◎ With You...
(学生時代/If) 素敵な人だなあって、ずっと思っていたのよ。 ヨゼファは…所謂平均的な十代半ばの少女の中でも、足が速かったのかもしれない。
だから例えば長い廊下の曲がり角、休み時間にトイレから出てくる時、はたまた放課後の図書館で。自分を弄って遊ぼうとする男子生徒の気配を覚えればすぐに逃げることが出来た。……ただし運が良ければ。
普通の男の子ならいざ知れず、足が速い男の子のそれは
足が速い女の子の比ではなく。更に言うと彼らは学校の秘密の通路を熟知しているわけで、泳がすようにわざと時間をかけつつ、体力を削られながら追い詰められてしまうことが多かった。
不運にも、逃げ足の速い彼女を捕まえるゲームはどうやら彼らにとって格好の暇潰しとなってしまっているようである。
(男の子って嫌い…。)
無神経なことばかり言うから。女の子はまだ聞こえないようにしてくれるからマシだ。面と向かってしかも悪気なく、どうしてこんなにも心に堪えることが言えるんだろう。
長く伸ばした髪の毛を引っ張られるのが一番嫌だった。この髪は、髪と瞳の色は唯一大好きな母親譲りのものだったから。大切に伸ばしているのに。
仲睦まじい彼らが口々に楽しげな言葉を交わして、無邪気に笑う様に囲まれる瞬間は心臓がキュッとなった。彼らの青春の一ページの歯牙にもかからない自分の存在を思い知らされて居たたまれない。手にしたままだった数冊の書籍を胸に抱いて背表紙を握り締める。
学校は大嫌いだった。夏休みの終わりは憂鬱で仕方ない。けれども家もそこまで好きではなかった。寄る辺ない毎日の中でフラフラ漂う心地は不安しかない。なんの為に生きているのかさっぱり分からなくなる。
(だからね、そんな私の毎日に初めて変化を齎してくれた貴方が…本当に本当に素敵に思えたの。)
腕を掴んで、追い詰められた壁際から連れ出してくれるなんて。
そんなことしてくれた人、今までいなかったもの……
*
最初に彼女を…ヨゼファのことを見た時、スネイプは正直に言えば胸がすくような気持ちになった。
それは一年生の入学式、組分けの儀式の時…
自分の寮の長いテーブルから一番に離れたグリフィンドール寮の
領域に温かく迎え入れられるリリーの姿をぼんやりと眺めていた時である。
周囲は水を打ったように静かになり、そうしてざわざわと広間の四方から様々な囁き声がさざ波のように泡立っていった。
その中心で奇異と好奇の視線を一身に集めながら、申し訳なさそうにスネイプの隣の席へと着座してきた少女がヨゼファだった。
瞳が合うと、ヘラヘラと情けない表情で笑いかけられる。それには応えず、リリーの方へと視線を戻した。
その間も、チェンヴァレンの一人娘がスリザリンに選ばれたことに対する静かな動揺は暫時この広い空間を満たしていた。
ヨゼファは相変わらずニコニコと締まりなく笑いながらも、その細長い身体を精一杯に小さくしてこの時間に堪えているようだった…
自分よりも惨めな人間を見つけたと思ったのだ。
だから気分は悪くなかった。
けれどもこの時心のどこかで、
(頼むから)と不意に低い声が鳴るのが聞こえた。
(頼むから)
(どうか彼女に優しくはしてやれないか)
(今ならば)
(持っているものを与えてやることが出来る筈だ) 時折聞こえるその声が無視できないほどに大きくなった数年後、同じ寮にいながらほとんど接触もなかったヨゼファと初めての会話を交わすことになる。いや、会話ではなかった。その時既にヨゼファの声は失われていた。
*
「ほら、こうするんだ。真似してみて。」
軽く開いた唇…自らの口内を指で示しながら、スネイプはヨゼファへと言った。
彼女は喉の辺りを気にしながら、どうにか声を出そうと苦労しているようである。スネイプは溜め息を吐き、彼女の薄い腹へと掌を当てて「もっとこの辺から…」と言っては眉根を寄せて首を傾げた。
ふとヨゼファの顔へと視線を戻すと、彼女は若干驚いたように自身の鳩尾に触れるスネイプの手を見下ろしている。
二人は暫時見つめ合うが、やがて彼は「………悪い。」と言ってそこから手を下ろす。若干の気まずさを覚えながら。
彼女は首を振っては離れていくその手を握り、自分は不快に思ってはいないと訴えてくる。
掌を握り直し、ヨゼファは笑って『ありがとう、』と唇の動きだけで言った。
ヨゼファはありがとう、とよく言ってくれる。
勿論声にはならないのだけれど。こちらとしてはそこまで大したことをした覚えはない。ただ彼女には声が無いから、日常で起こる不便を少し助けているだけだ。
………お互い一人でいることが常の人間だったが、一緒に過ごす時間がいつからか多くなっていった。
