骨の在処は海の底 | ナノ
 カウントダウン

 スネイプは溜め息を吐き、そしてゆっくりと瞳を開いた。

 もう時刻は明け方だろうか。流石にダンスパーティーの馬鹿騒ぎもひと段落したようで、少なくとも彼の居住スペースである地下には何も聞こえてくるものはなかった。いつものように、心地良い静寂である。


 頭の後ろにはソファの背の感覚を覚える。座ったまま寝ていたようだ。そして膝に重みを感じてそこに視線を移す。よく見慣れた灰色の頭が、相も変わらず間抜けそうな佇まいをホワホワとさせてはこちらに後ろを向けていた。

 掌を伸ばしてクシャクシャと手持ち無沙汰に触る。指通りが柔らかく細い毛質だ。彼女はスネイプの腿の上で身動いで小さく唸り声をしてから息を吐き、また少し微睡むようだった。

 しばらくの間、特に意味もなく彼女の髪を弄って過ごす。その最中、ほんの僅かに黒い毛を発見するので色を抜いて周りに馴染ませてやった。

 髪を弄ることに飽きたので、次に彼女の肩の辺りに手を滑らせてみる。何度かそこを撫で、スネイプは少しばかり物思いに耽った。


(…………骨が、)


 骨が触るな、と思ったのだ。掌に。そのまま首…頸にも触れて脊椎の形を確かめた。やはり、以前よりも肉が薄くなっている。アズカバンから戻った時分よりは充分健康体ではあるのだが。

 些か気になり、手を回して彼女の首元まで留まっている小さな釦を上から順に外した。

 ……お互い、衣服を脱がし合う時に釦の多さは毎度話の種になる。特にヨゼファはそれを殊更面白がり、『素敵なプレゼントはラッピングが凝っていて開けるのが面倒臭いのが相場よねえ。』と言いながら笑うのだった。


 黒い一繋ぎのスカートの釦を胸元まで外し、その下の白いシャツの釦も同じようにひとつずつ外していく。

 ヨゼファの肌が外気に晒され軽く粟立った。青白い乳房が黒い下着に収まっている様を見下ろしてから、冷たい肌に指を這わせた。いつものように、そこには魔法の痕跡が隠されずに浮かび上がっている。ゆっくりとなぞれば、指の動きに合わせて乳房が形を変えていった。


(最近……)


 下着の肩紐をずらし、肩、腕へと続く魔法陣の様子を確かめた。


(魔術の痕跡が増える速度が顕著だ。)


 そして…自らがその皮膚を傷付けた咬傷や裂傷もまた嫌が応にも視線に入り、思わず目を細める。

 緩やかに瞼を開いたヨゼファが、頭をこちらに向けてスネイプのことを見上げた。

 暫時ぼんやりとして彼の顔を眺めていたヨゼファが、緩慢に自分の胸元へと視線をやる。そのままで再び少しの時間が経過した。スネイプもまたヨゼファの下着の中に掌を差し込んだままで固まっていたが、やがてそこからそろそろと手を退いていく。段々と意識を取り戻したらしい彼女がその様を見ながら苦笑した。


「お楽しみのところ…すみません…?」

「………違う!!」

「ち、違うのね…。分かった、違うわ。」


 ヨゼファはどう反応すれば良いのか分からないらしく、とりあえず彼の言葉を繰り返して肯定する。恥をかかされたような気分になったスネイプは思わずヨゼファの額に肘を打ち込んだ。寝起きで避ける事が出来ず、それをまともに食らった彼女が間抜けな悲鳴を上げる。


「ああ…それにしても。いけないわ、もう朝が近いじゃない。」


 ヨゼファは欠伸をしながら殴られた箇所をさすりつつ、スネイプの腿の上から身体を起こした。

 
「良い枕のおかげでよく寝てしまったようね。」


 彼女は笑ってスネイプの腿を軽く叩いてから、外されていた釦をひとつずつ元に戻していく。魔法の痕跡はそれに合わせて隠され、その肌もまたいつものように几帳面に喉元まで仕舞われてしまった。

 そして…ソファーの前のローテーブルに無造作に置かれていたボトルやグラスを片付けようと伸ばされたヨゼファの手を、スネイプは掴んで制する。立ち上がりかけていた彼女の首に腕を回して自分の隣…元の位置に戻した。


「…………どうせ明日は休みだ。」


 耳元で低く呟き、腕に力を入れて近くに寄せる。ヨゼファは逆らわずに身体をこちらに預け、笑みを小さく漏らした。


「貴方って…いやね、自覚がないところが恐ろしいわ。」

「なんの話だ。」

「少し間違えればひどい魔性の男性よ。本当に…ちょっと。反則よ、色々と。」


 ヨゼファもまたスネイプの背へと腕を回し、愛情深い仕草でそこを撫でる。


(…………………。)
 

