骨の在処は海の底 | ナノ
 白い日記帳

 人魚の姫さまは、天幕に垂れた紫のとばりをあけました。

 美しい花嫁は、王子の胸に頭をのせて休んでいました。姫さまは腰をかがめて、王子の美しい額にそっと唇をつけました。


 東の空を見ると、もう明け方の茜色がだんだんはっきりして来ました。


 姫さまはそのとき、するどい短刀の切っ先をじっと見て、その目を再び王子の上に映しました。

 王子は夢を見ながら、花嫁の名を呼びました。王子のこころの中には、花嫁のことだけしかありません。

 短刀は、人魚の姫さまの手のなかでふるえました。


 ――でも、そのとき、姫さまは短刀を波間遠く投げ入れました。投げたところに赤い光がして、そこから血のしずくが吹き出したように思われました。

 もう一度姫さまは、もう半分うつろな目で王子を見ました、その刹那身をおどらせて、海の中へとび込みました。そうしてみるみる、身体が泡になって溶けていくように思いました。


 いま、お日さまがゆっくりと海の上に昇りました。その光は、やわらかに、あたたかに、死のようにつめたい泡の上に差しました。

 そのとき人魚の姫さまは、神さまのお日さまにむかって光る手を差し伸べて、生まれてはじめての涙を目に感じました。

 そうして流れてくる瑠璃色の波にまぎれて、真珠色の泡をキラキラと解きながら、海のそこ深くに沈んでいきました………




「………おしまい。」


 ヨゼファは鏡の中の少女へと笑いかけ、締めの一言を呟いた。(めでたしめでたし、ではないわよね…)と考えながら。

 彼女はほうと溜め息をして、座り込んで視高を同じくしていたヨゼファの手の中にある絵本の中を覗き込んではまた息を吐く。必要の部屋ここで望めば大抵の絵本が手に入るのに、彼女はどうにもこれが気に入ってしまっているらしい。

 19世紀末に流行した、細密な挿絵が描かれている美しい絵本だった。黒い画面の中には、人魚姫を彩るレースに似た鱗や、王子や花嫁の衣装の装飾が、連なった真珠のように細かく浮かび上がるように描かれている。…ヨゼファもまた、それが素直に綺麗だと思っていた。

 ただ、改めて読んでひどく悲しい物語なのであまり繰り返し見たくはなかった。そして…変に身につまされるような思いがして、気分が良くはない。


「ねえ、もっと楽しい話じゃなくて良いの?」


 自分と同じく地面に腰を下ろし、鏡面にピタリと寄り添っていた少女に話しかける。彼女は応えずに、ただ最後のページ…白い涙を流しながら海底へ消えていく人魚姫の姿をじっと眺めていた。

 やがて顔を上げて、微笑んで頷く。これで良い、これが良いとの意思を表示した。そして彼女は少し首を傾げ、此方と彼方の境目の鏡面にぺたりと掌を当てる。ヨゼファは応えてそこに手を合わせた。


(………小さい手)


 自分の青白い手よりも幾分も頼りげないその掌をいじらしく思ってヨゼファは目を細めた。


「そう言えば…今更だけれど貴方スリザリンなのね。私と一緒よ。嬉しいわ。」

 その制服の胸に留まったタイを視線で示しながらヨゼファは言う。少女は相変わらずの美しい面を綻ばせて頷いた。


「さて……。今年一年も色々あったけれど明日から夏休みだわ。だから暫く、数ヶ月くらいここに来れないの。寂しくなるわね。」


 それはヨゼファの本心だった。現在、鏡の中の少女とは週に一度ほどの頻度で会っている。

 どこか彼女は不思議だった…存在が鏡の中だけというのが十二分に不思議だと言うのは置いておいて…その美しい少女と相対する時、ヨゼファは子供と接しているのに大人と一緒にいるような気分にも、更に年端もいかない幼子に接しているような気分にもなった。

 職業柄多くの時間を共にする子供たちとほぼ同じ齢の筈なのに、彼らと一緒にいる感覚とは少し違う。かといって同僚のマクゴナガルやスネイプと接している時間とも、それはまた異なっていた。


