骨の在処は海の底 | ナノ
 太陽の仕業

 ハロウィンの夜、三大魔法学校対抗試合のためにゴブレットが設置され…そしてフランスのボーバトン、北欧のダームストロングからそれぞれ招待された学生たちとホグワーツの生徒たちが対面した翌朝だった。

 朝食を摂る学生たちは、大広間の一角で華やかな空気をまとっては繰り広げられているボーバトン校の女生徒たちの会話の様子へと視線を向けていた。

 朝一番にも関わらず彼女たちは非常に機嫌が良いようである。招待校のために用意された白く長いテーブルではなく、広間の最奥に据えられた教員用のテーブルの端へと集中しては、故郷の言葉を…興奮しているのか…早口に喋っている。


 その輪の中心にいるのがヨゼファだった。

 平たく言うと、滅茶苦茶モテていた。ヨゼファはボーバトンの女学生たちにこれでもかと言うほどにモテていた。


 彼女たちはヨゼファが着座しているテーブルの周りに輪を作り、その首に腕を回したり机上に頬杖をついたりしながら、昨晩の大人びた雰囲気とは打って変わった少女らしい様子でホグワーツの図象学の教授と話し込んでいる。その所為で広間の一角だけが女子校になったかのように姦しかった。
 
 年に一度、フランスにひと月ほど講師として招かれているヨゼファと彼女たちは既に面識があるようである。どうやらその再会はフランスの少女たちにとっては非常に喜ばしいものだったようで、彼女は女学生一人ずつの要求に応じて頬にキスを送ってはその近況報告に耳を傾けていた。

 ホグワーツ及びダームストロング校の男子生徒たちには若干羨ましい光景だったが、三十分以上食事にありつけていないヨゼファの様子はそれなりに哀れだと…ハリーは思っていた。


 不幸にもヨゼファと座席が隣り合っているスネイプはその様を非常に嫌そうに眺め、華やかでキラキラとした空気を払うように自らの肩の辺りをひと払いしてから椅子を出来得る限りその場から離している。

 しかし彼の周囲に漂う険悪な空気を可憐な少女たちは全く意に介していないようで…むしろ会話に夢中で気が付いてないらしく…耳に慣れない言葉による応酬は終わる気配が見えない。

 ハリーもまた多くのホグワーツの学生たちと同様にその様をぽかんと眺めていた。「なんか…すごいね。」と呟いては苦笑して、銀色の長いスタンドからひとつトーストを取り上げて朝食へと戻る。


「……………ちょっとテーブルのマナー悪くない?あの子たち。」


 ハーマイオニーが小声で隣のロンへと声をかける。彼はぼんやりとしながら、ブルーグレーの瀟洒な制服を纏ったボーバトンの女学生たちを先ほどのハリー同様に眺めていた。それ故ハーマイオニーの言葉が聞こえていないようである。机の下で蹴飛ばされたのか、ロンは顔を顰めてはようやく隣の彼女へと向き直った。


「別に良いんじゃないか、食べ歩いてるわけじゃないし。」

「でもまだ食事の途中よ、ヨゼファ先生だって全然食べれてないじゃない。」

「普段だってヨゼファは新聞読んでるだけで朝食ほとんど食べてないだろ。あれもそこそこ行儀悪いと思うけどなあ、パパもよく同じことしてママに怒られてるし。」

「ヨゼファ…もマクゴナガルに見つかってよく怒られてるね。」

「あれだけ毎回注意されてるんだからやめれば良いのに…。」


 ロンが欠伸を噛み殺すのを眺めながら、ハリーは背の高いヨゼファが申し訳なさそうに背中を丸めてマクゴナガルに叱られている様を思い出し、小さく一人で笑った。

 マクゴナガルはぼんやりとしがちなヨゼファの行動に何かと口を出したいらしく、娘に接する母親のように折に触れてはきびきびと忠言をしていた。……確か、実際の年の差も母娘程度だったかもしれない。その所為でヨゼファに対する生徒たちの印象はどうしても締まりきらず、彼らからもよくよくいじりの対象にされている。


(…………………ヨゼファ先生の、母親。)


 ハリーは、今年から闇の魔術に対する防衛術の教授として就任したムーディから予測外にヨゼファの母の話を聞かされていた。何故彼が自分にヨゼファのことを話したのかはよく分からない。ただ、彼は『気を付けろ。』と念を押した。『あの女には気を付けろ。』と。



