骨の在処は海の底 | ナノ
 セレナーデ

明け方にほど近い時間帯…しかしまだまだ周囲は色濃い闇に覆われていた…ヨゼファはハタと目を覚ました。


(…………………?)


違和感を覚えたのだ。


ベッドから起き上がると、身体を支えた腕の付け根…肩から首筋が鈍く痛んだ。

これはいつものことである。ハァと息を吐き、ヨゼファはその原因…隣で深い眠りの淵に落ち込んでいる男のことを見下ろした。

掌を伸ばし、その黒く柔らかな髪をクシャリと撫でる。

死んだように眠っていた。ヨゼファが非常に眠りが浅いのと対照的に、スネイプはいつも谷底深くに落ち込む石のように眠り続ける人間だった。


首筋へと指先を滑らせる。鋭く痛んだ。生傷となって肉が覗いてしまっているようだった。

所謂普通の恋人同士若しくは夫婦間で行われる愛情表現である…キスに伴う鬱血を残すだけでは彼は足りないらしい。

確かめた様子だと、幾重にも鋭く噛まれた首筋の薄い皮膚は裂け、その痕跡が歯型に沿って連なっている。恐らく背中にも、弓形の爪痕が引き摺られて赤い線となっては浮かんでいるのだろう。


病的だな、とヨゼファは冷静に考えた。再び溜め息を吐く。

彼の精神が不安定な時、その傾向はより顕著になる。


(別にそれは良いの。大したことじゃない。)


心配なのは…自分を傷付けた後、彼も余程同じくらいに傷付いて草臥れてしまっている事実である。

ひび割れたガラスのコップのような人だ。周囲が羨むほどの知識と能力、強い意志と冷静な判断力を有しているにも関わらず、いつでも満たされないで生きている。


ヨゼファはスネイプの髪を静かに撫で続けた。


(素敵な人…。)


感慨は自然とこみ上げていく。

眉根を寄せて、心象に思い浮かんだことを言葉にした。


(私の愛しい人。)


半身だけ起こしていた身体を折り、未だ眠り続けている彼へと額をコツリと合わせる。


「私は、貴方になにをしてあげられるのかしら?」


微かな声で囁いた。返事はない。相も変わらずスネイプは眠り続けている。


「望んでくれるなら、骨から肉まで差し出せるわ。私はどうすれば良い?一体…どうすれば……、」


愛する人間に求めてもらえるのは嬉しいことだった。しかしその度に彼は何かを消耗させてしまっている。

やはり出会わなければよかったのだろうかと時折考えるが、それはあり得ないとすぐに強い心の音が打ち消す。


(だって私は会えて嬉しかったもの。……分かり合えて、本当に。)


「ありがとう…。」


呟き、ヨゼファはスネイプから離れてまた半身を起き上げる。

今夜は彼女の部屋だった。スネイプの部屋のベッドよりも些かサイズの小さいここで、度々二人は窮屈に身を寄せて眠った。


ヨゼファはサイドテーブルに無造作に積んでいた紙束の中から一枚を的確に引き抜いた。

青いインクで魔法陣が構成された羊皮紙を水平に掲げ、フウと息を吹きかける。細く緩やかな曲線で構成された魔術が弱い息に煽られ、さざめいて小さな煌めきをスネイプへと飛ばした。

輝きは横たわった彼の身体へと雨のようにパラパラと降り注ぎ、その皮膚へと触れて姿を消す。

簡易的な清浄の魔法陣である。朝が非常に弱い彼は稀にシャワーを浴びる余裕が無いケースがしばしばある。今夜のように無理をしたときなどはまさにそれだ。


(………………。あんまり体力ないのに。)


ペチ、とその白い額を軽く叩いて笑みを漏らしてから、ヨゼファは自身の身体の具合を確かめる。


(これは…ダメね。魔法陣で肉体の表面だけを清めても。)


再三度溜め息を吐いてヨゼファはベッドから起き上がろうとした。

しかし腰に回されていた腕がそれを留めた。……彼は起きている訳ではないらしいが。(いつの間に。)と考えて瞬きを数回。しかしそれ以上に微笑ましくて、彼のこめかみに一度キスを落とした。


「シャワー浴びてくるだけよ。必ず帰ってくるわ。………だって貴方、私が起こさないとうっかり寝坊するでしょう。」


可笑しくなってクスクスと笑いながら、ヨゼファは戯れるように彼の肉が落ちた頬を撫でては黒い髪をかき上げてやった。


(夜が。この夜が永遠ならば良いのに。)