(自分と話しているような気分になるのかしら……)


 兎にも角にも、ヨゼファは彼女と二人きりで相対する時はいつもより多く緊張を解いていた。珍しく、少しの愚痴を零したりもした。


 少女は合わさっていた手を伸ばし、ヨゼファの頭の辺りの高さの鏡面を撫でる。……微笑み、「ありがとう。」と応対した。


「貴方は大丈夫?…数ヶ月間一人ぼっちで寂しくないの…。」


 彼女は指で(少し、)を表現するが、大丈夫と笑った。

 少女はひらひらと手を振って別れの挨拶をする。

 ヨゼファは頷いて「またね。」と呟き、強請られるままにその白い額の辺りの…冷たい鏡面に暫しの別れを惜しむキスを送った。



 数ヶ月なんて、私にとっては無いのと同じよ。

 私は本当に本当に長いこと、貴方のことを待っていたもの。

 ねえ…だけれど。貴方はいつ私のことを思い出してくれるの。私の名前を呼んでくれるの。

 いつになったら。

 ねえ、いつになったら。私の身体抱いて、『愛している。』と言ってくれるの…。








「読めるのか。」


 尋ねられて、ヨゼファは「うーん、」と応えながら声の出所に視線を下ろした。

 掌中には一冊の本がある。…夏季のバカンスにスネイプの家に滞在していたヨゼファは、なんとはなしの暇を持て余しては書棚の本を適当に数冊持ち出し、パラパラと捲っている最中だった。


「無理だわ、これポーランド語よ。」

「語学が唯一の取り柄だと言うのに。情けない。」

「それ以外にもあるわよ、取り柄…。」

「ほう…。言ってみたまえ。」

「そうねえ…笑顔が飛びきり美人なことかしら。」

「………………。」

「冗談よ…。そんな顔でこっち見ないで……。」


「大体ね、」と続けてヨゼファは自分の膝の上に乗っているスネイプの頭にポンと軽く掌を置く。

 
「別に語学が得意なわけじゃないわよ。私が分かるのはフランス語だけだもの、蛇語や水魔の言葉まで理解していらっしゃる校長先生に笑われちゃうわ。それに勉強して身に付けたものじゃないし…偶然にも混血だったから覚えただけで。」

「では結局取り柄なしか。精々強く生きたまえ。」

「どうかしら。」

「と言うと?」

「私の取り柄は貴方が知ってくれているからそれで良いんじゃない。逆に貴方の取り柄も、私がよく知ってるわよ。」


 ヨゼファはスネイプの柔らかい髪を弄りつつ、片手中にある読めない書籍へと視線を戻した。

 幾許かの間を置いて、腹を軽く叩かれる。痛みを感じるようなものではなかったが、彼女は「何よ、」と笑っては弱い攻撃を繰り出したスネイプの手を握ってやった。


「と言うか…セブルス、貴方はポーランド語読めるの?他にも外国の本が随分沢山あるみたいだけれど。」


 やや痛みが目立つ、彼の家の大きな本棚を視線で示しながらヨゼファは尋ねる。「いや、」と彼はこちらを見上げながらそれを否定した。


「そこの棚は全て父親のものだ……私のものではない。」


 それだけ言って、彼は瞼を緩く閉じた。繋がっていたヨゼファの掌を自らの口元に持って行きながら。指にその息がふうと触れてくるのがこそばゆい。

 ヨゼファは「そう…。」と相槌してから、馴染みの浅い言語の書籍をペラペラと流し見していく。


(…………………。)


 その最中、ページの狭間に一枚の紙切れを発見する。ヨゼファはそっとスネイプの手の内から自らの掌を抜き、それを確かめるために取り出した。

 色褪せて擦り切れているが古いものではなさそうだった。しかしそこそこの損傷があるのは、何某かで使い込まれたからだろう。折り畳まれた紙を開きながら、ヨゼファはぼんやりとそんなことを考えていた。