『……どうして?一体ヨゼファ先生の何を気を付けろと言うんですか。』

『………。闇祓いのトップの中にあれの深い関係者がいる。その所為でヨゼファの過去の所業は表には上がってこない。だが簡単に隠せる規模のものではない……ハリー、噂くらいは聞いているのでは。』


 ムーディが義足を引き摺るので、古い木の床板が削れる音がする。彼は魔法の瞳でハリーの緑色の虹彩をじっと覗き込んでいた。

 ハリーには心当たりがあった。シリウスだ。シリウスはヨゼファとアズカバンで一緒だったと言った。ハリーはヨゼファが何故刑に服していたのかをまだ知らない。勿論なにかの間違いだと信じていた。無実の罪以外で、彼女が服役する理由など思い当たらなかった。

 しかしそれと同時に…ロックハートもまた支離滅裂の言葉ながらにヨゼファの危険性を訴えていたことが思い出される。


『ヨゼファは闇の魔術に深く通じていた。いや…恐らく今もだ。ヴォルデモート卿に最も畏怖を抱かせているこの学校で一体なにをしているのか分かったものではない。』

『それは絶対に無いです。仮に闇の魔術を得意としていてもヨゼファ先生が奴のために働くとは考えられない。』

『……………。信じているのか?あの邪悪な女を。』

『当然です。』

『素晴らしい、生徒の鏡だな。だがそれは間違いだ。残念だが。』


 ムーディはささくれた肉厚の掌をハリーの肩へと置いた。それが妙に重たく感じる。

 彼は顔を近付け、囁くように言葉を続けた。


『ヨゼファは世の中を憎み闇の魔法使いに与する理由が充分にある。知らないのか?ヨゼファが何故決してファミリーネームを名乗らないのか。名乗らないのではない、名乗れない・・・・・のだ。あの女は名前の知れた偉大な魔女の娘だったが、随分と前に母子の縁を切られている。』


 ハリーは非常に嫌な予感を覚え、自分の顔のすぐ傍で尚もこちらをじっと見据えている彼の魔術を帯びた瞳を見つめ返す。嫌な予感で、嫌な感じがした。とても強く。


『ヨゼファの本名はヨゼファ・チェンヴァレン。………名前だけならばお前も知っているだろう。現況闇祓いのトップのマリア・チェンヴァレンの娘だった・・・。あの女系一族は代々闇祓いにおける高い能力を有しているが、ヨゼファは才能に全く恵まれなかった。要は落ちこぼれだ。マリアはヨゼファに失望して親子の縁を切った。今は再婚して別の男との間に想定通り・・・・の優秀な娘をこさえている。』


 ハリーはムーディの言葉の先をこれ以上聞きたくはなかったが、聞かなくてはならなかった。

 ………大切なのは信じること、卑屈にならないこと、そして愛しいものを想う心の在り方。

 それはヨゼファが教えてくれたことである。額に滲む冷や汗を手の甲で拭い、ハリーはただただ動かずに彼の言葉に耳を傾けていた。


『ヨゼファは齢15のあたりからどんどんと闇の魔術に対する造詣が深くなった。母との不仲がピークだったのもこの時期だ。そして幸か不幸か、彼女はそこに自分の才能を見出す。……何も不仲なだけで血縁を切るのは行き過ぎだとは思わないか、そうだ。ヨゼファは身に付けたその能力で自らを捨てた母親と義妹たちを殺そうとした…!!生憎それは失敗に終わったが。』

『それは…嘘だ。人を殺すなんて。……ヨゼファ先生が?ありえない。無理に決まっている。』

『嘘ではない。儂もマリアに睨まれたくないからこれ以上は言えないが。…信じる信じないは貴様の勝手だ。だが気をつけろ。あの女・・・には気を付けろ。今でもヨゼファは娘をアズカバンに投獄した母親と世界に復讐する機会を狙っている。それは間違いない…!ヴォルデモート卿もまたマリアのことを厄介に思っているだろう。この二人の利害は完全に一致している……』

 ここまで言えばもう分かるだろう。とでも言うように、ムーディはハリーの肩を強すぎる力で掴んだ。鈍い痛みを覚えるが、ハリーはそれどころではなかった。


『選ぶな。』

 彼はこちらから視線を逸らさずに言う。


『選ぶな。ひとつの立場を選ぶな。ひとつの思想を選ぶな。選べば、お前はその角度でしか世界を眺められなくなる。』


 誰か…別の人物の話をムーディはしているのだろうと錯覚するほど、ハリーが知っているヨゼファとその話の中のヨゼファには乖離があった。まだそれを鵜呑みに信じる気にはなれない。恐らくムーディの主観によって幾分か真実は歪めらている筈だ。ハリーは人の噂の信憑性の低さを、この数年間で身を以て思い知っていた。

 だが、その全てがまったくの出鱈目なのだろうか。

 ヨゼファの昔を知る者たちは皆一様に彼女は昔とはまるで別人物だと言う。だから分からなかった。明るく、よく笑って少し惚けている…ハリーが知っているヨゼファが少女とも言える二十年近く前の時代。今とは全く異なる顔付きをしていたのだろうか。その杖先を、魔法を、人を傷付けるために使用したのだろうか。


『魔法は人を幸せにするためのものよ。』


 授業中に度々彼女が口にする言葉だ。それすら嘘だと言う可能性もあるのか。そうならばヨゼファはとんでもない女優だ。その可能性だけは否定したかった。

 自分に、大勢の生徒たちに与えてくれたものが全て偽りだとはどうしても考えたくはなかった…。




「さあ皆、もう朝の時間はお終いよ。貴方たちもやるべきことがあるでしょう、続きはまたあとでね。」


 ヨゼファは区切りをつけるように言葉をフランス語から英語に切り替えては場の解散を促した。

 それと共にハリーもハッとしてヨゼファの方へと視線を向ける。……一瞬だけ、女学生たちに囲まれていた彼女と瞳が合った。いつものようにヨゼファはにこりと愛想良く微笑んでくる。ハリーはどうにかそれに笑い返して、その青い瞳から逃げるように自らの手元に視線を落とした。

 先ほどのトーストが、冷えて固くなって皿の上に置かれたままになっていた。それを急いで口へと運び、親友二人と連れ立ってハリーは大広間を後にした。







「随分とモテているな。」


 嗄れた低い声で話しかけられ、ヨゼファは顔を上げた。

 …………今の時間は授業中である。いつも多くの生徒で賑わっているホグワーツの広大な図書室には、先ほどまでヨゼファしかいなかった。

 彼女はテーブルに着座していた状態からムーディへと視線を合わせ、「そんなこと、」と言っては愛想笑いする。


「貴方がこの学校で教鞭を取るなんて。…やっぱり校長先生は少し癖がある人が好きなんだわ。」

「どういう意味だ。」

「いいえ、でも…まあ。個性的な先生が多いでしょうこの学校。」


 ヨゼファは読んでいた本を閉じ、自らの向かいの座席をムーディへと薦める。しかし彼はそれに応じようとはしなかった。


「確かに個性的と言えば個性的だ。何しろ前科持ちがいる。」

「なんのことかしら…。」

「とぼけるな。」

「とぼけるわ、貴方がなんの話をしていらっしゃるのか私には分からないもの。」


 頬杖をついて、ヨゼファはふうと息を吐いた。半分ほど開いている窓の方へと視線を移す。風に煽られた白く薄いカーテンが弱くたなびいていた。


(アラスター・ムーディ氏は私のことをよく知っているわ。お世話になったもの、)


 現在…ヨゼファがアズカバンにいたことは元母親のマリアの手によって強力に隠蔽されている。複雑な忘却の呪文により、ヨゼファと関係が薄かった者は段々と彼女のファミリーネームや家族構成を思い出せなくなっていた。

 だがそれは所詮表層部分の話だ。外国にでも逃亡しない限り…ヨゼファの名前すらも捨てない限り、自らの過去と罪の秘密は漏洩して行くだろう。時間の問題だ。そんなことは分かり切っていた。


(でも、まだ私はこの学校に留まらなくてはならない。教師を辞めるわけにはいかないの…。)


「……ハリー・ポッターは、お前に疑いの眼差しを向けている。」

「……………………。」


 ムーディの言葉に、ヨゼファは再び彼へと視線を戻す。蠢く魔法の瞳が、ピタリと留まってヨゼファの胸元を見据えた。無意識に右胸の辺りを隠すように掌を持って行く。


「生徒たちに知られるのは本意ではないだろう。……だがこの学校で、お前への不信は確実に根を下ろしつつある。分からないわけではないだろう。」

「へえ……。」

「まだ闇の魔術と切れていないのか。何を企んでいる。」

「何も企んでいないわ。」

「嘘を吐くな。」

「…嘘は吐かないわよ。」


 ヨゼファは瞼を下ろし、静かな気持ちでムーディへと応対した。

 何故彼がこうも自分へと絡んでくるのかが不思議だった。…ムーディはマリアとあまり仲が良くない。だからむしろヨゼファに同情しているような印象をアズカバンへの搬送の際に覚えた。



 -----------------セストラルに引きずられた四角い無機質な黒い車の中で、彼とヨゼファは隣り合っていた。外は雨である。ガラス窓に垂れて行く冷たい雫を、ヨゼファはじっと眺めていた。


『きつくはないか。』


 ムーディが尋ねる。…恐らく、ヨゼファの手首を五重に拘束している黒い手錠のことだろう。ヨゼファは弱く笑い、『きついって言ったら緩めてくれます?』と返した。それには『駄目だ。』とほとんど即答される。ヨゼファは小さく声を上げて笑ってしまった。

 ヨゼファは硬いシートに背中を預けて雨の音を聞いた。何故か安らかな気持ちである。


『生憎の天気だ。』


 会話がないのが些か居心地が悪いらしく、彼は先ほどからポツポツと言葉を吐く。ヨゼファはひとつ頷いてそれに応じた。


『だが天気など大した問題ではない。……些細なことだ。』

『そうでしょうか。』

『そうだ。気にすることはない…。』


 彼は独り言のように呟き、それきり口を閉ざした。

 投獄前、ヨゼファが最後に見た外の景色はその灰色の森林だけである。

 それで良かったと思う。こんなところであまりにも美しい光景を見せられてしまったら、覚悟が揺らいでしまうに違いないから。




はお前の味方だ。」


 そして、今。自分へとそんな言葉をかけるムーディにヨゼファは違和感を覚えた。

 彼はあくまで自らの正義に忠実で、ヨゼファのような道から逸れた人間に直接手を差し伸べることをしない人間だった。

 仮に助けに応じるならば非常に分かりにくい手を使う。最もヨゼファはムーディのそう言った厳しくやや不器用なところが嫌いではなかったが…


「何か困ったことがあれば言え。」

「…………どうもありがとうございます。でも、大丈夫です…」


 だからヨゼファはその魔法の瞳を見据え、僅かに首を傾げては無難な言葉を返す。

 然しながら気掛かりだった。何故ハリーが自分に疑いの眼差しなどを向けているのか。投獄されていたことを誰かの口から聞いたのだろうか。また何故ムーディがそれを知っていて、ヨゼファへと報告してきたのか。


(三大魔法学校対抗試合ね……。また、この学校に多くの要素が外から持ち込まれるわ。良いものも、悪いものも。)


 気を引き締めなくてはとヨゼファは思った。椅子から立ち上がり、ムーディの脇を通り過ぎて彼女は図書室から立ち去って行く。





 

 ヨゼファの唇から、深くゆっくりとした息が漏れた。

 彼女は肩で大きく呼吸をして、蹌踉めく身体を支えるために壁へと掌をつく。

 乱れた呼吸を整えるため、そのまま暫くじっとする。汗が滲んだ髪の生え際を空いている方の手の甲で拭い、チラと室内へと視線を送る。


 ここは、あらゆる時代あらゆる国のものが望んだものの必要・・に応じて現れる部屋だった。

 今にも崩れそうな…けれど何百年と崩れずに絶妙な均衡を保ったまま、それらは遺跡のように天井近くまで堆く積み上がっている。


(必要に応じてくれるなら……せめて、もう少し狭い部屋の造りになってもらいたいものだわ、)


 室内、壁面はヨゼファの血液によって描かれた魔法陣が積み上がった我楽多と同じように天井付近、否天井に至るまで記されている。

 しかしまだ三分の一ほどはその魔法が及ぶ範囲ではない。どうやら今晩はこれまでのようだ。今、これ以上血液を失うのは危険だった。


(でも…本来なら死んでもおかしくない量の出血よ。)

(最近、一晩で描ける範囲が広がった。)

(回復も早い。眠らなくても何事もないように過ごせる…)

(やはり、肉体は徐々に人間のものとの乖離が生じている。)


 自らの足で立てるようになったヨゼファはローブの黒い右袖を捲り、長い手袋を少し下げ、現れた青白い上腕を眺めた。

 なんの規則性も知性も感じられない古の呪いである。それがそこまで至っていた。恐らくこの生活を続けていれば、一、二年で前腕にも刺青のような魔法陣が差し掛かるだろう。

 前以上に…更に気をつけなくてはならない。これが衆目に知れたらアズカバン送りどころか即死刑だ。


「………おいで。今日はもうおしまいだから。いつものように、お願い。」


 杖先から白銀色の鯨を細く長く立ち上らせ、ヨゼファは呟いた。

 彼女の守護霊である巨大な鯨が宙を泳いでも余裕なほどにこの必要の部屋は広かった。鯨は銀色の身体を畝らせてヨゼファの魔法の痕跡、壁面近くを泳いでいく。

 守護霊が過ぎ去ると、濁った黒色の魔術の痕跡は溶けるように消失した。しかし見えなくなっているだけだ。確かに存在している。だがまだ全てに至らない。魔法陣の描画は最後、始まったところへ戻ることで成し遂げられる。ホグワーツを魔法で覆うには、始まりの…一番最初に血の魔法陣を記した場所へと戻るには…恐らく後数年の歳月が必要である。


(急がなければ…!どうしても間に合わなくてはならない、そうでなければこの十年以上の歳月が徒労に終わる。)


 額を押さえ、ヨゼファは右胸へと掌を置いた。堪らなくなって、そこを強く掴むほどに。

 
 役目を終えた守護霊が主の元へと帰ってくる。ヨゼファは鼻先をそっと撫で、彼の姿を自らの中へと戻した。

 目の端に、金色の輝きが掠めた。首を巡らせてその方を見ると、よくよく見覚えがある鏡が置かれていた。


(…………………。)


 なんとはなしに足を動かし、ヨゼファはその巨大な鏡の前へと至る。

 金色のアーチに刻まれた文字を目を細めて眺め、彼女は鏡の中へと視線を移した。色が悪い幽霊のような自分の顔が映るが、やがてそれは煙のようにすう、と鏡の奥の暗がりへと消失する。

 代わりにその暗闇の中から一人の少女がゆっくりとこちらへ歩んでくる。ほっそりとした白い二本の脚は確実にヨゼファの傍へと真っ直ぐに歩を進め、鏡と現実の境界線の前でピタリと止まった。

 少女の赤い唇が動く。しかし分厚い鏡面に阻まれてその声は聞こえなかった。


「…………こんばんは。」


 ヨゼファは力なく笑い、鏡へと掌を伸ばして触れた。

 少女は優しい表情で微笑み、ヨゼファの手に自らのものを合わせる。整いすぎた顔立ちの中、切れ長のブルーの瞳が真っ直ぐにこちらへと視線を向けている。彼女は切なそうに、もう一度唇を動かして同じ言葉を繰り返した。しかしやはりそれを聞き取ることは出来ない。


「久しぶりね。数年前はお世話になったわ、おかげで賢者の石はちゃんと守ることが出来て…本当に感謝しているの。」


 ヨゼファは話を聞いてやれないことを申し訳なく思いつつ、鏡の中の彼女へととりあえずの感謝を伝えた。

 しかし少女がヨゼファに言って欲しいことはそんなことではないらしい。彼女はヨゼファと重なっていた掌の指先で、引っ掻くように鏡面に爪を立てた。しかしそれは滑らかなガラス質に阻まれてなんの効果も得られないようである。

 美しい少女は自らの黒髪へとそっと触れた。…従って、ヨゼファはその部分を鏡越しに撫でてやる。

 少しの間、沈黙のうちにそれを続けた。


「貴方…。一体誰なの。私のこと、知ってるの?」


 ヨゼファは小さな声で少女へと囁いた。

 彼女の方に自分の言葉は聞こえているらしい。少女は顔を上げ、冷たい青色の瞳をほんのひと時鋭い形に変える。そして自らの胸元を掌で触れてなにかを訴えた。

 ………ヨゼファは首を横に振る。自分の方へと近付くように掌で示し、膝を折って彼女の白い額に軽くキスをした。冷たすぎる鏡面が唇に触れるが、ヨゼファの体温の低さも相当なのであまり気にはならない。


「また来るわね。……こんなところに一人は、寂しいでしょう。」


 おやすみなさい。


 一言呟き、ヨゼファは鏡から背を向けて歩き出す。しかし背中に強い視線が注がれているのがよく分かった。冷たい鏡越しだというのに、ひどく熱い眼差しだ。




 


 深夜、ヨゼファは一人教員用の浴室の広い湯船に浸かっては高い天井を眺めていた。ローマ風の造りを意識しているらしく、柱のてっぺんには喜劇に使用される仮面が彫刻されている。大きな瞳を見開いては舌を出して哄笑しているその顔をじっと眺めながら、ヨゼファは眉を顰めつつ溜め息を吐いた。


(厄介なことになったわ…。)


 濡れた短い髪をかきあげて、ヨゼファは眉間に寄ってしまった皺を伸ばし伸ばしここ一週間ほどの出来事を思い出す。

 ………規格外の出来事が起こった。まだ代表に選ばれる年齢に達していないハリーが対抗試合の選手に選ばれたのだ。ホグワーツからは既にセドリックが代表に選ばれていたにも関わらず。

 勿論ゴブレットから彼の名前が吐き出された一件でホグワーツの教員たちの間にも今一度選考をやり直すべき、との意見が上がった。マクゴナガルがその筆頭だった。



『ヨゼファ、貴方もそう思うでしょう。』

 予測外の事態に若干焦っているらしい彼女はそれを声色に滲ませてヨゼファへと同意を促す。従ってヨゼファは頷いた。

『ええ、私もミネルバと同意見です。怪しすぎるでしょう…わざわざハリーを危険に晒す必要はない。彼の存在は私たちに不可欠です、失うわけにはいかない……。』

 ヨゼファが自らの意見に同調したことによって、マクゴナガルはやや安堵したように表情を緩やかにする。そしてダンブルドアへと向き直り、『アルバス、ヨゼファもそう言っています。どうかもう一度選考のやり直しを。』と進言した。


『否、』

 しかしダンブルドアが応対する前に、スネイプが低い声で否定を口にする。

『様子を見た方が良いのでは。ポッターを泳がせておいた方があちら側・・・・の動向を探りやすい。』

『…………セブルスに同意見じゃ。』


 ダンブルドアはスネイプのことをちらと横目で見、そして口を開いた。『しかし、』とヨゼファはそれに反駁しようとする。『ヨゼファ』とダンブルドアは彼女の名前を呼んでそれを制した。


『………この学校は君のお陰で安全だ。』

『いいえ、完璧なものではありません。まだ全てが私の魔法が及ぶ範囲では…それに屋外での対抗試合もあるでしょう、あまりにも危険すぎる。』

『それならば守護の魔法の完成と強化を急ぐのが良かろう。』

『校長先生、』

『君の仕事だ。儂は信頼している。』


 薄いブルーの瞳で見つめられ、ヨゼファは言葉に窮して黙った。背後に立っていたスネイプが周囲に気付かれないほど僅かにヨゼファの背中へと触れる。頭を弱く振り、ヨゼファは口を噤んだままダンブルドアの意見を呑むことにした。




 天井から、大きな水滴がひとつ浴槽へと落ちた。水音が重たく鳴る。

 ヨゼファは今一度溜め息をしてから、自らの胸元に深く刻まれた黒い魔術を眺める。


(お嫁にいけない身体…してるわね。)


 その不気味な様相を見下ろしながら、ヨゼファはよくスネイプは自分のことが抱けたものだと他人ごとのように感心した。

 パシャ、と今度は軽い水音がする。ヨゼファは音の方へと顔を向けた。湯気で煙る室内、そこには自分以外の人間がいた。


(…………………!)


 ヨゼファは相手のことを確認もせずに焦って身体を起こし、掌で黒い痕跡を潰すようになぞった。

 ひとまずそれは周囲の肌色に同化して見えなくなる。今まで、アズカバンに投獄された際の身体チェック意外でこの一時的な魔法を使用したことはなかった。出来得る限り人に肌を晒すことなく過ごしてきたからだ、自分のことをよく知っているダンブルドアとスネイプ以外には。


「……誰か、いますか。」


 やや不自然なイントネーションで尋ねられる。白い湯気で煙る浴室の中で、相手はこちらにヨゼファがいるのか未だ判別できていないらしい。


「い…います。」

 へんにドギマギしながらヨゼファはそれに応対した。湯気の向こうの人物の影がゆらりと揺らぐ。


「ヨゼファ!」


 ほんの暫時の沈黙後、元気の良い少女の声で名前を呼ばれる。

 そして広い浴槽の中、彼女が湯を掻き分けるようにして走ってすぐ傍へと至った。

 ヨゼファはそれに対応しきれず、胸に飛び込んできた少女…否もう女性と呼べる年齢なのか…を受け止めては目を白黒とさせた。


「……………。えっと…あのね、深夜に…そう、生徒は出歩いちゃいけないの。…しかもここ、教員用の浴室だし…。」


 何から言えば良いか分からず、ヨゼファはとりあえずの注意を弱い言葉でフラーへとした。

 彼女はこの年代の少女が皆一様にそうであるように、ネイティブでなければ聞き取るのが困難なほど早口の母国語で応対する。


「でも私はグワーツの生徒じゃないわ。ヨゼファに注意される謂れはないわよ?」

「貴方と私は学校は違うけれど一応先生と生徒なの…。出来れば言うこと聞いてもらえるとありがたいわ。」

「安心して、私がここにいる理由はちゃんとあるの。」


 フラーは自らのプラチナブロンドの髪をかきあげて、いつものように自信ありげな口調で言う。

 ヨゼファは「そうなの?」ともうどうにでもなってくれと言う気持ちで相槌した。先ほどから向かい合うような形で自分の腿の上に乗ったフラーが胸の中にいるので、こちらもどうにかならないものかと考えながら。


「はい、幸せの金の卵よ。」


 そう言ってフラーは手を伸ばして引き寄せた金色の大きな卵をヨゼファへと見せる。ヨゼファは「それ貴方が生んだの?神話みたいに。」とつまらない冗談を言いながらそれに応じた。


「まさか!私は戦争の引き金になるような不幸な子供を生みたくないわ。絶世の美女でなくても、平凡な幸せに喜びを見出してくれる子が良い。」

「あら、それは素敵な考えね…。」


 フラーの肩をやんわりと押して退くように促しつつヨゼファは相槌した。

 しかし二人の姿勢はそのまま近い距離で向かい合ったままになる。水滴を瑞々しく弾くフラーのきめ細かい肌をなんとはなしに眺め、ヨゼファは(流石に私も年を取ったわよね…)とぼんやり考えた。


「確か次の試合のヒントよね。何か分かったの?このお風呂で。」

「実を言うともう別のお風呂で大体のことは掴んだの。でも一応念を押して色んなお風呂に入ってみてるのよ。ここで大した収穫はなかったけれど、バスタブに浸かるのは好きだし結果オーライだわ。」

「ふーん…。」

「今夜ここにいたのがヨゼファで良かった。他の先生だったらそこそこ怒られそうだし。」

「私だって怒るわよ。」


 ヨゼファは浴槽の縁に背を預けつつ、腕を伸ばしてフラーの白い額を軽くつついた。彼女は楽しそうに笑う。


「嘘よ、私たち一度もヨゼファに怒られたことない。」

「まあ…皆そんな目くじら立てて怒るような悪いことはしないからね。」

「マダム・マクシームもいつも言ってるわ、ヨゼファは甘過ぎるって。」

「そうかしらねえ…。もっと厳しい方が良い?」

「ぜんぜん!ヨゼファは優しいままが良いわ。私は好きよ。」


 フラーはヨゼファの双肩に掌を置いてはふわりと笑う。

 ヨゼファも応えて笑い返すと、掌で頬を撫でられる。そのまま、少しの間ゆっくりとそこをなぞるようにして触れられた。

 彼女の瞳の色は深い青色だった。……ヨゼファの元母親に、そしてヨゼファに少し似ている。


「ヨゼファ。」

「なに?」

「ヨゼファはお父さんがフランス人なのよね。」

「そうよ。」

「何故イギリスに?」

「…………。父の方が母に娶られたのよ。婿養子ってやつね。」

「ふーん。なんだか女々しくて嫌だわそんなの。」

「多分女々しい人だったんだと思うわ。でないと気性が荒い母とはうまくやれないと思うから…」

「本来ならヨゼファはフランス育ちの筈よね?むしろボーバトンで先生をやれば良いのに。フランスの方が美味しいものも多いし楽しいでしょう?」

「確かに…そうかもね。」

「生徒も美女揃いだし。」

「それも確かに。」

「………。私はその中でも、抜きん出て自分が美しいと思っているの。」

「そうね、貴方は綺麗だわ。」

「でも……正直、魔法の能力は並よ。どうして自分がこんな大きな試合の代表に選ばれたのか分からない…。」


 語尾を小さくして、フラーは呟いた。ヨゼファは彼女の整いすぎた顔立ちを見上げていたが、暫時して表情を柔らかくした。悩んでいる彼女には悪いが、いつもの自信に満ち溢れた姿とは少し異なるその表情を可愛いと思ってしまったのだ。


「大丈夫よ。」


 短い言葉で美しい少女を励ます。彼女はやや不審そうな表情で「どういう根拠で言ってるの。」と呟いた。


「意味がないことなんてこの世にはないもの、貴方が選ばれたのは必然だし…私はフラーの能力が並とは思わないけれど…。……意外と謙遜するのね。」

「ヨゼファから見たら誰だって優秀な生徒だわ。アテになんかならない……。」

「もう、卑屈にならないの。良いことなんかないわよ?素直にヨゼファ先生からの賛辞に預かりなさい。」


 フローはようやくヨゼファの膝に乗って向き合っていた状態から彼女の隣へと至る。浴槽の縁に頭を預け、先ほどのヨゼファと同じように白色の石でモザイク装飾された天井を眺めた。

 
「ヨゼファ、」

「なに?」

「私がもしこの試合に優勝したら、何かご褒美をくれる?」

「優勝しなくてもあげるわよ。選手に選ばれるだけでも大変なことだわ。」

「本当?」

「もちろん。」

「それじゃあ私にキスをして。」

「いつもしてるでしょう。」

「ビズは挨拶よ、キスじゃないわ。」


 隣り合ったフローへとヨゼファは視線を向ける。お互いの深い青色の瞳が湿った中空でしっかりと視線を捉えあっていた。

 ヨゼファは苦笑してからフローのプラチナブロンドの前髪を避けて額にキスをする。すぐに離れていったヨゼファの唇が触れていた場所へと彼女は指先を触れ、「なによそれ、気取っちゃって。」と不機嫌そうに呟いた。

 再び苦笑し、ヨゼファは「そんなものよ、私みたいなつまらない大人なんて」と言っては今一度その濡れた髪を撫でる。フローは瞼を下ろし、「馬鹿みたい」と小さな声を漏らした。

 馬鹿みたい、ヨゼファだって自分のことをそう思っていた。生徒たちの手前いつも気取っていて、当たり障りなくて、嘘くさくて胡散臭い。


(いいえ、生徒の前だけじゃなくて。誰を前にしても…私は。)


 フローの長い髪をゆっくりと撫でてやる傍ヨゼファは首を回し、湿気てすっかりと曇ってしまっている鏡を見た。


 鏡面が真っ赤だった。


 そこに黒く、見覚えがある刻印が浮かび上がる。目を見開いてそこを眺めた。鏡面だけではない。右半分の視界を重点的に、空間に黒い魔法陣と意味不明な図象が活栓のように噴き出してくる。


(………………っ!?)

 
 息を呑んで、右眼を掌で覆った。しかし瞳を閉じても夥しい情報量を帯びた記号は脳へと垂れ込んでくる。鏡はやはり真っ赤だった。背景に、子どもが唄うあどけない声が。聞き覚えがある声だ、真っ赤な鏡、いや違うこれは太陽だ。真っ赤な太陽が、窯の中でドロドロに溶けたガラス玉のように滲んで潤んだ太陽が、地平線に沈もうとしているこの光景は……


『待って、』


 少女は歌うのをやめて誰かを呼び留めた。しかし待ってくれないらしい。だから追いかけ始めた。その距離は隔たらない。走る彼女に同調するように息が切れて、胸が痛くなった。細く浅い呼吸を何度も繰り返す。


 追いかける先にいる人物を知っている。優しくて、『綺麗で、』愛しくて、『素敵で、』素敵な………


 呪われたように赤い夕陽が照り付ける景色の中で、少女はたった一人で立っていた。

 足を止めてから長い間、ずっとそうしていた。


(どうして…………)


 彼女は考えていた。赤く染まった風が髪を弱く煽っていく。



 素敵な人には、


 素敵の人の心には、


 いつも他の誰かが。




『私を見て』



 すぐ耳元で少女の声が囁いた。ヨゼファは右耳へと触れ、大きく呼吸しては緩く頭を振る。

 頬を、黒い艶のある髪がかすめていく。青い瞳、切れ長の。美しい………、白いおもてが。



 フローが訝しそうな表情で、「どうしたの?」と尋ねてくる。

 ヨゼファは「なんでもないわ。」と言い、彼女を気遣って微笑んだ。

 鏡面は元の曇った白色に戻っている。ヨゼファはふうと息を吐き、尚もこちらを不思議そうな表情で見つめてくるフローの頭を軽く撫でてやった。


「なんでもないわ、大したことじゃないのよ。」


 今一度、言葉を繰り返しながら。



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