骨の在処は海の底 | ナノ
 何処へ行く

蛇がこちらへと鎌首を持ち上げた瞬間、何者かが背後からハリーの身体を非常に強い力で捕まえては引き寄せた。

それとスネイプがドラコの蛇を消し去るのはほとんど同時だった。背後の人物は大きな溜め息を吐き、ハリーを抱きしめたまま「ありがとう、セブルス…。」と掠れた声で彼へと礼を述べる。


「やあ、これはヨゼファ先生だ。」


ようやくハリーを解放するヨゼファへと、ロックハートが壇上から声をかけた。

彼女は狼狽した様子で、「先生…これは一体どうしたと言うんです…。」と言葉を返す。


「今夜の集会で生徒による魔法使用の届けは受理されていませんよ。一体なんの集まりですか。」

「決闘にまつわるちょっとした実演ですよ。」

「決闘…随分と時代錯誤なことを……。まあ…それは結構ですが、思い付きでこのようなことをなさるのは感心しません。生徒たちの魔法は未だ未知数なんですから、今回のような事故に繋がる可能性が大いにありますよ。」

「ですが生徒同士の実演はスネイプ先生の発案です。」

「……………。セブルス、貴方もですよ。教師という立場を弁えてくださいな。」

「相変わらずおばあさんみたいなこと言いますね。」


ロックハートの言葉に、耐えきれなくなった生徒たち複数が吹き出した。

ヨゼファが眉間の辺りを揉みながら「せめておばさんにして頂戴……。」と小声で唸るのを聞いてしまったハリーもまた我慢できず、唇の端から変な音を漏らす。足に激痛が走った。どうやら隣にいたハーマイオニーに割と強い力で踏んづけられたらしい。


「ヨゼファ先生、よろしければ貴方もどうですか。」

「はい?」

「いえですから。優秀な魔女の一人である貴方にも是非参加して頂きたいんですよ。この決闘クラブに。」


ロックハートはヨゼファがいる壇下へと掌を差し伸べながら、良く通る声で大仰に発言した。

これを受けて、生徒たちの中から歓声や囃し立てるような口笛が鳴る。……ハリーは一抹の不安を覚えて、ヨゼファの掌を無意識に握った。

それに気が付いたヨゼファはこちらに目配せをしては弱く笑う。ホ、と安心した。どうやら彼女はロックハートの挑発に乗らないらしい。人畜無害で争い事が苦手そうな彼女の性格を思えば当然のことだろう。


「良いですよ。ただしこれでおしまいです、今夜はお開きにしてもらいますからね。」


しかし彼女がロックハートへと返した言葉はハリーの予想とは真反対のものだった。

ハリーの掌からスルリと離れて、ヨゼファは壇上へと登って行く。隣のハーマイオニーもまた小さな声で「駄目よヨゼファ先生…!」と呟くが、周囲は思いがけない図象学教授の反応に興奮して盛り上がるばかりである。


「流石ですヨゼファ先生、冗談のつもりだったんですが。………しかし呪文を扱っての魔術は不得手の筈では。決闘は一瞬の勝負ですよ、魔法陣を構成する時間などありはしない。」

「その通り…。構成に時間がかかるのは魔法陣の欠点のひとつです。」

「決闘の方法はご存知ですか。」

「ええ、一通りですが。」


どうやらロックハートは、先ほどスネイプに敗北した汚名を返上したかったらしい。如何にも対人魔法が不得意そうで、しかも女性のヨゼファに勝負を持ちかけるところにやや姑息さを感じたが。

ヨゼファは特に躊躇する様子もなく懐中から細長い杖を取り出す。ハリーはこの時彼女の杖を初めて見た。何の塗装もなされていない、白木が剥き出しの杖だった。


やはり女性だからか、彼女が顔の前、天井に向かって杖を構える動きは先ほどのスネイプやロックハートと比べてゆっくりとして静かだった。

向かい合った二人が頭を垂れて礼をする。妙に落ち着いているヨゼファの態度がハリーには不思議だった。蛇からハリーを遠ざけようと、後ろから抱きすくめられていた時の方がよっぽど焦りを感じたくらいで…。