 中には、手書きの文字…これは読めた。英語だった。…で短い文章が綴られていた。どこかから切り取ったものなのだろう。前後の言葉がすっぽりと抜けて、しかしただ一言が丁寧に並べられていた。文字の調子から、子供のものだろう。

 ヨゼファは、すっかり自分の腹に顔を埋めるような形になっているスネイプのことを見下ろして弱く笑った。黒い髪をそっと撫でる。そして…「これ、貴方の大事な本よ。」と囁いた。こちらへと視線を向けた彼の掌中に、大きくはないその書籍を持たせてやる。


 ひとつ伸びをして、ヨゼファはソファに腰を下ろしたまま彼の家をぐるりと見渡した。

 狭くはないのだが、日当たりが悪く空気が淀んでいる。スネイプはこの家にさしたる愛着はないのだろう、最低限の手入れしかされていない家具や建材は灰色で古びが目立った。


(でも…それでも、ここは貴方にとって大切な場所ね。)


 ヨゼファに手渡された書籍を、寝そべったまま訝しげに観察していたスネイプはページの狭間で忘れられていた紙切れの存在に気が付いたらしい。……ゆっくりとそれを取り出し…手の中に収めたまま、畳まれた紙を開くこともせずにじっと見つめていた。

 やがて開き、中の短い言葉を認めたらしく嘆息する。元のようにポーランドの書籍の中へと淡い思い出の切れ端を戻し、サイドテーブルに乗せては再び緩く瞼を下ろしていく。その額に軽く口付けてやり、ヨゼファはそっと笑った。


(愛着を持ちようがない家でしょうけれども…貴方、この生まれ育った場所でリリーに出会って…多くの優しい時間を一緒に過ごしたんだものね。)


 それが彼の人生で、全てに違いない。

 今…その胸の中に漂う気持ちをなんとはなしに理解出来るヨゼファは、「素敵な人だわ、貴方は。」と小さく囁いた。


「ねえ…でも、セブルス。ここにずっと居るのは辛くない?」


 ヨゼファは次にフランス語の書籍を手に取りながら会話を続ける。薄く目を開いたスネイプは何も応えずにこちらを眺めるだけだった。


「貴方と私は違うから、一緒にしてしまってはいけないと思うけれども。私だったら…例えもう家族がいなくても、昔住んでいた家にずっといるのは堪え難いわ…思い出すことが多すぎて。」


 薄く埃を帯びた深い色の家具類を眺めながらヨゼファはぽつりとした調子で零す。…自分の顔に、彼の黒い瞳が視線を注いでいるのが分かる。離れていた手を今一度繋ぎ直された。それを握り直し、彼女は応えて視線を元の…想い人のところへと戻す。


