骨の在処は海の底 | ナノ
 その先へ

「---------------あら、ハリーだわ。」


 廊下で彼を認めたらしいヨゼファが愛想良く名前を呼んでくる。応えて立ち止まり挨拶をすると、彼女はこちらへと歩を進めた。


「どうしたの、土曜日なのに。皆と一緒にホグズミードには行かないの?」

「僕は…その、叔父さんからサインをもらえなくて。それで行けないんです。」

「そうだったの…。それは残念ね。」


 ハリーの言葉にヨゼファは眉を下げる。…気を遣わせてしまったかな、とハリーは少し申し訳なくなった。


「先生は今何してるんですか。…時間はあります?」

「野暮用がいくつか。でも大した用事じゃないわ。部屋に来る?お茶を用意するわよ。」

「良いんですか?」

「ハリーが良ければね。私のところに来たって面白いものは特に無いけれども。もしくは、休みの日まで先生の顔なんて見たくないかしら?」


 ヨゼファは少し悪戯っぽい表情で言う。ハリーは苦笑して、「やだな、先生…。」と呟いた。


「それじゃあ先生はそう思うんですか?休みの日に生徒の顔は見たくない?」

「意地悪な返しを覚えたわねえ。」

「先生が意地悪するから。」

「ごめんなさい。……そんなことないわよ、私は貴方が来てくれたらすごく嬉しい。」


 ハリーは笑ってヨゼファの誘いを受け入れる。嬉しいな、と思った。ホグズミードに行けないのはやはり残念だけれども。彼女と一緒にいるのは好きだった。


「部屋で待っていて。鍵は…そうね、適当に解錠呪文で開けていいわよ。」

「生徒の解錠呪文を自室に許可するのって、マズくないですか……。」

「まあ…確かにマズいわねえ。」


 そこで彼女の人差し指がすっと唇へと動いた。


「誰にも言ってはいけません。…内緒よ。」


 そう言って片目を瞑られる。青い瞳がひとつだけ、こちらに真っ直ぐ向けられていた。頷いて応える。


 ハリーは時々、ヨゼファの視線に皮膚が粟立つような冷たさを覚えることがあった。

 ただ善良な人間、というわけではないのをなんとなく分かり始めている。けれど、彼女はいつでも自分に優しかったから…ただ、好きだった。本当に純粋な気持ちで。


 * * *


 傾き始めた太陽が、オレンジ色の光を斜めにヨゼファの部屋へと運んでいた。

 向かい合って腰掛けて止め処ないことを話せば、彼女は嬉しそうにハリーの話に耳を傾ける。友達のこと、嬉しかったことにちょっとした愚痴…主にスネイプについて…を、笑ったり眉を下げたりしながら聞いてくれた。


 部屋に差し込む光と同じく透明な橙色をした紅茶を飲む最中、ふとヨゼファは顔を上げる。そして開いた窓から広々とした草原を見渡し、「随分空気が冷たくなったのね…」と呟いた。


「そうだ、ハリー。そろそろ繭から孵した雪虫たちを離そうと思ってたところなのよ。見て行かない?」

「雪虫を?」

「そうよ、今年はぽってりとした毛並みの子がほとんどだから。牡丹雪が多くなるんじゃないかしら。」


 薦められたビスケットを齧りながら頭に疑問符を浮かべていると、彼女はそれに気が付いたのか…「あら、」と呟く。


「マグルの雪虫と私たちの雪虫って違うのかしら。まあ良いわ、むしろ良い機会かも。巣立った雪虫はその季節の雪を運び終えると死んでしまうから、虫の姿で見られるのは貴重よ。」


 彼女に手招きされるままに、窓の近くの四角い木の箱の傍まで至る。

 促されてそれに耳を澄ますと、サワサワと囁くような音がした。聞いたことがある。雪が積もっていく時、耳の裏で響くあの微かな音色だ。


「あの…闇の魔法使いが天候を随分と狂わせたから。雪虫の数はとんと減ってしまったのよ。人為的な魔法で雪を降らせることも可能だけれど、そうすると雲が痩せて気候の辻褄が合わなくなるわ。なんにせよ、自然が一番なのよ。彼は人間の…魔法使いの力で世界の全てを廻そうと考えていたけれど。結局無理な話よ…続くわけがないの、そんなことは。」


