骨の在処は海の底 | ナノ
 閉ざされた世界

 触れないで欲しい。

 けれど傍にいて欲しかった。

 いつもその一言に尽きた。



 夜、ベッドで眠っているヨゼファのことをスネイプは見下ろしていた。


 ここは彼女の私室である。

 招かれたわけではない。いつでも唐突に、この時間…深夜…この場所へと足は運ばれる。

 下された鍵は教室の入り口にただひとつ。しかしそれも一年生が扱えるような解錠の呪文で簡単に無効化出来た。無人の教室を過り、彼女の個人的な作業場兼私室へと至り、最後の扉のノブに手をかけ…この部屋へと空間は開かれる。


 別に何をするわけでもない。ベッドの脇に立ち尽くし、ヨゼファが女性にしては長身な身体を丸めてシーツへと沈んでいる有様を見下ろして…暫時が過ぎていく。


 顔は見えない。こちらに背を向けている。

 腕を伸ばして、襟口から覗いている頸から首にかけてを触れた。冷たい。

 最早正常な人間とは言い難いほどに彼女の体温は低かった。ほとんど異常である。何かがおかしい。

 ヨゼファは自分に何か隠し立てをしているのではないだろうか。右胸から肩にかけて刻まれた闇の魔術の痕跡が、徐々に確実に広がっているのを知っている。


(………愛されているのに。)


 彼女にどれだけ気持ちを傾けられているのか充分に理解している。

 それでも時折、突然手を離されるのではないかと不安になった。


 ヨゼファのベッドに片膝を乗せると、体重をかけた分だけ沈んだマットがミシと鳴った。

 身体を屈めて、その冷たい頸に額を押し付けた後に唇で触れる。……塞がり切らない咬傷がはっきりと浮かび上がっている様を、目を細めて眺めた。

 乱暴なことしかしていない、と改めて考える。

 身体を屈めたまま、ゆっくりと自身の重心を床についた右足からベッドの上に乗る膝へと移動させた。

 布が擦れる冷たい音がする。ほとんど倒れるように白いシーツへと身を横たえ、ヨゼファの背中から腰へと腕を回した。

 頸へと顔を埋める。冷たい、と強く感じて堪らなくなった。早く…早く自分の熱を彼女の身体に伝えて温めなくては、この体温の低さではヨゼファは死んでしまう。空恐ろしくなって抱く力を強くした。


「んー……、」


 ぼんやりとした呻き声が上がる。

 ヨゼファが起きたらしい。しかし…彼女は暫時動かずにじっとしていた。

 やがてその腹の辺りに回していた自分の手の甲に、冷たい指先が触れてくる。掌を重ねられた。撫でられている。


 最初……ヨゼファがアズカバンから帰って来て数週間ほど経った頃だろうか。その頃は彼女もスネイプの行為に驚いていたが、最早これは珍しいことでもなくほとんど習慣になっていた。

 彼女が寝返りを打ってこちらへと向く。眠たげな半眼のままで、「どうしたの…?」と尋ねられた。


 黙っていると、ヨゼファは欠伸をひとつしてから「そう。そっかあ…。」と掠れた声で呟いた。

 鼻先が触れ合うほどに二人の距離は近い。彼女はこちらへと腕を伸ばし、いつものようにしっかりと抱き寄せてから髪を撫で背中を軽く叩いてくる。

 嘆息して頭を胸に預けてから瞼を下ろした。

 自分の皮膚が触れた箇所から、ヨゼファの身体が温められていくのが分かった。

 瞳を閉じていると、二人の肉体の境目も分からなく混ざり合っていくような気持ちになる。

 いっそのことそれで良いとも思う。

 そうであれば、決して…二度と離されることは無いのだから。



* * *



 自分のことを、体温が低い人間だと思っている。

 小さい頃からそうだが、最近はそれもひとしおだ。掌の冷たさに、うっかりと触ってしまった生徒に声を上げて驚かれることもしばしば。


 起き抜けに計測した体温は、既にまともに生活出来ているのが不思議なほどに低い。

 ………まだ誤魔化しが効く範疇だ。だが、これが明らかに異様な数値となる日も近いのだろう。


(寒いな、)