「どこかに引っ越したりする気は?いつでも手伝うわよ。」

「……いや。今のところは考えていない。」

「そう…。」


 ヨゼファは静かに応えて瞳を閉じた。スネイプの腕が…大きな掌が、頸の辺りに回ってくる。身体を引き寄せられるので、妙な姿勢で折り重なる形になってその唇に口付けた。

 こう言った時…ヨゼファは素直な気持ちで彼のことが可愛らしいと思っていた。口に出せば気分を害されてしまうことは分かりきっているので、黙ってはいたが。


「ここにいるのは…けじめに近い。やるべきことが終わるまでは動くつもりはない。」

「…なるほど。」

「だが…。そうだ、全て終わったら……」


 スネイプはヨゼファの髪を耳にかけ、透明色の菱形の耳飾りに触れてから彼女の身体を自然な動作で抱いた。


「あの家が良い…。ヨゼファの、」

「私の?去年の夏に一緒にいたあの家のこと。」


 彼の胸に身体を預けつつ聞き返せば、ひとつ頷かれる。


「少し…いいえ、大分辺鄙な場所よ。貴方がよく知ってる通り便利じゃないわ。」


 海の近くにポツンと佇む、傍目から見たら廃屋のような我が家を思い浮かべてヨゼファは返した。


「それでも、風通しが良かった。」


 深く呼吸が出来た、と零して彼は口を閉ざす。

 ヨゼファは笑みを漏らし、そうね…と相槌を打った。


「じゃあ、一緒に住むならもう少し家を増築しましょうか。部屋の数を増やしたり…。」

「いや…部屋数を増やすよりは一部屋を大きくして欲しい。猫の額だ、あの広さは。」

「そっちの方が部屋を増やすより難しそうだけれどねえ。」

「簡単だ、二つある部屋の壁を抜いてひとつにすれば良い。」

「そうすると客間が…貴方の部屋がなくなるわよ。」

「いや、なくなるのはお前の部屋だ。」

「ちょっ…どう言うことよ、一応あれは私の家で」

「……………。約束通りに新しくベッドを買う、問題はない。」


 スネイプは反駁しかけたヨゼファの唇に、些かやかましそうに人差し指を当てながら応えた。

 ヨゼファは数回瞬きをして彼を見つめ返す。……数拍置いて、近い顔の距離を更に近付けて額に頭突きをされた。突然のことに情けない悲鳴が口の端から漏れる。


「あのねえ…言っておくけれど頭突きしたいのは私の方だわ、本当に……。」


 スネイプの言葉の意味を察することが出来ないほど奥手でも鈍感でもないヨゼファは、溜め息をして彼の胸に再び顔を埋めた。

 そして…髪を撫でられていくのを感覚する。暫くそのままで、優しい仕草を甘受して目を細めた。


「………ベッドを買うなら大きいのにしてね。私たち二人とも大きいんだから。」

「これだから…カサが張る女には苦労する。」

「ものみたいに言わないでよ、好きで大きくなったんじゃないわ。これでも気にしてるんだから…」


 大したことではない、と耳元で囁かれる。それなら折に触れて弄らないで欲しい…と言いかけて、やめる。分かりにくいながらも、これが彼にとってのコミュニケーションなのだろう。


(我が愛すべき人ながら、性格に難があるわよね。)


 私も人のこと言えないけれど、とヨゼファは一人で可笑しな気持ちになりながらスネイプの抱擁に甘んじた。


「……本当は、そんなに大きくなくて良いの。」


 スネイプの服に音が吸収されるので、自分の声がくぐもって聞こえる。家にいるためか薄着の彼のシャツの下に、自分と同じく発色が良いとは言えない皮膚の存在を思い出して…ヨゼファは緩く溜め息をした。


「二人でくっ付いて眠れるくらいで良いわ…。」


 スネイプの暖かい腕に抱かれながら、ヨゼファは考えていた。これからのことを。

 今の二人は共通の目的のための協力関係にあると言って良い。皮肉なことに、それが繋がりを強固にしてくれている所以でもあるのだろう。

 ただ、それぞれの人生と役割は別のものだと分かっていた。スネイプにはスネイプの務めが、自分には自分の務めがある。


 そして…それが全て終わった時に、二人の関係はどのようになるのだろうか。また、その時にお互いは果たして生きているのだろうか。

 ヨゼファは……禁じられた魔術に身を窶したヨゼファには…生き残る可能性は多く残されていない。混沌バラルの扉を開いて生きて帰ったものを、少なくとも記録の中に発見することは出来なかった。

 人間に過ぎたものだと理解した上で踏み切った。ヨゼファには自分の命に価値を覚える方が難しい。欲しいものは生ぬるいだけの幸福よりも、それがたとえ辛いものでも烈しい生き甲斐だった。

 それは今も変わらない。だが、今は自分の魔法を信じていた。向き合う姿勢が昔とは異なる。生き残ってみせると、強い思いを抱いていた…。


(だって、私はまだ)


 視界をスネイプの胸に塞がれたまま、彼が生まれ育ち…そして暮らしているこの家の景色を思い浮かべる。灰色のカーテン、深い色の家具、薄い埃を被った書棚の端に溜まった暗がり。テーブルに、壊れた白い陶器の人形が無造作に転がされている。


(貴方をこの…柔らかく優しい檻から連れ出すことが出来ていない。)


