骨の在処は海の底 | ナノ
 一つの光

禁じられた魔法陣・認可されざる魔法陣・呪いに通じる魔法陣とその使用方法


・人体に直接魔法陣を構成すること

 魔法陣は描画を構成する素材と描かれる支持体によってその効果が左右されるから、このふたつの誤りには殊更留意して頂きたい。
 人体に陣を直接構成する行為は推奨されない。支持体に痕を残さない魔法陣の発動は困難で、ほとんどの場合、皮膚、肉、骨、及び内臓に重大な欠陥を残す。
 また一度構成された魔法陣は陣が消去されるまで効果が持続する。素材が変質して取り除くことが困難な場合、皮膚を刮ぎ落とさない限り人体は軽くない負担を強いられる。


・魔法陣の構成に生物の体液を使用すること

 生物の体液は非常に強い魔術を呼び起こすし、効果も直接的な利益、破壊に直結する。
 魔法陣は純粋な利益と破壊を好まない。禁じられた体液を無理に用いた術者はその人体から幾許もの代償を要求される。
 体液が赤に近いほど、生物の自我の意識が強いほどに魔術は強力になる。
 例として、虫類の体液の使用は許可されている。これは虫類の体液が赤ではなく、彼らの自我が希薄であることに由来する。
 哺乳類の体液の使用もまた一部を除き禁じられている。まず血液。精液。魚類の青い血液を使用することも推奨されない。稀にひどい事故を起こす。
 最たるは人体の血液。使用が認められた際、発動の是非を問わず術者の速やかな処刑が認められている。


・具体的な道具を用いず構成された魔法陣の使用
 
 魔法陣が杖と言葉を使用する魔術と最も異なる点は、陣を構成する必要の有無ではなく、魔術の大小に応じて術者が代償を支払う必要の有無である。
 許可された魔法陣のほとんどは、目に見える形の素材、支持体を用いて陣を正確に描写する手間によってその代償が支払われる。(例えばインクとペン、紙。筆と顔料、壁面。)(求める魔術の規模に比例して図象が複雑化する所以である。)
 中空、水面、及び水中、本来であれば描写が不可能な場所へ魔法陣を構成する場合は他の代償を求められる。
 詳細は不明。不安定な支持体へ魔法陣を構成した明確な成功例と、それに関する記録は極僅かである。


 上述三つの使用及び使用の痕跡が認められた場合、術者は直ちに魔法省によって拘束される。
 その後危険魔術の拡散を防ぐため、術者には適切な処置が施される。




朝早いにも関わらず、フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店内では店員がせわしなく行き来をしていた。

その様をヨゼファは不思議に思い、近くを通りすがった若い女性スタッフへと声をかける。


「なんだか賑わってますねえ…。」

「ああ、ヨゼファ先生!こんにちは、いつもどうもありがとうございます。」

「いいえ、お店が繁盛してると忙しくて大変でしょう。」

「嬉しいことなんですけれどね。先生の新刊もよく出ていますよ。私も購入したので今度サイン入れてくださいね。」

「そんなもの…いくらでも。どうもありがとうございます。それにしても今日はどうしたんです。何かイベントでもあるんですか?」

「そうなんですよ。今日は作家さんの新刊発売に合わせてサイン会があって。ご存知ですか?ギルデロイ・ロックハート先生。」

「ああ……名前だけな「勿論ご存知ですよね、ヨゼファ先生。」


明るくはっきりとした声がヨゼファと若い書店員の会話にかぶせて発せられた。

二人がその方を向く前に、大きな掌がヨゼファの手を取って力強く握手を行う。

更に上下にそこそこ激しく振られるので、状況についていけないヨゼファは目を白黒とさせてしまった。


「あらロックハート先生、ヨゼファ先生とお知り合いですか?」

書店員は弾んだ声でブロンドのハンサムな男性へと声をかける。

彼は髪をかきあげては「ええ、勿論!作家仲間ですよ。」と爽やかな笑顔で応対した。


ヨゼファは瞬きをパチパチとして彼のことを眺めては、「えっと…そうでしたっけ。」と笑みに苦いものを混ぜる。


「確かロックハートさんと私は初対面だったと……思うんですけれど。」

「ああ、ヨゼファ先生!そんなことは大した問題じゃありません。貴方の著作は確かに固く、作家と呼ぶには今ひとつ足りないものがあるかもしれない。けれど私は貴方のことを同じ土俵の人間と考えている。発行部数は私に比べたら幾分も少ないかもしれませんが、貴方もまた偉大な作家の一人なのですよ。」