 ヨゼファはなんとなく考えた。けれどいくら着込んでもこの冷たさが皮膚の内側に付きまとう。


(私の身体、一体どうなってるんだろう。)

 
 下着の下から覗く胸元、なだらかな乳房の上に描かれた魔法陣を指でなぞった。

 血液の魔法陣を使用する度に身体には黒い図象が刻まれていく。

 その度、失った血液を補うように別の何かが体内を満たしていくのが分かった。この異様な身体の冷たさの原因はきっと、いや間違いなくそれだ。

 だがヨゼファは別段この傷痕を忌み嫌っているわけではなかった。


(痕は、人がそこに生きていた証だから。)


 この学校に施した自分の血液が、確かに魔術を帯びて存在している。

 いつか訪れる日に備えて。最悪の日を待ち望んでいる。


(どんなものであれ。私、生きる理由・・・・・がずっと欲しかったんだもの。)


 ………ただ、夜が辛かった。

 夜になると、身体の内側と外側双方から氷のような冷たさが押し寄せてくる。元より浅かった眠りは更に浅くなった。


 身体を丸めてベッドの中、寒さに耐えていると…凍えるような冷たさがふいに楽になる時がある。

 安堵して、ゆっくりと夢の浅瀬から現実へと起き上がっていく。


 身体に腕が回っていた。

 肩口に感じる彼の額や、背中にピタリと寄せられた皮膚の暖かさにしばらくの間動かずに感じ入った。


 ようやく寝返りを打ち、スネイプへと向き合ってはぼんやりとした口調で「どうしたの…?」と一応の質問をする。

 大体返事がないので、「そっかそうか……。」と適当な相槌を打ってはこちらからもその温かい身体を抱き返した。


 背中に腕を回して暫くそこを撫でたり叩いたりしていると、彼の緊張が解けて身体を預けられていくのを感覚する。

 自らの胸元へ彼の頭を招き、軽く数回撫でてから今一度眠るのが毎度の順序だった。

 互いの皮膚の触れた箇所から体温が混ざり合っていくのが心地良くて、少しだけ微笑む。


 この夜だけだった。

 この夜だけが、彼にただ抱き締めてもらう夜の一時だけが、身も凍るような冷たさから守ってもらえる時間だった。

 頼ってくれてありがとう、といつも思う。


 そう……。母親に望まれなかった自分は、いつでも生きる理由を探していたのだ。

 必要としてもらえるなら誰でも良かった。愚かな娘だと、少女の自分を想う。


(でも、責められないわ。且つての私あの子だって苦しんでいた。)


 そうして犯罪者に身を窶して、今は肉体を削って禁じられた魔術に骨肉を捧げている。

 一度も正解した覚えがない。盲目な希望生きる理由に縋って、間違いしか犯さなかった。


(けれど今は貴方がいてくれるもの。……貴方が私を必要としてくれるから、私は長い悪夢から少しずつ逃れ始めようとしているのよ。)