 本当は自覚が無くはなかった。自分に甘すぎるヨゼファがどんなところに贖えないのか、長い付き合いの中で分かるようにはなっている。だが……


「でも、明るくなる前に部屋に帰らないとね…。ここから戻るところを万が一生徒に見つかってしまうと少し面倒よ。」


 ……それがうまくいかないことも、多分にあるはあった。それでも、


「今日は戻らなければ良い…。」


 再び自分から離れていこうとするヨゼファを捕まえる腕の力を緩めずに、スネイプは再び呟く。……自分が先ほど完璧に元の色へと戻した灰色の髪に触れて撫でながら。ヨゼファが「え?」とそれを聞き返した。


「今日、部屋に戻らなければ良い話だ。明日の明け方に帰れば良い……。」


 ヨゼファが何かを言おうとする気配を覚えるが、聞き入れずにそのままヨゼファの胸元に顔を寄せて瞼を下ろした。

 少しの沈黙の後、髪をその下顎で撫でられる気配を覚えた。……自分の要望は了承されたらしい。やはりヨゼファはスネイプに殊更甘かった。申し訳ないと僅かに思わなくもないが、それ以上にどこか歪な欲望が満たされる充足感を覚えた。


 ヨゼファの肩を抑え、身体をソファに沈ませると彼女は可笑しそうに「ここは狭いわよ。」と言う。


「私たち、二人とも大きいから。」


 彼女はスネイプの寝室へと続く扉へと視線を向けるが…大してそれを気にせずに、ヨゼファが元に戻した胸元の釦を先ほどと同じ手順を踏んで開いていく。

 ベッドには、後で改めて・・・戻れば良いと思った。


 両頬を掌で包まれて軽く口付けられる。離される際、「前から思っていたけれど…」とヨゼファは囁いた。


「貴方、よく私のこと抱けたものね。」


 彼女が顕になった自分の胸元へと視線を落としていたので言いたいことを察して、暫しスネイプは口を噤んだ。


「……。なにかあったのか。」


 指先で下着を上へとずらし、現れた重みのある乳房をそっと下から掌で包んで尋ねる。彼女以外の女性を多くは知らないのでなんとも言い難いが、その上背と同じくこちらも一般よりは大きい方なのだろう。


「大したことではないわ……。」

「それならば気にする必要もない。」

「そうかしら。」


 ヨゼファは視線を僅かに逸らしてスネイプの頭越しの天井をぼんやりと見る。「…こちらを見ろ。」と言って視線を元のように戻させた。

 彼女は一言謝ってからスネイプの首へと腕を伸ばす。頸を撫でられ、黒い髪を耳へとかけさせられてから今一度口付けを受けた。その長い指が首筋を滑って前へと至る。ひとつずつ、黒い釦がヨゼファによって外されていく感覚を覚えながら嘆息をした。


「言っておくが…。」

 緩慢なヨゼファの所作に焦れつつ、彼は言葉を続けた。…彼女は片眉を僅かに上げて続きを促す。


それ・・は、こちらの台詞でもある。」

 長くなった灰色の前髪が彼女の右目を隠していたので、それを払いながら言った。……前髪だけではなく、全体的に少しばかり髪が伸びたようだ。後で切るように促そうと考える。


「その言葉を、そのまま返そう。」

 ようやく彼女が最後の釦をホールから解放するので、ローブを脱いでその顕になった瞼の上に軽く口付けた。


「やだ…。」

 ヨゼファは呟き、首へと腕を回して強い力でスネイプを抱いた。


「なに言ってるの。」


 苦笑しながら零された言葉を舌で掬うようにその唇を舐め、歯を立てて嬲る。耳にかけられていた髪がバラバラと落ちて、そのままヨゼファの頬へと垂れていく。受け入れられるので、長く粘着質に口付けた。

 抱かれる力はずっと強いままだった。そのままでいて欲しいと願う。決して離さないで、強く繋ぎ留めていて欲しかった。

 ………そろそろ日も昇り始める時間帯のようだった。それでも僅かな明かり取りしかないこの地下室は薄暗く、四方に夜の気配が色濃く取り残されている。







 子供の頃、熱を出した時のことを夢に見た。

 ……とは言え、ハリーにとってそれはそんなに昔のことではなかったが。五年、更にその数年前くらいの時分だ。

 流石にこの時ばかりは物置部屋から解放され、ダドリーの第三の部屋のベッドで寝ることを許されていた。それでも深夜に発熱はピークに達し、歪んだ影や笑う幻に翻弄されるひどい時間を過ごした。


 額に誰かが触れている。ハリーの熱が凄まじいことを覗いても、それは冷たい掌だったと思う。氷をあてがわれているような感覚を覚えるが今の彼にはそれが有り難かった。


 次に、ハリーは誰かの背中で目を覚ました。……おぶられているらしい。やはり冷たい身体だった。恐らく、先ほど自分の額に触っていた人物と同一人物だろう。

 身体が冷たいだけではない。その人物は普通ではないほどに痩せ細っていた。ハリーを背負って走っているのだろうか。あっという間にその薄い背中から汗が滲んで吹き出して行くのが分かった。


(やめて、)


 ハリーは思う。


(そんなに痩せた身体で走っては、きっと貴方の方が先に参ってしまう。)


 ハリーの心の音を聞き取ったのが、その人物が息継ぎの間に言葉を漏らす。『大丈夫。』との声から、女性なのだと理解した。


『大丈夫よ、さっきお医者さんに連絡がついたの…。この時間帯でも、すぐに診てもらえるわ。』


 大丈夫、と再三度繰り返される。大丈夫なのか、と朦朧とした頭で納得した。



 病院の白いベッドに寝かされている。頭の上、天井の下に点滴の袋が銀色の金具に吊るされいるのが目に入る。そこから透明色の液体がポタポタとひとつずつ落ちていく様を眺めていた。


『麻疹ですって。まだかかったこと無かったかしら。』


 白いカーテンの向こうにいる人物が語りかけてきた。ハリーが目を覚ましたことが分かっているらしい。

 細長いシルエットが薄い布の向こうで揺らめいている。まるで幽霊のように所在のない存在に思えた。

 うまく動かない身体で彼女に向かって手を伸ばす。察したように、カーテンの隙間から掌がそっと差し込まれてきた。肉が落ちた青白い、死人のような掌だった。冥府からやってきた死神にも似ている。


(……………僕は死ぬのかな。)

(そうか…。これは母さんだ。母さんがきっと…僕を連れに来てくれたんだ。)


 額に、それから頬に冷たい手が触れていく。離れようとする彼女の指先を弱い力で握って留めた。握り返され、暫くの間二人はそのまま動かずにいた。

 点滴が、頭上からゆっくりとハリーの身体の中へと落とされていく。時計の秒針の音が深い夜の中に沈んでいくのが微かに聞こえた。

 珍しく、優しい夜だった。


『………辛かったわね。でも、もう大丈夫よ。』


 静かな声が静寂の中で零される。その時強く手を握られたことを、今思い出した。

 ずっと忘れていたことだった。いつもこうだ、彼女の存在は夢の中でしか感知できず、目が覚めれば忘れてしまう。

 強く握られた手を握り返しながら…同じように力強く掴みたいのにままならず…(それでも、)と考える。

 この手にもう一度触れることができた時に、何を言おう。何を話そうか。


『見て、ハリー。』


 知っていた。いつでも彼女が見てくれていることを。幼い時から何度も手を引かれて夜の街に連れ出してもらった。

 ロンドン塔の天辺で、彼女は金色の光が散らばる街を示しながらハリーの肩を後ろから抱いた。


『これが雪虫。初めて見た?…そう。冬を連れてくるのよ、ほら……』


 彼女の指から離された白い綿毛は黒い夜空の向こうに吸い込まれるように消えて行き、代わりに銀色の雪が空から真っ直ぐに降りてくる。割れたガラスの破片のように光りながら。


『そろそろ帰りましょうね。』

『………そうね、勿論私もそうしたいわ。でも朝にハリーが目を覚まさないと、お家の人が驚いてしまうもの。』

『それに貴方、あんまり遅くまでは起きていられないでしょう。貴方が一人で眠ってしまったら、残された私はつまらないわ。』

『もっと大きくなって…夜遅くまで起きていられるようになったら。』

『そうしたら、もっと長い時間一緒にいましょう。』

『私も貴方と話したいことが沢山あるの。』

『ええ…約束よ。私は貴方との約束を全部覚えている。忘れる筈がない。』

『貴方が私を忘れても……』


 私はね、いつでも。 




 ああ、


 喘いで、離されてしまった手で目元を覆った。点滴から体内に落とされていった水分が涙になって流れていく。

 真っ白い空気の中で、手を伸ばして彼女を呼んだ。抱きしめられたのだろうか、インクの藍色の匂いがそっと過っていく。

 深い、夜と同じ匂いだ。


(忘れない、)

(僕は決して忘れない。)


 強く訴えても無駄だ。夢は夢で、必ず覚めては忘れてしまう。

 それが心の底から悔しくて、ハリーは熱い涙が垂れていく目元を覆っては呻いた。




「………おはよう。」


 ゆっくりと瞼を開いた時、声をかけられた。

 真っ白い病室のカーテンを背景に、黒い人影がインクの染みのように滲んでそこにあった。眼鏡をかけていない不鮮明な視界の中でもそれがヨゼファだと分かったのは、やはりその姿が黒すぎるからだ。こうも黒い人影にはこの学校にあともう一人心当たりがあるが、スネイプがわざわざ自分を見舞うことはあり得ないだろう。


「先生……。痩せましたか?」


 ハリーは寝たままでポツリとそう呟く。彼女は笑い、「最近忙しくてケーキを食べれていないの。」と応えた。

 指先が冷たかった。……ヨゼファがしっかりと自分のそこを捕まえていた所為だ。繋がった場所をじっと眺めていると、彼女が微笑む気配がした。そうしてゆっくりと掌は解放される。


「魘されているように感じたから。怖い夢でも見た?」

「よく覚えていないけれど…怖い夢では、無かったと思います。」

「そう?それなら良かった。」


 半身を起こし、眼鏡をかける。やはり眼前の人物はヨゼファだった。暫くぼんやりと見つめていると、彼女が心弱く微笑んだ。


「……………。大変だったわね。」


 そして一言だけ言葉をかけられる。なんと返して良いか分からず…ハリーは口を噤んだままでいた。そうして、三大魔法対抗試合の最後に起こった出来事が、ヴォルデモート卿の復活は、真実に起こったことだったのだなあとどこか他人事のように考えた。


(本当に……)


 そうして、セドリックも死んでしまった。終わってしまったことと、起こってしまったことは元には戻らない。ハリーはこれからのことを考えなくてはいけなかった。


(そうだ、考えないと。)


 結局、自分が知っているあの・・アラスター・ムーディは偽物で、死喰い人の男だった。

 だから彼が言っていたことも信用できるかどうか怪しい。繰り返し聞かされた、今眼前にいる人物についての忠告を思い出す。

 だが、その全てが嘘なのだろうか。しかし、そんな嘘をクラウチの息子が自分に吹き込む意味が分からなかった。


(分からない……。)


 ヨゼファのことをじっと眺めながら、ハリーは不意に泣きたくなった。

 ………持っていないことにはずっと慣れていた。けれど、持っているものを奪われた経験は少ない。もし、今の今まで信用して信頼していた彼女の行為や言葉が全て虚偽だったらと考えるのが空恐ろしかった。


 ハリーの胸の内を知らず、ヨゼファは少し首を傾げてその視線の意味を仕草で問いかける。ハリーは何も応えないでいた。


「ねえハリー…。約束、覚えてる?」

「……え?」


 なんのことか分からずハリーは聞き返す。ヨゼファは目を細め、「貴方が覚えてなくても、私はちゃんと覚えてるわよ。」と表情を柔らかくしながら薄紙に包まれた直方体を取り出してみせる。……見た瞬間、それが何かを思い出した。

 ハリーは自身の掌中に収まった四角いケーキへと視線を落とし、じっと黙り込んだ。小さな薄紫色の花と白い花が一輪ずつ、緩く結ばれた麻紐に飾られていた。


(そうか、)


 何かがハリーの身体の中にストンと落ち込んでいった。諦めだろうか、覚悟だろうか。そのどちらともつかない感覚が。

 だが、思い出すのは泥の上で冷たくなってしまったセドリックの肢体と濁ってしまった瞳の色だった。暖かで、澄んだ光を灯していた筈の綺麗なその瞳が…。


 無意識に手に力がこもってしまっていたらしく、柔らかいケーキがハリーの指に合わせてゆっくりと形を変えて歪んでいく。

 生姜のケーキが食べられない状態になってしまう前に、ヨゼファがそっとした動作でそれをハリーの掌中から除いてサイドテーブルへと置いた。

 近い距離で、二人の視線が合う。

 やや伸びてしまった前髪が、ヨゼファの片目を隠していた。しかしその奥で青い瞳がこちらをちゃんと捉えているのは気配で分かる。


「ハリー、」


 ヨゼファは空になった彼の両手を握り、静かな声で名前を呼んだ。笑った彼女の目元に、よくよく馴染み深いクシャリとした皺が浮かぶ。


「私、何も見ていないわ。」


 そう言って、彼女は片手を伸ばしてハリーの頬へと触れる。涙を拭われて、初めて自分が泣いていたのだと気が付いた。


「………何もね。」


 言葉を繰り返したヨゼファに、ゆっくりと眼鏡を外され冷たい手で頬を撫でられる。


 喉の奥で引き攣った音が鳴った。それを抑える為に口元を掌で覆う。あ、と声を上げそうになった。咄嗟に…何かから逃げるように眼の前にあったヨゼファの胸へと頭を預ける。すぐに、力強い抱擁によって彼女の腕の中に閉じ込められた。

 ハリーは今度こそ声を上げた。驚いたからだ。この、大人に力強く抱かれる感覚はいつぶりだろうか。力が抜けた。上げた声を飲み込む前に更に大きな音が喉の奥から沸いて、涙と共にヨゼファの黒い服の中へと落とされていく。


 彼女は何も言わずに、けれども腕の力は痛いほどに強いままハリーのことを抱いていた。何も考えられなくなった。あまりにも強い感情と悲しみによって、頭の芯が溶けるほどに泣いた。人間がこれほどの量の涙を流せるなんて今まで知らなかった。


『……………。信じているのか?あの邪悪な女を。』


 ムーディー…いや、クラウチの息子だろうか…の、言葉を不意に思い出す。(違う、)と胸の内で否定しながら、ヨゼファへと回していた腕の力を強くする。指先を滑る手触りの良い彼女の衣服の生地を半ば引っ掻くようにして。

 怒鳴りたい気持ちをそうやって堪えた。そうじゃない、と首を振ってあの時の彼に言うべきだったのだ。決して自分はヨゼファのことを邪悪だなんて思わないと。

 闇祓いのトップの女性マリアが、世界中の人間が彼女を邪悪だと言っても、自分だけはそれを肯定してはいけなかったのだ。迷うべきではなかった。


(だって先生、)


 ハリーはヨゼファの昔を知らなかった。その母親と、家族との間に何があったかなど預かり知るわけがない。彼女の学生時代の姿など分かるはずがない。全ては自分が生まれるずっと昔の話だ。


(けれども、今のヨゼファ先生のことはよく知っている。)


 ヨゼファはよく笑って甘いものが好きで、それから生徒と話すのが大好きな先生だった。

 休み時間はいつも生徒の誰かと話をしている。全てが取るに足らない小さいことだったけれども、そのひとつずつを彼女はとても嬉しそうに相槌を打って耳を傾ける。それが嬉しくて、ハリーもまた彼女とよく話をした。

 右手の親指、人差し指、それから薬指の先が青いインクで汚れている。長い間魔法陣の研究を続けている彼女の指にそれは染みて、もうちょっとやそっとでは取れないそうだ。

 その掌で、よく入学したばかりの一年生や二年生の頭を撫でていた。彼女は間違いなく生徒たちの母親のような存在だった。

 いつも黒い服を着て、背が高くて、少し草臥れた顔付きをしている。けれども決して邪悪ではない。ヨゼファが人を傷付ける為に魔法を使うことはあり得なかった。魔法は人を幸せにするものだと、彼女自身が言った言葉だ。

 ものごとの良いか悪いかは、数の多さで決まるものではない。もしそうならば、多数決で全てが通る社会はきっと間違っている。だから、何があっても…世界中の人間が彼女が邪悪な魔女だと断言しても、ハリーは違うと言わなくてはいけない。


 だって、彼女はハリーのことを好きだと言ってくれた。信じてくれた。学校中が彼に対する不信を抱いても、まるで気にしないでいた。それだけではない、皆には内緒で食事や遊びに連れて行ってもらったし…入学してから毎年の誕生日に手紙もくれた。クリスマスだって、一度も訪れたことのないサンタの代わりになって毎年、


 少しだけひしゃげてしまったサイドテーブルの上の生姜ケーキのことを思い出して、ハリーは今更ながら気が付いた。きっと…そうだ。間違いない。ずっと彼女は自分の母親の代わりをしようとしてくれていた。

 ………そんな人間を邪悪だなんて、そんな風に言うなんて、思うなんてひどい。本当にひどいことだ。


 ハリーにとって父親はジェームズで母親はリリーであることは間違いない。二人の写真はずっと掛け替えのない宝物だ。それでも…ヨゼファもまた、母親だったことに違いない。

 出会ってから一度も一緒に写真も撮らず、また彼女自身の写真も無く。与えられるもの全てが形に残らなかったこの女性もまた……そうだ。間違いなく。決して間違いなく……



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