「いえ…そもそも私は作家ではないので。出版しているものも学術書のみですし…。」

「そうしてヨゼファ先生は歴史ある偉大な学び舎、ホグワーツの先生でもいらっしゃいますね。ここがまた私との共通点。」

「あらあ…貴方人の話聞きませんねえ。」

「そうなんです、私は今年からホグワーツで最も重要とされている教科、『闇の魔術に対する防衛術』を任されることになっていて。」

「校長先生は本当に変人が好きねえ。私含めてホグワーツの教員でまともな人間って滅多にいないわあ…。」

最早会話が噛み合っていないことを良いことに、ヨゼファはぼやきに似た独り言を呟いた。


「そしてヨゼファ先生!!」

しかし間髪を入れずにロックハートは彼女へと人差し指をピシリと向けてくる。

ヨゼファは彼の勢いに気圧されながら、「は、はい……。」と応えた。


「私ね、前から気になっていたんですよ。ヨゼファ先生はどの著作物でも…調べてみたら学校でも。名乗るのはファーストネームだけじゃないですか。貴方の姓が私は非常に気になった。ここ・・に、何かが引っかかったんですね。」

ロックハートは伸ばしていた人差し指で自分のこめかみの辺りを軽く叩く。

ヨゼファは苦笑のままで、握られっ放しだった手をそろりと引き抜こうとした。しかしそれは適わず、更に強く掴まれる。


「気になるなあ、貴方のファミリーネームを私に教えてくれませんか?」


伺うよう下からに顔を覗き込まれるので、ヨゼファは眉を下げて困惑を表現する。

助けを求めようと周囲を見渡すが、先ほど会話を交わしていた書店員も既に仕事に戻っており、忙しない空気が漂う店内ではこちらに注目している者は運悪く誰もいなかった。

ヨゼファの戸惑いに気が付かず…気が付いているのかもしれないが無視して…ロックハートは言葉を続けていく。


「そして私は調べてみたんですよ。貴方の、特に出生に関する情報をね。」

「そうですか。好奇心としては…ちょっと行き過ぎだと思いますけれど。」

「そう、行き過ぎにならざるを得なかった。何故なら貴方の戸籍情報がどこにもないんです。どの父を経てどの母から、兄弟姉妹、あるいは子供の存在すら分からない。掴んだ情報といえば生まれがロンドンであることくらいで…まともならば有り得ない話だ。そんな風になってしまう・・・・・・・・・・・には必ず理由がある。」


歌うような口調で言葉を途切れさせず紡いで行く彼の整った顔立ちを見ながら…ヨゼファはマズいな、と思った。


(この人何か知ってる…もしくは察しているのね。)


「理由として挙げられるのが、ヨゼファと言う名前も偽名で貴方が過去の自分の記録をひた隠しにしている。若しくは何かの理由があって家系図の外へとつま弾かれた、です。能動的と受動的、ふたつの可能性がある。」


ロックハートは長い指を一本、二本立てながらこちらを吟味するように少しの間を置く。ヨゼファもまた黙って、続く彼の発言を待った。


「前者の可能性は、貴方がファーストネームのみの状態でロンドンに出生情報が届けられていることから消去します。残るは後者の可能性ですが…ただ家の系図から戸籍を除外する…増して完全に無いものにするには相当の手間と労力、金銭及びコネが必要で…裕福なご家庭でないと難しい。膨大な手続きのことも思慮に入れれば、そこまで徹底して行うにはよっぽどの理由、原因が必要だ。」

「お言葉ですがロックハート先生、何が仰りたいのか…よく分かりません。」

「そうですか、それは本当に申し訳ありません。私はね、先ほど述べたことから貴方が何か理由ありの人物だと思ったんです。けれど今…ヨゼファ先生と話して、物腰穏やかで博識な、何も問題はないむしろ素晴らしい女性であると分かった。」