最初こそ彼女はこちらを気遣って何かのやり取りをしようと四苦八苦していたが、それが逆に鬱陶しかったのでいらないと一蹴してからは雰囲気も落ち着いたようである。最近は随分と気持ちを許されているのが分かって、こちらも悪い気分ではなかった。
言葉というのは難しい。間違いなく必要で、最も手っ取り早い伝達手段なのだが。それ故に正確さを欠いて齟齬や誤解が起きやすいし、簡単に人を傷つけもする。
ヨゼファの傍は静かだった。そういったものに煩わされることがない。
(けれども、やはりその声を聞いてみたかった。)
そして…親しくなってから月日を重ねるごとに、ヨゼファとのやり取りの最中に何故か泣きたいような幸せなような意味の分からない気持ちになっていくのだ。
今でも心の底で時折、低い声が何かを囁く。
聞き取れないことが多い。けれどもそれはヨゼファの名前を呼んでいる気がした。彼女のことを探している。ずっと……
*
ヨゼファは、最近朝起きるのが然程憂鬱では無くなった。
………友達が出来たのだ。
まさか学校に入学して既に数年経った今、新しい友人に恵まれるなんて。ほとんどそれは絶望的だと諦めていたのだ。声を失ってからは尚更…
(少し難しいのは男の子だってこと……。)
人見知りな性格とこのどうしようもなく声が出ない性質故に、どうもコミュニケーションが覚束ない。そして言葉で好意や感謝を伝えられないのが申し訳なかった。
(でも、無理にやり取りをしようとすると煩がるからね。)
彼は自分の負担を減らしてくれたんだろうな。とヨゼファは分かっていた。
声が扱えないのは本当に不便だ。授業への参加は元より、自分が喋れないと分かると人々はすぐに離れていってしまう。面倒だと思ったり、会話出来ないことにつまらなさや気まずさを感じたりで。それだけ言葉というのは人間の生活の中で大きな役割を担っている。
だから、話さなくても良いと言ってくれる彼の存在は有難かった。それでも傍にいてくれることが本当に嬉しかった。
『おはよう。』
口の動きだけで挨拶をすると、彼は非常に不機嫌そうな表情で頷いて応える。……朝が弱いらしい。
並んで歩くと、時々手の甲が触れたりする。それが最近のヨゼファには気恥ずかしく、なんとも言えない気持ちになった。
………どうにもその傾向が顕著だ。スネイプのことは勿論好きだったし、ヨゼファ自身は勝手に友達だと思っている。
それでも、何故か今更他の人といるよりも緊張するようになってしまった。不意に授業中目が合った時などは、顔面めがけて血液と熱が集中していく音を脳の内側に聞いたくらいである。
少し、二人の間に距離を取る。前まではそんなことはなかったのに、近付き過ぎるとなんだか苦しいのだ。
……スネイプはそんなヨゼファのことを訝しげにじっと見つめる。
それから離された距離を詰めてはまた歩き続けた。ヨゼファは胸中で一際大きく波打った心臓の上に手を置き、それを誤魔化す為いつものように愛想の入り混じった笑みを浮かべる。
*
おかしい、
スネイプは苛立ちを覚えていた。
最近のヨゼファの様子はどう考えてもおかしかった。
(距離を取られている。)
愛想笑いされる機会も随分と増えた。あの笑い方は好きではない。あれは彼女が心の内側を見せまいと堪えている時の表情だからだ。
そんなことを考えていると、石の回廊…中庭を挟んだ向こう側をゆっくりと横切って行くヨゼファの姿が目に入る。
初夏の風に煽られて、長い灰色の髪が揺れているのが分かった。
瞳を細めて強い視線を彼女へと送る。甲斐あってか、ヨゼファもまたこちらに気が付いたようだった。驚いたのか、抱えていたバンドで留めた本を取り落とす。……明らかに、ひどく挙動不審である。
彼女はそれを大急ぎで拾い上げ、再びスネイプへと視線を向けた。そして自らの右を見て、左を見て……回廊を周ってこちらへと歩もうとする足の踵を返し、元来た道を走って戻り始める。
「なっ、」
思わず彼は声を上げ、当然ながらそれを阻止する為に同じように走ってヨゼファが逃れようとする方向へと向かった。
石の回廊は音を吸収せず、スネイプの乱れた足音が四方に反響する。
くそ、と悪態をついてヨゼファの方へ更に疾走した。しかし全力で走るのに中々廊下が突き当たってくれることがない。こんなに長い通路だっただろうか。
中庭を挟んだ向こう側で走るヨゼファは、既に先ほどいた場所から随分と距離を開けていた。
そう言えば…ヨゼファは確か足が速かった。反対に自分はむしろ遅い部類だ。再び悪態を吐こうとするが、息が上がっている所為でそれは難しい。
ようやく回廊が突き当たり右に折れた時だった。慣れない全力疾走の所為か、スネイプは足を滑らして綺麗に横転した。
既に回廊から脱出するアーチへと差し掛かっていたヨゼファは…二人は丁度同じ通路に差し掛かった時だった…音に反応してこちらを振り向き、慌てて方向を転換して彼へと駆け寄った。