 ヨゼファは授業の時と同じように、心地良い低さの…眠気を誘う声で言葉を連ねる。

 部屋の大きな窓をひとつ開け放すと、ほとんど扉くらいの大きさの空間が冷たい外の世界へと繋がった。

 彼女は木箱の、小さくこさえられた引き戸へと指をかけて開け放す。

 箱の中の暗闇から、銀色の綿埃がふわふわと舞い上がっていった。これが雪虫らしい。茜色の鈍い光の中で錫に似た光を舞い上げ、一匹、二匹、五、七、十…と連なって空へと続いていく。


「ああ、これで良し…と。」


 夕日の中へと遠ざかっていく雪虫たちを眺めて、ヨゼファは小さく溜め息をする。ハリーもまたそれを見つめながら、ポツリと呟いた。


「急に外に離されて、死んじゃったりしないかな。」

「大丈夫よ、彼らは家族だもの。皆で助け合えるから心配いらないわ。」

「そっか…。家族なんだ。」


 キラキラと真っ白い身体を斜陽の光に反射させながら、雪虫たちは楽譜スコア上の音符のように上下にゆらゆら揺れながら空へと向かっていく。その様が眩しくて、思わず目を細めた。


「……………。やっぱり、雪虫を離すと急に寒くなるわね。」


 全てが巣立ったことを確認すると、ヨゼファはそう言って窓を閉める。


「紅茶、温めなおしましょうか。それとももし良かったら夕飯でも食べに行かない。」

「夕飯?今はまだちょっと早いですよ。」

「いいのよ、移動の時間を考えたら丁度いいわ。」

「移動。」

「そう、移動。魔法陣で一気に行くのも趣がないから途中から少し歩きましょう。明日もお休みだし…」

「先生…もしかして。」

「もしかするわよ?ロンやハーマイオニーだってホグズミードで夕飯でしょう。貴方だけ学校にいるなんてつまらないじゃない。」


 そう言ってヨゼファは青白い掌をこちらへと差し伸べる。

 ハリーが戸惑ってその手を掴まずにいると、彼女は「なあに、」とおかしそうに首を傾げた。


「いつも平気で規則を破るのに、変なところだけ真面目。」

「そんな…そんなに沢山、破ってるわけじゃ。」

「あら、そうだったかしら。どうも貴方のお父さんと同じイメージを持っちゃうわ…。」

「えっと、僕の父さんはそんなにも規則を」

「まあー…破ってたわ。ホグワーツ始まって以来の問題児よ。……でも、不思議と人を惹きつける力があったのよね。だから先生たちも笑って許しちゃうことが多かったわ。」


 懐かしむようにしてヨゼファは言う。

 ハリーの父や母について語るとき、いつも彼女は優しい表情になる。

 ヨゼファ自身は否定しているが、きっと二人と彼女は仲が良かったのだろうとハリーはいつも思っていた。その想像は、彼のことを幸せな気持ちにさせる。


「他の先生に見つかったら、ヨゼファ先生が責任取ってくださいよ。」

「当たり前じゃない。ほら、怖がらずにいらっしゃい。」


 ヨゼファの手を握ると、ひんやりとした皮膚の温度を感じる。彼女は嬉しそうに目を細め、「いい子ね、」と囁いてはハリーの頭を撫でた。







「お腹いっぱいになった?」


 小さなレストランからの帰り道、ヨゼファは隣を歩くハリーへと尋ねる。

 彼は笑って、「それはもう…」と返した。


「それなら良かった。ハリーはスマートだけれど、結構よく食べるのね。」

「そうですか?…普通の量だと思います。」

「貴方たちの年ならね…。良いと思うわ、沢山食べる子は好きよ。」


 そう言う彼女の唇からは、白くなった息がふうと空へと立ち昇った。


「というか先生、ご馳走してもらってすみません。」

「相変わらず礼儀正しいのねえ。私が付き合わせているのよ?でも他の生徒には内緒。」


 またヨゼファは、「内緒よ。」と悪戯っぽく繰り返しては唇に人差し指を当てた。

 これは、この図象学の教授がよくする仕草である。それを見る度にハリーは嬉しかった。もしかしたら他の生徒にも言ってみせているのかもしれないけれども。…それでも、彼女にとって特別であることは幸せだった。