………彼女は一年生の頃から、随分とハリーに目をかけていたように思う。最も他の生徒に対しても充分に優しかったが。


ふと、彼は先日の深夜に偶然見かけた光景を思い返していた。


ヨゼファとスネイプが、薄暗い廊下で立ち止まっては額を寄せて何事かを潜めた声で話し合っていた。

この二人が一緒にいる頻度はそこまで多くないように思われる。しかし注意深く観察すると、やはり懇意な関係のようだった。そうでなければ、気難しさが過ぎるスネイプが進んで人と関わりを持つ訳がない。

………最近の秘密の部屋絡みの一連の騒動に由来するスネイプへの猜疑心と少しの好奇心から、ハリーは透明マントで姿を消したまま二人の方へそっと近付く。


ヨゼファの表情は深い影が落ち込んで確認することが出来なかったが、普段の軟派な態度が嘘のように声が低く、纏う雰囲気も別人のようだった。


『それでは………、……、………………と、言う……』

『ええ、間違いなく……………、しかし分からないのは…、』

『……………隠す必要が…、』

『いいえ、間に合わない。むしろ探して……』

『しかしその時間も無い。』

『大丈夫。……ひとまず落ち着きましょう。』


ようやく言葉が聞き取れるほどの距離へと至るが、二人はそこで会話を区切ってしまう。

ヨゼファは唇の前へと指を一本立ててスネイプへと目配せしてから、チラとハリーの方へ視線を向ける。暗闇の中でへんに鮮やかに彼女の瞳が光った。

背筋がヒヤリとする。自分の身体が見えているのかと透明マントを内側から握るが、ヨゼファはすぐに眼前のスネイプへと再び視線を戻しては笑った。

スネイプはそれに対しては無反応だったが、ゆっくりと踵を返してその場から歩き出す。ヨゼファもまた彼の後へと続くので、二人の黒衣の魔法使いの姿はすぐに闇へと溶けて見えなくなった。


痛いほどに強く波打つ心臓の上へとハリーは掌を置いた。喉が乾いて唾液がいやにからんでくる。

ハリーは、平たく言えばヨゼファのことが多分に好きだった。今まで年上の女性に可愛がられた経験も無かったし、多くの同学年の生徒たちと同じように、彼女のことを母親のように思っていた。


しかし、あの晩の青い瞳の冷たい色が忘れられない。

もしかしたら彼女の性質は、今までの自分が見てきた表面的なものだけではないのかもしれない。それを思えば不安だった。


(でも、ヨゼファ先生は……それでも善い魔女の筈だから。)



壇上のロックハートとヨゼファは背中を合わせてからゆっくりと歩き出す最中だった。1、2、3、4、5歩。再び向かい合い、互いへと杖を構える。

ロックハートがニコリとヨゼファへと笑いかけている。彼女もまた応えて人が好さそうな笑みを浮かべた。………そうして、何かに気がついたように首を傾げる。


「あれ?ロックハート先生。鼻毛が出ておいでですよ。」


その一言に、固唾を飲んで彼らの様子を観察していた生徒たちが爆笑した。

ロックハートはやや笑顔を引きつらせては、「………ヨゼファ先生。随分と子供じみた気の外らせ方をしますね…。」と呟いた。


「いいえ、別に。他意はありませんよ。ちょっと気になっただけで。鏡、ご覧になりますか。」

「結構です。今は勝負に集中させて頂きます。」

「そうですか……」


気を取り直したらしいロックハートは杖を構え直し、堂々とした有様でカウントを行う。

だが…やはり気になっていたのか…その際に、自分の鼻の下へと無意識に触れた。


「アクシオ、おいで。」


ヨゼファが彼へと簡単な呪文を唱えるのはほとんど同時だった。凄まじい勢いでロックハートは彼女へと引き寄せられる。彼女は素早く杖を左手に持ち変え、間髪入れずに右手で作った拳で彼の左顎を殴った。

