれとも人間慣れしているのか、暴れる気配は一向になかった。彼女はそれを今一度確認してから、黒い鳥をそっと掌から胸の中へと導く。


「ちょうど良かったわ、私の部屋には鳥がゆっくりするためのものが一通りあるのよ。」


 黒い羽毛を撫でてやりながら、ヨゼファは子供をあやすような口調で声をかける。


「痛かったわね、苦しかったでしょう…。でももう大丈夫よ、安心して。」


 良い子、良い子と唄うように口にしながら…ヨゼファは、自分がアズカバンへと行く前の時分にここにいた黒い鳥ともだちのことをよくよく思い出す。


「貴方は、どこの空から来たのかしら。」


 そうして呟き、傷を負った若い鳥を見下ろしては優しい気持ちで微笑んだ。



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