骨の在処は海の底 | ナノ
 月光

(熱が…………。)


その日の授業を終えて自室に戻ったヨゼファは、ベッドに横になり懇々と眠っているルーピンの額に触れては少し目を細めた。

…………熱が上がっている。

皮膚にぺたりと張り付いた髪をかきあげてやって、汗を拭った。


今の季節はまだ日が長いとはいえ、この有様である。目を覚ます気配も無い。


(かわいそうに………。)


浅い彼の呼吸を聞きながら、ヨゼファは緩くかぶりを振った。毎月これだけ身体を消耗していては、常々しんどいだろう。

ヨゼファはなんとなく……ルーピンの学生時代を思い出していた。今と同じように線が細くて、賢い顔立ちをした少年だったことを覚えている。


(でも、もっと元気だったわ。やっぱり…友達が傍にいたからよね。)


ジェームズとリリー、ピーターは亡くなり、シリウスは投獄中…いや、最近脱獄したが。何はともあれ今の彼は一人ぼっちだ。

ヨゼファはベッドサイドの机に書籍と共に積まれていた羊皮紙のうち、一枚をそっと抜き出した。

青いインクの水紋に似た曲線で構成されている魔法陣へ、ふうと細く長く息を吹きかける。銀色の細かい光の粒が中空に舞い上がり、部屋の空気を清め幾ばくかの室温を下げた。

鎧戸が降ろされた上にしっかりと分厚いカーテンで覆われた窓の様子を見て、月光が入り込む余地がないことを今一度確認する。

そうしてベッドの傍へと戻り、蒼白な顔をして眠っているルーピンを再び見下ろした。


(不思議ね、)


考えながら、円形のメモ帳に描き慣れた魔法陣を構成していく。


(貴方と、こうしてまた出会うなんて思っていなかったわ。)


弱い光が紙の上に灯り、静かな青い炎になって空中へと浮かび上がった。それをガラスのコップへと導き、机上に据える。たっぷりと満たされた水差しとグラスの傍へと。


「お水、ここに置いておくわね。」


静かに声をかけて、ヨゼファは部屋を後にした。



作業部屋へと戻った彼女は、魔法陣が既に描かれた羊皮紙を五、六枚メモ帳から適当に千切って宙にひょいひょいと離していく。

空気の中をゆらゆらと泳ぎながら、それらは先ほど同様青白い炎になって自分自身を燃やし始めた。顔彩を保存しておく為のガラス瓶に小さな灯りをひとつずつ収め、適当に中空に配置する。

大きな窓は、寝室と同様に月光の侵入を防ぐ為堅牢に閉ざされていた。

真っ暗な部屋が薄い水色の光で照らされると、馴染んだ室内の景色がぼんやりと滲んで浮かび上がってくる。


ヨゼファは小さく笑い、「悪く無いわね、こういう夜も。」と上機嫌に言った。

青い灯火をひとつ手繰り寄せ、小さめの書籍を書棚から抜き出す。

使い込まれてあちこちが痛んでいるが、皮の背表紙に刻まれた言葉からそれが聖書バイブルであると読み取れる。


「さて………」

呟きながら、痛んだ表紙とそこに描かれた自分の魔法陣を指先でなぞった。


「あのワンちゃん、うまくやってるのかしら。」


表紙を開くと、そこには黒い穴がぽっかりと四角く現れる。

腕を突っ込んで中を確認した。肩くらいまで聖書の中へと引き込んでゴソゴソと底を触ると、指先に何か軽いものが当たった。

取り出したくしゃくしゃの紙切れを、青い光の下で広げて確認する。書き殴られた文字を見て、ヨゼファは思わず笑ってしまった。

それから気を取り直してはその紙にOK!≠ニ書きつけて黒い書籍の穴の中へと再び放り込んだ。


「良かったわ…。ちょうどケーキを作ったばかりだったもの。」


なんだか楽しい気分になって、ヨゼファは目尻を細めては笑みを濃くした。







あ、狼になってるな。


なんとも間抜けな感慨と共に、ルーピンは目を覚ました。

狼化が終了すると、昼の怠さが嘘のように身体は楽になる。どうやら熱も引いたようだったが…それでも、スネイプの必要最低限・・・・・の効果のみが保証された脱狼薬は些か効き目が薄いようで、頭が鈍く痛んだ。


(甘い匂いが………)


小麦と砂糖の暖かい匂いがした。厨房からだろうか。

しかしいくらこの鼻が効きすぎるからと言って、遠く離れた厨の匂いをここまで強く感じるのはおかしいと何となく思った。


(まあ…それはどうでも良いや。)