相当体重が乗ったフックだったらしく、鈍い音がして彼の身体は先ほどスネイプと相対した時と同様に気持ち良く後方へ吹き飛ぶ。

それきり室内は静寂した。何が起こったのか理解出来ない学生たちはヨゼファの方へと視線を集める。


「………このように。時と場合によって、魔術を使用するより物理で殴った方が早くて確実な時もありますから…皆さんも臨機応変に物事を捉えてくださいね。」


彼女は特に気にした様子もなく、いつもの授業と同じように…半ば眠気を誘う心地の良い低さの声で生徒たちへと語りかける。


「さあ、約束通りお開きですよ。消灯時間が迫っていますから。また明日教室で会いましょう。」


そうしてロックハートの傍へと歩んでは彼へと手を差し伸べて身体を起こすのを手伝いつつ、ヨゼファは笑顔のままで皆の解散を促した。







「ヨゼファ先生、」


夕暮れ時、城の周囲に広がる広大な草原の中に見慣れた黒いシルエットを見かけたハリーは、呼び止めるために大きめの声で彼女の名前を呼んだ。

ヨゼファはすぐそれに気が付いて、こちらを認めては表情を明るくした。


「ハリー!こんなところでどうしたの?もうすぐ夕ご飯じゃ無いの。」

「夕ご飯まではまだ一時間強ありますよ。………先生、もしかしてお腹減ってるんですか。」

「あら…そうかもしれないわね。」


こちらへと駆け寄っては嬉しそうに会話に応じるヨゼファの姿に、ハリーは安堵を覚える。

その様子は彼が知っているヨゼファそのままであり、自分が思い描く善い魔女の姿にほど近いものだった。


「特に用事っていうわけじゃ無いんですが…。最近、少し。学校での居心地が悪くて。」


ハリーは灰色の巨大な城をチラと視線で指し示す。

今のハリーを取り巻く環境のことは彼女も知っていたらしく、ヨゼファは眉を下げて「そう……。」と相槌を打った。


「気にしないで、って言う方が無理があるわよね。………ごめんなさい。」

「そんな…先生が謝る必要はなにも無いですよ。」

「そんなことないでしょう…。こう言う問題こそ教師が解決すべきなのに。役に立てていないことが歯痒いわ。」


ヨゼファは溜め息を吐いてハリーの肩を軽く抱いた。

そんな彼女は、噂の方は知っているのだろうかと考えた。決闘クラブでの一件以来、校内に立ち込める…ハリーが蛇語を操り、秘密の部屋の継承者だと言う……。

それをそのまま口にして尋ねてみた。

彼女は笑い、「貴方秘密の部屋の継承者なの?」と悪戯っぽく質問を返してくる。


「いいえ…!違います。」

「知ってるわよ、当たり前だわ。不思議な話ね…少しでも貴方と話したことある人なら、そんなこと信じる訳ないのに。」


あはは、と彼女は明るい声を上げて笑った。

茶色く変色した芝生の上をゆっくりした足取りで二人並んで歩むと、森の向こうから冷たい風が運ばれてくる。恐らく今夜は寒さがひとしおになるのだろう。


「………ホグワーツが、閉校になるって本当ですか。」


ポツリと尋ねると、ヨゼファは目を伏せて「まだ…分からないけれども。」と返した。


「このまま秘密の部屋に関して生徒の被害が続けば、そう言うことも現実になってくるかもね。」

「ホグワーツは、世界のどこよりも安全だって僕は聞きました。」

「でもそのホグワーツの内部に怪物が潜んでるとなると話が違うでしょう……。どうしても見つからないのよね。ああ…この学校、ほんとに広くて嫌になるわ。」


ヨゼファの目の下にはぼんやりとした隈が出来ていた。どうやら彼女たち教員もまた、ハリーたち同様に秘密の部屋の場所の捜索及び怪物への対策の為に骨を折っているらしい。


「僕は、ホグワーツが閉校になるのは嫌だな…。」

「それはそうでしょうね。」


彼女はハリーの家の…叔父の家族の事情を知っていた。また眉を下げて、悲しそうな表情をする。

冷たい風が強く吹くので、ハリーは思わず自らの身体を抱いた。ヨゼファはそんな彼を気遣ってか、「そろそろ学校に戻りましょうか?」と尋ねてくる。ハリーは首を横に振って応えた。