 烏滸がましい考えなのかもしれない。それでも…自分もスネイプも、生き残るために、生き残った先の未来を見つける必要があった。二人して崖下に滑り落ちていくだけの暗がりを歩くのではなく…暗闇の中でも、光を目指して歩む為にどうすれば良いのか。折に触れて、ヨゼファは考えていた。


(大切な貴方と、その美しい思い出の為に…私ができることは何かしら。ずっと、考えているのだけれど。)


 分からない、と呟いてヨゼファはスネイプの身体に腕を回して抱き返す。その呟きを打ち消すように、愛していると想いの丈を囁いた。

 けれど気持ちを伝えれば伝えるほどに切なく、苦しかった。胸の痛みは、この二十年に及ぶ歳月の中で癒える素振りを見せてはくれない。







 自分に加虐の趣味がないことも、また逆にヨゼファが被虐趣味でないことも勿論分かっていた。

 然しながらこの夜も、彼女の青い首筋に掌を回して力を込める。


 ヨゼファはそれが嫌だと繰り返し言っていた。やめて欲しい、と困ったように。

 しかし怒ることはしなかった。スネイプがヨゼファの怒りを直に感じたのは、最早十年以上前のことになる…あの、初めて想いを伝えられた時のたった一度きりである。


 彼女の青い瞳にほんの僅かに恐怖が滲んで、こちらを見上げてくる。その視線には、いつも皮膚が粟立つような妙な気持ちにさせられた。

 ヨゼファは自らに覆いかぶさって首を絞め上げるスネイプの掌に触れて、弱々しく首を左右に振る。聞き入れず、手を離さないで力を緩めることもせず二人の顔と顔を近付ける。

 部屋を漂う夜と同じ色をした彼女の瞳の中にはスネイプしか映し出されていなかった。ああ、と思わず声を漏らしてヨゼファの唇を嬲るように貪る。

 この時ばかりは彼女も自分のことしか考えていないだろう。それがどのような感情を伴うものであれ構わない。


 首を絞め上げ、更に深く口付けられるのでヨゼファは呼吸がままならずひどく苦しんでいた。苦痛に耐えるためか、上腕の辺りに爪を立てられる…が、すぐに…ハッとしたようにそれを離して代わりに握った自らの掌中に爪を立てていく。

 傷付けてくれて構わないと…むしろそうして欲しいと願うが、スネイプがどれだけひどくしてもヨゼファは行わない。滅茶苦茶に引っ掻き、掻きむしり、噛み砕いてはその身体を自らの血液で汚して欲しいと望んでいるにも関わらず…今夜も、いつもと同じように。


 ヨゼファの胎内に埋めたままだった自分自身を進めて、その苛立ちとも充足感とも分からない感情を訴えた。

 辛苦に堪える彼女の唇から吐き出される唾液を吸い上げ体内に収めて、代わりに…交換するように、奥に当たった場所に吐精する。

 同時に彼女の身体が弱く痙攣している感覚を覚え、ひどく…とても大きく満たされた気持ちになってその額に口付けた。


 ゆっくりと首に回していた指を解き、赤い痕になった場所を見下ろしてからそっと触れた。ヨゼファは苦しそうに咳き込んでいる。呼吸が整わないうちに今一度舌を差し込んで深く口付けた。これは流石に彼女も堪えきれなかったようで、顔を背けて肩で呼吸をする。

