骨の在処は海の底 | ナノ
 悪人

「それ…相談する人、間違えてない?」


 ヨゼファは困った顔で、ローテーブルを挟んでは向かい合ってソファに座っているハリーの言葉へと応じる。

 ………ハリーもまたそれを思わなくはなかったので、あははと弱く愛想笑いをした。


「そうねえ…。私の主観から言わせてもらうと、ダンスパーティに誘われて嬉しくない女の子はあんまりいない筈よ。言うだけ言ってみたら…と。こういう当たり障りのないことしかアドバイスできないわねえ。」


 しかしそう言いながらも彼女はどこか楽しそうだった。薦められるままにシロップ漬けの砂糖をひとつ紅茶に落としながらハリーはヨゼファを伺う。透明色の砂糖の結晶からは弱い花の匂いが香った。

 ハリーはヨゼファに聞きたいことがあった。

 勿論、ダンスパーティに女性を誘う為のアドバイスではない。…教えてくれるに越したことはなかったが。しかしどう切り出せば良いのかが分からないまま彼女の部屋に至ってしまい、咄嗟に口に出た会話の口実がこれだったのだ。


「先生は誘われたら嬉しいんですか?」

「当然よ。」

「………誰かに誘われましたか?今回。」

「残念ながら誘われてないわよ。当日会場で適当に相手を見つけるつもりでいるわ。」

「じゃあ先生の…学生時代は?あったでしょう、同じように。パーティが。」

 
 ヨゼファはふわりと笑い、少し首を傾げた。それから片眉を上げて「無いわよ。」と屈託無い表情で応答した。ハリーは「え?」とそれを聞き返す。


「パーティはあったけれどね。先生は一度も誘われたことがないの。それに自分からも誘わなかったしね。こういう時って女の子も積極的にならなくっちゃいけないのに、そういうのが苦手だったのよ。」

「いや…でも。先生は明るくて優しいし、人当たりも良いから…そういう関係じゃなかったとしても、友達から声がかかったんじゃ。」

「それはちょっと買いかぶりすぎよ、嬉しいけれども。先生は所詮偽善者だからね……。」

「………?どうしてそう思うんですか。」

「さあ…。どうしてでしょうね。」


 ヨゼファは静かな声で言い、シロップに浸かっていた砂糖の結晶をひと粒スプーンで掬って自分の紅茶へと落とした。陶器のカップの底にそれが当たって小さな音がする。

 少し、辺りが静寂した。

 単なる静かさではない。なにか孤独なものの、重くるしいものの静寂だった。そう思ってしまうのは、ムーディからヨゼファの過去を聞かされたからだろうか。


「ヨゼファ先生………。」


 ハリーはカップを持ち上げて中を覗き込んでいたヨゼファへと言葉をかけた。彼女は顔を上げてこちらへと視線を向ける。


「じゃあ、僕にしてくれたことも…好きだって言ってくれたことも、偽善なんですか?」


 その青い瞳を見つめながら、ハリーはぽつりと呟きを並べる。こんなことを言うつもりはなかった。しかし掠れた声は続いていく。


「僕は…それがとても嬉しかったのに。優しくしてもらえたことが……本当にとても感謝していて、ありがとうって思っているのに…。」


 ヨゼファはハッとしたような表情になった。カップを持ち上げていた手がゆっくりと下ろされていく。


「そんな言い方は、ひどい。」


 彼女は立ち上がり、机を回り込んでハリーの傍に至る。膝を折って着座している彼へと視線を合わせ、「ごめんなさい。」と謝った。


「もう二度と言わないでください。」

「本当にごめんなさい…無神経だったわ。」


 隣へと腰掛け、彼女はハリーの肩を抱いて掌を強く握った。

 それに身体を預け、ハリーは瞼を下ろした。…しっとりとしたインクの匂いと、香水が混ざって優しい香りがする。馴染み深いヨゼファの気配だった。


「…………。私がここの学生だった時に、貴方がいてくれたら良かったのにね…。」


 彼女はハリーの肩を抱いていた掌でそこを撫で、本当に小さな声で囁いた。


「ねえハリー、安心してちょうだい。貴方は貴方ハリーであることを除いても素晴らしい存在だわ。心の中に大きな思い遣りがある。ハリーからの誘いは誰にだって嬉しいものよ、貴方は皆に愛されて当然の人だから。」