「…………。ねえハリー…。私は先生だから、あんまり一人の子を特別に扱えないの。だからこれは本当に…いざという時の話よ。それまで誰にも言わないでね。」


ヨゼファは自分の黒いローブをハリーに羽織らせてやりながら、視線を合わせる為に膝を折って言う。

彼女のローブは大きく、袖と裾が多分に余った。図象学の教室と同じ匂いがした。……インクと日向と、少しの花の香水が混ざり合ったような。


「本当にホグワーツが駄目になって貴方の居場所もなくなってしまった時……私のことを頼って頂戴。もしかしたら、貴方が親戚の家に帰らなくても良い方法を提示できるかもしれない。それにハリー一人くらいなら、私でも面倒を見てあげられると思うの。」


こちらへ語りかける彼女の柔らかそうな髪には赤い夕陽が注がれている。灰色の髪が一本ずつ深い陰影と強い光に覆われて、風が吹くと沙耶と揺れた。

ヨゼファは暫時ハリーのことを真っ直ぐに見つめては、「勿論、貴方が望んだらの話だけれどね。」と言って表情を柔らかくした。


「私はハリーのお母さんに恩があるのよ。だから貴方を出来る限り助けたいと思うし…それに、私は貴方の気持ち良く分かるわ、必ずしも全ての家庭が温かい訳じゃないわよね。」


彼女は自然な仕草でハリーの掌を引いて、やはりのんびりとした足取りで歩いていく。


……………。いつもと同じく静かな語調で告げられた言葉だったが、ハリーは呆気に取られて何も反応できずにいた。

もしかしたら叔父の家に帰らなくても良いのかもしれない。そうだとして、彼女はどんな可能性を提示するつもりでいるのだろうか。

いや、それよりも……


(先生が、面倒を見る?僕の。)


一緒に住むということなのだろうか。その生活を想像した途端、ひどく気恥ずかしい気持ちになる。

だが嬉しくもなった。この掌を引いてくれている教師が、自分を思いやっているのを改めて思い出すことが出来て。


ホグワーツに入学してから、今まで体験したことのない悪意に触れた。

だがそれよりも多く、様々な人間からの好意と愛情を受け取っている。場合によっては、それこそがこの学校で得た一番の財産なのかもしれない。魔法の世界の知識よりも、もっとずっと意味があるもののように…今は思えた。


「先生って…僕のお母さんの親友だったんですか?僕と…ロンとハーマイオニーみたいに、父さんも一緒に?」

「いいえ、違うわよ。彼女は大勢の人の憧れでそれこそ友達はいっぱいいたから。親友だなんて恐れ多いわ、私の場合は一方的に憧れていただけ。」


ポツリとしたその呟きの真意が掴み取れず、ハリーは少し首を傾げる。

まだ彼は人間同士の距離感、関わり合いの難解さと不可思議を知らなかった。親友でなければ何故ヨゼファが自分の母親をここまで想っているのか分からなかったし、憧れているなら何故仲良くならなかったのかと疑問に思う。


ヨゼファは切り替えるように「ああ、」と声色を一段上げて言った。


「ハリー、貴方が秘密の部屋の後継者だったらどんなに良かったか。今ここで場所を聞けるのに。」

「無茶なこと言わないでくださいよ…。」

「冗談よ、それくらい参っちゃってるだけ。……教員総動員で部屋の在り処を探っているのにまるで分からないんだもの。」

「先生、ちょっと休んだ方が良いですよ。」

「そうねえ、貴方たちと違って授業中に寝られないもの。」


彼女の発言に思わず笑ってしまうと、額を軽くペチリと叩かれた。

ヨゼファはハリーの手を引いたまま、城に向かって足を向け始める。先ほどよりは学校に戻ることに抵抗を覚えず、ハリーは素直に従った。

そうして彼女と生活する未来について少しだけ想像してみた。

優しくしてもらえるのだと思う。その家の中は、きっとホグワーツと同じくらいに安全なのかもしれない。







派手な音を立てて扉が開かれた。

…………再び医務室へと戻ってきたロックハートは、先ほどと変わらずに石となってはベッドに寝かされている生徒たちを見渡し…そのピクリとも動かない彼らの傍に着席しては掌を握っていた同僚の元へツカツカと歩み寄る。