 生まれてきてくれてありがとう。

 貴方、生きてくれてるだけで良いのよ。



「私はもう…それ以上、望まないから……。」


 自分の腕の中で微かな寝息を立てている彼を抱きしめる力を強くする。黒い髪を顎で撫でた。柔らかい髪質が皮膚へと触れては過っていく。


「………思うように生きて。」


 呟きながら、胸がひどく痛んだ。いつでもこの胸は痛いままで……


「幸せになって欲しいの……。」


 声が掠れているのは、起き抜けである為ではない。

 夜が。また考える。夜が、この夜が永遠に続けば良いと。







「僕も貴方に付いていく、」


 ホグワーツの八階に軟禁されていたシリウスを救い出し、バックビークと共に更に高く…ホグワーツの中で一番に高い位置にある天文台へと至ったところだった。

 一刻の猶予もなくここから去らなくてはならないシリウスに、ハリーは言葉をかける。彼の黒い瞳をまっすぐに見つめて。


「………………。ハリー、」


 暫しの沈黙の後、シリウスはハリーへと語りかけた。彼もまた、こちらから視線を逸らさずに真っ直ぐに見つめ返してくる。


「それはあまりにも危険だ。そうして、君はまだホグワーツで学ぶべきことがある。」


 ハリーに言い聞かせるように、彼は双肩に掌を置いて静かに言葉を続けた。


「大丈夫だ、いつかまた必ず会える。」

「本当に…?」

「本当だ、嘘はつかない。」

「僕は嬉しかったんです…。僕に…僕と、一緒に暮らそうと言ってくれた人はここの先生以外で貴方が初めてだったから。」

「ここの…ホグワーツのか。私が知っている先生かな。」

「若い先生だから…顔は老けてるけど…分からない。ヨゼファ先生、知ってますか。」

「ヨゼファ?」


 シリウスは彼女の名前を繰り返し、瞬きを数回する。

 それから大きな掌で黒くもつれた髪をわしゃわしゃとかいた。


「ヨゼファって……あの、顔が老けてる。」

「そう、そうです。顔が老けてる。」

「ちょっと老けてる老けてる言い過ぎでしょう…!女性に対して失礼よ、」


 黙って二人の会話を見守っていたハーマイオニーが小声で口を挟む。


「瞳が青くて、背が高い…」

「……それで髪は灰色で。魔法図象学…魔法陣を僕たちは教えてもらっていて、」

「ヨゼファがここにいるのか!!?」


 神妙だったシリウスの顔がパアッと明るくなり、ハリーの双肩を掴みなおしてくる。

 頷くと、彼は掌をバチンと打ち鳴らして「ヨゼファが教師!?先生なのか…!」と声を抑えることもせずひとしきり笑った。

 その様子に、ハーマイオニーが焦ったように唇に人差し指を立てては静かにするように促す。


「ヨゼファ先生か…。なんだ、あいつに教師なんか務まってるのか?」

「務まり過ぎて困ってるくらいだわ、無事に逃げ果せたいのならもう少し静かにしてもらえます?」

「いや、すまない。彼女を貶しているつもりはないんだ…そうだな、考えれば考えるほどに適職だ。合っていると思う。」

「先生を…ヨゼファ先生を、知っているんですね。」


 ハリーが尋ねると、シリウスは頷いて答える。

 そして懐中から小さな書籍を取り出した。革張りの使い古された本だった。背表紙に聖書バイブルの表記がある。

 彼が聖書なんて持ち歩いているのか、とハリーは意外に思ってそれを眺めた。シリウスは親友の息子が言わんとしていることが分かっているらしく、「そんな柄ではない、」と笑って応対する。

 ふとハリーがその表紙に視線を落とすと、どこかで見覚えがある魔法陣が描かれているのが目に留まる。……もしや、と思って視線を書籍からシリウスへと戻した。


「ヨゼファ先生の、連絡先アドレス。」


 この魔法陣を、ホグワーツに入学する直前…二年前に彼女から渡された。

 シリウスはそうだと頷き、表紙を開く。中には黒く四角い穴がぽっかりと口を広げていた。


「これは本に見せかけた彼女の双子匣だ。ふたつの匣は通じ合っていて、この中に入れたものはヨゼファに届き、またヨゼファも双子匣を使用して私にものを届けることができる。……匣に収まるくらいの、小さなものだけだが。」


 彼はパタンと匣を閉じ、またそれをいたく大切そうに懐へとしまった。


「最も見つかって奪われると厄介だ。獄中で使う頻度はごく最小限に抑えていたが…それでも今回の脱獄が成功したのは、匣を使用して必要な情報と物資を常に与えてくれた彼女のおかげだ…。………理由も聞かず、二つ返事で助けを聞き入れてくれた…。」


 シリウスはほとんど溜め息のようにしながら呟く。伏せた瞳が心なしか濡れていた。


「…………あの。すみません…。それではシリウス…さん、とヨゼファ先生は随分昔から、アズカバンに入る前から仲が良かったんですか。」


 ハーマイオニーが遠慮がちに口を開いては尋ねる。それにシリウスは「いや、」と短く返した。


「アズカバンに入る前にヨゼファと接点があったのは学生時代だ。寮が異なる同級生だったが…仲が良い訳ではなかった。どちらかと言うと。彼女と真実に分かり合ったのは獄中、アズカバンでだ。」

「アズカバンで。ヨゼファ先生が…?」

「そう、彼女には獄中で一緒だった時期にいたく世話になった。……ほとんど命の恩人だ。」


 シリウスは昔を懐かしんでいるらしく、その声はどこか掠れていた。

 しかし彼の感傷に反して、ハリーとハーマイオニーの心には言い知れぬ嫌な予感がそろそろと這い寄ってきていた。

 二人は顔を見合わせる。……互いに、ひどく青い顔をしていた。


「あ、あの……獄中で一緒って、」


 ハリーが恐る恐る、その懸念を払拭するためにシリウスへと質問した。どうか自分たちの思い過ごしであってほしい、そう願いながら。

 
 シリウスもどうやら二人の様子がおかしいことに気が付いたらしい。

 ハッとしたように口に手を当て、彼は口を噤む。


「………知らなかったのか…?」


 囁いて尋ねられた。一陣の風が、三人のすぐ傍を冷たく通りすぎていく。

 ハリーとハーマイオニーは黙っていた。何を・・自分たちは知らないのか二人には分からない。

 ハーマイオニーがほとんど無意識にハリーの掌を握ってくる。その緊張が、こちらにも痛いほどに伝わってきた。


「すまない、なんでもなかっ「………なんでもなくないです。」


 シリウスの言葉を遮って、ハリーは追求する。彼の瞳を先ほどと同様に真っ直ぐに見つめた。

 三人は口を噤む。暗闇の中で鳴き渡る猛禽類の声が、明るすぎる星空の下で響くばかりだった。


「…………………。ヨゼファは。」


 シリウスがゆっくりと口を開く。ハリーはヨゼファの顔を思い描いていた。楽しそうに、幸せそうに、少し困ったように…そして穏やかに。いつでも笑っていた彼女の顔を。


「アズカバンで五年間、刑に服していた。」

「なんで?シリウスみたいに無実の罪で…?」

「いや。詳しくは知らない。」

「お願い、嘘をつかないで。貴方が真実を話してくれないと、僕たちは大切な先生のことを信じられなくなってしまう。」

「詳しく知らないのは本当なんだ。ヨゼファが私のことを聞かないでいてくれたように、私もまた彼女に多くを尋ねようとは思わなかったから…。」


 彼は何かを思考するらしく口元へ指を持っていく。そして言葉を続けた。


「ただ…闇の魔術に深く立ち入り過ぎた、ということだけは噂で聞いた。」


 シリウスはポツリと呟いた。

 彼は今一度ハリーへと向かい合い、その双肩へと掌を乗せた。大きくて分厚い掌でしっかりと肩を掴んではこちらへと向き合う黒い瞳の中に、眩しい星明かりが反射している。


「でも…ハリー。どうか彼女のことを悪い魔女だと思わないで欲しい。もしも君がヨゼファのことを信じてくれていたなら、それは決して間違っていないのだから。」


 ハリーはシリウスの黒い瞳の中をじっと覗き込む。


 ヨゼファは……。自分のことを決してハリーに話してくれなかった。

 一体彼女の昔日には何があったのだろうか。ハリーが知るヨゼファはまるで人が好すぎる苦労人で、笑顔が抜けていて、少しだけ人を驚かすことが好きなただの・・・先生だった。犯罪に手を染めるなど考えられない。

 シリウスのように冤罪に違いなかった。そうだ、そうとしか……


「………うん。」


 ハリーは応える。分かった、と続けて。


「僕はヨゼファ先生を信じるよ…、ハーマイオニーも勿論。貴方のことを信じているように。」


 シリウスは何故か驚いたらしく、ゆっくりと瞬きをした。暫時してから笑い、「良い目だ、リリーと同じ優しい瞳をしている。」と呟いては何回か頷く。


「きっと何かの間違えだったんだよ。だってヨゼファ先生は悪い人じゃない…。善い魔女だ。沢山大切なことを教えて、優しくしてくれた。」

「そう、そうなんだ…!!ヨゼファはすごく優しい、本当に…!」


 シリウスはハリーの肩を掴む力を強くして、何度も頷いては笑みを深くする。

 やがて彼は親友の息子から手を離し、その掌で軽く目元を拭った。
 

 ハリーは…自らの想像が及ばない過酷なアズカバンの獄中で、ヨゼファとシリウスに一体どんな繋がりがあったのかと考えた。

 分からないこと、教えてもらえないものが多過ぎて、知ることが出来たのは知らなければ良かった物事ばかりである。

 けれどいつかのヨゼファの言葉のように、ハリーは自分が憧れる美しいものと善いものを信じていたかった。名付け親の目尻をほんの僅かに濡らした光を眺めながら、そう考えた。


 そうして…ハリーとハーマイオニーはシリウスに暫しの別れを告げる。

 力強く抱擁されたのが嬉しくて、ハリーもまた彼のことを強く抱き返した。


 青い夜空へと離れていくシリウスとバックビークを見送りながら、ハリーは自然とハーマイオニーの掌を握ってしまった。彼女はそれを驚かずに…やがて強い力で握り返してくる。

 一人と一羽がいよいよ見えなくなった頃、ハーマイオニーはゆっくりと面を伏せた。その白い顔へと、夜の青い闇が深い陰を落とし込んでいる。


「………大丈夫だよ。」


 彼女の心に泡のように浮かび上がってくる不安をよくよく感じ取って、ハリーはポツリとそう零す。


「大切なのは、信じることだから…。」


 その言葉にハーマイオニーは応えない。けれどハリーは繋がった掌を離さないままにした。自分にも言い聞かせるように、同じ言葉を繰り返して。







 バックビークの背の上から、シリウスは遠ざかるホグワーツの景色を目を細めて眺めていた。


「そうか、」


 自然と唇が言葉を呟く。そのままで、我慢出来ずに口角が上がった。


「ここにいるのか。……ヨゼファ。」


 声が掠れて、彼女の名前をうまく呼べなかった。


 樹々の梢を掠めて空へと更に高く飛べば、息が寒さに白く凍る。氷の欠片に似た冷たい星が、巨大な空を万華鏡の底のようにゆらゆらと揺らして泳いでいた。

 それを仰ぎ見て青い闇の中で深く呼吸をした時、シリウスは…ようやく、自分はあの黒い塀の中から抜け出したのだと深く感じ入ることが出来た。


 …………本当に、と思う。

 
(ずっと…………。)


 会いたかったのだ。

 彼女の存在が、理不尽で不毛な行いばかりを積み重ねた獄中での支えだった。

 全て・・が終わったら必ず探し出し、会いに行きたいと願っていた。それは随分先になると思っていたが……


(ここに、いたのか。)


 それならば会える日はそう遠くはない。

 ハリーもまた彼女のことを知っていた。自分の親友の…彼と同じくらいに…大切な息子のことを大事にしてくれている。それを思えばより一層言葉に表せられない感慨が胸の奥に突き刺さり、何かが湧き上がってくる。


 気持ちを許すきっかけとなったのは、本当に些細なことだった。

 然しながら行為の大小は問題ではない。彼女がこの自分に・・・・・行った事実を考えるべきだった。

 老人のように痩せ細った腕、肉が落ちた顔、そしてその中で青く光るヨゼファの瞳を今でも鮮明に覚えている。


(嬉しかったんだろう…。)


 親友ピーターに裏切られたにも関わらず、よりによってヨゼファに救われるなんて。


 人生は思いがけない方向に転がされて絶望を強いられるものだが、絶望の中にこそ最も強い希望の灯火が存在することは確かだった。

 だからきっと、獄中で過ごした辛痛の日々は無駄にはならない。希望を知ることが出来たのだ、充分に報われている。

 そうして何にも遮られない星空の快活な美しさを…広大な世界を、これ程に深い感動と共に覚えることが出来たのだから。


「そうじゃないのか、ヨゼファ…!」


 もう一度彼女の名前を、この星空の美しさを自分と同じように噛み締めたであろう人物の名前を呼んだ。

 青い夜の中、ほんの先ほどまで同じ建物の屋根の下にいたのだ。最早再会を待つことが出来なかった。


 もうすぐ会える、


 繰り返し考えるほどに心底嬉しくて、シリウスはバックビークの背中で今一度大きな声を上げて朗笑した。







 思い返すほどに、黒々とした気持ちになった。

 スネイプは何度目になるか分からない盛大な舌打ちをしてから、我慢出来ずに廊下の壁を殴りつける。

 ………傍に引っかかっていた絵画の中の貴婦人が悲鳴を上げて飛び起きては、バタバタと走って隣の額縁の中へと逃げていく。


 それを目で追ってから、スネイプは再び石の床を硬い靴で叩き、黒いローブを翻して歩き出した。


 夜の闇は色濃く、装飾的なアーチから覗く空の色もまた深い青色である。その中を、針の先のように鋭い光を帯びた星がばらまかれていた。


 星空は嫌いだった。空気が澄んで、遠くまでを見渡せるようなこんな夜は特に。


 …………昨晩、ようやく昔日の怨みを果たしたと思ったのだ。

 しかし陽が昇ればあの忌々しい畜生は消え失せており、更にはその罪もまた猶予される可能性が高いと言う。


 校長から、お馴染みの眠たくなるほどに穏やかな口調で諭されるように真実を聞かされた。

 彼がその細いかいなを回せば、恐らくシリウスに対するアズカバン側の急追も勢いを逸していくのだろう。

 無罪で十年強も監獄で過ごした彼の過去は同情に値する…


(………わけがない………っ………っっ!!!!!!)


 今一度、夜の闇に浸された石壁を殴りつける。奥歯を噛み締めていた所為でこめかみが攣って痛い。


 そうして、自分はリリーのことをさておいてもあの畜生が嫌いなのだと改めて考える。今更ながら。奴の傲慢さはつくづくジェームズを思い出させる。 


(あの男…………)


 受けた辱めを忘れるわけがない。大切なものを奪った怨恨をずっと覚えている。惨めすぎる感慨と共に。


 充てていた拳を、壁からズルリと降ろす。ザラついた石面が皮膚をこすっていく所為で弱い痛みを感じた。

 ふと、妙な感触を覚えて掌を見る。


(濡れている、)


 黒い液体で手の甲が汚されていた。眉を顰め、先ほどまで触れていた壁を見る。


 息を呑む。


 夜の闇の中、それよりも更に黒い液体が壁面を縦横無尽に走って穢していた。

 秘密の部屋の再来かと思った。だがあの時のように意味が読み取れる文字ではない。全くもって意思疎通がまかり通らない滅茶苦茶な記号の羅列だ。


 掌へともう一度視線を落とす。

 ……………黒くない。


(これは黒色ではない)


 もっと不吉な、


 この暗澹たる空間に深い呼吸がゆっくりと広がっていたことを、彼はこの時に初めて気が付いた。

 人間の息遣いではない。

 静寂の中、巨大な生物が闇に紛れて蠢いている。


(…………………。)


