骨の在処は海の底 | ナノ
 雨に打たれて風に吹かれて

 目を覚ました時も、夢の中と同様に雨が降っていた。

 スネイプはソファからゆっくりと半身を起こした。そして広い窓の向こう、薄暗い空から降り注ぐ雨を受け止める灰色の海を眺める。時計を確認すると、時刻は夜にほど近い夕刻だった。

 軽いブランケットを腹の辺りにかけられていたことに気が付く。母親のようなことをするな、とこの家の主人のことを室内に認めようとした。

 だが、このだだっ広いリビングには誰もいなかった。…自室の方にいるのかもしれない。


 雨足が強くなるのか、次第にその音が強くなった。一定の感覚で絶え間無く響く雨垂れは延々と続く昔語りのように、まるで終わりが分からない。


「ヨゼファ」


 彼女の部屋へ向けてその名前を呼ぶ。返事はない。起き上がって扉をノックする。やはり返事がないので、そこを開ける。

 誰もいなかった。

 自分に与えられていたものとほとんど同じ造りの部屋には、薄闇だけが漂っている。


 またか、と思った。

 いつも自分はヨゼファのことを探して、見つけられずに今のように立ち尽くすのだ。

 青色に浸された室内の四方から自らの傍へと、不安がゆっくり近付いてくる。


「………どこへ行った。」


 呟いた瞬間、血溜まりの中で蹲って倒れていたヨゼファの姿が唐突に思い出される。

 もしや、と思って広くはない平屋の中、バスルームへと一足で走って至る。乱暴にドアを開けた。だがそこにも誰もいない。冷たい空の浴槽を睨み付け、スネイプは思わず唇を噛んだ。

 まるで親とはぐれた子供のような気持ちだった。不本意にも泣きたくなるが堪えて代わりに舌打ちをする。


 ガチャン、と一際大きな音がした。


 スネイプは驚いてその方を見るが、その前に耳へと聞きなれた声が飛び込んでくる。


「もうーー…!もう本当に…ああ、こんなに雨がひどくなるなんて…!!魔法陣も描く傍から流されるんだから移動もままならないし…一体全体こんな面倒臭い場所に住んでるのは誰!!?」


 私だったわね!!と言って濡れ鼠のヨゼファは一人で爆笑した。

 ………ぽかんとその様を眺めるスネイプへと、彼女は「ただいま、」と明るく笑いかけて雨が吹き込んでくる扉を閉める。


「ヨゼファ、」


 気持ちの焦燥を抑えられず一直線にその胸に飛び込んで抱き締めると、相当の勢いだったにも関わらずヨゼファはスネイプの身体を難なく受け留めては抱き返す。…驚いたようで、小さく声を上げはしたが。

 濡れた彼女の身体はいつもよりも更に冷たかった。雨を大いに含んでいたシャツからこちらの着衣にもじわりと水分が伝わってくる。

 ヨゼファは最初は吃驚として反応が出来ずにいたらしいが、やがて愉快そうに笑った。そしていつものようの彼の背中を撫でたり軽く叩いたりしながら「どうしたの?」と尋ねてくる。


 彼女のことを決して離さずに、頬を寄せてから身体を預けていく。全身が弛緩して、自然と膝が折れた。ヨゼファもそれに付き合って、二人で床に倒れるように座り込む形になる。

 徐々に…毎度のように、自分の体温がヨゼファへと移っていくのを感じながら、そんなことは断じて無いと言い切ったあの時の自分の言葉を思い返す。


(そうだ……。断じて違う。)


 今一度胸の内で繰り返しながら、それでも彼女を更に強く抱き寄せた。

 身体を離して向かい合ったヨゼファの濡れた髪を掻き上げてやると、その中にまたしても彼女のものではない色彩の毛髪を発見する。インクが真新しい紙に染みを作るように、よくよく馴染み深い淡い色に黒色を滲ませている。

 何故これに気が付かなかったのだろうか、とスネイプは今更ながら愕然とした。一番近くで彼女を見ることが出来るのは自分だ。きっと誰よりも長い時間を共にしている。抱きしめた回数も、触れてやった回数すらも彼女の母親より多いに違いない。