目を細めて、そんなことを考えながら。







そしてシャワーを浴びて一息をついていた時である。

また、違和感を覚えた。


(………………………。)


先ほどはすぐに失せた気配である。勘違いかと思った。

だが今回はより近く、より強くに感覚を覚える。


ヨゼファは目を細め、裸の素肌に一枚の寝間着を引っ掛けてはそれを探ろうと自室の外へと足を延ばした。

……………自分のベッドで死んだように眠っている彼のことが些か気にはかかったが。


光ひとつ見当たらない黒く長い廊下へと至る。

ヨゼファが歩く度に ジャッ ジャッ ジャッ と重たい金属が擦れ合うような音が鳴り、廊下の広大な壁面の内側から黒い水が滲み出して濡れていく。

既に彼女の自室周辺の領域フィールドはその禁じられた魔法陣が及ぶ範囲となっていた。

どす黒い液体はかつて彼女がこの壁面になぞらえた血液の図象を浮かび上がらせ、連鎖しては床へと垂れていく。


(……………………。おかしい。この近くで確かに。)


血液の魔法陣によって、学校ホグワーツと彼女の骨肉は繋がりを持って連動していた。取り除くべき異物・・・・・・・・の気配を探ることが出来る。

最もこの学校の広大さである。血液の量も限りがある故、未だ二分の一弱、及び未確認の隠し部屋はその範囲では無いが。


やがて壁面に描かれた象形は滲んで混ざり合い、ひどく巨大な魚のシルエットとして壁面、床下、天井をヨゼファの傍を周回して蠢いた。重たいあぶくが潰されるような音がどこか遠くから響いてくる。

彼女の魔法陣の所為で、未だ秋にもなりきらないというのに廊下の温度は一気に落ち込んだ。

ヨゼファは耳を澄まし、異物の気配を静かに探る。壁面には汚水のように汚らしい色の液体がそのグロテスクな陣の形を描いていた。これは地獄の一部を切り取った情景だ、とヨゼファは勝手に考えた。


(ああ、居た……!)


目的の気配らしきものがほんの微かに息衝くのが分かった。ヨゼファは勢いよくその方へと首を回す。その場所を目指して ジャッ ジャッ ジャッ と重たい金属が擦れ合う不快な音が再度鳴り、壁面に浮かび上がる象形は豪とした速度でそこへの距離を詰めた。

長い廊下の角を折れたすぐそこの筈だった。しかし、気配は煙のように失せる。

少しの沈黙、静止の後…ヨゼファは異物の気配を覚えた場所へと歩み至った。

やはり、そこには何もない。遠大な廊下が真っ黒い口をぽっかりと開けて遠くまで続くばかりである。


「ヨゼファ。」


覚えがある声で名前を呼ばれ、彼女はその方へゆったりと首を回した。

ダンブルドアはヨゼファの魔法陣が黒く引き摺られた痕跡を眺め、今一度彼女の名前を呼ぶ。


「一体…何をした?」


その声はいつもと異なり、低く重たかった。

ヨゼファは老齢の魔法使いへと身体を向けつつ、黒い闇が漂う中空へ掌をそろりと滑らせる。

壁面と床、天井を覆い尽くしていた魔法陣は潮が引くように跡形もなく消えた。元のようによく磨かれた大理石が淡く光るだけである。


「先生…、良くない事態ですよ。」


ダンブルドアの元へと歩み、ヨゼファもまた低い言葉で応えた。


「学校に、取り除くべき異物・・・・・・・・が、悪意を持った何か・・が紛れて居ます。去年のようなトロール如き生易しいものではない。………私の魔法陣の手を逃れました。得体が知れません。」

「落ち着きなさい。君の血液の魔術は軽率に使用して良いものではない。」

「承知しています。しかしこんなことは、こんなにも強い悪意に…たった一瞬ですが…触れたのは初めてです。絶対に何かが良くない…!この学校の空気がおかしな方向に傾いている。」

「ヨゼファ。」


ダンブルドアが、ヨゼファの胸元を掌で抑えた。

彼の長い指が離れた後、肌蹴た寝間着から覗く自分の皮膚へと視線を下ろす。

先ほど壁面に現れた図象と同様…醜形の魔術がまた新しく、肌へと黒く焼き付いていく最中だった。


「…………自分の身体への負担を考えなさい。」

冷静に、


細長い指を一本真っ直ぐに立て、ダンブルドアは教子に向かい合うようにして呟く。

ヨゼファは瞼を伏せ、すみません、と謝罪をした。


「君が独断で魔法を行使させる事態だ。……軽くは扱わない。」

「でも……、私は逃しました。まだこの学校にいるんですよ。………いつかこういう状況に陥ることは予想していましたよ、ここ最近の闇の魔術の界隈を取り巻く不穏な動きを考えれば。」