明日体調が良くなったら焼き菓子のひとつでももらいに行こうかな、と考える。

ほとんど四足歩行の身体でベッドから這い出し、痛んだ木の床を踏みしめた。


小さな炎がテーブルの上で灯っていた。痛んだ木の机の上に、青色の光をにじませている。

水差しとガラスのコップが用意されていたので、一杯水を失敬した。

部屋の扉を眺める。鋭敏になった感覚故、よく分かった。ヨゼファはまだ起きているらしい。時計を確認すると、ちょうどてっぺんを回ったところである。

細く部屋の扉を開くと、向こうからも淡い水色の光がそろそろと忍び込んでくる。

中空を、空のガラス瓶に入れられた青い炎が漂っていた。灯りは気泡を含んだ厚めのガラスに反射して、部屋の空気を水底のように青く揺らめかせている。


すぐに目に入ったヨゼファの作業机の上には、ガラス瓶に入った色とりどりの顔彩や大小揃った乳鉢、名前も知らない薬草や花などが広げられている。

その中、白い皿の上に直方体のパウンドケーキがひとつ。淡い光を反射して、琥珀色の表面をキラキラと光らせていた。どうやら甘い匂いの原因はこれらしい。

ヨゼファはと言うと、机の傍に立ち尽くしては小さな書籍の中を覗き込んでいた。しばらくして、それをパタンと閉じて懐中に収める。


彼女は僅かに開いていたこの扉に気が付いたらしい。顔を向けると、笑って「こんばんは。」と夜の挨拶をされる。


「良かった、薬はちゃんと効いてるのね。」


具合はどう、と尋ねながらこちらへと足を運んでくる。

そして半開きになっていた扉を開いたヨゼファは、招き入れるような目配せをした。従って足を踏み入れる。自分が歩く度に、古い木材がみしりと音を立てた。


隣に並ぶと、四足歩行故に視線の高さがヨゼファの腰あたりになる。彼女は慣れた様子でルーピンの頭を数回撫でた。………どうも完全に動物扱いされているらしい。


「ケーキに興味がある?貴方甘いものが好きだったかしら。」


瞳を軽く交えると、また質問をされた。最もルーピンは現在人間の言語が扱えないので応えずにいたが。とりあえず、心の中で『それは勿論。』と呟くに留まる。

ヨゼファは「そう、」と相槌する。「そうだったの。知らなかったわ。」と続けて。


「私も甘いものは大好きよ。」


彼女は嬉しそうにしながら、机上に広がる様々なものを少しだけどかす。空いたスペースに青い薄紙を広げて、皿の上でしっとりと濡れていたケーキをクルクルと包んでいった。どこかへ持って行くか、誰かへ贈るものらしい。

生地が痛まないように麻の紐でゆるく縛り、羊皮紙の切れ端にTake care…≠ニ一言だけ記して。机上に寝かされていた名前も知らない植物から赤い実を失敬してメッセージと共に飾ると、彼女はケーキと共にスルリと部屋の奥、暗闇へと姿を消した。

一分も経たないうちに、ヨゼファは暗がりから青い光に照らされたこちらへと戻ってくる。

青い薄紙に包装された直方体は手元から消え、代わりにその掌中には蓋つきのガラスの容器があった。


「こっちは私用よ。結構綺麗に焼けたと思わない?」


ヨゼファが言うので、机に手…前脚…を乗せてそれを確認する。すぐ横を向くと目が合った。彼女は嬉しそうに、「そう、嬉しいわ。」と返してくる。


「もし良かったら、明日の朝…帰る時にでも持っていってね。」


ヨゼファは少し首を傾げて語りかけてくる。じっと見つめ返すと、何かに気が付いたようにしては…「あら」と小さく声を上げた。


「今?」


机に手をついて、彼女は生徒…特に年かさの少ない…を相手にする時と同じ声色で尋ねてくる。

しばらく見つめ合うと、ヨゼファはごく自然にルーピンの頭を撫で、耳の後ろをカリカリと軽く指で弄った。どうにも本格的に犬扱いされている。

しかし嫌な気分では無かったので、されるままにして彼女の掌へと頭を擦り付けた。だがそれにしても、やはりその皮膚は冷たかった。もう熱は引いているから感覚は正常の筈だ。少し、普通ではない冷たさである。


ヨゼファに導かれ、ローテーブル傍の革張りのカウチソファの上に身を収めた。「爪を立てちゃダメよ。」と言われるので、少し慎重になりながら。

彼女はテーブルの上でパウンドケーキを切り分けた。白い皿の上に、卵色の断面をこちらに見せた分厚いケーキがのせられる。とびきり透明な蒸留酒がグラスに注がれ、こちらに一杯、彼女自身にも一杯。