「どうして…、」


 幸せな気持ちのままで尋ねてみる。今以上の幸せをねだるのは少し気が引けたけれども…それでも、今夜は最高の気持ちで眠りにつきたかったから。


「どうして先生は、僕に優しくしてくれるんですか。」

「…それは……なんて言えば良いのかしらね。……土曜日、皆がいなくなってしまった学校に一人でいる貴方を放ってはおけないわよ。」

「それだけじゃないよ、先生は。普通、先生ってだけで生徒を自分の家に引き取ろうだなんて言い出さない…。どうして。僕のお母さんとお父さんと仲が良かったから?」


 まとまらない言葉で質問を続ける。

 彼女は青い闇の中、前方を見つめながらもハリーの言葉に耳を傾けていた。


「………………。何故かしら。」


 ヨゼファは小さな声で呟いてから、彼へと斜めに視線を下ろす。夜の闇と同じ深い藍色の瞳が真っ直ぐこちらへと向けられた。


「私にも、不思議。」


 そう言ってヨゼファはハリーの黒い髪をクシャリと撫でてみせる。

 ……………はぐらかされた。

 彼女はにこりと笑って歩みを進める。その輪郭を、雪虫のように細かい星の光が銀色に照らしていた。


 背が高いヨゼファと並んで歩くと、身長の差をよくよく感じる。

 見上げて、交わらなかった視線を今一度落とし、鉛筆で塗り固めたように黒光りする石畳を眺めた。

 ふと掌が触れ合った。……冷たい、と驚いて反射的に手を離す。ヨゼファは笑って一言謝罪した。


「ねえ先生…」

「なあに?」

「先生は…僕の父さんと母さんと、どんな話をしていたの。」

「ふふ、二人になると貴方はいつもご両親について尋ねてくるわね。」

「それは…」

「それはそうよね、当たり前だわ。でもごめんなさい…私は彼らとそこまで仲良くなかったから。まともな会話はしたことないわ。」


 またそんなことを言う。とハリーは思った。ハリーには、自分の父母とヨゼファが親密でないとはどうしても思えなかった。彼らのことを自分へと聞かせる彼女の表情はいつも穏やかだし、二人がどんなに素晴らしい人間だったのかをよくよく話してくれる。

 そして、ハリーに優しかった。

 二人の親友であったならば、自分に入れ込んでくれる理由も理解できると言うのに。


「じゃあ…ヨゼファ先生は誰と仲が良かったの。スネイプとか?」

「先生をつけてあげなさいな…。そうね、彼とも別にそこまで。」

「それじゃ他の同級生?」

「どうかしらね。」

「………………。先生は、自分のことを全然話さないね。」

「話せるような面白い話がないのよ。」


 自分が思った返答がなされないことに、ハリーは悲しい気持ちになった。

 彼が口を噤むと、ヨゼファはハッとしたようにこちらを見下ろす。


「あ、ごめんなさい…。なんだかぼーっとしていて。」

「………大丈夫だよ。先生、疲れてた?」

「ううん、全然疲れてないわよ。……ただ、あの頃…私が学生の時は時代が時代だったの。闇の魔法がかつてないほどに強大な力を持つようになって、みんな常に怯えながら生活していた。思い出すとなんだかぼんやりとするわ…。」


 彼女は立ち止まって、針の先に似た鋭い光を落とす青い星空を見上げた。

 そうして自らに巻いていたストールを解き、ハリーの身体にしっかりと巻き付ける。良いです、先生が風邪を引いてしまう。と遠慮するが…ヨゼファは、寒くないの。の一言を返すに留まる。


「ヴォルデモートが生きていた時代って、どんなものだったんですか?」


 並んで歩きながら尋ねると、彼女は瞬きを数回してこちらを見る。ハリーは言葉を続けた。


「シリウス・ブラックがアズカバンから脱走したこと、知っていますよね。僕を殺すために…そしてあいつの力を復活させるために。また、そう言う時代になってしまうのかな。」

「いいえ、有り得ないわよ。……時代錯誤が過ぎる考えなのよあの人は。古い、過去の人よ。仮に復活を遂げても、当時のような求心力を保てるとは思えない。」


 でも、そうね…とヨゼファは足を留めて呟く。ハリーも彼女に合わせて歩くのを止め、二人は向かい合った。


「灰色の世界だったわ…まるで明日に希望が抱けない。彼の傘下に降るか殺されるか。自由も安息も無い。満足に笑うことすら許されなかった。でも、だからこそ私は……この世の中には人がなんと言おうと美しいもの、善いものがあって、それが生きる上でどんなに大切かが身に沁みて分かったの。」