「君はあちらから攻撃を受けたかね。」

「いいえ。」

「それならば、向こうは君に立ち向かうだけの力が無いことを示唆している。すぐに最悪が起こるとは限らない。見当が付かないまま闇雲に攻撃をしても仕様がないだろう。………君は生身の人間なのだよヨゼファ。無理をすると魔法に肉体を持っていかれる。だから今は気持ちを落ち着かせることに専念しなさい。」


ダンブルドアの諭すように言葉に耳を傾け、ヨゼファは面を伏せる。

顔へと掌を当て、弱く首を振った。か細い声が自分の唇から漏れていく。


「でも……生徒が何かの被害を被ったらどうするのです。取り返しがつかない事態になったら。私は気が気では無い……。」


髪へ、そろりと指先が滑っていくのが分かった。その優しすぎる所作にヨゼファは思わず呻く。


「昔から……」


ダンブルドアが零す声が、伽藍とした広大な廊下でへんに響いて聞こえた。


「君は優しい子だ。」


ゆっくりと手を離し、彼はヨゼファの肌蹴ていた薄い生地の寝間着の前を丁寧に直していく。

青白い肌に浮き上がった黒い文様が隠されて安堵したのか、ダンブルドアが小さく嘆息したのが分かった。


「………………。セブルスは、知っているのか。」


彼は今、ヨゼファの肌に浮き上がる魔法陣ではない人的な外傷を認めたのだろう。思い出したように呟く。

ヨゼファは一番深いであろう、首筋に等間隔に並んでいる歯列の形を隠すように掌で覆った。


「私の肌に刻まれた魔法陣の由来は知るところですよ。どう言うものであるかも分かっています。………でも、私と校長先生が十年近い歳月をかけて築いているこの学校の魔法のことは…今のところ、まだ。」

「なるべく早くに伝えた方が良い。もしセブルスが望まぬ形で事実を知った時、それは彼を非常に悲しませる。」

「そうですね。…………分かっています。」


口を噤んだヨゼファへと、ダンブルドアはようやく緊張を解いて笑いかける。

その穏やかな表情につられてヨゼファも弱く微笑んだつもりだった。うまく笑えたかどうかは定かではないが。


「………部屋に帰ってあげなさい。待っているかもしれない。」

「まさか。明るくなるまで起きっこないんだから。」


誰がとは言わずに彼についての会話を交わしてから、二人は夜の挨拶をしてはその場を別の方向へと後にした。







教室の扉がけたたましい音を立てて開き、女生徒の一人が転がるようにして廊下へと飛び出してくる。

運が悪く、開いた扉のすぐ傍を通りかかっていたヨゼファは彼女と真っ向からぶつかってしまう。


「わ、大丈夫?……ごめんなさい。」


幸いにも小柄な生徒だった為にヨゼファはバランスを失うことはなく、彼女の双肩を掌で支えてやりながら謝罪をした。

勢い余って胸元へと突っ込んで来た彼女は焦ったように体勢を立て直し、「い、いや……大丈夫…いや、全然大丈夫じゃなくて、」と半ばパニックで言葉を返してくる。


そもそも今は授業中の時間であり、女生徒の冷静でない様子から何かが普通ではないと…ヨゼファは察する。………ハッと青ざめて彼女が飛び出して来た教室の扉を確認した。昨晩のことを連想せざるを得なかったのだ。


(闇の魔術に対する防衛術………)


真鍮のプレートに刻まれた、その教室の為の授業名を心の内で読み上げた。

何があったのかと女生徒へ尋ねようとするが、その前に彼女が「先生!」と声を上げてはヨゼファの黒い両袖を掴んでくる。


「ああ、ヨゼファ先生がここを通りかかって本当に良かった…!今教室が滅茶苦茶なんです、お願い、助けてください…!!」


促されて、ヨゼファは迷いなく真鍮のドアノブに手をかけてそれを捻る。開いた瞬間何かが中々のスピードで顔面めがけて飛んでくるので、ヨゼファは反射的にそれを虫を払うようにして掌底で叩き落とした。


「ん?なにこれ。」


見ると、それは虫ではない…しかし背中に羽を持った…そこそこ不細工な妖精だった。

ヨゼファは自らの張り手によって無残に地面へと叩き付けられたそれを指で摘んで拾い上げては首を傾げる。……その際に満身創痍の妖精に随分と口汚く罵られたが、それは聞かなかったことにした。


(………………………。)


ヨゼファは溜め息を吐く。そうして教室の惨状を見渡して弱く頭を振っては机上で倒れていたインク壺を縦に戻し、床にばら撒かれた有象無象の筆記具たちの中から羽ペンを拾い上げた。

小脇に抱えていた羊皮紙の束から一枚を取り出し、描いた正円の中に内側へと向かうベクトルを基調に魔法陣を構成する。薄い紙を中空へと離すと、羊皮紙はひとりでに宙へ滑り出してクシャリと音を立てながら大きくなっていく。

乱れた教室を海鷂魚エイのようにゆったりと泳ぐ薄い羊皮紙は、クシャリクシャリと音を立ててそこへとぶつかったピクシー妖精を捕まえては体内へと丸め込む。

全てを捕らえ終えて傍へと戻って来た紙の海鷂魚エイを、ヨゼファは大きめの鳥籠…恐らく妖精たちが収められていた…の口をパチンと開いて中へ導く。内包された妖精たちが何やらやかましく騒いでいたが、羊皮紙は静かにその巨体を折り畳んで丸まり、鳥籠の中へと収まって行った。

鍵を閉め、錠を下ろす。


……………教室の被害、そしてピクシー妖精の度の過ぎた悪戯を被った生徒たちの消耗は著しいものだった。

怪我人がいなかったことだけが幸い、とヨゼファは溜め息を吐いて生徒たちを見回す。彼らもまたヨゼファのことを見ていた。


「…………それで。」


こめかみを親指の腹でトントンと軽く叩いて、ヨゼファは彼らへと話しかける。


「一体なにがあったの?」







机の上に、重たそうな音を立てて鳥かごが置かれた。今まさに自身の書籍の新刊へのサイン入れを忙しなく行っていたロックハートは訝しげに顔を上げてその方を見る。

鳥かごの中には羊皮紙が巨大な卵のように丸まって収まっている。…その下から何かが激しく呻いている声が聞こえた。


「ロックハート先生。」


鳥かごを彼の眼前、机上に置いたのは覚えがある今の仕事の同僚…ヨゼファだった。

彼女は腰に手を当て、片眉を上げては名前を呼んでくる。


「こんなことは困りますよ。生徒たちがどれだけ大変な目に合ったか。」

「なんのことです?」

「なんのこと?とぼけて言ってるなら呆れますし、本当に分からないんだったら人格を疑いますよ。危険な妖精を教室にばら撒いておいて、先生である貴方が授業放棄するなんて。あまりにも無責任です。ちょっとは立場を考えてくださいな。」

「………………。おばあさんみたいな物の言い方しますね。失礼ですが、貴方幾つですか。」

「おばっ………。少なくとも孫がいるような歳ではありません。」

「そうですか、マクゴナガル先生と同じくらいの歳かと。」

「ええ……。マジ?」

「それにしてもヨゼファ先生、貴方の方から私に会いに来てくれるなんて嬉しいですね。もう一度ゆっくり話してみたいと思ってたんです。さあ、座って座って。」


ヨゼファが応える前に、ロックハートは自らの杖で彼女の為の椅子を引き寄せる。しかし勢い余った所為で、木製の椅子はヨゼファの脇腹にそこそこの強さで体当たりをかますに至ってしまった。彼女の口から低い呻き声が漏れる。


「あ、失礼しました。」


謝ると、ほとほと弱り切った表情でこちらへと視線を返された。

それをあまり気にせず、彼はヨゼファの背後の鏡に写る自分の髪型の様子を確認しては軽く手直しする。彼女はよろよろと椅子に腰掛け、それが終わるのを律儀に待っていた。


「これは…魔法陣を使用したんですか?」


妖精たちを頑なに閉じ込めている紙を視線で示して尋ねると、彼女は首を縦に振って肯定する。

ロックハートはにこやかに「素晴らしい!」ととりあえずの賛辞を送った。


「私は昔から魔法陣に興味がありましてね、貴方の本にも勿論目を通させていただきましたよ。」

「はあ…。どうも。」

「そして…話と言うのはですね………、私が貴方のことを少し調べさせて頂いたのは前に少しお話しました。そうして…そこで悪気なく、本当に偶然にも貴方の良くない噂を耳にしてしまったんですね。…………。ヨゼファ先生のような素晴らしい方にそのような話題が上がるのは不自然だなあと私は思いましたよ。」


