◎ シュプレヒコールの片隅で
「異常な低体温、そして睡眠の浅さ若しくは不眠。更には体毛及び皮膚への色素の沈着……後者ひとつはともかく、前者ふたつは何かしら対処の仕様…あるいは貴様の怠惰な生活習慣に原因の一端がある。」
「…………はあ。」
黒い鞄から『最後の晩餐のテーブル』に次から次へと書籍をドカドカと積んでいくスネイプのことを、ヨゼファは同テーブルに頬杖をついて見守っていた。
恐らく拡大魔法を使っているのだろうが、それにしても随分沢山物を持ってきたなあと感心しながら皿に乗っかっていたビスケットをひとかじり…しようとするがそれは伸びてきた手に瞬く間によって引ったくられる。
「まず糖分の摂りすぎだ。このままでは糖が尿から出る。」
彼はこちらを一瞥もせず、ヨゼファから奪ったビスケットを一口に自らの元へと放り込んだ。ビスケットが盛られていた皿は黒い杖の一振りでキッチンへと高速で飛んで行ってしまう。
「泣こうが喚こうが徹底的にその不健全な身体の造りを正してやる。」
「…………。前から思ってたけれど貴方急に距離を詰めすぎるのよ、もう少しゆっくりお願い…。それから体質の不健全さは貴方だって似たようなものでしょう。」
ほとんど顔と顔が触れ合うくらいの距離に詰め寄られるので、ヨゼファは軽く身体を後ろに退きながら応対する。
スネイプはそんな彼女のことをじっとりと一通り睨んだ後、半身を起こして机上の本のうちひとつをペラペラと捲りながら再び口を開いた。
「黙れ、少なくとも私は呪われた魔術の扉を軽率に開いたりはしない。如何程の危険と負担を伴うかを考えずに?つくづく浅はかな思考回路には呆れて言うべき言葉が見つからない。」
「その割には結構喋ってるじゃない。」
「黙れと言っている、この老け顔。」
ピシャンと音を立てて、開いていた本をスネイプは閉じる。ヨゼファは瞬きを数回しては愛想が入り混じった笑みを浮かべた。
暫しの沈黙である。
彼は向かいに腰掛けるヨゼファとの距離を今再びつめるために、ゆっくりとテーブルに掌をついて顔を覗き込むようにしてくる。
「……………。
混沌の侵食を少しでも遅らせるためには、人間が人間らしく生きる必要がある。自らを質して己を保つ必要性が…」
囁くような彼の声を聞きながら、ヨゼファは(いつ調べたの、)と質問しようと思った。しかし黙れと二回も言われていたので流石に唇を結んだままにする。
「心配してくれているの?」
だがその決心は一秒と保たずに声が出る。スネイプは持っていた本をそのまま振り下ろしてヨゼファの頭を角で殴った。
「………何も言わないからだ。」
そのまま本の角で彼女の頭をゴリゴリと抉りながらスネイプは呟いた。思わずヨゼファは「痛い、禿げるわ」とぼんやりとした悲鳴を上げる。
「最初、死喰い人だと言うことも…アズカバンに行く時も。今回すらもそうだった。お前は何も言わない。いつも耳にするのは全て終わってからだ……。」
低い声で続けてから、彼はヨゼファの頭から本を退けた。彼女は体制を正して眼前の魔法使いへと向き直る。スネイプはこちらから瞳を逸らし、掌中の書籍へと視線を落とした。
「…………。まずは買い物に行きたい。この付近で薬草その他魔術に携わる品がある程度揃う商店へと連れて行け。」
「良いわよ、それじゃあ今日は街まで一緒に出かけましょうか。デートね。」
スネイプがさっと首を回してこちらを鋭く見るので、ヨゼファは本の角で更に殴られるのを回避するために立ち上がって彼から距離を取る。そして思わず笑ってしまいながらなだめるように両掌をヒラヒラと上下させた。
「そうね…何はともかく。どうもありがとうセブルス。」
優しいのね、
と続けて、ヨゼファは純粋な嬉しさを堪えきれずに小さく笑みを零してしまった。
*
「お客さん、お花はいらないんですか。」
一通りの薬草類の会計を済ました時、店員にかけられた言葉にスネイプは至極訝しげな表情で応えた。
そうして暫時の沈黙後「いや、」と短く否定を返す。
「へえ、珍しい…。今日は夏至祭だから。大抵の人が買うのに?」
やる気のなさそうな若い店員はバケツの中に漬かった色とりどりの花へと視線を移しては呟いた。
………スネイプと店員しかいない店内は沈黙に包まれた。こういった雑談じみたものほど苦手なものはない。別行動で買い物をしているヨゼファを連れてくれば良かったとスネイプは後悔する。彼女がいればその手の面倒事は全て喜んで引き受けてもらえるから。