「さあ、適当に食べて。」


そう言って、ヨゼファは隣へと腰を下ろす。冷たい皮のソファが、それに合わせてゆっくりと沈んだ。


* * *


ルーピンは、ヨゼファが自分の言わんとしていることを何故理解できるのかが不思議だった。

心を開く魔法でも使われているのだろうか。…そう言うのとは、少し違うような気がするけれど。

その疑問を視線に込めて見つめてみると、彼女はすぐに応えて「それはね、」と口を開く。


「私、十代の頃に数年間ほど声が出ない時期があったわ。治っても、結局卒業まで…数える程の回数しか人と言葉を交わさなかったけれど。だから言語を使用しないコミュニケーションには慣れてるの。何が言いたいのか、大体の想像がつくわ。」

『…………………。病気だったの?』

「分からない。話したくなかっただけなのかも。でもやっぱりどう頑張っても声が出なかったわ、あの頃。心と身体があまりにもバラバラだった。」

『そうだね、声を聞いたことがなかった。』

「聞いてみたかった?」

『どうだろう…。でも今聞けたから、もう良いよ。』

「そう………。」


ふわっとした軽い卵色のケーキは既にお腹の中に収まっており、その所為か身体が暖かくて心地良い。

少しの間会話もなく、二人静かに頭の上を通り過ぎる夜の存在を感じていた。ふと、彼女がポツリと言葉を零す。


「昔……犬を飼っていたのよね。」


『へえ、』と心の中で相槌を打ち、ルーピンはソファの上で身体を丸めた。


「そう、白くて大きな犬。……今の貴方よりは小さいけれど。私の父の犬だったの。名前はルブランさん…フランス語で白色≠ヒ。私の父はフランス人だったから。なんだかそれを今更思い出して…懐かしいわ。」


ヨゼファはほとんど無意識に…手持ち無沙汰でルーピンの頭を撫でていた。成る程、と思う。人間として接している時よりも、幾分と親密を覚えられている気がしたが。そういう理由だったらしい。


(犬とは随分違うんだけどなあ…。)

見た目も獰猛さも、と思いつつヨゼファの言葉を邪魔せず…鼻先をその腿にのせてやった。彼女は瓶詰めの青い灯火が漂う中空を眺めながらも、ルーピンを受け入れて彼の頬、頭、そして耳の後ろを撫でた。


「生まれた時から一緒だったの。私のお兄さんみたいなものよ。………内気で友達の一人も出来やしない私が心配だったのか、随分長生きしてくれたわ…。」

『やっぱり昔は内気だったんだ。』

「ええ、そう。貴方私の学生時代を覚えてるでしょう。」

『でも今は内気じゃない?』

「どうなのかしら。」

『そう見えるけれど。』

「……………。子供たちの手前、出来た人間…まともな人間のふりをしてるのよ。先生だから。」

『そうだね…。先生だ。良い先生だと思うよ。』

「ありがとう、貴方もね。」


暫時沈黙して、ヨゼファの青い瞳を見上げた。

決して叫び声も泣き声も漏らすことはない、色素が希薄な彼女の唇を思い出す。今もやはり、その唇は色味が薄かった。でも昼は綺麗な紅色だ。化粧をしている。

話すことを思い出し、化粧を覚え、髪を切って。挙げれば変化はキリがないけれど、それでも本当に昔と今の彼女は違うと思う。昔の自分と今の自分が違うように。

この年代・・・・の魔女魔法使いには、あまりにも色々なことがあり過ぎた。


「私の学生時代はね、貴方も知っているように本当に惨めで思い出すのも辛いけれど……。あの時と同じ建物…同じ教室、この場所を…共有した人と出会い直して分かり合うことで、あれも捨てたものじゃなかったって思えるわ。だから貴方と話ができて良かった。」


………一度、友人たちの隣にいた自分へと、彼女から声なき言葉をかけられた。今になって、何故かその光景が頻繁に頭の中へと浮かび上がる。

長い髪を、無造作に引っ張られている。身体中が強張って、それでもどうにかここから逃げ出そうと全身を緊張させて…ふと、瞳が合う。

その声を、言葉を理解していた。でも聞き入れることはしなかった。興味がなかったから。


「おせっかいだったかしら…。」

『何が。』

「貴方を強引に部屋に連れて来たこと。素人がどうこうするものでもなかったのかも。」

『今更じゃない?』

「今更よね…本当に。いつもそうなの、心配になると居ても立っても居られなくて。」

『お母さんみたいだね。』

「生徒にもよく言われるのよ。………私は私みたいなおせっかいがすぎる母親嫌だわ…。」

『そう?僕は良いと思うけどね。…有難かったし。色々。』

「それは貴方が善い人だからそう思うのよ。」

『ありがとう、君もね。』


学生時代一度も言葉を交わしたことがない癖に、まるで仲が良い友人だったかのようにスラスラと会話が続いた。

囁きと呟きと。ヨゼファの女性にしては低い声を音楽のように聴きながら、ルーピンは瞼を下ろした。目を閉じて視界を遮ると、屋根の上、頭上を過っていく夜と月光の気配を皮膚へと感じて鳥肌が立つ。