 やがてその呼吸が落ち着いて来た頃、「本当に…」とヨゼファは小さな声で囁いた。


「まったく…、本当に……とても悪い癖よ。」


 喘ぐ息の狭間で零し、ヨゼファはスネイプの両頬を掌で包みながら眉根を寄せた。

 頬に触れているその掌に手を添える。彼女は言葉を続けようと口を開きかけるが、声にせずに黙り込んだ。

 今、自分の表情がどんなものなのかスネイプには分からなかったが…それでも、毎度何事かを訴えようとしているヨゼファが黙ってしまうようなものではあるらしい。

 そして表情どころか、彼自身の感情の動きもよく分からなかった。泣きたいのか、笑いたいのか憤りたいのか、それとも……。


 彼女は眉を下げ、如何にも切なそうにスネイプの名前を呼んだ。セブルス、と。

 首の後ろに腕を回され、誘われるままにその胸に顔を寄せる。抱き留められながら、もう一度自分の名前が呼ばれるのを聞いた。


 この、慰められるような抱擁が受けたくて自分はヨゼファの首を絞め、そして傷付けるのかもしれない。

 一層のこと、気でも触れさせて壊してしまいたかった。そうすればヨゼファが二人の世界の外へと目を向けることは無くなり、彼女がその愛すべき生徒たちの一挙一動に驚かされたり大きな喜びを滲ませたりもしない筈だ。

 彼女がいずれ負うべき役割のことも今は考えなくなかった。彼女が混乱バラルの扉を開く時のことを。だがその時は訪れる、それまでは…歪んだ関係でも構うことはない。この家のように薄暗い檻の中に閉まって、二人きりの時間を生きていて欲しいと日増しに考える。

 やはりこの感情は、一度昂ぶると歯止めが効かなくなる。自分のためだけに生きて欲しい。全てを犠牲にして愛して欲しい。自分が死んだら一緒に死んで欲しい。死ぬのも、生きるのも…全て自分に、自分だけに捧げる愛情の為に………


 だがヨゼファは簡単に壊されるような精神の持ち主では無かったし、それはスネイプの本意ではない。……願望ではあるが。

 本当は…昨年の夏、彼女の家で過ごしたように自然な気持ちで互いを大切にしたかったのだと思う。

 然しながら、二人はそれぞれが為すべき大切な役割を担っている。それがお互いの全てで、人生だ。自分はこの為に生きると決めているし、彼女もその為に生きている。別の人生だった。決して同じものになり得ない。


 それが今更ながら…しかし今こそひどく悲しくて、恐らくの夜も彼女に優しく出来ない。身体に、心に、傷痕を残すことでしか自分の感情を刻み付ける術を知らない、分からないでいる。


 ………乾いた咳を数回して、ヨゼファは自らの胸に顔を埋めたスネイプの頭を下顎で撫でる。


「大丈夫よ…」


 大丈夫なのだろうか、本当は大丈夫でないことを自分は理解し始めているのでは。軽蔑したその母親と同じように、ヨゼファのことを追い詰めているのでは…との可能性を考え、それを必死に思考の底に沈める。


「貴方のことを愛しているわ。」


 そうだ、ヨゼファは自分のことを深く愛している。誰よりも深く愛されている筈だ。

 彼女の言葉を反芻し、自らに言い聞かせるようにしながら…スネイプはその冷たい身体に回した掌の先の爪を、弱く立てた。



 * * *



 そう、スネイプはヨゼファに最も愛されている自覚があった。それが自信や励まし、支えに繋がってくれていたのだと…今なら考え直すことが出来る。

 だが当時の彼はもう随分長い時間をヨゼファと共にしているにも関わらず、気持ちの整理が付かずにいた。

 在ると理解できるものは罪悪感故の離されてしまう畏怖、捨てられた時を想像する際に訪れるぞっとする気持ちと…伴って、攻撃性が過ぎるほどの執着ばかりだった。


 だから……、その時に大きく取り乱したのだ。倒された彼のカップから、温い紅茶が長いテーブルへとなめらかに滑っていく。


 ------------------時間に遅れてやってきたヨゼファに、スネイプは嫌味の一言でも言ってやろうと口を開きかけていたのだ。

 だがそれを遮り、生き生きとした声が彼女の名前を呼ぶ。


「ヨゼファ!!」


 立ち上がったシリウスが扉から室内に入ってきたばかりの彼女の元にほとんど走って至り、力強い抱擁を与える。……突然のことに、スネイプのみならずその部屋にいた面々は驚いて目を見張った。