 杖を抜き、その暗闇を打ち消すために光を灯す。だがどれだけこの場所の夜陰は深いのか。普通の光ではそれを追い払うことが出来なかった。

 更に光を強くして、辺りを警戒しながらその気配を探る。

 
 壁に描かれた図象から血液が滴り落ちていく。一筋、二筋。歪んだ頬を滑る涙のように、母親の乳房から溢れる白い乳のように。

 …………その意味不明な記号の羅列に、見覚えがあった。


 まさか、


 思い当たって再度息を呑むのと、彼女・・を発見したのは同時である。

 一際多量の血液がベタリと一面を汚した壁の下、垂れていく赤い液体がヨゼファが横たわる場所を示していた。


「ヨゼファ、」


 思わず喉の奥で引き攣った音が鳴る。

 寝ている時と同じように、膝を折って身体を丸めている彼女の元へと走って辿り着いた。

 肩を揺すり、名前を呼ぶ。…………身体が冷たい。冷た過ぎる。死んでいるのか、とその可能性に心が強く恐怖した。


 「……………血を、」


 すっかりと色が失せたヨゼファの唇が戦慄いて単語を漏らす。血を、と思わずスネイプも同じ言葉を繰り返した。


「血を……、血液が。………血が足りない…。」


 半眼となった彼女の青い瞳はスネイプのことを全く捉えていなかった。ただ譫言のように、血を、と声にならない声で囁く。

 血を…、スネイプもまた同じようにそれを繰り返した。

 杖先の灯りを落とす。辺りは再び夜の闇に包まれた。ヨゼファのおおよそ人間のものとはかけ離れた深い呼吸だけが辺りへと静かに響く。

 
 黒い杖を、自らの掌中に当てがった。

 鋭い痛みを感じてスネイプは低く唸る。一筋裂けた皮膚から血液を滲ませて、彼はヨゼファへと手を差し出した。


 彼女の不透明な青い瞳が、床へと血液を垂らしていくスネイプの掌を捉える。

 ヨゼファは緩慢な動作で腕を伸ばした。紙のように無機質に白いその指で、強く手を握られる。


 先ほど皮膚を傷付けた時とは異なる鈍痛を覚えてスネイプは再度低く呻いた。

 彼女の手の甲に、廊下にぐるりと張り巡らされた不可解な魔法陣と同じ文様が黒く浮かび上がる。それが色濃くなるほどに痛覚は烈しさを増した。

 腕が持っていかれるような痛みに堪え兼ね、思わずヨゼファの掌を振り払おうとしてしまった。しかし思い留まり、自らの血液を与えるままにする。


 ヨゼファは底が見えないほどに深い呼吸を一度する。「ああ…、」とその唇から艶のある音が漏れた。


 そしてそれまでのゆっくりとした動作が嘘のように、彼女はガバリと勢いよく起き上がった。

 思わず身体を引くと、ヨゼファはスネイプのことを見上げ、繋がっていた掌に視線を落とし、そうして自らの手の甲に浮かび上がる黒い文様を眺めた。…それは徐々に薄くなり、彼女の皮膚から姿を消していく最中だった。


「…………っ、セブルス!!!!」


 ヨゼファは大きな声で彼の名前を呼び、その両腕を掴む。

 驚いて何も反応出来ずにいると、彼女は更に距離を詰めて「貴方………っ、」と絞り出すように言葉を続ける。


「ご、ごめんなさい…!!!貴方、手が………血がっ……… !!」


 今まで見たことがないほどに取り乱すヨゼファを、スネイプは暫し呆気にとられて見下ろす。

 彼女は「ああ、」と言っては掌で片目を抑えて首を振った。ごめんなさい、と弱い声で再度謝られる。

 無言でその肩に手を置く。ヨゼファはゆっくりと自身の顔を隠していた掌を下ろし、こちらを見上げた。


 お互いの瞳の中を覗き込む刹那、彼女の肩を掴む力を強くする。

 ほとんど接するほどに顔を近づけた。ヨゼファの弱い呼吸が、皮膚をかすめては過っていく。


「ここで…何をしていた。」


 低い声で、一音ずつ確かめるようにして問いかける。
 
 あまりにも距離が近しい所為でヨゼファの表情が分からない。ただ彼女は動かず、何も口にしない。


「答えろ。」


 強く命じて顔を離す。暗闇の中で焦点が合って、ようやくその表情を伺えた。

 彼女は首を少し傾げ、心弱く笑った。そうして………



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