やはりヨゼファは足が速い。瞬く間に近くへと至り、一通りオロオロとしてから床に蹲るスネイプの傍に膝をついた。
「触るな…っ、!!」
無様に転けた気恥ずかしさと痛みが相まって、スネイプは思わず声を荒げて自分へと触れてこようとする彼女の掌を振り払った。
ヨゼファは驚いて固まり、眉を下げて声なく謝る。「謝って欲しいわけじゃない、」とスネイプは半ば泣きそうになるのを堪えて逆に彼女の両手を掴み直した。
「どうして逃げるんだ!!僕はお前に何かをしたのか!!?」
情けなさと共に、また心の奥底では低い声と共に寂しさとも悲しさとも分からない感情が蠢いて、訳が分からない気持ちになる。
ヨゼファへと詰め寄り、ほとんど顔が触れるほどの距離に至る。咄嗟に身体を退かれるのが苦しくて、「くそ」と乱れる息の中で今度こそ悪態を吐いた。
「畜生、なんだ!?僕がしてきたことは結局ヨゼファにとって迷惑にしかならなかったのか、そんな…!!折角、ようやく……っ、今度こそって…僕は、、」
まとまらない言葉で怒鳴り、何が言いたいのか分からなくなって声は尻すぼみになる。それと同時に身体の緊張も弛緩して、ヨゼファの腕を掴んでいた掌は下へと降りていく。
今度は逆に、両手を握られた。発作的にそれを拒否しようと力を込めるが、ヨゼファが決して離さないのでそれが叶わない。……意外と力が強い。
視線を合わせると、ヨゼファは応えるようにこちらをじっと覗き込む。そして今一度、『ごめんね。』と謝った。
彼女はスネイプの右掌の内側へ、そっと色の悪い指を滑らせる。最も彼も血色の悪い少年だった。アーチから斜めに差し込む金色の光に照らされて、薄暗い回廊に蹲る二人の皮膚色は変に浮き上がっている。
ヨゼファはゆっくりとそこをなぞって文字を、言葉を伝えてきた。
途中途中で声を詰まらせるように動きを止め、悩みながらも少ない単語で気持ちを伝えてくる。
そこにじっと意識を傾けていたスネイプは、小さく息を吐いた。
(ずっと…変わらない。) ヨゼファはスネイプの掌から指を離して、所在無さげに目を伏せた。顔色はいつも通り色味がないのに、灰色の髪から僅かに覗く耳の色だけが異様に赤く、何かの病気のようだった。彼女の色濃い緊張がこちらにまでよくよく伝わってくる。
(ずっと、ヨゼファは変わらない……。)
(同じ言葉を、)
(いつでも私にとって初めての言葉を) 今、この灰色の石床に下って斑らの跡を残す涙の理由に心当たりがない。
それでも自分が生まれて初めて誰かにとっての特別になれたことは…きっと嬉しかったのだと思う。
彼女は先ほどまで拙い愛情を伝えてきた指先でスネイプの涙を拭う。
笑っていた。自然に笑ってくれる時の彼女は目尻にクシャッとした皺が浮かぶことを知っている。
『でも、気にしなくて良いの。』
『私のこと、どうか気にしないでね。』
ヨゼファは柔らかい表情で、声のない言葉を掌の中へと連ねていった。
そこを繋ぎ直し、スネイプは立ち上がる。ヨゼファも引っ張られるようにして一緒に。
「僕は……。」
ゆっくりと再び歩き出しながら、彼はポツリと呟く。ざわざわと中庭の木立が揺れた。それにかき消されるほどに小さな声で。
「僕は、好きでもない人間に構うほど暇じゃない…。」
それきり唇を結び、ヨゼファのすぐ隣に並んだままでスネイプは歩を進める。
言った後、堪らなく緊張して震える指先で思わず口元を覆った。
(まだ、)
(今はまだ。)
(これで許して欲しい………)
風に煽られて揺れるヨゼファの灰色の髪をぼんやりと眺めながら、スネイプは深呼吸をする。それから「髪、」と彼女のそこを示しながら再び口を開いた。
「切った方が良い。多分…短い方が似合う。」
ヨゼファは話題が唐突だった所為か不思議そうな表情をするが、すぐに曖昧に笑って顔を伏せる。
「髪を伸ばしてたって母親になれるわけじゃない。元々顔が全く似てないんだ、考えれば分かるだろう。」
言葉を追い打つと、彼女は笑みを困ったようなものに変化させた。
「違う。別にお前のことを傷付けたいわけじゃない。………逆だ、ヨゼファの方がずっと綺麗じゃないか。」
ヨゼファは面食らった表情でスネイプのことを見つめ返す。
それから困ったような笑顔のままで視線を泳がせて、空いている方の手で長い髪にぺたりと触れた。
「……短い方が似合う。」
もう一度同じ言葉を繰り返し、スネイプは隣に立つヨゼファの手を握る力を強くした。
更に強い力で握り返されるので痛いと思う。掌ではなく胸が。
身体の内側では、ずっと誰かがヨゼファのことを呼んでいる。
お題メーカー様より『目が合うと顔が赤くなってしまう』で書かせて頂きました。clapprev|
next