(何故……。)


 少々戸惑った表情を浮かべるヨゼファの首に腕を、水が滴る髪、後頭部に掌を回してゆっくりと口付ける。長かった。ヨゼファの唇がいつもよりもずっと冷たい所為だ。いくら温めてやっても、彼女の身体はどんどんと冷たさを増すばかりだ。人間のものではない、別の世界へと肉体を少しずつ持っていかれている。


(何故…もっと早くに、)


 今でも、ずっと後悔しているのだ。遥か昔、ホグワーツの廊下でその掌を振り払ったことを。


『ヨゼファはずっと…誰かに必要とされたかった。』


 あの夜の年老いた魔法使いの声は、言葉は、骨身に堪えるほどに染み入るものだった。


『自分の存在意義を探している魔女だった。』


 それは自分だって同じだ。人間はどうしても生きる理由と没頭して酔っ払える何かが欲しい。そしてそれが、自分がいる場所が正しいのだと信じたい。


(リリーがどれだけ自分以外の人間を大切に想ってそれを見せつけられても、自分へと二度と気持ちを傾けないと理解しても、心を潰さずに生きていけるように……。)


 だから強い力に縋り、それがさも自分のものであるかのように錯覚して、痛々しい現実から目を背けた。最悪の結果に至るまで間違ったことにすら気付けなかった。


『今までの人生のどこかで、彼女のことを純粋に望んでくれる人間がいたならば…』


 全て同じだ。

 だからあの時にどうしても手を振り払うべきではなかったのだ。話を聞いてやるべきだった。その時・・・であればまだ間に合った。こうも頑なに、どうしようもなくこじれる前であれば………


(何故だ……。)


 後悔を伴う疑問ばかりが脳裏を過る。何故、もっと…今よりもずっと早くにヨゼファと分かり合えなかったのだろうか。そうすればお互いに間違えることは無かったはずだ。

 全てが遅すぎる。どんなに彼女を大事に思っても愛することが出来ない。多くを与えてもらったのに、自分は差し出すものを何も持っていない。


 舌を絡ませ、ヨゼファの唾液までも冷たいそこを吸い上げる。理性的なことを何も考えられなかった。角度を変えて今度は自分の唾液を彼女の元に注ぐと、重なった二人の唇の端からそれが垂れていく。歯を立てるとヨゼファの身体がびくりと震えた。拒否を許さず、後頭部を押さえ付けて更に長く口付ける。

 ようやく治りかけて薄い赤色になっていた首筋の咬傷にも強く噛み付いて、再び傷痕を開いた。無理に襟口を広げるので、首元まで留められていたヨゼファのシャツのボタンが三つほどあらぬ方向へ飛んでいく。痛みに堪えられず漏らしたらしい彼女の弱い悲鳴が耳の傍を掠めた。

 乱暴なことしかしていない、とその自覚はあった。肩を掴んでヨゼファの身体を床に押し付ける。小さな声で名前を呼ばれるので呼び返す。それでも優しく触れてやることが出来ない。ヨゼファへと向かう気持ちはいつでも攻撃的すぎる執着を持っていた。そうでなければ離されてしまうと強く焦燥する為だ。離されても仕方無いと思う十二分な後ろめたさがあるだけに。


(出会い直したい、)


 いつでもそう思って仕方がない。何故彼女のこの声が、よりによってあの…全ての元凶である闇の魔法使いの手によって舞い戻ったのか。それを取り戻すのは自分の役目だった筈だ。自分の…この名前だけを何度でも呼ぶために、灰色の廊下で掴まれた手を握り直して、その音の無い言葉に耳を傾けてやって、そして………


「ヨゼファ、」


 掠れた声で、ヨゼファの名前をもう一度呼んだ。濡れ鼠だった彼女は少し苦しそうにしながら、ようやく離された唇から酸素を求めて微かに喘いだ。


「…………綺麗だ…。」


 その身体に覆いかぶさったまま濡れた髪に触れ、口について出そうになった言葉を抑え…代わりにあまりにも陳腐な言葉を吐いた。

 驚いたらしいヨゼファは目を見張る。「綺麗だ、」と繰り返して髪をかきあげて頬に触れた。


「そ、そう……。どうも…ありがとう。」


 彼女は戸惑いがちながらも礼を述べてくる。然しながら…やがて表情を柔らかくして照れたように笑い、「嬉しい、」と喜びを素直に表現した。

 首に腕を回され、冷たい身体でぎゅっと抱かれる。瞳を閉じ、その言葉を繰り返した。やはり声は掠れている。


 ……嘘ではない。

 彼女は美しいのではないかと思うことは今までもあった。


 ヨゼファが身体ゆっくりと起こすので、二人は再び座って向かい合う。彼女は「驚いたわ、」と言って溜め息を吐いた。しかし未だに照れ臭そうな笑顔を隠すように手の甲を自らの口元へと触れている。…余程嬉しかったのだろうか。


「昨日言ったように、買い物に行ってたんだけれど…。ちゃんと赤の方のワインも買ったわ。良い魚もね。夕飯を楽しみにしていて。」


 一連の出来事によって床に放り出されたままとなっていた濡れた大きめの袋ふたつを、彼女は視線で示す。

 立ち上がってそれらをキッチンへ持って行こうとするヨゼファからそれらを無言で引き受ける。彼女は「ありがとう、」と上機嫌なままで礼を述べた。

 
「さて。早速料理したいけれど…まずシャワーかしらね。」


 自分の身体の酷い有様に溜め息しながら彼女は言う。それからスネイプの姿を横目して「貴方も中々ね、」と言っては軽く腕へと触れてくる。確かにスネイプの白いシャツもヨゼファの身体に触れていた部分がそのまま同じようにしとどに濡れていた。


「一緒に入る?お風呂。」


 冗談めかして誘われるので、彼女へチラと視線を向けた。濡れたまま細く纏まって顔へとかかっているその髪を再びかきあげてやってから、弱く頷く。

 ヨゼファの冷たい手を取って、握る。並んでゆっくりと歩くと、先ほどは一足で辿り着いたはずのバスルームに至るまでに些か時間がかかってしまった。
  






「良いお風呂でしょう?」


 二人向かい合って浸かってもそれなりに余裕がある大きめの浴槽の中で、ヨゼファはスネイプへと言葉をかけた。


「人魚姫に感謝ね。元々シャワーだけの家だったのよ。彼女が漂流してから回復するまで休んでもらうために、粗大ゴミの中から拾ってきて直したのよこの浴槽…あと浴室も。えらい苦労だったけれども「話が長い。」

 ペラペラと機嫌良く話す最中、低い声でそれを打ち止められる。ヨゼファは「オゥ、」と言っては肩を竦めた。


 そして再び浴室は沈黙する。することがなくなってしまったので、ヨゼファは浴槽の縁に背を預けて湿った天井を暫時眺めることにした。

 最中、(この人脚長いわねえ。)と考える。自分の脚と絡んだそれが窮屈でないか少々心配になってしまう。

 名前を呼ばれるので視線だけ彼の方へと戻した。腕を捕まれ、身体を起こすように促されるので従う。そのままで、顔をじっと覗き込まれた。何かな、と思う。あまり喋らない彼の言葉と言葉の間の気持ちを読むことは嫌いではなかった。

 掴まれたままだった腕を引かれ、近くへと寄せられていく。ちょうど彼の腿の上に腰をのせる形になってしまったので、「重くない?」と尋ねた。「重い。」と即答されるので、苦笑しながらもその身体に背中を預けて腕に抱かれるままにする。

 
(暖かい……。)


 そう考えて、ヨゼファは目を細めた。冷たい自分の皮膚を通して彼の体温を感じる。この瞬間は心から安堵できるのだ。嘆息しつつ、頭までその肩へと乗せて全身を委ねてしまう。

 顎が持ち上がり晒された首へとスネイプの大きな掌が触った。包むようにして自分の首を何度か撫でて行くその手付きに一抹の不安を覚える。……彼は時折情事の最中、衝動的にヨゼファの首を絞めることがあった。それは生憎好きではない。当たり前だが苦しいのは嫌いだ。


「ヨゼファ、」

「なに?セブルス」


 幸いなことにそれはなされず、首から離れていく掌は再びヨゼファの身体を後ろから抱き締めるに留まる。しかし代わりに弱い痛みが首筋に走った。鬱血痕を残されたのだろうか。


「……子供が欲しいと思ったことはあるか。」

「え?」


 そして唐突な問いかけに、ヨゼファは驚いて彼の方へと振り向く。想像したよりも互いの顔の距離は近かった。しばし見つめ合ってから、その濡れた黒い髪をかきあげてこめかみに軽く口付ける。


「………………。そんなこと、一度も考えたことなかったわ…。」


 元通り、再びスネイプの肩に後頭部を預けて天井を眺めながらヨゼファはその問いかけに応えた。


「でも敢えて考えるなら答えはNOよ。……前科持ちの母親なんてねえ。」

 自分の身体を抱く彼の腕の内側にうっすらと浮かぶ闇の印と、それに重ねられた自分の腕に刻まれた同じく黒い文様へと視線を落としてヨゼファは言葉を続ける。


「そうでなくても後ろめたいことばかりなのに。親を尊敬出来ない子供は可哀想だわ。」

「だが…所謂世間一般で言われる立派な人間に育てられた子供が幸せとも限らない。」

「どうなのかしら。」

幸せだったか・・・・・・?ヨゼファ。」

「さあ……?でも幸せな時も無くはなかったんじゃない。貴方は?」

「………………。不幸だった。」

「そう…。大変だったわね。」


 重ねていた掌で彼の左腕をそっと撫でた。段々と二人の声は小さくなり、ほとんど囁き合うような様子になる。


「それにしても急におかしなことを聞くのね…。子供、欲しいの?」

「いや。」

「でしょうね、」

「だが……。ヨゼファの子供を見てみたいとも思った。」

「無理でしょう、子供を作るには相手が必要よ。」


 もしかして初耳だった?とヨゼファはまた首をスネイプの方へと向ける。彼は瞳を伏せて視線を逸らした。


「貴方が独り身な限り、私も同じよ。だって寂しいでしょう?シングルの仲間が減っちゃうと。」


 心なしか抱かれる力が強くなる。笑みを苦いものに変えて、「もう…」と小さく漏らした。


「でも…そうね、私の子かあ……。子供は勿論好きだもの、機会があれば考えてみても良いかもしれないわね。……全部終わったら。」

「全部……」

「そう、全部…。だって母親がいない子供も父親がいない子供もやっぱり可哀想だもの。」


 スネイプは全く黙り込んでしまう。こう言うことは少なくない。しかし機嫌を損ねているわけでもないのだ。だからヨゼファはなんでもないように構わず言葉を続けていく。


「貴方って印象に寄らず体温高いわよねえ。あったかいわ。」

「お前が冷た過ぎるだけだ……。」

「そうかもね。」

「本当に…冷たい。」

「…………。でもね…きっとそれだけじゃないわよ。」


 ヨゼファは瞼を下ろして、穏やかな気持ちで言った。

 暫時の沈黙後、「セブルス、」と彼の名を呼ぶ。一応の返事がなされた。


「……貴方を愛しているわ。好きよ、ありがとう。」


 心から思ったことを自然と口にすると、やがて抱かれる力が更に…痛いほど強くなる。そしてゆっくりと、魔法の痕跡が残る乳房を後ろから掌で包まれた。彼の太い指に合わせて形を変えるそこを見下ろして少しだけ息を呑むが……させるままにする。

 今一度同じように愛を囁くが、やはりこれには返事がない。いつものことだ。







 目を覚ますと、自分の隣にヨゼファの姿は無かった。回らない頭でぼんやりと辺りを見渡してから瞳を閉じ、感覚で彼女の気配を探す。

 部屋の外にいるらしい。キッチンから食器が触れ合う水場の音がする。…近くにいるのだとよくよく分かり、気持ちが安堵した。

 のそりとベッドから起き上がると、昨日着用していた衣服が几帳面に畳まれて机に乗せられていることに気が付く。毎度である。どれだけ面倒見がいいのか、と考えて溜め息をした。身体も勿論のこと清められている。