「あら…二人は知り合いだったかしら。」


 ややあって、スネイプの隣に着座していたマクゴナガルが苦笑しながらも愉快そうに二人に声をかけた。


「嫌だな先生・・、我々は同じ学年ですよ。」


 それにはルーピンが答える。場…久々に再度の招集がかけられた不死鳥の騎士団のメンバーが集まるブラック邸…の雰囲気はそれなりに和やかだった。カップを取り落として固まったままでいるスネイプ以外は。


「それだけではない。」


 ルーピンの言葉を引き継いでシリウスが続けた。抱擁をようやく解くが、それでもヨゼファの掌を両手で強く握ったままでいる。


「大切な…命の恩人だ。とても世話になった。」


 シリウスは屈託無く笑い、そのまま彼女の手を引いて自らの隣の席へと導く。ヨゼファは少し恥ずかしそうに笑いながら、「もう…ちょっと、大袈裟よ。」と彼の肩をポンと叩いて薦められるままに着席した。


「まず…遅れてきて申し訳ありません。少し手間取る仕事をしていました。」

「無事、その仕事は片付いたのかね。」


 状況を見守っていたダンブルドアが、室内の面々に向けて謝罪をしたヨゼファに質問する。彼女は頷いて肯定した。


「それにしても…仲が良かったんだな、君たち。意外だ。」


 ルーピンがヨゼファとシリウス声をかける。彼女は勿論、と笑顔で肩をすくめた。


「半ば戦友みたいなものだもの。…まあ何より、元気そうで良かったわシリウス。その後は大丈夫だった?」

「それはもう散々だったよ。ひどいものだ。」

「あら…まあ…でもそれはそうでしょうね。大変なことだもの…」

「全くだ、」


 シリウスにとってもヨゼファにとってもこの再会は喜ばしいものだったらしい。二人して機嫌の良さを隠さず、笑顔で言葉を交わしている。


「ヨゼファ、君はどうしたんだ。一通り肥えたな。」

「いやねえ、肥えたなんてあまり女性に言わない方が良いわよ。ちょっと間違えたら…いえ間違えなくても平手を食らうわ。」

「そんなつもりはない、当時が病的だっただけで……そうだ、すごく綺麗になった。」

「本当?嬉しいわ、どうもありがとう。貴方も大分血色が良くなったようね…まだちょっと窶れているけれども。で……そうね。積もる話が本当に沢山あるけれど私たちばっかり喋ってても仕様が無いわ、校長先生?」

「なに……今日はほんの顔合わせのつもりだ。畏る必要はない。」

 彼女はダンブルドアの言葉に微笑んで応えてから、ブラック邸の屋敷しもべ妖精から供される紅茶を「ありがとう、」と謝礼を述べて受け取っていた。


 ………スネイプの隣に着座していたマクゴナガルが、「セブルス、」と声をかけて来る。


「どうしたんです、カップが倒れていますよ。」

 もう…、と零しながら、彼女はスネイプのカップをソーサーへと戻してやった。


「ああ…袖まで濡れてるじゃありませんか。セブルス、どうしましたか。どこか具合が悪いところでも。」

 マクゴナガルは再度彼に声をかけるが、全くもっての無反応なその有様に少し呆れたように溜め息をする。


「申し訳ありません、布巾を頂いても?テーブルが濡れてしまって。」


 そしてスネイプのことを放っておくと決め込んだのか、特に構わずテキパキと後処理をしていった。

 しかし彼にとってはテーブルが濡れようが自分の袖がしたたかに被った紅茶によって茶色く染まろうと、今はさしたる問題ではなかった。


 脳裏には……降って来るような、美しい星空が浮かび上がる。目眩がするほどに眩しい星の煌めきのひとつずつを今でも克明に思い出せた。その瑠璃色の夜を背景に…自分の、最も美しい記憶と清らかな想いが…惨めに、無残に壊されて行くその痛みが、


(また、同じ思いを)


 後頭部が、痺れたようにジリジリとしていた。冷静な思考を途絶えさせたまま、スネイプは自らの薄い唇へと指先をやる。……確かに、ここに。ヨゼファからの愛情を受けた筈だ。何度も。嘘ではない………真実に、



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