ヨゼファは自分の元へと近付いてくるロックハートのことを、立ち上がりもせず視線だけで見守っていた。


「ヨゼファ、立て。」


ブロンドの髪を乱し、息継いだ様子で彼はヨゼファへと命令する。

彼女は別段取り合うことはせず、言葉で応えることもしなかった。


「立つんだ…!!」


業を煮やして、彼はヨゼファへと杖を突きつける。

彼女は瞬きをゆっくりしてからようやく口を開いた。


「ロックハート先生、医務室ですよ…ここは。生徒たちは石化しています。動くことができない彼らが呪文に巻き込まれてしまったらどうするのです。」

「そんなことはどうでも良い、よくも…私を、こんな目に…!!取り消してもらおうか、もう一度教員を集めてくるんだ。」

「何故そんなにもご乱心でいらっしゃるんですか。喜んで秘密の部屋の怪物退治を引き受けていたじゃありませんか。…それに提案したのは私じゃ無いですよ。何か訴えたいことがありましたら、ミネルバかセブルスの方にお願いしますわ。」

「誰が化け物退治など進んでいくものか!!私は…お前の大きな弱みを知っている。今ここで私の願いを聞き入れなかったらどうなるのか分かっているんだろうな…?」

「そうですね…貴方は私の弱みを知っている。それなのに、何故のこのこ戻っていらしたんです。」


は?とロックハートは彼女の発言を聞き返そうとした。

しかし今まで頑なに動こうとしなかったヨゼファが忽然として立ち上がり、杖が握られたロックハートの掌を強い力で打った。杖は斜めに組まれた木の床へと転がり、カラカラと軽い音を立てる。


「貴方、悪党なのに爪が甘いですね。………あの時・・・、私にさっさと忘却魔法をかけて仕舞えば良かったんです。まあ…温情だとか言っていましたが、私を何かに利用できると思ってのことでしょう。ズルい考えです。」


ロックハートはヨゼファの低く抑揚のない言葉を聞きながら、杖を拾って戦うか、それとも逃げるかの算段をしていた。

普通の女性であれば勿論前者なのだが、決闘クラブの件も合間って鑑みるに、眼前の女はそれなりに力が強い上戦いに消極的というわけでもない。


「ロックハート先生、貴方は今この状況で私の元に…たった一人・・・・・でいらっしゃったことがどれだけ自分に不利益か分かっていらっしゃらない。」


ヨゼファは落ち着き払った様子で…いつも、教室で生徒たちへと話しかける時のように言葉を続けていく。

何故か部屋の空気かひどく冷え冷えとしてきた。初夏も近いと言うのに、まるで真冬のように吐く息が白くなる。

どこからか、重たく錆びついた金属を擦り合わせるような不快な音が鳴っている。これはなんだ、とロックハートは思った。こんな音は聞いたことがない。


部屋の灯りが唐突に落ちた。暗闇の中、窓を覆い尽くす変に巨大な月だけが室内へと青い光を運んでいる。

彼女はそのまま、元より近かった二人の距離を詰めるために一歩ずつ足を運んでくる。灰色の前髪が作る色濃い影の中から青い瞳がこちらを見据える様が得も謂われぬ悪い予感を呼び起こし、ロックハートは本能的に同じ分だけ後ろへと後退した。


「貴方は秘密の部屋に怪物を退治しに行くと、多くの教員の前で宣言した。ああ、私にとってまたとないチャンスだわ………。もう、誰も貴方が死体になって発見されても怪しがりはしないんですもの…!!」