「はあ…、そんなことは親にも言われたことありません。どうもありがとう。」

「貴方はホグワーツという歴史ある学校で教鞭をとっていらっしゃる。大勢に慕われている。……私はね、貴方がこのまま心ない人たちに有る事無い事を噂されてしまうのが絶えられないんですよ。心が痛みます。」

「…………それは一体…どういう、「ああ、ママ、パパ、見て!!ヨゼファ先生だわ!!!」


二人の会話は、明るく弾んだ声によって一度遮られる。

ヨゼファは自分の元へ息継いでやって来ては胸に飛び込んでくる少女に反応出来ずにいたが、それがよくよく覚えがある生徒であることを認めてはホゥと溜め息を吐く。


「先生、ヨゼファ先生、すごく久しぶりだわ!ああごめんなさい、私ダイアゴン横丁に来るのも久しぶりだからなんだか舞い上がっちゃって。」

「大丈夫よハーマイオニー。この夏休み中に少し背が伸びたかしら、大人っぽくなった気がするわ。」

「ええ、この前測ったら2インチ伸びてたわ。」

「あら、それじゃあもうすぐに抜かされちゃうわね。」


ヨゼファは腕の中の少女を抱き返す力を強くして、思わず軽く頬ずりをした。緊迫した空気からの解放に安堵したのである。

しかしハーマイオニーの身体が緊張するのが分かったので、一言謝罪して彼女を解放してやった。

ヨゼファはハーマイオニーの手を引いてロックハートから距離を取り、「それでは…」と言葉をかける。


「次は学校でお会いしましょうか、ロックハート先生。」

「もちろんですヨゼファ先生。またお話しさせてくださいね。」

「ええ。でも私はつまらない人間ですから、貴方の話し相手には退屈ですよ。……きっと。」

「そんなことはありませんよ。ああそうだ、お近付きの印にこちらを。本日発売の新書ですよ、サインも入れておきます…特別ですからね。」


ロックハートは慣れた手付きで、どこからか取り出した羽ペンで書籍の見返しへと自分の名前を綴った。そうして殊更爽やかな笑顔で手渡しては立ち去って行く。

逆にヨゼファは些か消耗して首を振り、受け取った書籍を見下ろしながら自らの額へと掌をあてた。


「先生…。あの人…ギルデロイ・ロックハートですか?本物?」


そんな彼女へと不思議そうな表情でハーマイオニーが尋ねてくる。

ヨゼファはハッと気を取り直し、自分へと向かう生徒の視線を受けてはいつものように笑った。


「そうね、どうやら本物のようよ。」

「友達なんですか?」

「さあ……。どうなんでしょう。」


ヨゼファはぼやくように曖昧な反応をしながら、ハーマイオニーの柔らかい栗毛をポンポンと軽く撫でる。

彼女はヨゼファの憂いに気が付かないでいてくれてるらしい。嬉しそうにしながら、白い頬をうっすらとピンク色へと染めていく。


「私、先生に頭撫でてもらえるの好きよ。」

「そう?貴方が喜んでくれるならいくらでも撫でちゃう。」

「うん…。でも少し恥ずかしいから、皆が…あんまり見ていないところでやってくださいね。」

「分かったわ。心得ておくわね。」


笑みを穏やかにして、ヨゼファはそっと瞼を下ろした。

どうやら今年も何かと忙しくなってしまいそうだが、どうにかやりきって見せようと…ぼんやり思いを巡らせながら。







(まあ、今日は厄日だわ。)


用事を済まし、ハーマイオニーとその両親に別れを告げて書店を立ち去った道すがらである。そこで出会った人物を目の当たりにして、ヨゼファは少しだけ肩をすくめてしまった。

出来れば彼を避けて通りたかったが、向こうがこちらを認めて足を留めてしまっている時点でそれは無理だろう。

ヨゼファは笑みの苦さを悟られないようにしながら、「こんにちは。」とルシウスへと挨拶をした。


「………………こんにちは、ヨゼファ先生。」


それに応えて、ゆったりとした声色でルシウスが言葉をかける。先生、という言葉にどこか含みを持たせて。


「…………。新学期の準備は終わりましたか?一年生ほどじゃありませんが、二年生は準備するものが多くて大変でしょう。」

「ええ、息子はこの一年で身長が大分伸びたので…今、制服を作り直しているところですよ。子供の成長というのは実に目覚ましい。」

「それは素敵ですね。」

「ドラコの学校での様子はどうですか、先生。」

「ええーっと、そうですね。元気が良い坊ちゃんです。………優秀な子だと思いますよ。」

「ありがとう。家で息子から貴方の話を聞きましたよ、なんでも声色がゆっくりとして優しくていらっしゃるから…授業中に眠気を誘われるだとか。」

「うーん…。そうですか、今度からはもっとドスが効いた声で授業しますね。」


あはは…と軟派に笑い、ヨゼファは自らの後頭部をワシャワシャと掻いた。ルシウスもつられて口角を僅かに持ち上げる。

どうもヨゼファは昔から彼と相対すると緊張して変な気持ちになるのだ。

……品定めされている。上品で優雅な所作でその本心を柔らかく隠してはいるが、彼は今こちらの動向と思惑を非常に注意深く観察している。


「………………。お忙しそうなところ、足を止めてごめんなさい。またお会いしましょう。」


ヨゼファは片眉を軽く上げて、話を切り上げようと早々に別れの挨拶をする。

しかし彼はそれを無視して言葉を続けた。……やはり、とヨゼファは心の内側で頭を緩く振った。


「貴方が教師になっていたとは。息子が入学して初めて知るところになりましたよ。」

「色々と世間が慌ただしかったのでお耳に入ることもなかったのでしょう。所謂木っ端教師ですから。」

「いやいや…貴方は大物だ。闇の魔術が蛇蝎の如く避けられている今も尚、彼の方・・・を裏切らず未だその忠誠を保っておられる。」

「なんのことでしょう。」

「惚けるな。ベラトリックスと会ったのだろう、獄中で。」


羽毛のように柔らかな彼の物言いが一転して低くなり、何かがヒュゥと空を切った。

ヨゼファは自身の首先に噛みつかんとしている鋳物の蛇をあしらった杖の柄を見る。……杖先ではなく、柄を向けてくるところは流石弁えた貴族の振る舞いと言うべきか。

ヨゼファは銀色の蛇の瞳と、同じく白銀色のかつての寮監督生の瞳を見比べては弱った、という表情をした。


「……………。情報通ですね、ルシウスさん。」

知らない・・・・とでも思ったのか?母親に似て浅はかな女だ。」

「誰のことです?私に母親なんていませんよ…っ!」


ヨゼファは杖の柄を強く握り、自らの首から無理矢理引き剥がす。

存外力が強くなかったので、ヨゼファはそれをルシウスの方へと些か乱暴に押し返した。


「ええ…そうですね。ベラには会いましたよ、ご存知の通り元気が良い人ですから。それなりに不自由なくやっていました。」


自分の元へと戻ってきた杖を静かに見下ろすルシウスへの距離を詰め、ヨゼファは言葉を返した。

彼は時間をかけてこちらへと視線を寄越す。例の如く長身のヨゼファと彼の視高の差はほとんどなく、二人はごく近い距離で互いの瞳の中を覗き込んだ。


「言っておきますけれど、私の前科は脅しの内容としては些か弱い。私が恐れるものはそう言った類とは少し異なるんです。悪戯に混乱を引き起こすことだって貴方の本意ではないでしょう。」


ヨゼファは更に彼へと顔を近付け、耳に唇を寄せて声を押し潰すようにしながら囁いた。

ルシウスは動かない。黙って彼女の言葉に耳を傾けている。


「………ロックハート先生に何を吹き込んだか知りませんが…先輩・・。頼みがあるなら面と向かって仰ってくださいな。貴方には恩がありますから、きちんと考慮するつもりです。」


ヨゼファは彼の手触りの良いローブの上から、胸の辺りをポンと叩いてやる。

笑顔を向けると弱く笑い返されるが…ヨゼファは少し首を傾げ、彼のローブに充てた掌でそこを掴んだ。


「失礼ですがルシウスさん。何か…お持ちでいらっしゃいますか?」

「何かとは…。」

「……………。心当たりが無いのであれば構いませんが…。そうですね、貴方ほどの身分の人ですから。身に付けていらっしゃる伝統的クラシックな装飾品の類がそう言った気配を帯びているだけかもしれない。」


ヨゼファはルシウスのローブから手を離し、距離を少し取っては空気を絆すように緊張感無く笑った。

彼もまたヨゼファから一歩離れるが、未だ伺うようにこちらを見据えてくる。


「ですがくれぐれも、学校ホグワーツに事件を持ち込まないでくださいね。ドラコにも貴方の不思議なおさがりの品を持ってこないように、よくよく注意してやってくださいな。」

「…………。すっかり先生のようだ。」

「先生ですから。」


ヨゼファは一礼して、今度こそ見目麗しい魔法使いへの別れを告げる。

相変わらず挨拶は返って来なかったが。







「有り得ない!!!!!こんなことが許されても良いのか!!????」


新学期初日…豪奢な晩餐会を済ました深夜の入浴後、広い脱衣所で肌を整えていたヨゼファの眼前に新聞紙が唐突に突きつけられる。

そうしては早口に言葉が紡がれるので、ヨゼファはぼちぼちとスネイプの訴えを聞き取る。だがそれにしても新聞がほとんど自分の顔面に押し付けられているので文面が全く読めなかった。

ヨゼファは怒り心頭で言葉を続けるスネイプへと適当に相槌しつつ、浴室の湿気によりペタリとしてしまった新聞を顔面から取り除いて視線を落とす。


(ははあ、)


と思い、ヨゼファはそれを脇に置いては濡れた自分の髪をカシカシと掻いた。


「真面目に話を聞け!!!!お前はハッフルパフの学生か!!!!?????」

「ハッフルパフの学生に随分と失礼な例えをするわね…。」

「そんなことはどうでも良い…!!話の論点をすり替えるんじゃないっ!!!」

「うーん…。ハリーとロンが空飛ぶ自動車?で学校までやってきて、尚且つそれがマグルに目撃されたのは褒められた事態じゃないわ。確かに。でも校長先生と彼らの寮担当のミネルバが既に対処したんでしょう、私たちが後からどうこう口出し出来ることではないわよ。」


ヨゼファは一度欠伸をして、引き続き着席したままで横に長い脱衣所の鏡へと向き合う。

教員は自室にシャワーが据えられていたが、それでも彼女はこの浴場を利用することが多かった。

ヨゼファは自身の短い髪を濡らす水分をタオルで拭い、(………ここ、女性専用なんだけれどなあ。)と考えながら、怒りが収まらない様子で額に青筋を立てているスネイプのことを見上げた。余程彼は誰かに愚痴を言いたかったようである。


「大体去年からそうだ…。思慮が浅く軽率が過ぎる若僧の癖にその自覚がない。自分ばかりが正しいと思っている。……規則違反も咎めなし。明らかに校長の贔屓が過ぎる……、何が選ばれた子供だ、良いご身分だとしか言いようがない。本当に…そういうところだ。父親そっくりで、虫唾が走る。」

「そうかしら………。私はどちらかというとハリーは母親に似ていると思うけれど。」


低い言葉で呪詛のように悪意を呟くスネイプへと応対しながら、ヨゼファは掌全体で自らの髪を頭皮から毛先へとゆっくりかきあげる。

水分がすっかりと除かれた髪は顔の周りにふわりと緩く落ちてくる。その様子を鏡で確認してから再びスネイプの方を見上げると、先ほどの激昂が嘘のように彼を取り巻く空気は静かだった。

着席しているヨゼファと彼との顔の距離は幾分か開きがあった。スネイプは真っ黒な瞳を冷え冷えとさせて、無言でヨゼファのことを見下ろしている。


ヨゼファは髪にブラシを通しながら少しだけ笑みを漏らした。


「だって、あの子は私のこと虐めないしね。」


ブラシが髪を通る心地良さに瞼を下ろしながら呟く。スネイプは無言だった。

ブラシを鏡台前の石のテーブルへコトリと置く。利用者の少ないこの浴室はいつも静かだった。今くらいの深夜の時間帯は殊更である。


スネイプが僅かに身を屈めてこちらへと指を伸ばすので、何かと思いながらその様子を見守る。

彼の長い指はヨゼファの頬をかすめて耳殻へと至った。そして近付いた時と同様、ゆったりと遠ざかっていく。その掌中には、いつも自分が耳にひとつ装飾している真珠が収まっていた。

「ああ…。いけない、外すの忘れてたわ。」

ヨゼファは一言礼を述べて彼の手の内からそれを受け取る。淡く光る小さな装飾品を暫時眺めてから、彼女は自然な動作で逆の耳もまたスネイプの方へと向けた。

沈黙のうちで、彼はヨゼファの耳からもうひとつの真珠を取り除く。自分の掌中へと収まったふた粒の真珠を眺め、ヨゼファは「安物よ、でも気に入っているの。」と聞かれてもいないのに呟いた。


* * *


「でも貴方はあまりこういうの好きじゃないわよね…。これでも色々苦労して化粧したりお洒落してるのに。」

ヨゼファは指先で白い真珠を摘んでは呟く。


「………………。好きでないわけではない。」

それにスネイプは抑揚なく応えた。彼女は特に気にしている様子もなく、「そう?」と返す。


「でも珍しいわよ、私の顔…化粧してない方が好きなんでしょう。ともすれば見失ってしまいそうなこの印象が薄い顔をね。」


ヨゼファは自分の顔をトントンと指し示した。どこか面白がっているのか、その笑みは濃くなり目尻も細くなっていく。

スネイプは瞼を緩く下げて彼女の顔を見下ろした。先ほど耳へと触れていた指で、掌で頬へと触った。湯上りだというのにその体温は低く、皮膚は冷たい。


「その方が………。昔の……学生の頃の面影が、まだある。」

「あら…貴方私の学生時代なんて覚えてるの。」


驚きだわ、とヨゼファは明るい声で言いながら立ち上がる。

視高の差がなくなり、いつものようにごく近くで二人は互いの顔を眺めた。ヨゼファはそっとスネイプの肩へと掌を置き、自らが先ほどまで腰掛けていた椅子へと彼を導いていく。

素直に従い、籐で編まれた座面へとスネイプは腰を下ろした。

ヨゼファは彼の双肩へと掌を置いたまま、後ろからこちらを覗き込んでくる。そして小さな声で、「貴方の髪、梳かしてみても良い?」と尋ねた。


無言のまま顔を伏せると、ヨゼファはそれを肯定と受け取ったのか彼の髪へそっと指を滑らせる。

少しの間ただそこを撫でながら、彼女はポツリと呟いた。


「私と貴方って髪質が似てるわ。……色は全然違うのにね。」


ヨゼファは先ほどまで自らが使用していた豚毛のブラシでスネイプの髪を丁寧に梳いていく。

鏡ごしにその様を観察していると、どこか不思議な感慨を覚えた。まるで幼い少年になったような錯覚に見舞われる。


「そんなに見られたら恥ずかしいわよ…。」


彼女はそれに気が付いていたのか、こそばゆそうに言っては笑みを零した。

鏡の中のヨゼファがこちらを見る。鏡ごしに視線が合うと、彼女は嬉しそうに手をヒラヒラと振ってみせた。


「どうせ見るなら自分の顔でも見てなさいよ、折角格好良いんだから。」

「………ふざけたことを言う…。いつも。」

「ふざけてないわよ、事実だわ。」


ブラシをテーブルへと置き、ヨゼファは再び後ろからスネイプの双肩へと掌を置いた。

辺りはひどく静寂で、どこかの蛇口から水が滴っていく音が聞こえてくるだけである。


「………………。綺麗な顔してるわ。素敵ね。」


彼女はしみじみと言った。


スネイプは時折、ヨゼファの目はどこかおかしいのではないかと思う。

自らの顔の造りを優れていると思ったことはほとんど無い。周囲からそう言った評価や言葉をかけられることも皆無だった。

だがヨゼファはいつでも本気である。心からの言葉だった。それはもう、よくよく分かっている。


「少し笑ってみたら?」


彼女は少し首を傾げて鏡ごしに促した。勿論のこと無視に至る。

ヨゼファは肩を竦めては…「笑って接してみれば良いのに。」と言葉を続けた。


「しかめっ面で怖い顔してると、ハリーあの子だって萎縮しちゃうわよ。少し態度を軟化させてみたらどう?」

「…………余計なお世話だ。」

「そうね、余計なお世話だわ。でも…貴方、あの子がここに来るまでどんな環境にいたか知ってるでしょう?その所為かハリーは人一倍人間の思惑に敏感よ。悪意には尚更ね。」


鏡ごしのヨゼファは母親のような表情をしている。

………二人でいる時、教師という仕事から解放される深夜に彼女の口から生徒の話を聞くのがスネイプは好きでは無かった。

子供じみたことを考えずにはいられない。ポッター・・・・の話であれば尚更それに耳を傾けたくなかった。

そうしてあのジェームズの息子であるハリーへと、ヨゼファが当たり前のように愛情を注げるのが不思議でならなかった。他の生徒と隔てなく、むしろ殊更に彼女があの少年を大事にする様を目の当たりにすると、胸がざわついて痛かった。

けれどヨゼファはそんなスネイプの心中に気が付かず言葉を続けた。自然な手付きで髪を撫でられている。思わず嘆息した。


「でも、同じくらい人の善意にも敏感。こっちが愛情を持って接すると必ず応えてくれるのよ。あんな劣悪な環境の中でよく捻くれずに育ってくれたものだわ…。そう思うと……私も貴方も、母親に愛してもらえたら少しは素直になれていたのかもしれないわね。」


ヨゼファは静かにスネイプの首へと腕を回した。

白い蛇のように冷たくしながある腕だった。抱き締められる感覚に感じ入り、スネイプはゆっくりと瞼を下ろす。


「………大丈夫よ。」


すぐ傍でヨゼファが囁く声がする。瞳を開けると、鏡ごしではなく直接に視線が合う。

ほとんどそこに距離は無かった。彼女の深い色の瞳の中には、所在なさげな自分の青白い顔が写っている。


「貴方の気持ちも思いも、必ず汲んでもらえるわ。だから少しだけ…あの子のことを好きになってみたら。……覚えがないことで先生から嫌われちゃうなんて、ちょっと可哀想よ。」


困ったように笑うヨゼファから視線を逸らして、スネイプは顔を伏せた。

彼女は抱く力を強くしては、軽く頬を寄せてくる。


「…………簡単に言ってみせるな。」

「確かに…言うほど楽にできたら苦労しないわよね。人間って単純じゃないわ。」

「……………………。無理だ。」

「そう…?」

「お前に…任せる。」


任せる、と同じ言葉を繰り返してスネイプは口を噤んだ。

なるほど、確かに自分たちは母親に愛されなかった。しかし父親はどうなのだろうか。……自分は父親の愛情も得ることは出来なかった。だがヨゼファは………


(ヨゼファの父親は、奴が生まれる前に死んでいる。)


しかし、その名前は父親が授けたものだった。

彼女はそこまで父親に愛着がないらしい。当たり前といえば当たり前だろう。顔すら知らない父親を。


(だが、どうしてその父親がヨゼファを愛していなかったと言えるだろうか。)


スネイプは僅かばかり、彼の気持ちに思いを巡らせることが出来た。

彼は望んでいた筈だ、そうであって欲しい。ヨゼファと出会うことを。


愛されたことが無ければ愛情を行うのは困難だ。ヨゼファはいとも容易く行える。

だから彼女は父親に愛されていたのだと…。………そんなことを。


愛してやってくれ、……私の代わりに。


それは言葉にはしなかったが。

冷たい彼女の腕の中、スネイプは何にも飾られないヨゼファの顔を見、素直に身体を預けてはその愛情の最たるものを享受した。



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