不穏な空気を感じ取ったらしく、ヨゼファは無言のままこちらを伺うようにしてくる。

ロックハートは大仰に掌を動かし、「ああ、不安がらないでください。私は貴方の味方ですから!」と言っては自分の中で一番に魅力的だと思う笑顔を彼女へと向けた。


「話を続けます…それで……ですが。その話を聞かせてくれた方は社会的にも地位の高い、信用がおける方だった。だからこれが全くの嘘という訳でも無いと思うんですよ。」

「…………つまり。どういうことですか?」

「ヨゼファ先生、貴方には前科がお有りだ。アズカバンに収監されたことがある。」


咄嗟に立ち上がろうとしたヨゼファの腕を掴み、着席を再び促す。悪びれずに、心からの謝罪をひとつ。


「申し訳ありません。……ですが、そう考えると全てに合点が行くんですよ。十年ほど前ですか、貴方は五年間休職されている。にも関わらず、その際の貴方の動向を誰も知らない。何故…その理由までは聞き及びませんでしたが、収監されたとなれば、家系図から抹消される充分な理由になります。それを行うだけの充分な経済力があるお宅であれば尚更ね。」


一口に話す。ヨゼファは暫し沈黙していた。やがて彼女は何かを考えるように口元へと指を持って行った。血色の悪い指だな、と端的な印象をロックハートは受けた。


「………………で?」


ヨゼファは青い瞳と共にその指をピと一本立ててこちらに向けてくる。


「それで。もしそうだとして、ロックハート先生。一体私にどうして欲しいのです?」

「単刀直入に言います。貴方が今まで出版した著書の権利が欲しい。もっと様々な人が分かりやすいように、尚且つ感動を呼ぶように…私なら、正すことができる。」

「はあ…。ですからあれは学術書です。貴方が書かれるファンタジックな物語とは違うのです、感動を呼び起こさせる必要もない。それに私の学問に興味を持ってくれた方であれば、充分に理解が出来る内容になっています。」

「物語?ノンノン、違いますよ。あれはエッセーです。ノンフィクションの。私の物語。」

「それはどちらでも構いません…。ロックハート先生、貴方魔法陣に興味がお有りならご自分で執筆なすれば良いのです。貴方が思うようなご本を。私の本の権利をわざわざ脅すような真似をして奪う必要もない。」

「ああもうひとつ言い忘れてましたが。本の権利だけじゃない、貴方が発見した魔法陣に関する様々な法則…それを私が発見したことにして欲しい。」

「意味が分かりませんよ。あれは私一人の力で発見したものではありませんし…それにまだ未知数の魔術です。私はこれからも研究を進める必要がある。」

「どうぞご自由に。ではこれ以降の貴方の発見や学問的価値のある論文も、全て私のものにしましょう。そうすれば不自然がない。」

「貴方ちょっと頭おかしいですね…。言ってることが支離滅裂ですよ。」


脚を組んで腿に頬杖をついてるヨゼファへと、ロックハートは素早く懐中の杖を抜いてみせた。

彼女は視線だけ動かして杖の先をチラと見つめる。


「ヨゼファ先生。本来ならこの一瞬で全ての片が付いてるんですよ。私は貴方の秘密をきちんと守り抜くつもりです。忘却魔法を使用せず貴方へ取り引きを持ちかけたのが、私の温情だとまだ理解できないのですか。」


ヨゼファは動かずにこちらの出方を伺っているようだった。

いや…動けないのだろう。彼女が言葉を使用した魔術が不得意なのは概知である。今この状況で新たな魔法陣を構成する道具も時間もない。自分に従う選択肢以外は残されていないのだ。


「温情…何故今更そのようなことを。その様子から察するに、今まで何人もの英雄の記憶と人生を無慈悲にも破壊されたんでしょう。」

「それは貴方が女性だからですよ。私は自らが紳士であると自覚していますから。」

「…どうもありがとう。まともに女性扱いされたことが無いので、なんだか新鮮ですね。」


ヨゼファはゆっくりと立ち上がる。

その動きを追って、ロックハートの杖先も動いた。彼女はそれを特に気にかけず部屋の出口までゆったりとした足取りで歩んで行く。


「…………考えさせてください。それだけのことですから。温情ついでに少し時間をいただいても?」

「もちろんです。良いお返事を期待していますよ。」


黒いローブを翻して部屋を後にするヨゼファを見送ってから、ロックハートは思わずほくそ笑んだ。

うまくことが運んでいると思ったのだ。

このまま行けば自分は今までより一層、学術的にも大きな名誉を得ることが出来る。



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