一際大きな金属音が鈴なりに響き、医務室の壁から黒い水が滲んで浸み出した。

この女・・・、何かが完全にマズい。とようやく悟り、ロックハートは床の杖を拾い上げて脇目を振らずに医務室の出入り口へと駆けた。


「開かない。」


背後から、ほとんど吐息のようなヨゼファの低い声が鳴る。開いていた扉は女の悲鳴のような音を立てて軋み、彼が開けた時と同様に派手な音を立てて閉まった。しかし扉を破壊してでも外へ至らなくてはならない、一心不乱にノブを掴んだ瞬間、ベタベタベタベタベタベタッッッッッッッッと粘着質な何かが木の扉を叩く汚らしい音がした。

扉は黒い水気を含んだ手形で無数に汚されている。

背後の魔女がいた場所から壁、床、天井を伝い、意味不明な魔法陣が扉付近まで蠢き黒い水を滴らせながら這い寄ってくる。

ゆっくりと双肩を掴まれて、身体を後ろへと強い力で引き寄せられた。ヨゼファの吐息が耳へとかかる。


「あ…貴方が、秘密の部屋の…………」


上擦った声で尋ねると、彼女は小さく笑うらしい。呼吸がまた、微かに皮膚を掠めていく。


「それは違うわ。私は決して生徒を傷付けたりしないもの…。」

「わっ、私も……!ホグワーツの生徒だった、学生時代は優秀だったんだ!!何も努力せずにこんな有様になったわけではない………っ!!!」

「そうね、心中お察ししますわ。ですから学生時代の勇気をもう一度思い出しになって。秘密の部屋の怪物を、私達の為に倒してくださいな。それともここで死にます?………どちらにせよ、立派な彫像が立ちますわ。お葬式には大臣も出席されるのでは。今度こそ、本物の英雄になれるんですよ・・・・・・・・・・・・・?」


肩を掴むヨゼファの掌の力が、骨を軋ませるほどに強くなった。

堪えきれず、喉の奥から絞り出した悲鳴が鳴き渡る。共鳴して金属音が一斉にこちら目掛けて近付いてくる感覚が肌に、肉に、骨の髄まで突き刺さった。

背後の女の身体を突き飛ばし、湿って滑り、回らないノブを破壊するほどに烈しく回した。………急に、重たい扉が軽くなる。開いたそこからロックハートは最早何も考えずに外へと駆け出した。


『あら、脅かしすぎたかしら?』


背後から無数の笑い声に混ざってヨゼファの声が残響する。


もうこの学校にはいられない、走りながらそれだけを頭の中で繰り返す。

部屋に帰って最小限に荷物をまとめて逃げ出そう。一体この学校には、得体の知れない化け物がいくつ存在すると言うのだろうか。







医務室のベッドから半身を起こしてハリーとロンと談笑を交わしていたハーマイオニーが、ふとその笑顔を強張らせる。

何かと思い、二人は彼女の鳶色の視線を追って同じ方向へと顔を向けた。


「ヨゼファ先生……っ!!」


ハーマイオニーはほとんど悲鳴のような声を上げて、ベッドから起き上がろうとして体勢を崩す。驚いたハリーとロンが彼女を支え、ヨゼファもまた焦ったようにして彼女の傍へと駆け寄った。


「横になったままで大丈夫よ、ハーマイオニー。さっき石化が解けたばっかりなんでしょう、無理をしないで…。」


ヨゼファはひどく心配そうに声をかけるが、何故かハーマイオニーは固まって碌に言葉を返せずにいる。

ヨゼファは苦笑し、ハリーとロンへと向き直ってはポンポンと彼らの頭を軽く撫でた。


「三人とも、無事で本当に良かったわ。……まったく…去年も思ったけれど、貴方たちには驚かされてばっかりよ。」

「すみません……。」


ハリーが謝ると、ヨゼファは手を振っては「違うわ、怒ってるんじゃないの。」とすぐに否定する。


「私はね、感心しているの。ほんの十歳と少しの子供が、大人以上の勇気と知恵を持って悪いものに立ち向かっていくんですもの。とっても素晴らしい思うわ……、お互いがお互いを本当に強く信頼しているのね。」