「あ、お客さんもしかしてここの人じゃない。観光?こんななんも無いところに物好きだね。」
無視をしてさっさと店から去りたいところだが、店員の手元にあるキダチルリソウの根の処理が未だ終わってない。睨みつけてさっさと終わらせろと意思表示するが、それは全く伝わらないようである。つくづく頭が空っぽな若者というのは恐ろしい。
「………知人がここに住んでいる。話している暇があったら手を動かし給え。」
授業中、生徒に向けるような冷ややかな口調でスネイプは応対するが、「はい、すみませんね。」と彼女は悪びれずに謝罪した。
「そう、知人かあ。誰?ここは狭い街だから大抵の人は知ってるし。」
「教える義理はない。」
「すみませんね、と。でも友達に会いにきてるなら尚更、花買っていってあげた方が良いと思うけれど。ここいらでは夏至の日に感謝を伝えたい人にあれを贈るのが習慣だから。」
彼女はトロトロと手を動かしつつ、親指で軽く花を示す。
五弁一重のシンプルな花だった。あまり大きくもない。言われてみればここに至るまでの道中、花で衣服や髪などを軽く飾った面々とすれ違ったような気もする。
「お客さん他所の人らしいから教えてあげますよ。花には色ごとに意味があって」
「………手が止まっている。」
「ああ、すみませんねえ。私よく父さんにもボケてるって怒られてばっかで。………で、話の続きですが」
「話の続きより手前の作業に集中しろ……!!」
「ん?ああ。それでですねえ。赤色の花は『お世話になりました、なります。』の感謝の気持ちで… 黄色は『おめでとう。』、祝意ですね。喧嘩をした場合は紫で『ごめんなさい。』白色は『さようなら、ありがとう。』感謝とお別れを惜しむ気持ちです。青色も『ありがとう。』で感謝だけれど、こっちの場合はもうひとつの意味の方が重要で。花を渡したら必ず自分の口で『愛しています。』と愛情を伝えてあげるのがここのカップル同士のセオリーなんで「もう良い、花なら買うからさっさとそのノロマな頭と手を動かせ!!!!お前はナメクジの生まれ変わりか何かか!!!?????」
我慢できずに低く怒鳴りながらスネイプは彼女が作業する机を叩いた。
店員は相変わらずぼけっとした表情でスネイプのことを眺めるが、やがてニッと口角を上げては「おっ、毎度ありがとうございます。」と調子良く返す。
「サービスしますよぉ。花は何色にします?」
金の前髪に見え隠れする水色の瞳を細めながら彼女は楽しそうに言う。
スネイプは二度とこの店に来るものかと誓いながら、その手の内から綺麗に処理されたキダチルリソウが収まった袋をひったくるように取り上げた。
*
「お疲れ様。買いたいものは買えた?…………、なんだか随分くたびれてるようだけれど…どうしたの?」
待ち合わせ場所の喫茶店のテラスに腰掛けていたヨゼファは、スネイプの姿を認めては声をかけるが…背の高い彼の全身から滲む疲労感に思わず戸惑ってしまう。
スネイプは何も応えずに彼女の向かいではなく隣に腰掛けた。理由は分からないが兎にも角にもその苦労をねぎらうためにヨゼファは今一度「お疲れさま。」と声をかけてはその頭に軽くポンと触れる。
ウェイターに頼んでガス入りの水を持ってきてもらい、ヨゼファは彼と自分のグラスへとそれを注いだ。
そして「ああ、忘れないうちに渡そうかしら。」と言っては「はい、」と明るい声色と共に小さな花束を渡す。
何故かスネイプはそれを見て非常にしょっぱそうな表情をするが、やはり無言でそれを受け取っては「色が…」と呟いた。
「そう、色に意味があるの知ってた?ここいらには夏至祭の日に交流がある人に花を贈り合う習慣があるのよ。貴方には何色をあげるか迷ったけれど…全部綺麗だもの。結局選べなかったわ。」
赤、黄、紫、白、そして青色が一色ずつ入った小さい花束を、掌中で転がしては角度を変えて観察しつつスネイプはヨゼファの言葉に耳を傾けている。やがて「……お前のようだな。」と零した。「何が?」と聞き返す。
「………………。要点が絞れていない。よく話す癖に何が言いたいのか分からないことばかりだ。」
「そうねえ…。確かにそうかもしれない。」
微笑んでから、ヨゼファはグラスの表面に水滴を浮かべさせる炭酸水を一口飲む。