 彼女は静かに、はっきりとした声で言う。そっと掌を握られた。外気よりも冷たい、氷のような温度が皮膚を通して伝わってくる。でも不思議と寒くはない。ストールを巻いてもらったからだろうか。


「ハリー…、貴方が歩んできた道とこれから歩む道はきっと楽しいだけじゃない、沢山辛いことがあるでしょうね。でもどうか絶望しないで。自分が信じる美しいものと善いものへの憧れを、決して失わないで欲しいの。」


 ハリーの掌を包み込んで発言するヨゼファの唇からは、やはり白い息が微かに漏れていた。

 空を見上げると、星の灯りに反射する銀色の煌めきが降りてくる。雪だ、と呟く。ヨゼファも雪ね、と返した。初雪だわ、と続けて。

 暫く二人でじっとして、ガラス玉が降り注ぐような風景を眺めた。繋がっていた手の存在を確かめるために今一度握ってみると、ヨゼファが小さく笑う気配がする。しっかりと握り返されて、妙な安心感に溜め息を吐いた。


「先生……。」

 ヨゼファ先生、


 とハリーは呼びかける。ほとんど透明色の粉雪を見上げながら。

 視線をヨゼファの瞳へと戻す。彼女もまた呼びかけに応えてこちらを見ていた。

「あの、」と言いかけては黙る。

 けれども、勇気を出して言おうと思った。今夜はすごく幸せな夜だったから、自分も皆と同じように温かい気持ちで眠りたい。他の生徒たちはホグズミードでの思い出を胸に幸せな眠りに落ちるのに、自分だけ冷えた床に就くなんて嫌だった。

 何も辛いのはホグズミードに行けなかったことじゃない。親がいなくて、親戚にも嫌われている所為で簡単なサインすらもらえなかったことでもない。夏休み明けに、家族でバカンスを楽しんだ友達の土産話に耳を傾け、自分には語るべきことが何も無いのを思い知った日々のことでもない。でも、その全てでもある。

 得体の知れない凶悪な殺人犯が、自分の両親を殺した犯人が、今度はハリーをも殺そうと着実に距離を狭め近付いて来る。

 真っ黒い犬が常に自分へとつきまとっていた、占い学の教授の言葉を信じているわけではないが、あまりにも不吉な出来事が多過ぎて心が痩せ細る。

 全てのことが澱のように溜まって、小さいことから大きいことまで苦しかった。


 それに…そうだ、皆には家族がいる。こういう時、友達に言えないような情けない泣き言を許してくれる父親や母親、きょうだいが。

 きっと夏休みに家に帰っても、夕ご飯でお腹をいっぱいにして、両親からおやすみのキスをもらって優しい気持ちのままに眠ることが出来るんだ。そんなありふれた幸せが自分にはない。雪を降らせる小さな虫にだって、当たり前に家族がいるのに。

 自分よりももっと辛い人がいるのは分かっている。ホグワーツの生徒になれた今の状況を思えばむしろ良い方だ、わがままは言えない。けれど今夜は、こんなに綺麗な夜に自分だけ幸せでないのは嫌だった。


「先生…。」


 白く煙る息と共に言葉を吐き出した。


「本当のことを言って…。」

「………本当のこと?」

「僕の両親と仲が良くなかったわけでもないなら、なんで…こうして。僕が特別・・だから?」


 意地悪なことを、とまた言われてしまうだろうか。それでも声に出して、言葉で言って欲しかった。たった一言でも良い。安心させて欲しい。

 ヨゼファは瞳を伏せた。握る掌を強くしてから、今一度こちらへと向き合って笑う。


「貴方が、好きだからよ。」


 そして、一言呟いた。



「………泣かないで、ハリー。」


 手を握ったままでヨゼファは言葉を続ける。また歩き出すので、それに従った。短く無い時間外気に晒されていた所為で、頬に熱い涙が触れるとヒリヒリと痛んだ。

 すっかりと白くなった石畳の上、道が交わる十字路に、彼女は馴染み深い魔法陣を木の枝で構成している。

 結ばれた魔術の内側へ、来た時と同じように掌を引いて導かれた。


「さあ帰りましょう…。私たちの家に。」


 誘われて真っ白い光の図象に足を踏み入れる。ヨゼファの胸に無意識に顔を寄せると、当たり前のように抱き寄せられた。

 インクの匂いがする。懐かしい、子供の頃に幾度も触れた匂いだ。

 でもどこで?それがどうしても思い出せない。







 ガバ、とハリーは身体を起こした。……知らない部屋である。視力が悪いのでぼんやりとしか周囲の環境は分からないが、確かにそう思った。手探りで眼鏡を探すと、存外すぐ…傍のサイドテーブルの上に見つけることが出来た。