毎度肝を冷やされることも事実だけれどね、とヨゼファは困ったように笑ってみせた。


「秘密の部屋の怪物もいなくなって、幸いにも皆怪我だけで済んだわ。私たち教師も職場から追われずに済んだし…貴方たち三人には感謝してもしきれないのよ。」


ヨゼファは掌中にあった白い紙の箱をテーブルに置き、ハリーたち一人ずつを抱きしめた。

抱かれる瞬間には、予想した通りにいつもの淡い花とインクの匂いが香る。ハリーはこれが好きだった。きっと母親が今でも生きていたら、彼女のような人に違いないと…いつでも懐かしい気持ちにさせられる。

ロンは若干気恥ずかしそうにしていたが、ヨゼファの抱擁を受け入れてはくすぐったそうに笑った。こう言う時の彼は本当に子供のような表情をする。

そうして先ほどから固まっていたハーマイオニーだが、同様に抱き締められてようやくハッとした表情になる。少し戸惑った後にヨゼファの首へと腕を回して抱き返すらしいが、どうにもそれが長い。

中々離れないハーマイオニーの様子をハリーは伺うが、彼女が泣いているのだと気が付いて、ロン共々視線を逸らしてそれを見ないようにしてやった。



『お前たち、私を悪と見なすならあの女は底なしの巨悪だよ!あの女の…ヨゼファの正体を知らないのか?闇の、最も闇に近しい魔女だよ、汚らわしい…!!』



それは、こちらへ忘却魔法を放とうとしていたロックハートが最後に叫ぶように吐き出した言葉である。

気が動転して訳の分からないことを口走ったのは理解出来たが、それでもヨゼファのことを選んで貶めたのが疑問であり、また殊更ハリーの気に触った。

ハリーは呪文を唱えようと口を開きかけるが、それよりもロックハートが自爆する方が早かった。



……………ようやくハーマイオニーの腕から解放されたヨゼファは立ち上がり、自らの黒いローブでハーマイオニーを隠すようにしてやりながらハリーとロンへと向き直る。


「今日は三人にお見舞いを持って来たのよ。」


そう言っては改めて白い紙箱を手に取る彼女の穏やかな顔を見て、ハリーは心の芯が暖かくなる感覚を覚えた。

やはりヨゼファはヨゼファだった。最初に会った時から一貫して優しくて、味方でいてくれる。


箱の中は白いクリームで綺麗に表面をコーティングされたケーキだった。その上に赤い苺が行儀良く等間隔に飾られて、まるでおもちゃのように可愛らしい。

ロンの歓喜の声に誘われて、ハーマイオニーも目頭がやや赤い状態で後ろから顔を出してはそれを覗き込む。


「お気に召してもらえたみたいで嬉しいわ。前に日本の雑誌で見かけて、なんて可愛らしいんだろうって思って真似して作ってみたのよ。」

「先生が作ったんですか?」


ロンが意外そうに尋ねれば、「そうよ。」と彼女は笑顔で応えた。


「先生も料理するんだ…。」

「そりゃそうよ、やもめ生活も長いもの。夏休み中は普通に自炊よ。」

「そっかあ、大丈夫だよ先生。きっと良い相手見つかるよ…。」

「あらやだ、生徒に心配されるようじゃ世話ないわね。」


ヨゼファは悪戯っぽく笑ってロンの鼻をつまんだ。彼は少しワタワタとしながら急いで謝罪を口にする。

その様が妙に笑いを誘って、ハリーとハーマイオニーはひとしきりの笑い声を上げた。


「さぁどうぞ、適当に食べて。」


そう言って、ヨゼファは医務室から立ち去って行った。


手元には、彼女が一緒に持って来てくれたエルダーシロップのジュースが注がれたグラスがある。そこへと窓から初夏の透明色の光が射して、傷だらけの木の床を金色にぼやかしていた。

ハリー、ロン、ハーマイオニーは顔を見合わせて、とりあえずは改めてお互いの無事を祝った。


「……で、何に対して乾杯する?」

「ハーマイオニー回復おめでとうかな。」

「貴方たちだってひどい怪我をしたでしょう。その回復もお祝いしたいわ。」

「ホグワーツにも平和が戻ったし。」

「それじゃあホグワーツに乾杯?」

「じゃあそんなところで、ひとまず。」


「「「ホグワーツに、乾杯!」」」



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