 甘えているな、と自覚はしていた。ヨゼファは自分を強く愛している。その感情を利用している罪悪感を一抹覚えた。……この関係が、彼女の母親の知るところになったらどうなってしまうのだろう。


(殺されるかもしれない。)


 彼女が娘へと忠告したことは間違っていない。自分など忘れたほうがヨゼファは幸せだ。それは間違えない。


(慰み者にしているのか。)


 考えると、自分で自分のことを力の限り撲りつけたくなった。

 違う、と大声で否定しなくてはならない。それだけは違う、と相手が誰であれ即答しなくてはならなかった。ほんのそれだけが、ヨゼファに与えられる僅かばかりなことのひとつだった。


 室内で洗面と朝の支度を済ませ、いつもよりも…とは言っても来てからまだ数日だが…重く感じる扉を開いた。


 広いリビングの開け放した大きな窓から、朝日を含んだ涼しい風が吹き込んでくる。白いカーテンがそれに煽られてひらひらと揺れるのを暫し眺めていると、「おはよう、」と明るい声で挨拶された。


「珍しいのね、翌朝・・起こさなくても起きるなんて。」


 ヨゼファはポン、とスネイプの肩に手を触れて笑う。首筋に当てられたガーゼと二の腕に巻かれた包帯の白さが嫌でも目に付くが…その掌を自然に握ると、彼女は笑みをこそばゆそうなものにした。


「やっぱりお腹減ったんでしょう?結局昨晩夕ご飯食べなかったものね。」

 
 繋がった掌へと軽く唇を落としてから、ヨゼファはそこをゆっくりと離していく。留めたくなるが我慢して、キッチンへと戻っていく彼女を見送る。……が、振り向いて手招きされた。


「ふふ、早起きして損したかもしれないわね…貴方。手伝ってもらうわよ?」


 腕を捕まえられ、離れた距離を寄せられる。…ふと久しぶりの感覚を覚えた。古びた日向の匂いがする。再開した直後、よく感じたヨゼファの気配だ。だがそれはすぐに鳴りを潜めてしまう。

 弱く頭を振って彼女へと従い、スネイプは歩みを進めた。


* * *


 台風のような激しい雨が過ぎ去った後の空はまるで劇場の書き割の如く嘘みたいな青色だった。

 そうして昨日よりひとまわり大きくなった虹色の太陽が透明な朝日を運んでくる。その申し分ない快晴の様子を、ヨゼファはテラスの縁に両手をついて眺めては「うん、」と満足げに頷いていた。


 彼女は懐から相も変わらず粗末な白木の杖を取り出し、これもまた相も変わらず巨大な守護霊を引き出して眼下に広がる海へと離した。

 白い鯨は中空で一回転してから、水平線近くの水面へゆっくりと頭から沈んでいく。


「時々ああやって海辺に離してやると喜ぶのよ。」

「守護霊に意思があるのか。」

「あるんじゃない?貴方の子にはそういうのないのかしら。」

「恐らく……無い。」


 あって欲しいとは幾度も考えた。この美しい牝鹿の精霊は彼の誇りでもある。……だが、彼女は物言わないただの白く清らかな守護霊だった。


「あると思えばあるものよ。一度試してみたら。」


 ヨゼファが振り返って傍へと歩を進めてくる。今更だが、白い袖のない開襟シャツにベージュのスラックスの姿は新鮮だった。それをそのまま伝えると、彼女は「私も同じこと思うわ。」といつもよりも随分と楽なスネイプの姿を眺めて愛想良く返す。「素敵よ、」と続けて。


「さあ、良い加減空腹ね。いただきましょうか。」


 言葉に促されて着席する。このテラスで向かい合って食事をするのは何度目だろうか。まだ数える程だ。それでもずっと昔から繰り返してきたような心地がする。

 スネイプは元より食事に然程の興味を持っていない。必要な栄養と空腹が満たされればそれで良いと考えている。だが今の…二人きりの食卓上の平穏には、なんとなくの安らぎを覚えていた。