「そんな…それこそ買いかぶりです。今までだって全部運が良かっただけで。それに僕にはこういう経験はあまりないから……。」

「貴方にとっては対抗試合よりもこっちの方がよっぽどナイーヴなのね?なんだか可愛いわ。」


 ヨゼファは表情を明るくしては言う。彼女が隣に来たことで二人の距離は随分と近かった。それを不快に思わないのは、ハリーがヨゼファのことを半ば家族のように思っているからだろう。同世代の友達には見せられない情けない姿をもう随分と見られてしまっている。


「いや……、はい。そうかもしれません…。僕は、なんと言うか自分を男として考えた時に自信が無いのかも。背もそんなに高くないし、顔も格好良いわけじゃ…。」

「私くらいの歳になるとそんなの些細なことだけれどね…。でも人間なんて、元から自信が無くて自分の嫌なところばかり知ってる生き物よ。それが良いんじゃない。」

「全然良くないですよ。せめてもう少し自信があれば…向こう見ずに突っ走れるのに。」

「そうねえ…、いや…そもそも自信ってなにかしら。所詮は他人に優るってことでしょう?大した価値のものじゃないわ。」


 ヨゼファはソファの肘掛けに身体を預けながら、自分のカップを杖で引き寄せてふわりと掌中に収める。一口飲んでから「もう少しお砂糖入れたほうが良かったわ…」と呟き、今一度ハリーへと向き直る。

 表情はいつものように穏やかだった。その落ち着いた雰囲気に甘えてしまい、結局ハリーが彼女に問いただそうとした諸々のことは鳴りを潜め…いつものように単なる悩みの相談へとすり替わってしまう。


「それに自信があったって好きな女の子に振り向いてもらえるとは限らないじゃない?」

「じゃあどうすれば良いんですか…って、さっきからそれを聞きたいんですよ。」

「私にそれを聞くのはちょっとお門違いよ。どこからどう見ても恋愛に手練れている風には見えないでしょう?でも…自分に足りないものの所為で苦しいなら、それはとても良いことよ。視野を広げるきっかけだわ。」


 結局具体的なアドバイスを得られず丸め込まれたような気がしてハリーは溜め息をした。

 ヨゼファは笑い、「役に立てなくてごめんなさい、」と謝罪しては彼の髪をクシャリと撫でた。


「でも素敵ね。」

「なにが。」

「貴方を含めたここで学ぶくらいの年代の子のことよ。……皆、楽しいことも嬉しいことも全部これからだわ。今だってとても素敵なのに、これから更に美しく成長出来るんですもの。」


 素敵ね、とヨゼファはもう一度繰り返した。

 彼女の言葉の背景で、静かな雨が降り始める音が聞こえる。ハリーはふと…本当に今更ながら、ヨゼファの耳元を飾っていた真珠が菱形のガラスへと変化していたことに気が付いた。


「変えたんですね。」

 なんとはなしにそう言いながら耳を示せば、ヨゼファは「ええ、似合う?」と返した。


「はい。でも、僕はなんとなく前の方が似合っていたような気がします。」

「そうかしら。……そうなのかもしれないわね。」


 ヨゼファは表情を緩やかにしては頷く。それから「ねえハリー、」と言葉を続けた。


「いつもそうだけれど…特に今年は、貴方は予期しないアクシデントによって大変な役目を務めることになったわ。でも貴方はすごく一生懸命に、立派にやり果せている。私は…対抗試合が終わったらなにかお祝いをあげたいと思っているの。なにが良い?教えてちょうだい。」


 窓の外に降り始めた雨が、光の色を鈍くしてヨゼファの輪郭を銀色に照らす。その光は彼女の透明色の耳飾りにも弱く反射していた。

 ハリーは数回瞬きをし、「えっと…」と彼女の申し出に応える言葉を探した。


「遠慮しなくて良いのよ。……最も手加減はしてもらえると嬉しいわ。私、多分貴方よりも貧乏だから。」

「いえ…でも、良いんですか?」

「ほんの気持ちよ、でも他の生徒には黙ってくれていると嬉しいけれど。」

「秘密ですね。」

「そう、秘密よ。」

「じゃあ……そうだな、ケーキを焼いてもらえますか。」

「もちろん、お安い御用よ。」

「前に作ってくれたことありましたよね…あの、黒くて生姜の味が結構するやつ、周りに胡桃が砕いてまぶしてあるのが良いかな。」

「…………うん?私、そんなの作ったことあったかしら。」


 ヨゼファは紅茶に砂糖の結晶をもうひとつ加えながらそう言った。ハリーは「………え。」と言葉に一瞬詰まるが、やがて愛想笑いして「あれ…そういえば、どうだったかな。分からないです。」と言葉を濁した。