また、頭を、骨が浮いた背中を撫でられた。その掌が冷たすぎて、更に鳥肌が立つ。


謝ろうかな、と思った。


でも言葉を口にできない今、謝罪をしてもそれは意味がないとも思う。

どんな気持ちも、思うだけでは無いものと同じだ。言葉で、行動で表さなくては。きちんと人間の貌をとって。

だから黙って、彼女の膝を枕にして瞼を下ろしたままにする。


『僕も良かったと思うよ。』

『久しぶりに、楽しい満月の夜だから。』

『もう一度会えて、良かったと思う。』


海の底から泡が浮き上がるように言葉を思い描いた。

眠ろうかな、と考える。

それを促すように、ヨゼファが自分を撫でる手つきがゆっくりになった。


おやすみなさい、


遠くから声が聞こえる。懐かしい声だ。あの…………


* * *


自分の膝に鼻を乗せた人狼が眠ってしまったことをヨゼファは感じ取る。

弱く、ゆっくりとその身体を撫でた。小さな声で、「いい子ね、」と呟く。

そして…白いむく毛が暖かった友達、それからその飼い主だった父親を思い描いてみた。


「ずっと…お墓まいりにも行ってないわ。」


父親のことは、考えなくても分からないことの方が多かったけれども。


「………ごめんなさい。」


言葉を囁きに変えて、彼女は独り言を続けた。


「いい子ね、いい子…………」


繰り返して、何度も。小さな声で呟く。







あ、朝だ。


またまた間抜けな感慨とともに、ルーピンは目を覚ました。

満月の気配が失せている。清々しい気分で、彼は瞳を開けて身体を起こした。


「……………………………。」


起こして、自分が枕にしていた場所を見下ろす。ヨゼファの膝を普通に頭にしていた。

人狼でいた時はなんとも思わなかったが、幾分かまずかったようにも感じる。


彼女は座ったまま寝てた。首を折っているので、前髪が目元に影を作ってる。疲労が滲んでいる人間独特の、強張った体勢での睡眠だ。

立ち上がり、その身体をゆっくり倒してソファに横にしてやる。


窓へと歩んで開け放った。夜の名残を残した空には、金星が小さく光っている。

冷たい朝の風を皮膚に感じて、ルーピンを思わず目を閉じて嘆息した。


ヨゼファの大きな作業机の上へ、ふと視線を留める。羊皮紙の束やインク壺、それに顔料を入れたガラス瓶。順々に彼女の仕事道具を眺めていく。

深い青色の顔料を入れた小さなガラス瓶が、いくつもそこに並んでいた。ラベルにはひとつずつ名前が…生徒の名前だ。きっと一年生。手書きされていた。


椅子にかかっていた軽いブランケットを広げてヨゼファの身体にのせてやる。

ローテブルの上に置かれたままのケーキを、同じく傍に置かれたままだったナイフで分厚く切り落とした。

少し厚すぎたかな、と思ったが…まあ許してくれるだろうと希望的観測を行い、それを紙で包んで懐に。


ヨゼファの寝室に戻り、少ない荷物をまとめてまた戻ってくる。

眠ったままの彼女の傍まで歩み、足を止めた。

髪が顔にかかって、表情を隠したままだった。その様を見下ろし、頭を弱く振る。


「ヨゼファ先生、」

呼びかけた。


「ヨゼファ、」

もう一度。

先ほど開けた窓から吹き込んでくる湿った冷たい風が、その髪を避けて表情を露わにする。驚くほど無表情だった。……寝ているから当たり前なのだが。


「……………ごめん。」


ポツリと零し、口を噤む。

きっと起きている時に伝えたら、彼女は全然気にしていない、と笑ってはこちらを気遣って優しい言葉をかけるだろう。

別に謝罪して許されたいわけでも、救われたいわけでもない。

言葉にして伝えなければ意味はないことは分かっていたが、自分のエゴの為に人を利用することは許せなかった。

それでは自分を軽蔑し後ろ指をさした人間とまるで同じだ。あれ・・と同じになるくらいなら、死んだ方がマシだった。


「君が起きてきたら…代わりに、ありがとうを言うよ。」


ありがとう、ヨゼファ。


呟き、彼はヨゼファの空間を後にした。

今度は遠慮なく言って欲しいと考えながら。

『助けて』を。助けるから……。



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