 
 平たく焼いたじゃがいもの入ったオムレツに、ゆるく溶かれていたケチャップを軽く塗ってパンに挟んで齧る。

 じゃがいもにしても卵にしても淡い味だが、仄かに甘味が利いていた。「美味しい、」とそのままの感想を思わず漏らす。


「本当?」


 ヨゼファは殊更嬉しそうに応えた。

 素直に肯定して一度頷くと、彼女は何故か少しばかりの驚きを表情にする。それから「ありがとう。」とゆっくり礼を述べた。


「でもね、謙遜じゃなく私の料理の腕前はそんなに大したことないの…それに朝食だもの、簡単なことしかしてないわ。だからそう思ってくれるなら、それはきっと貴方自身のおかげね。」


 ヨゼファは赤色の紅茶が入ったカップを手の内側でゆらゆらと揺らしながら、瞳を伏せて呟く。

 訝しく思ってじっと見つめると、彼女はふふ、と笑みを漏らしてこちらを見た。


「だって考えてもごらんなさい、二枚目の男性にご馳走しようと思ったらどうしたって美味しくなるはずよ。」


 ねえ?と言って少し首を傾げてはピッと指を向けられる。ふざけたことを、と苦々しく呟いて顔をしかめた。


「じゃあなんて言えば良いの?イケメンって言う方が貴方嫌がりそうだなあって配慮したのよ。」

「………………。好きにしろ。」

「そうねえ、好きにするわ。何度も言うけれど…ふざけてはいないのよ。本当のこと。貴方とっても素敵だもの。」


 白い鳥が遠くへと渡っていく青い空とその下に広がる同じように青い海を眺めて、スネイプは(また………)と考えた。

 一体どこまでこの女は自分のことが好きなのだろうか。学生時代のただひとつの接触からこうも…執着と呼べるほどの気持ちを今日まで抱いている。自分も余程だが彼女も余程だ。つくづく救いようがなく、報われないふたつの魂だと思う。

 きっとお互いが同じ種類の毒であると自覚している。それでも傷口を舐め合っては更に毒の色を深めているのだ。

 大体、昨晩の浴室での質問にしても…一体彼女からどんな答えを期待していたのだろうか。


『……子供が欲しいと思ったことはあるか。』

『無理でしょう、子どもを作るには相手が必要よ。』



 それはそうだ、一体ヨゼファと誰の子供だと言うのだろう。

 他人と子供を成すことなど許せる筈もないのに。


 考え込んでいると、額…眉間の辺りをトンと触れられた。その方を見ればヨゼファは年甲斐なく無邪気な表情で、「皺、」と言葉をかけてくる。


「増えてたわよ?難しいこと考えてる。」


 彼女はスネイプの眉間へと触れている人差し指と中指をくいと広げるらしい。皮膚を横に引っ張られる感覚に、スネイプは「やめろ」と低く言ってはその手を軽く払う。


「夏休みなんだから気楽にいきましょうよ。今はだけは、全部忘れるのよ。」


 ねえセブルス、とヨゼファは穏やかな表情で言う。……微かに頷いて応えた。


 そうして二人はまた朝食を再開する。

 青い釉薬で縁取られた白い皿にチーズやサラダやハムが盛り付けられ、ホグワーツで使用されているものよりも随分と小さなトーストスタンドに狐色の薄いパンが挟まっている。そのどれもが瑞々しく思えるのは、やはりこの抜けるような快晴のためだろうか。


「ヨゼファ、」

「なに?」

「ベッドが狭すぎる。……二人で寝るには。もう少し大きいものが欲しい。」

「そう。また浴槽みたく粗大ゴミから拾ってきましょうか?」

「ゴミの上で寝るのはごめんだ。」

「……………。直すのは私よ?」

「新しく買えば良い。」

「あのねえ、ベッドも安くない買い物なのよセブルス君。」

「それくらいはこちらで買う。」

「え?」

「買っておくから……」


 その先を言うことが出来ず、スネイプは口を噤んだ。暫時の沈黙。いつものことだ。

 鴎の声が遠くからする。優しげな波が岩肌を撫でていく音もした。やがて喋らずにはいられないヨゼファが、いつものようにどうでも良い話を楽しそうに始めて沈黙を終わらせる。

 だが、きっとこれが…こういうことが幸福なのだろうと……。彼はひどく久方ぶりにその感慨を覚えては、彼女の言葉へと静かに耳を傾けた。



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