 そうして鮮明な視界の中に現れた部屋は、やはり見覚えがなかった。

 …………寝間着を着ていない。ヨゼファとロンドンのレストランに行って帰ってきた時の服装のままだ。

 
(ああ…。)


 寝てしまったんだと思う。きっとここはヨゼファの部屋だ。室内を照らす橙色の小さな炎がハリーの想像が正解であると示している。夜、彼女の傍に小鳥のように付き従っているのを度々見かける…魔法陣の灯だ。机上に置かれたインクや羊皮紙、多様な種類の羽ペンもまた間違いなくヨゼファその人のものだった。

 ベッドから起き上がってたったひとつの扉へと歩み、ノブを手にかける。軽い手応えと共に木製のドアは開かれた。馴染み深い、彼女の空間へと。


 そこでも、複数の小さい炎が黒い闇に満たされた空間を漂っていた。

 机の前に腰掛けたヨゼファは、灯りを頼りに何やら小さな書籍の中を覗き込んでいる。

 本を閉じ、彼女はカルトンに留めてある魔法陣へと視線を移した。…珍しく黒いインクで描かれている。随分ぎこちない形をしているなと、ぼんやりとした印象を抱いた。


「先生、何してるの?」

 
 尋ねると、彼女は「ああ…」と呟いてこちらを見た。


「おはよう、ハリー。」

「まだ夜ですよ。」

「じゃあこんばんは。」

「すみません、ベッドを借りてました…。寮に帰ります。」

「もうてっぺんを超えてるわよ、今日はもう寝て行っちゃいなさい。私はこっちの部屋で寝るから。」


 その言葉には応えず、ハリーはヨゼファの近くへと歩む。傍に置かれていた椅子に腰掛け、まだぼうっとした頭のままで彼女のことを眺めた。


「やっぱり…帰ります。明日、ロンとハーマイオニーと一緒に朝食を食べに行きたいから。」

「……そうね。そうしましょう、二人も貴方が見当たらなくてつまらない思いをしてしまっただろうし。」


 ヨゼファは微笑み、快くハリーの申し出を承諾した。


「送っていくわよ。忘れ物はない?」

「大丈夫ですよ、寮までなら自分で帰れます。」

「あら、こんな夜更けに一人で廊下を歩いていて…幽霊、ならまだ良いかもしれないわね…スネイプ先生に会ったら大変よ?」

「確かに…。」


 二人は小さく笑い合ってから立ち上がる。

 ヨゼファは今一度ハリーの頭をくしゃりと撫でた。それから空中に浮かぶ灯りの中から白い炎を手招きして引き寄せる。



 静まり返った真っ黒な廊下へと、ゆっくりと足を踏み出した。

 並んで歩くと、また彼女の手が皮膚へと触れる。冷たいなあ、と改めて思って…もう一度触ろうとして…躊躇って、やめた。

 しかし逆に握られる。驚いて顔を上げると、ヨゼファは楽しそうに笑った。


「………夜は。善くないものが紛れ込んでいる時があるから、手を離さないようにね。」


 頷き、また並んで歩み続ける。珍しく会話が無いのがなんだか気まずくて、ハリーは「あの、」と小さな声で話しかけた。


「あの…先生。ベッドまで借りちゃって、すみません。」

「気にしないで。…今日、いいえ…もう昨日か…とても楽しかったわ。」

「僕もすごく。……それに、先生のベッドはやっぱり大きくて良いですね。僕たちはのは、ほら。」

「勿論私も学生時代に経験済みよ、私のベッドは特に不良品でね…横になるとマットのバネが身体に当たって困ったものだったわ。」

「それでも、僕の家のベッドよりはずっと良いんですけれども。」

「ふふ、そりゃあね。いくらなんでも物置よりは快適なはずよ。」

「……………。え?」


 会話の最中、ハリーはぽつりと呟く。そして…少しだけ唇を噤んで考えた。考えても分からなかったので、再度口を開いて図象学の教授へと尋ねる。


「先生、どうして…僕が物置で寝ていることを知って、」

「ああ、太った婦人レディよ。無事スネイプ先生に見つからずに辿り着けて良かったわ。」


 しかしその質問は最後まで形になることはなく、ヨゼファはすっかりと眠っている婦人レディへ「こんばんは」と夜の挨拶をしている。


『こんばんはじゃないよ…。今が何時だと思っているの。』