「ああ、そうだ。『愛しています。』これを言わないとね。」
ついでのように青い花が意味する言葉を零せば、彼は「知っている。」と素っ気なく返してグラスの中身を煽った。
ヨゼファはしばらく瞳が交わらないままにスネイプを見つめるが、やがて傍を走って通り過ぎていく白いシンプルなドレスを来た少女複数人へと視線を移す。色とりどりの花冠でおめかししている彼女たちに、思わず「可愛いわね」と声をかけては。
「皆浮足立っているのよ。もう少し時間が経って夜に近付けば、もっと着飾った人たちが街中に出て来るわ。今夜は夜通しの夏至祭だもの。………貴方そういうの嫌いでしょう?だから遅くなる前に家に引き上げましょうね。」
スネイプは空になったグラスをテーブルに置き、頷いて応えた。
「つくづく馬鹿らしい。……人間というのはどうにも浮かれた間抜けばかりだ。」
「皆安心したいのよ。大勢一緒になって楽しい時間を過ごせば、ひと時は不安を忘れられるから…という考えはちょっとひねくれてるかしらね。」
うふふ、とヨゼファは小さく笑みを零してからスネイプの掌へと手を重ねる。
彼がこちらを見てくれるので、握る力を少し強くした。スネイプは何かを思い出しているのか、いつも以上に無表情で「だが間違っていない。」と呟く。
「その類の気休めなど無意味で無益だ。馬鹿らしい。」
「残念だけれどその考えはマイノリティね。楽しい輪からあぶれちゃった経験がない人しか分からない気持ちだもの。」
「まるでマジョリティの立場ような口ぶりだな。」
「まさか。……別に賑やかなのは嫌いじゃないわ。でも思うことがないかと言えば間違えよ。たまーに色々思い出してなんとも言えない気分になる…特に私たちの学校はイベントが目白押しだから。」
「………そもそも教師など向いているわけがない。職選びにはまんまと失敗した。」
「そんなことないと思うわよ、貴方なんだかんだで面倒見が良いし。」
「それに同僚は年寄りか老け顔しかいない…。」
「………………。それは…そうね、可哀想にとしか言いようがないわ。」
「やはり来年度は憂鬱だ…。一年中浮かれた空気が続く。」
「貴方が今考えてることが良く分かるわよ。私たちの代にもあったものね…来年度のものほど大きくないけれど。似たような催し物。」
スネイプが今一度こちらを見るので、ヨゼファは隣に腰掛ける彼の肩に頭を乗せた。
………学校では滅多に出来ないことだ。自然と甘えた気持ちになってしまうのは、間違いなくバカンスの緩い空気があってのことだろう。
「私も同じことを考えていたから。よーく覚えてるわよ、ダンスパーティの夜のこと。貴方は黒い綺麗なドレスローブに白いハンカチを胸元に飾っていた。すごく格好良かったわ。」
「……………気分が悪くなる話だ。やめろ。」
「ごめんなさい、やめるわ。」
「だが良く覚えているな。つくづく気持ちが悪い。」
「純愛のなせる技だわ。誤解しないでよ。」
「純愛と何かは紙一重と……どこかで聞いたような。」
「人のこと言えない癖に。」
ヨゼファは軽く彼の肩を叩き可笑しさを堪えきれずに口元に手を当てる。
身体を起こして、今一度向かい合って二人は心弱い笑いを共有した。
水気を含んだ海風が、ヨゼファとスネイプが腰掛けるテラスの白い日除けをハタハタと揺らしていく。少し離れた場所から賑やかな人々の話し声が流れて来た。だがここは静かで、虹色の日光が木の葉の間を縫って溢れてくるに留まっていた。
「…………覚えていない。そう言えば。」
「何が…?」
のんびりとした気持ちで、すっかりと気泡がなくなってしまった炭酸を飲んでは彼の短い言葉に返す。
「ヨゼファはあの夜にどうしていたのかを。」
「覚えてないのは当たり前でしょ、貴方はひとつのことに夢中になりすぎていたもの。」
「まさか寮にいたのか?それは惨めすぎて同情する。」
「失礼ね。いないわよ、貴方のこと見たかったから。………あわよくば声をかけてみたかったし…あ、でも私喋れなかったわね、本当に何考えてたんだか。馬鹿な娘だわ。」
眼前を通り過ぎていくカップルの胸元にそれぞれ青い花が飾られているのを横目で見ながら、ヨゼファは溜め息をした。
「ヨゼファ。」
「なに?」
「あの夜。何故制服だった…?」
二人は暫時見つめ合っては口を閉ざした。やがてヨゼファが「やだ、」と小さく声を漏らす。
「覚えてるんじゃない。しかも覚えてて欲しくないことだけ。」
「思い出しただけだ、それに早々忘れられもしない。」
「察してちょうだい…。あの時は母との関係が最も悪かったの。ドレスなんて強請れる筈ないじゃない。」
「…………よく会場に顔を出そうと思ったな。」
「だって貴方のことが見たかったもの。何度も言うけれど、ただそれだけよ。」
ヨゼファは瞳を閉じてあの夜のことを思い返す。
…………本当に、息が止まるかと思うくらいに素敵だったのだ。キラキラした細長い金色の蝋燭の光の中で見た彼の姿は。この時ばかりは、この人がリリーの方ばかりを見ていてくれて良かったと心底思った。視線を向けられたら、緊張のあまり気絶してしまうに違いない。
けれど、それと同時に当時の自分の格好の惨めさを思い出してゆっくりと気持ちは落ち込んでいく。
大広間の隅に据えられた椅子を更に隅の、大きな彫刻の影へと引き込んで腰掛けては…ただただ遠い世界のことのように、眼前に広がる鮮やかな景色と美しく着飾った少年少女のことを眺めていた。
この時ヨゼファはささやかな母への反抗として、厳しく禁止されていた如何にも砂糖を多量に使用しているケーキを生まれて初めて口にした。
なんて美味しいものが世の中にあるのだろうとひとしきり驚いたこともまたよく覚えていることのひとつだ。……それと同時に、何故自分は律儀に母親の言いつけなどを守って生きているのだろうと静かな憤怒を腹の奥に感じた。こんなことをしても最早彼女は自分にとっくに失望し切っていて、二度と愛してくれることはないのに。
腹立たしさと惨めさとやり切れなさと。複雑な感情全てをあまりにも甘いケーキと共に飲み干し、ヨゼファは微笑んだ。いつもと同じように変わらない笑顔をたった一人で浮かべては自らを慰めようとした。
「懐かしいわね………。」
全ての思いをその一言に収めて、ヨゼファは溜め息と共に吐き出した。
スネイプはいつものようにこちらをじっと眺めているが、口を閉ざしたままである。ヨゼファは切り替えるように表情を明るくして、「それじゃあそろそろ帰りましょうか?」と提案した。
「……………。今年は何を着る。」
だが彼は立ち上がったヨゼファに続かず、意図の掴めない質問をしてくる。ヨゼファは(この人言葉選びがいつも唐突よね…)と思いつつ、「なにが?」とそれに応じた。
「三大魔法学校の祝賀の際だ。……まさかその年になって母親に着物を強請る訳でもあるまい。」
「ああ…、今年のこと。それはそうね、でも面白そうだから久しぶりにママにおねだりしてみようかしら?」
冗談めかして言えばスネイプが至極呆れた表情になるので、「ジョークよ、」と笑って自らの発言を流した。
「今年度ねえ……。あまり考えていなかったけれど…イベントの主役は生徒でしょう。至って無難な装いで特別着飾ったりはしないつもりよ。貴方だってそうでしょう?」
スネイプは口元に指を持っていき、「なるほど、」と呟いた。
「貴方が私の可愛い晴れ姿が見たいって言うなら別だけどね。」
そう言いながら傍を通りすがるウェイターへと、長居してしまった礼として少し多めにコインを渡した。
ようやくスネイプが立ち上がるので、伴って歩き出そうとするが腕を引っ張られて進行方向を変えられる。
「どうしたの?」と尋ねるが「いや……」と濁されるので、ひとまず成すがままになっては手を引かれて歩いた。
(珍しいわね、いつも私が彼の手を引っ張って色んなところに連れて行く役なのに。)
握ってもらえた手を握り返して、隣に並んでみると自然と優しい気持ちになる。「やっぱり…貴方って背が高いのね。」と呟いて自分よりも大きい彼の身体を改めて愛しく思った。
「そう感じるのはホグワーツでいつも踵の高い靴を履くからだ。」
「私の戦闘シューズみたいなものよ、あれだけじゃないわ…色んなもので気持ちを引き締めてやらないと、こんな怠け者に先生なんて務まらないの。」
「時々自分より巨大に思えてゾッとする。」
「あら、大きい女性は好みじゃないの。」
「当たり前だ。」
「残念ねえ…それじゃあどうしましょう。ちょっとだけ縮み薬を飲みましょうか。」
「余計なことをするな、人に合わせて自分を変えるなど馬鹿馬鹿しい。」
ヨゼファは思わず笑い、彼の腕にそっと自らのものを回した。………まるで子供に戻ってしまったような無邪気な気持ちになる。むしろ少女時代よりよっぽど今の方が子供らしいのかもしれない。素の自分を認めてくれる彼の存在にはつくづく救われている。
「貴方のそう言うところが大好きよ。」
呟き、彼に連れられるままにして歩く。
……………それもそうである。まだ日は沈みそうになく、家に帰る時間に余裕はあるのだから。もう少し恋人のような気持ちを味わいたいと望んでしまうのだ。
*
「それで、靴。」
真新しい靴の感覚を確かめるように、ヨゼファは道の石畳をトンと音を立てて爪先で叩いた。
彼女は「ふーん…、」と悪くなさそうな表情で零しては軽く一回転してみせる。丈の長い白いスカートがさらりと風に煽られた。
「女性の靴の見立ても上手なのね…」
ヨゼファは感心したように言っては犬を撫でるようにスネイプの黒い髪をわしゃわしゃと軽く乱す。「やめろ」と殊更愛想なくそれを制止した。
「初めてだわ。」
彼女はそれを大して意に介さず、はにかむように笑ってからスネイプの手を取る。「何が、」と端的に返した。
「男性からプレゼントしてもらうの…。」
彼女もまた端的に答えるが、その声に隠せない喜びが滲んでいるのがよくよく伝わってくる。思わずスネイプは嘆息した。
「一言もただでやるとは言っていない。」
「あらそうだったの。嫌ね、こんな回りくどいことしないで言ってくれれば大体のお願いは聞いてしまうのに。私は貴方に甘いから。」
「代わりに、何かが欲しい。」
「え?」
「いつも贈られるのは消えてしまうものばかりだ。…形に残るものが欲しい。」
…………彼女は曖昧に笑い、暫し口を噤んだ。
そして海沿いに伸びる港へと細めた視線を向ける。日が長い夏の太陽はまだ沈みそうになく、水面に白い光が散って眩しかった。
「迷惑でなければ…」
ヨゼファはこちらに視線を戻さずに小さな声で応える。
スネイプもまた海の方を眺めたままで何も返さずにいた。やがて…ようやくと言った風に彼女がこちらへと向き直るので二人はやや近い距離で互いを見つめ合う。ヨゼファは少し困ったように笑い、「背丈…」と呟いた。
「結局あまり変わらないわね、踵が低い靴の中から選んでもらったつもりだったのに。」
本格的に縮み薬を考えようかしら、と冗談を続けてヨゼファはスネイプの手を引いてはゆっくり歩き出した。
深い青色の革の靴が、コツとまた硬い石畳を叩いては音を立てる。金色の華奢な装飾がそれに合わせて弱く光っていた。
『……黒はもういくつも持っている。』
黒い靴のうちひとつを手にして眺めていたヨゼファへと、先ほど店内で声をかけた。彼女は『それもそうねえ…』と言ってはそれを棚に戻す。
そして今度はスネイプが視線で示したものを手に取り、サイズを確かめて爪先をそっと入れていく。その際、生白い足首がいやに目についた。
『綺麗な色ね。』
彼女は静かな声色で零し、弱く微笑んだ。
………この夏、家に滞在させてもらったから。いつも世話になっている。日頃の労いに。いくつかそれを買ってやる理由が胸中には浮かんでいた。更に来年度は百年に一度の記念すべき年であり、託けてそれなりの装飾品を贈る理由も充分だった。
けれどそのどれも口をついて言い出せず、黙っているうちにヨゼファはさっさと自分の買い物として青い靴の会計を済ませてしまおうとする。腕を掴んでそれを留め、彼女の指先にぶら下がっていた靴を取り上げた。
たったそれだけのことなのに、ひどく緊張した。
クリスマスに、自分の誕生日にイースター。それとフランスの仕事から帰ってくる度に。ヨゼファは何かと自分にものを与えたがる。それを、年の離れた弟を可愛がる姉のようだと思ってはしばしば複雑だった。
贈られるものは大したものではなく、消えものだけである。形に残る何かを受け取ったことはない。
自分の方はそれも殊更で、ひとつとしてヨゼファにものを贈ったことはない。長い時間を共にしているのに、お互いを思い起こすものをひとつも所有していないことを今更ながら考えたのだ。
「帰りましょうか。」
ヨゼファが穏やかに言う。黙って頷き、手を引かれたままで歩いた。人々が纏う華やかな衣服や装飾、浮き足立った雰囲気、陽気な話し声に明るい音楽。夜へと向かう街の中心へと流れていく鮮やかな空気の反対方向へと、二人はただ黙って足を向けていく。
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