「でも、言ってくれたのと似たようなのは作れるわよ。期待しててちょうだいね。」

「ありがとう……ございます。」


 白い糸のような雨が窓の外では降り続けている。大きな窓ガラスから降り注ぐ灰色の光が、室内全てのものを淡い色に滲ませていた。

 どこか遠い場所から嗄れた鳥の鳴き声が聞こえてくる。恐らく森からだ。あの鳥はどこへ向かって鳴いて、なにを伝えようとしているのだろうか。ついそんなことを考えてしまうのだが、考えてみても答えなど出ようがない。どこか『遠く』に鳴いている。そう言ってみるしかないだろう。







 -----------------三年前の冬……


 冬休み……ハリーが忌まわしい親戚の家を離れて過ごす初めての冬だった…イブの前日の12月の23日、彼は廊下にずらりと並ぶ、縦に長い窓の外で降り続ける丸々とした雪玉を眺めながら歩んでいた。

 冬のバカンスのクリスマスと年越しは家で過ごす生徒が多い。その為ホグワーツの校舎はいつもよりずっと静かで、石造りの天井が高い校舎の中で感じる寒さはひとしおだった。


「先生、どうもありがとう!!」

「ねえ、イブの夜もパーティに来るよね先生も。」

「今年は残っている生徒が少ないから先生も私たちと同じテーブルに来れば良いんだわ、」


 その道すがら、開かれた扉から明るい声が漏れている。……ちょうど幾人かの生徒がその部屋の中の人物に別れを告げて外へと出て来るところだった。見送りに扉の傍で立っていたのはヨゼファである。ここは…ヨゼファの私室だった、そういえば。


 生徒たちはハリーに気が付いて愛想良く挨拶をしては傍を通り過ぎていく。振り返ってヨゼファに手を振りながら。

 彼女は彼らに応えてひらひらと掌を振り、それから一人廊下にぽつんと残されたハリーへと視線を向けた。


「こんにちはハリー、寒いわね。」


 ヨゼファは笑い、「時間があったらお茶でも飲んでいく?」と尋ねてくる。ハリーはどこかおずおずとしながらその挨拶に応え、誘いを受け入れた。


 
 いつも出入りする教室の方ではなく、ヨゼファの私室に直接繋がる扉を利用するのは初めてだった。そして彼女の部屋に立ち入ることも。

 天井から銀色の星の飾りがみっつ垂れていた。「少しだけクリスマス仕様なのよ。」と彼女は説明する。

 壁いっぱいの本棚には書籍やそれ以外のよく分からないものが所狭し納められている。レコードも沢山。音楽が好きなようだ。見たことも聞いたこともないような変なジャケットの12インチアルバムが、ひしゃげたようになって並んでいた。


 大きめのローテーブルの上には、カップや菓子皿が先ほどまでここで交わされていた陽気なお喋りの残滓として残されている。

 彼女は杖を軽く動かしてそれを部屋の奥へと片付け、テーブルを軽く布巾で拭った後にハリーの為のカップを供した。


「あらいけない。いやね、育ち盛りだから皆よく食べるわ…。」


 ヨゼファは銀色の平皿の上に残されていたパウンドケーキの端っこを眺めながら溜め息混じりに言った。


「でもケーキの端っこは一番美味しいところよ、貴方はラッキーだわ。」
 

 人差し指を軽く立てて片目を瞑りながら、彼女はハリーの前へと最後のパウンドケーキをのせた空色の皿を置く。

 白く砂糖がけされた、チェリーが沢山入ったケーキだった。散らされたアラザンが銀色に光っている。


「……もう少し早く来ればよかった。真ん中の方も食べてみたかったな。」


 ハリーはそれを受け取りながら、笑ってヨゼファに言う。


「そんなに少ない機会じゃないわよ、私のケーキを食べるなんてね。これからいくらでもあるわ。」


 彼女は淹れ直した紅茶をカップへと注ぎながら笑い返した。その目尻にクシャリとした皺が寄る。

 この時のハリーは…ただ純粋に、生徒たちにとびきり甘くて優しいこの教師のことが好きだった。それに年寄りが多いホグワーツの教員の中で、彼女が若い方だったこともまた親近感を覚える由縁だったのだろう。


 しっかりと身が詰まったパウンドケーキを口へ運び、「美味しい、」とそのままの感想を述べると彼女は心底嬉しそうにする。

 小さな暖炉が齎す、とろりとした暖かさが心地良いこの部屋で他愛ない話を続けていく。自分のことばかりをこんなに沢山話しても、全て楽しそうに受け止めてくれる大人の存在がハリーには嬉しかった。………ずっと、そうだと思っていた。

 ずっとヨゼファのことを好きで…感謝して、卒業しても手紙のやり取りくらい続けて、時々会ったりする。そう言う風に続いていくのだと思っていた。

 それなのに何故…周囲の環境や社会は彼女の優しい印象を薄皮を剥ぐように、ハリーから奪っていくのかが不思議だった。

 アズカバンにいるヨゼファの姿が、今でもハリーには想像が出来ない。ムーディの話を信じるなど以ての外だ。ホグワーツの生徒の母親のような彼女が、どうして自分の家族を殺そうなどと考えるのだろう。まるで理解ができなかった。



 イブの夜が明けて、ハリーはツリーの下に自分へのプレゼントが小さいながらも山を作っている光景に目を見張った。自分の、自分だけのクリスマスプレゼントだ。従兄弟に奪われる心配も、叔父や叔母に隠す必要もない。


(あ、)


 甘い匂いがする…と気が付くがそれは薄紙に包まれた四角いもの…きっとパウンドケーキ…からだった。銀のシンプルな装飾が成されたカードに、確かに自分の名前が書かれていることに胸が弾む。

 手に取って細い青色のリボンを解くと、普通の半分ほどの大きさの小さな型で焼かれたらしいケーキが想像通りに姿を表した。

 深いキャラメル色がかった生姜のケーキだ。砕いだ胡桃がまぶしてある。


(………………………。)


 彼は、周囲を見渡して他の寮友たちのプレゼントの中に同じようにケーキがないかと確認した。しかし、そのしっとりとした四角いケーキはハリーのものしかないようだ。カードにはサンタ・クロースより≠ニ記されているだけで、実際誰がくれたのかはまるで分からない。

 それでもハリーはそれが誰からのものか見当はついていた。………ハリーがケーキの端っこしか食べられなかったことを、気にしてくれていたのかもしれない。


 しかし次の年のクリスマスも、ハリーは同じケーキを自分のプレゼントの中に見つけた。その次の年も。そして今年もきっと…。

 やはりヨゼファは他の生徒に比べてハリーのことをより気にかけてくれていたように思う。理由は分からないが、今まではそれが単純な好意だと素直に嬉しかった。


 だが……もしもムーディーの話を僅かに信じるのならば、ヨゼファが家族とうまくいっていなかったことだけは確かなのかもしれない。

 ヨゼファはハリーの家族に恵まれていない現状をよく知っていた。そこに何か感じるところがあったのだろうか。どちらにせよ、初めて出会った一年生の時から大切にしてもらっていたことは間違いない…。







 ダンスパーティーが佳境に差し掛かっていた頃、マクゴナガルはふと大広間から外へと面したテラスへと視線を向ける。

 そこにヨゼファの姿を見つけたので彼女は微笑んだ。そう言えばお互い忙しくて会話を交わしていなかったと思い、細いグラスに入った金色のシャンパンをふたつ持ってそっと近付いていく。

 ………しかし、そこにいたのは彼女だけではなかった。青い夜の暗がりの中、ヨゼファは一人の女生徒と言葉を交わしていた。

 二人の距離は近く、背の高いヨゼファは彼女と視線を合わせる為に少し腰を折ってその話に耳を傾けては時々頷いていた。

 なにか…不思議な雰囲気が漂っている。それが近寄り難く思え、マクゴナガルはテラスに面した大きなガラスの扉の傍で暫し立ち止まる。

 女生徒の水色の刺繍が施された白いドレスから、それは先ほどヨゼファと踊っていたボーバトン校の少女だと理解した。胸の前で掌を組んだその華奢な指が緊張しているのが見て取れる。

 やがてヨゼファは彼女の…その手を取り、ゆっくりと何か言葉を返すらしい。暫時して少女の頬を流れる涙を指先で拭っては、ヨゼファは困ったように笑った。


 テラスから自分の脇を走り抜けていく少女のことを目で追ってから、マクゴナガルはヨゼファの元へと至る。

 彼女がこちらを認めては「こんばんは」と夜の挨拶をしてくるので、それに軽く応えた。


「…………今度はなにをしたんです。」

「そんな悪いことをしたみたいに言わなくても。」


 ヨゼファは弱ったように後頭部をかき、マクゴナガルから若干気泡が抜けてしまったシャンパンを受け取った。

 彼女から乾杯、と促されるのでマクゴナガルは軽くグラスを合わせる。広間の賑やかさから少し外れたこの場所では、ガラス同士が触れ合う高い音が良く通った。

 佳境を少し越えた頃だったので、やや草臥れたらしい生徒たちは複数人で、はたまた今の自分たちのように二人で言葉を交わし合い、そうしてまた食べたり踊ったりを繰り返していた。


「懐かしいですね…。」


 二人は少し黙ったままその方を眩しそうに眺めるが、やがてマクゴナガルは艶やかな着物を纏った学生たちの瑞々しい魅力に目を細めてそう呟いた。

 ヨゼファもまた瞼を下ろして「ええ、そうですね。」と応じる。


「ミネルバ、貴方の学生時代について私はお伺いしてみたいわ…。グリフィンドール寮の談話室にあるお若い時分の肖像画から察するに、相当美人だったからモテたでしょう?」

「ええ、それはもう。パーティの時はあまりにも申し込みが多くて。」

「それは大変。でも…周りの殿方の気持ちは分かりますよ、私が男性でもきっと貴方に声をかけたから…いいえ、高嶺の花すぎてちょっと難しいかしら。」

「そうやって気安く口説くのをおやめなさい、それだから貴方は…。この前も私の寮の学生…プライバシーの為に彼女の名前は伏せますが…が泣いていましたよ。ヨゼファ先生にフられたって。」

「別に気安く口説いているつもりはないわ。女の子に綺麗、可愛い、と素直に伝えるのは大人の女性の義務だと私は思っているんです。それに…教師が素敵に思えるなんて少女時代のほんの一時のことだわ、すぐにただの冴えない中年だって気が付いてしまう。なるべくそれが彼女たちにとって先になって欲しいと、つい考えてしまうけれども。」

「私は逆だと思いますが。」

「逆?」

「そう…。学生時代は嫌いで仕方がなくても、大人になってから教師のことをなんとなく…同じ人間だったと理解してくれる。気持ちを察してもらえると、私はそう考えています。身勝手で独りよがりな考えですけれど。」


 ヨゼファは微笑み、マクゴナガルの顔をじっと覗き込んでくる。

 彼女はそれに気が付き、「……近いですよ。」と言ってその肩を押した。


「ごめんなさい。見惚れてしまってね…つい。」


 ヨゼファは素直に身体を退き、幸せそうな表情で言う。

 マクゴナガルは溜め息を吐き、「全く…。」と呟いた。


「学生時代はこんな子じゃなかったと言うのに。」

「私の学生時代を覚えているのね、光栄だわ先生。」

「前から思ってましたが…貴方は変わっていますよ。短くない付き合いだからよく知っている人間の筈なのに、時折まるで分からなくなる。…その時の貴方が私は正直好みではないです。」


 マクゴナガルはグラスに残っていたシャンパンを煽っては言う。ヨゼファは空に浮かぶ銀色の月を斜めに見上げ、「それは残念…」と呟いた。


「…………。そう言えば貴方は幾つでしたっけ。」

「うん?三十四歳ですよ。…なんだか口に出して言うとしょんぼりしたくなる歳ですねえ。」

「貴方よりふた周り近く歳上の私の前でそれを言いますか。」

「ごめんなさい、でも良いじゃないですか…。貴方の魅力は年齢に左右されるものではないでしょう。」

「呆れた、冗談を叱る気も失せるわ。」

「冗談じゃないわ、本当のこと。」


 ヨゼファは唇に軽く手をやって笑った。……少し酔っぱらっているのだろうかとマクゴナガルは思う。軽くその肩を叩いては改めて呆れを伝えた。


「でも…確かに貴方が良い歳であることは事実ですね。今度男性でも紹介しましょう。そうやって寄る辺なくフラフラしているから女生徒たちが変な気を起こすんです。」

「…………。せっかくですが遠慮しておきます。」


 肩をすくめ、ヨゼファは冗談めかしつつも即答する。マクゴナガルは少し首を傾げて「ああ…そう?」と返した。


「もしかしてお付き合いしている方がいましたか。」

「いいえ、いませんよ。」

「若しくは想い人が。」

「あら…もう、恥ずかしいですよミネルバ。この話はやめてください。」

「まあ、その反応はつまりいるのね?詳しく聞かせてちょうだい。」


 マクゴナガルは少し興奮してヨゼファの肩へと手を置き会話を続ける。ヨゼファはひどく可笑しそうに「いやだ、」と言っては肩に置かれた彼女の手を軽く握った。


「ヒントだけでも良いんですよ、ヨゼファの想い人は私の知っている人?」

「知らない人よ。」

「嘘を仰い、そんなのつまらないでしょう。」

「ミネルバのつまるつまらないで私の想い人が誰か決まってしまうの?」


 暫時二人は無言で見つめ合い、それから堪えきれずに声を上げて笑う。ヨゼファは服の袖で目尻を拭いながら、「もう……」と呟いた。


「なんだか少女に戻ったような気分だわ。…楽しい。」

 彼女はアーチ型のガラスの扉の向こう…煌々として明るい広間の様子へと視線を向けながら言葉を続ける。


「今日の生徒たち…本当に可愛くて、綺麗で…素敵ですね。」

「ええ、それはもう。」


 ヨゼファに相槌を打ち、マクゴナガルは彼女に寄り添うようにして立った。

 そっと掌に指先を触れられ緩く絡めるように手を繋がれる。……溜め息を吐いてそれを受け入れてやった。少しの間そのままでキラキラと眩しいパーティの様子を二人で眺めるが、やがてヨゼファが静かに会話を再開させた。

 
「……ミネルバ。私…自分のことが教師に向いているなんて思っていないんです。ずっとね。」

「この職に就く者の大半がそう思っていますよ。子供とは言え人を導くことは本当に難しい。」

「そう……。でも、この仕事が好きだとは思うんですよ。大勢の少年少女の、青春の…一番大切な時間に触れることができる。それはとても光栄なことです。」

「ええ、分かりますよ。私も…この歳まで生きていれば幸福なことばかりでは無かった。それでも生徒たちの成長に慰められ、とても励まされます。」

「彼らの幸せを願わずにはいられませんね…。いつもそう思います。」

「貴方は複数の乙女の心を弄んだ責任もありますものね。」

「も、弄んでなんか。」

「どうだか分かりませんよ、私は詳細までは知りませんから。」

「そんな…!私は断じて」

「知りません、だって貴方はいつも何も言わないから。」


 ヨゼファは苦笑して、参ったなあと言って頬を軽くかいた。

 マクゴナガルはそれを楽しそうに眺めるが、やがて笑顔を収め「ヨゼファ、」と彼女の名前を呼んだ。


「もし、何かあったら…ちゃんと言ってくれませんか。私になにも出来ることがなくても。」

「うん…?どうしたんです急に。」

「言ったでしょう、貴方はいつもなにも言わないから。私は知らないし、分からないんです。」

「ミネルバ、もしかして怒っています?」

「怒っています。繰り返し言っていることです…折角、縁あって再び出会えたというのに。貴方はいつも、」


 マクゴナガルは、自分もまた酔っ払っているなと思った。当たり前だがヨゼファと女生徒の関係を疑っているわけではない。彼女が生徒に対して恋愛感情をまったく持ち合わせていないことくらいは分かっていた。

 けれどもヨゼファがひどく重たい秘密を隠し持っている件については預かり知っている。憶測だが。かつての五年間の休職明け、冥府からやってきた幽霊か死神のように長い髪を垂らし、痩せ細っていたあの有様も恐らくそれに由来しているのだろう。

 奇しくも彼女のその姿は且つて学生時代の姿をありのままに想起させた。彼女はやはり…あの、見るからに自己表現が苦手でいつもただただ笑顔だった、痩せ細っては髪の長い少女と同一人物なのだ。

 だから…髪が短くなり身体は女性らしく成熟し、そして明るく軽快な印象を纏って心身共にすっかり成人しても変わらずに……マクゴナガルにとってヨゼファは大勢の生徒と同じように導くべき大切な存在だった。もしも彼女に後ろ暗いものがあるのだったら、早くに忘れさせてこちらに戻さなくてはならない。


(手を差し伸べているのに…。)


 ヨゼファにゆっくりと肩を抱かれる。……触れ合った皮膚の…彼女の体温が驚くほど低いことに息を呑んだ。だがそのままで、しばらく身体を預けることにした。


「……私、貴方の娘に生まれたかったわ。」


 沈黙の後、ヨゼファがポツリと呟いた。

 言葉の真意は分からない。銀色の月光がヨゼファの顔に深い影を落とし、その表情を決して伺わせようとしなかったから。



(※ダンスパーティの様子は閑話の『シンメトリー 02』にもう少しの詳細が描写されています)



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