「ごめんなさい、具合が悪い生徒の面倒を見ていて。もう体調が良くなったらしいから、寮に帰そうと思ったのよ。」


 意外としれっと嘘をつくなこの人…とハリーは二人が会話するのを横目で眺めた。

 太った婦人レディはヨゼファのことをまじまじと見ては、『はー…。』と小さく息を吐く。


『誰かと思ったらお前さんかえ。随分と老け込んだね。』

「会う度にいっつもそれを仰いますねえ。…婦人レディは相変わらず綺麗でいらっしゃる。」

『そう返してくれるのが聞きたいからさ。さあ坊ちゃん、合言葉を。』

「あら、少し待ってちょうだい。私が立ち去ってからにしてもらえるかしら。」

『律儀な子だね、もう先生なんだから。聞こえたって構いはしないよ。』

「うふふ、ありがとう。でも遠慮しておくわ。」


 ヨゼファは穏やかに言っては瞼を伏せる。そしてハリーと婦人レディに夜の別れを告げてから、暗闇へと沈むように姿を消していく。彼女の小さな灯りは、ハリーの傍に残されたままとなった。


『………あの子は本当に。昔の面影がなくなってしまったね…。』


 少しの静寂が続いた後、太った婦人レディがポツリと呟いた。ハリーは「そうなんですか?」と返す。


『そうだとも、昔と今で人が入れ替わっていると言われても信じてしまうくらい。』

「へえ…意外。もっとはっちゃけてたとか?」

『逆だよ逆、陰気で喋ったことなんて見たことがなかった。…いや、あれは確か喋れなかったんだね。後から聞いたよ。』

「……どうして。何かの病気だったの?」

『さあそこまでは。……でもまあ…あんまりこんなこと言って良いのか分からないけれども。お前さんの父親が手ひどく苛めてたからねえ…。原因のひとつかもしれないね。』

「え?何を言って…僕の父さんがヨゼファ先生にそんなこと、」

『良い加減私も眠くなって来てしまったよ。合言葉をどうぞ、坊ちゃん。』


 ………またしてもハリーの発言は遮られ、聞きたいことは聞けずに教えて欲しいことも教えてもらえない。

 声が喉につまり、次に何を言うべきか分からなくなった。それでもどうにか合言葉を呟き、馴染み深いグリフィンドール寮の中へと自分の身体を運んでいく。


(え…?)


 身体だけは機械的に寝るための準備を整えるのに、頭の中はまるでそれどころではなかった。


(嘘だ、)


 心の内側で呟く。


(そんなことある筈ない、ヨゼファ先生は僕の父さんと母さんと仲が良かったはずだ…。あんなに、二人のことを善い魔法使いと魔女だったって話してくれるのに。)


 冷静になろう、とベッドの中で変に鼓動が早い胸元を抑える。何故か呼吸も浅く、額には軽く冷や汗が滲んだ。


(そう…冷静になるんだ。太った婦人レディの勘違いで、ちょっとじゃれていただけなのかもしれない。もしくは喧嘩したところを運悪く見たとか。…そうだ、そうだよ。それで仲直りして、昔よりも更に仲良くなったんだ。友達だったんだから。僕とロンやハーマイオニーみたいに……)


 けれども、ヨゼファは一度としてハリーの両親と友人だったとは言っていない。むしろいつも否定した。それを軽く流して、自分にとって幸せな想像ばかりしていたけれども。


(真実は……)


 分からない。

 ハリーの両親は死んでいるし、ヨゼファは自分のことを話そうとしない。


(先生、)


 急に恐ろしくなった。


(ヨゼファ先生、)


 自分が知っているヨゼファは本当の姿ではないのかもしれない。それならば彼女の本質はなんなのだろうか。

 それでも、と思う。

 それでも………


(………僕は。)


 そして、夢を見た気がする。

 随分と久しぶりに目にする真っ白な景色。真っ白な床、天井、扉、車窓。

 規則的に鳴る車軸の音の中、誰かが自分の向かいに腰掛けている。


 声をかけているのに。

 届かないのだろうか、その先へ。



clap



prevnext

back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -